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45.早朝
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あれからひと眠りし、ミリアムが次に意識を取り戻した時には、既に陽が昇りつつあった。
ミリアムやサラダ、その他数名が睡眠場所として借りていた店舗の入り口にある軒からは、時折透明な雫が溢れる。重力に逆らえず大地へ落ちた水滴は、まだ湿った地面に触れ、可憐に弾ける。
雨は止んでいる。
妙に静かな朝。
使っていた毛布を近くでまだ寝ているサラダの体に掛けて、ミリアムは立ち上がる。まだ目覚めきっていない目と頭で入り口の方へと進み、外が少し見える扉に手をかける。銀色の金属部分はじっとりとした湿気を帯びていて、透明のガラスの部分には蜘蛛が帽子にできそうな小さな雫がいくつも付着している。
こっそり扉を開け、ミリアムは店の外に出る。
深い意味はない。ただ酸素を吸いたくなっただけのこと。たったそれだけの理由で、彼女は外へ出たのである。新鮮な空気を吸いたい、それだけ。それ以下でも以上でもない。
夜明けのエトランジェ、その空気は湿気ていた。
雨が止んだとはいえ、まだ数時間。空気中の水分は完全には消え去っていないようだ。朝日と風を浴びていると、肌が水分を含んでゆくような感じがして、ミリアムは一人不思議な気分になる。
早朝のエトランジェは音がない。
まだ活動している人がおらず良い意味での賑わいは感じられないが、戦いも始まっていないため悪い意味での賑わいも感じることはなかった。
殺伐とした空気でないこと、それは、ミリアムにとって嬉しいことだ。
けれども、時が来れば戦いが再開されることを知っているから、純粋に喜ぶことはできない。
能力者と非能力者の戦い。それは一種の宿命のようなものだと、ミリアムは考えている。暴力に発展してほしくなかったというのが本心ではあるが、この交戦が避けられぬものであることも理解できないわけではない。だからこそ、ミリアムは複雑な心境にならざるを得ない。
最も必要なのは平穏。非能力者が穏やかに緩やかに過ごせること。ただそれだけなのに、この世においては、それが言葉にできないくらい難しい。
そんな時だ、鋭い声が飛んだのは。
「ビル! ビルの方に行って!」
「はいはいっ」
「あと二人くらい!」
「はいっ」
突然の騒ぎに、早朝の静けさは遮られた。
辺りが一気に声に包まれる。
「こっちよ!」
「早く早くー!」
ミリアムは体を動かして周囲を見回す。すると、どこからともなく現れた非能力者と思われる人物たちが向かっていっているのが、ミリアムが好きなビルの方だと判明した。人々の足は、ミリアムがいつも夕暮れのエトランジェを見ていたあのビルに向かっている。
「何かあったの?」
通りすがりの男性にミリアムは尋ねてみた。
それに対し男性は少し面倒臭そうな顔をして返す。
「あ、ミリアムさん。えっとですね、ロゼットさんて知ってます?」
「えぇ、知ってるわ。彼がどうかしたの?」
「彼が刺客にやられたみたいで」
「え!」
ミリアムは思わず大きな声を発してしまった。その声は、短いながらも、朝焼けの空によく響いた。また、話し相手の男性は驚いた顔をしていた。ミリアムが大きな声を出したことが驚きだったのかもしれない。
「詳しくは自分も知りませんけど。ただ、その彼を保護するために行くんです」
「そ、そうだったの……」
その時のミリアムには、気の利いたことを言えるほどの余裕はなかった。現時点で最も相応しい言葉を導き出すことさえ、現在の彼女の脳には難しい。
「じゃあ、急ぐので。これで」
「待って! ロゼットのところへなら私も行くわ!」
歩き出そうとした男性のパーカーの袖を、ミリアムは半ば無意識のうちに掴んでしまっていた。
「外を……お願いします。ミリアムさん」
「え、えぇ。そうよね。その通りだわ、ごめんなさい」
結局、ミリアムはビルへ行く団体に入れなかった。
ロゼットの身に何かあったのか。
そう思うと、ミリアムはじっとしてはいられなかった。
助けに行きたい、無事かどうか直接聞きたい、そんな色々な思いが湧き上がってきてしまって。けれども、そのような自分のための理由で勝手な行動をすることが許されるとは、ミリアムも考えていない。勝手に行動するのは無理だろう、と、理解している。
