平穏なき家

四季

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中編

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 ビタリーは気が付いた頃から父親の暴言と暴力を見聞きしてきた。常に母親に向かっていたそれは、ビタリーが大きくなるにつれ彼にまで向かい始めた。兄は酒飲み仲間として父親に気に入られていたというのに。

 だが、それを悲観することはなかった。

 母親に似ているから嫌悪されるのだ、と、ビタリーは理解していた。

 父親はビタリーのことを嫌い、ことあるごとに「女みたいだ」と罵る。けれど、その時のビタリーに「父親に愛されたい」という思いは微塵もなく、それゆえ罵られても痛くはなかった。

 ただ、父親が出ていくたびに母親が涙を流すことだけが辛い。

「今日も飲みに行ったんだね」
「えぇ、そうよ。……あの人、いつになったら……昔みたいに優しくしてくれるのかしら」
「……昔は優しかったのかい?」
「そうなの。結婚する前は、多少強引なところはあっても、優しさもあったわ」

 母親の体には痣が増えていた。数日前と比べてもかなり増えている。美しい顔にも、人形のような華奢な腕にも、酷い打ち身の痕のようなものができていた。

 見苦しい。
 それがビタリーの感情だ。

「……母さん。もう止めよう。こんなところで暮らすのは」
「ビタリー!? 何を言い出すの!?」
「ここから出よう。実家に帰れば——」
「無理よ! 帰るなんて!」

 母親の両親はまだ生きていると聞く。それならば、両親のもとへ行って暮らすという選択肢もあると、その時のビタリーは考えていた。しかし、母親はそのような道を選べる精神状態ではなかった。暴力に縛られた彼女は、もはや、ここから去ることはできなくなっていたのだ。

「聞いて、ビタリー。貴方は知らないでしょうけど、あの人は優しいの。本当は。だから、いつかはきっと戻ってくれるわ。優しいあの人に戻って……」

 虐げられ続けてもなお、母親は父親を擁護する。ビタリーには理解できなかった。もはや酒を煽ることしかできぬ男と虐げられつつ暮らすメリットが、ビタリーにはイメージできない。ただ、母親はいつか優しかった頃に戻ってくれると強く信じている。ビタリーはこの時、母親と自分の間にも大きな溝があるのだと感じた。

「それこそ無理な話だよ! あの男がまともになんて戻れるはずがない!!」

 ビタリーは大きめ声で主張してから、母親が怯えていることに気づく。

「……ごめん、大声を出して。これじゃあの男たちと一緒だね……」
「そんなことないわ、ビタリー。貴方は殴らないわ」
「気をつけるよ。……で、話を戻すけど。とにかくどうにか手を打った方が良いよ。実家に戻るのは一時的にで、最終的には二人でどこかに住むでもいいし」

 今晩は雨降り。静けさの戻った家の中には、雨粒が窓を叩く音だけが響く。ビタリーと母親が寝る部屋の電灯は数ヶ月前に壊れた。それゆえ、扉を開けていなければ夜は暗い。今は、以前ビタリーが買い物に行かされた際に密かに買ってきたタワー状のライトが二つあるので、それだけが頼りと言っても過言ではない。

「二人で……? む、無理よ。そんなの。貴方だってまだ……」
「僕だってそれなりに勉強はしてるよ。字の読み書きだってできる。だから働くよ。どんな仕事でもいいから何とか見つけて。そうすれば暮らしていける」
「い、嫌……怖いわ……。だって……見つかったら……報復、されるわ……」

 その後もビタリーは母親を何とかここから連れ出そうと説得した。が、何度ここを出ようと言っても母親が頷くことはなく。彼女は夫の影にただただ震えるだけだった。

 そんな状況の中、ビタリーは一つの決意を固める。

 それは、この苦しみから母親を救い出すための決意だった。


 ◆


「父さん。酒に合いそうなもの、何か作るよ」
「あぁ? つまみかぁ?」

 夕暮れ時、一人で酒を飲んでいた父親に、ビタリーが話しかける。

「うん。冷蔵庫の中……あ、このチーズ使っていい?」

 冷蔵庫の白い扉を開けた瞬間、ビタリーの視界にチーズが入った。薄くて真四角なスライスチーズというやつだ。表面には艶がある。まだ新しそうだ。念のため期限を確認してみる。予想通り、期限はまだ先だった。

「何でもいいけどよ。作れんのか? つまみなんぞ」

 既に顔を暁している父親は、怪訝な顔で問いかける。

「家族だし協力しないとね。あ、包丁も借りていいかな」
「そこの引き出しの中にある! いちいち聞くな」
「ありがとう。じゃ、作ってみるね」
「クソ不味いの作んなよ! 不味かったら食わねえからな!」

 ビタリーは長篠下側の引き出しを引き、その中に包丁を見つける。周囲を傷つけないようゆっくりと取り出して、一度水で流し、チーズと包丁を改めて眺めた。父親には背を向けているため父親は気づいていなかっただろうが、その時ビタリーは片側の口角を持ち上げていた。


 ◆


 別の日の夜、父親と兄が不機嫌になりながら帰ってきた。
 その時、ビタリーは偶々手洗い場にいた。まだ帰ってきそうにない時間だったので、自由に活動していたのだ。ポケットには、手洗い場の棚から盗んだゴム手袋が入っている。

「テメェ! なに出歩いてやがる!」

 家の中をうろついているビタリーを発見し、父親は激怒。

「お帰りなさい」
「あぁ!? 何じゃその言い方! 父親を馬鹿にしてんのか!?」
「いえ。お迎えしただけです」
「ざけんな! ふざけたこと抜かしやがって!」

 父親は襟を掴み、ビタリーの体を持ち上げた。
 足の裏が浮くくらいの高さにまで引き上げ、睨み、怒鳴りつける。

「視界に入ったこと謝れや!」
「すみません」
「あぁ? 何じゃあその言い方は! 舐めんなよ!?」

 酔いのせいもあってかいつも以上にヒートアップする父親。ビタリーの腹を蹴り、そのまま投げ飛ばす。ビタリーは危うくテーブルの角で頭を打つところだったが、直前に腹を捻り、頭を強打することだけは回避した。無論、体には衝撃を受けたわけだが。

「おい父さん。投げんのはさすがにやり過ぎじゃね?」
「何を言ってる、息子。ああいう奴には躾が必要なんだよ」

 この時ばかりは兄も若干引いていた。

「そ、そうか……。やっぱ父さんは参考になるぜ……」

 兄はビタリーとは違っていた。いや、ビタリーはそう思っていた。母親から聞いた話によれば、若い頃からやんちゃだったそうだ。その話を耳にしていたから、兄は父親のような人間なのだと、ビタリーは理解していた。が、その兄もどこかでは父親のことを恐れているのかもしれない、と、この時初めてビタリーは感じた。

「いいか? 息子。愚か者には罰を与える、それが必要なんだ。分かるな?」
「お、おう」
「罰を与える時には躊躇うな。分かったか」
「もちろんだぜ父さん。分かってるって」

 ビタリーはふと思う。
 こんな家庭でなければ、兄とは仲良くできたかもしれないと。

 だが、それらは所詮夢物語だ。現実は仲良くなんてできなかった。それだけが、たった一つの真実である。もし、は、この世には存在しない。目の前に在るもの、それがすべて。
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