だからこその葛藤。
行きたいけれど行けないから、辛い。
「ミリアムさんー?」
「あっ。……あ、サラダだったの」
一人悶々としていたミリアムに話しかけたのは、いつの間にか起きてきていたサラダ。
その手には、サラダ自身が使っていたものとミリアムが起きる時にこっそり貸したものの二種類の毛布が握られている。二枚の毛布は、丸くまとめようとして失敗したような形になっていて、腕から垂れ下がっていた。ただ、地面に触れたり引きずってしまうほど垂れているわけではない。
「どうかしたのですか? ミリアムさん」
何も知らぬサラダは、きょとんとした顔をしながら、丸い目でミリアムを見つめる。
幼い少女が母親を見るかのような目つきだ。
「……ロゼットに何かがあったみたいで」
ミリアムは平静を保ちきれていなかった。
けれどもそれは当然のことだったのかもしれない。ずっと会いたいと思っていた対象であるロゼットが傷つけられたかもしれないのだから。
「よく……詳しくは、まだ……分かっていないのだけど」
ミリアムは上手く言葉を紡げない。今の彼女には、ぽっと出てきた言葉を並べるのが限界。それ以上のことはできない。
「え! あの人に何かが!?」
目を皿のようにして驚くサラダ。
「そうみたいなの」
「え、え、えええ……。ど、どうしましょう……?」
サラダはミリアム以上に狼狽えていた。
なぜか、両手を上下に動かしている。
その動作に深い意味はないのだろう、と、ミリアムは考える。
「ミリアムさん、えっと、えっと……ビルの方へ行きます?」
「ここを離れるわけにはいかないわ」
今や、ミリアムよりサラダの方が落ち着きを欠いていた。
最初心を乱されていたミリアムが、いくらか冷静に見える。
「で、でも! ロゼットさんが大変なんですよね!?」
「行けるなら行きたい。けど、能力者が一人もいない状態にはできないの」
「そ、そうですか……。何か方法があれば……」
「戦いが始まれば前線へ行かねばならないわ。それが私の役目だから」
ここ数日、夜の間だけは停戦状態になっている。けれど、これまでの日々を思い返してみても、朝が来て戦いが再開されなかった日はない。それはつまり、今日ももうじき戦いが始まるということを意味している。
本当の意味で戦いが終わるまで、気を緩めるわけにはいかない。
ミリアムやサラダ、その他数名が睡眠場所として借りていた店舗の入り口にある軒からは、時折透明な雫が溢れる。重力に逆らえず大地へ落ちた水滴は、まだ湿った地面に触れ、可憐に弾ける。
雨は止んでいる。
妙に静かな朝。
使っていた毛布を近くでまだ寝ているサラダの体に掛けて、ミリアムは立ち上がる。まだ目覚めきっていない目と頭で入り口の方へと進み、外が少し見える扉に手をかける。銀色の金属部分はじっとりとした湿気を帯びていて、透明のガラスの部分には蜘蛛が帽子にできそうな小さな雫がいくつも付着している。
こっそり扉を開け、ミリアムは店の外に出る。
深い意味はない。ただ酸素を吸いたくなっただけのこと。たったそれだけの理由で、彼女は外へ出たのである。新鮮な空気を吸いたい、それだけ。それ以下でも以上でもない。
夜明けのエトランジェ、その空気は湿気ていた。
雨が止んだとはいえ、まだ数時間。空気中の水分は完全には消え去っていないようだ。朝日と風を浴びていると、肌が水分を含んでゆくような感じがして、ミリアムは一人不思議な気分になる。
早朝のエトランジェは音がない。
まだ活動している人がおらず良い意味での賑わいは感じられないが、戦いも始まっていないため悪い意味での賑わいも感じることはなかった。
殺伐とした空気でないこと、それは、ミリアムにとって嬉しいことだ。
けれども、時が来れば戦いが再開されることを知っているから、純粋に喜ぶことはできない。
能力者と非能力者の戦い。それは一種の宿命のようなものだと、ミリアムは考えている。暴力に発展してほしくなかったというのが本心ではあるが、この交戦が避けられぬものであることも理解できないわけではない。だからこそ、ミリアムは複雑な心境にならざるを得ない。
最も必要なのは平穏。非能力者が穏やかに緩やかに過ごせること。ただそれだけなのに、この世においては、それが言葉にできないくらい難しい。
そんな時だ、鋭い声が飛んだのは。
「ビル! ビルの方に行って!」
「はいはいっ」
「あと二人くらい!」
「はいっ」
突然の騒ぎに、早朝の静けさは遮られた。
辺りが一気に声に包まれる。
「こっちよ!」
「早く早くー!」
ミリアムは体を動かして周囲を見回す。すると、どこからともなく現れた非能力者と思われる人物たちが向かっていっているのが、ミリアムが好きなビルの方だと判明した。人々の足は、ミリアムがいつも夕暮れのエトランジェを見ていたあのビルに向かっている。
「何かあったの?」
通りすがりの男性にミリアムは尋ねてみた。
それに対し男性は少し面倒臭そうな顔をして返す。
「あ、ミリアムさん。えっとですね、ロゼットさんて知ってます?」
「えぇ、知ってるわ。彼がどうかしたの?」
「彼が刺客にやられたみたいで」
「え!」
ミリアムは思わず大きな声を発してしまった。その声は、短いながらも、朝焼けの空によく響いた。また、話し相手の男性は驚いた顔をしていた。ミリアムが大きな声を出したことが驚きだったのかもしれない。
「詳しくは自分も知りませんけど。ただ、その彼を保護するために行くんです」
「そ、そうだったの……」
その時のミリアムには、気の利いたことを言えるほどの余裕はなかった。現時点で最も相応しい言葉を導き出すことさえ、現在の彼女の脳には難しい。
「じゃあ、急ぐので。これで」
「待って! ロゼットのところへなら私も行くわ!」
歩き出そうとした男性のパーカーの袖を、ミリアムは半ば無意識のうちに掴んでしまっていた。
「外を……お願いします。ミリアムさん」
「え、えぇ。そうよね。その通りだわ、ごめんなさい」
結局、ミリアムはビルへ行く団体に入れなかった。
ロゼットの身に何かあったのか。
そう思うと、ミリアムはじっとしてはいられなかった。
助けに行きたい、無事かどうか直接聞きたい、そんな色々な思いが湧き上がってきてしまって。けれども、そのような自分のための理由で勝手な行動をすることが許されるとは、ミリアムも考えていない。勝手に行動するのは無理だろう、と、理解している。
だからこその葛藤。
行きたいけれど行けないから、辛い。
「ミリアムさんー?」
「あっ。……あ、サラダだったの」
一人悶々としていたミリアムに話しかけたのは、いつの間にか起きてきていたサラダ。
その手には、サラダ自身が使っていたものとミリアムが起きる時にこっそり貸したものの二種類の毛布が握られている。二枚の毛布は、丸くまとめようとして失敗したような形になっていて、腕から垂れ下がっていた。ただ、地面に触れたり引きずってしまうほど垂れているわけではない。
「どうかしたのですか? ミリアムさん」
何も知らぬサラダは、きょとんとした顔をしながら、丸い目でミリアムを見つめる。
幼い少女が母親を見るかのような目つきだ。
「……ロゼットに何かがあったみたいで」
ミリアムは平静を保ちきれていなかった。
けれどもそれは当然のことだったのかもしれない。ずっと会いたいと思っていた対象であるロゼットが傷つけられたかもしれないのだから。
「よく……詳しくは、まだ……分かっていないのだけど」
ミリアムは上手く言葉を紡げない。今の彼女には、ぽっと出てきた言葉を並べるのが限界。それ以上のことはできない。
「え! あの人に何かが!?」
目を皿のようにして驚くサラダ。
「そうみたいなの」
「え、え、えええ……。ど、どうしましょう……?」
サラダはミリアム以上に狼狽えていた。
なぜか、両手を上下に動かしている。
その動作に深い意味はないのだろう、と、ミリアムは考える。
「ミリアムさん、えっと、えっと……ビルの方へ行きます?」
「ここを離れるわけにはいかないわ」
今や、ミリアムよりサラダの方が落ち着きを欠いていた。
最初心を乱されていたミリアムが、いくらか冷静に見える。
「で、でも! ロゼットさんが大変なんですよね!?」
「行けるなら行きたい。けど、能力者が一人もいない状態にはできないの」
「そ、そうですか……。何か方法があれば……」
「戦いが始まれば前線へ行かねばならないわ。それが私の役目だから」
ここ数日、夜の間だけは停戦状態になっている。けれど、これまでの日々を思い返してみても、朝が来て戦いが再開されなかった日はない。それはつまり、今日ももうじき戦いが始まるということを意味している。
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