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#050 Recitativo Ⅵ
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東京都・23歳男性「B級映画って馬鹿にする人いますけど、低予算クオリティだからこそ面白かったりするんですよ。特にホラー!三人のゾンビの中からパートナーを選んで旅に出る話は最高でしたよ…訳わかんなくて」
…………………………………………………………………………………
最上階に到達したエレベーターの扉が開き、アミティエルの叫び声がフロアに響き渡る。
騒ぎを聞きつけて集まったスタッフ達の手で脚を拘束していた氷が叩き割られると、興奮した様子の少年は険しい表情でふらつきながら立ち上がる。そして、一目散に廊下を駆け出して行った。
「ガブリエルッ!アイツらは……楽団の……!」
駆け込んだ大広間には異端の主要メンバーが集められており、その中心にはミゲルの姿もあった。
失った筈の左足は義足によって補われ、立ち姿だけでは以前と何ら変わらない様にすら見える。
「アミティエル。心配したよ。さあ、君もこっちに来てくれ」
にこやかに手招きされ、多少落ち着きを取り戻した様子で列に加わったアミティエルの背中をサラフィエルが小突く。
「抜け駆けすんな、お前」
やたらと交戦的な性格の彼女は、自分も連れて行けば良かったのにと残念そうな表情を見せていた。
「楽団の連中にホームを襲撃された。ユリエルの書庫が燃やされた他に被害の状況は?」
ミゲルがぐるりと周囲を見回すと、椙浦が小さく手を挙げた。
「わ、私の部屋も荒らされた形跡がありました……」
これから盗品の確認をすると述べた椙浦を鼻で笑ったのは、壁に寄り掛かって足元をじっと見つめていたダンタニアンであった。
「ドクターの部屋から楽団の奴らが盗みたい物なんて一つしかないでしょ……オルバスの遺作についてまとめられた資料ですよ」
最後にヒヒヒと不気味に笑ったダンタニアンを一瞥したミゲルは、眉を顰める。
「……ドクタースギウラ、至急確認を頼む。設計図が盗まれたとなると……タクト・ウガミが連れ回している娘の覚醒も近いということだ」
先日、異端の本拠地に送りつけられてきたラファエルの亡骸によって、彼と行動を共にしていたペネムの生存も絶望的となっていた。
ペネムがオルバスの設計図について楽団に話していたなら、今回の襲撃の狙いは間違いなくソレだろう。
超絶技巧を暗譜した人間の対処は本来の目的を隠すための囮であったのだ。
「ユリエルはどうした?やられた訳じゃねーだろ?」
サラフィエルが椙浦の方を見やりながら尋ねる。フルフルと首を横に振った彼は、更に気不味そうに顔を歪めた。
「……楽団の要に接触しながら、何もできませんでしたので…流石のユリエルさんでも堪えたんじゃないでしょうか?まだ書庫にいる筈です」
壁から天井まで真っ黒な煤に塗れた書庫内は、可燃性のものは全て焼失してしまっていた。燃え広がった際の火力を考えれば、事前に火をつけるつもりでガソリンが撒かれていた可能性がある。
スプリンクラーからポタポタと滴った水の音と、パキパキと何かが爆ぜたような小さな音が響く静かな書庫内に立ち尽くしていたユリエルは、自身の顔の半分を覆い隠していた白い面を取り外す。
酷い火傷の痕は、彼の父親が殺害された時のものだった。死体を燃やす為に放たれた炎によって、ユリエルは全身の70パーセント以上の皮膚に三度の火傷を負って生死の境を彷徨っていた。
まだ規制のない時代のアメリカでオーケストラの指揮者をしていたユリエルの父親が殺された理由は、楽団という組織に所属する音楽家の中で限られた奏者にしか演奏を許されない曲があるという事実を人伝いに知り、興味を持ってしまったことだった。
…………………………………………………………………………………
「ユリエル、大丈夫かい?」
背後から声を掛けたのは、ぎこちない歩き方をしながら近寄ってくるミゲルであった。
「タクト・ウガミを誘い出すつもりであの女を殺させたんですがね……全て奴の手の中で転がされていただけのようです。申し訳ありません」
面を付け直したユリエルはミゲルの方に向き直り、深々と頭を下げた。
「ミゲル…我々は一体何処に向かうつもりなのでしょうか?行く宛もなく燻っていた我々のような野良の音楽家を集め、異端と名前をつけて各国のトップに取り入る…。その先にどのような未来が待っているのか…私にはわからないままです」
新興オーケストラ異端。楽団を憎む人間の集う彼らの組織が詳細不明とされている理由は、明確な目的が明らかになっていない為であった。
そして、所属している当の本人達でさえも、自身が何に向かって進んでいるのかわかっていないのだという。
床の水溜りにできる波紋をじっと眺めていたミゲルは、答えを強く求めるユリエルの視線真っ直ぐな視線に観念した様子で小さくため息をつく。
「……なかなか上手くいかないものだな」
カツカツと靴の底を鳴らしながら焼け焦げた床を進んでいき、ガラスが爆ぜて窓枠だけになった空間からニュー千代田区画の煌びやかな夜景を見下ろしたミゲル。
バサバサと吹き込む風を浴びながら踵を返した彼は、苦笑を浮かべていた。
そして、ポツリと呟くように言葉を投げ掛ける。
「会いに行こうか、我々の神に」
…………………………………………………………………………………
パイプ椅子に固く括り付けられたビニール紐を何とか解き終わる頃には、京哉の意識はだいぶ正常に戻っていた。
「……冗談じゃねェぞ…何で俺まで…」
託斗の奇行によって京哉と手錠で繋がれてしまった麗慈は不満たらたらにその場に立ちあがろうと膝に力を入れる。しかし、ぐったりとした状態の京哉に引っ張られて上手く身動きが取れない。
「おい、立て。倉庫から出て双子にこの手錠ぶっ壊してもらうぞ」
「……むり。うごけない」
プイッと顔を背けた京哉は、呂律の回らない状態であった。命令だったとはいえ自身の行動によって京哉に身体的苦痛を与えてしまった事に罪悪感を感じていた麗慈。
「じゃあ、運んでやるから。せめて掴まってろ」
運ぶとは言ったものの、右手と左手を繋がれてしまっている為、取る事が可能な体勢にはかなり制限があった。
試行錯誤した結果、お互いに体の正面を向けた状態でコアラが木に抱き付くような体勢で麗慈の体に京哉がしがみつく。
身長体重もそこまで変わらない大の大人を一人担ぐのはかなり骨の折れる作業で、倉庫の扉を開けて外に出た時には麗慈も酷く息を切らしていた。
時刻は深夜0時を回っており、先程ネットカフェエリアで騒がしくしていたシェリーや双子の姿は見えなかった。
麗慈はナツキとフユキに割り当てられた個室を目指して、常夜灯のぼんやりとした明かりを頼りにパーティションの間を進んでいく。
しかし、途中で京哉の腕の力が限界に達してしまい、床にズルリと転がっていく彼に引き摺られて、共に床に倒れ込んでしまった。
並んで仰向けになり、ぼんやりと天井を眺める。ろくに動こうとしない京哉をここまで連れて来た麗慈も疲れ果てていた。
そして、託斗の言い残した『やり方を変える』という意味を考える。
「お前、楽団抜けようとか考えてないよな?」
天井をじっと見つめたままの京哉に問い掛ける。
自白剤を使用した尋問に対して、一言も心の内を語らなかった。無言を貫くということは、ある意味彼に掛けられた容疑、そしてミーア・ウィルソンとの関係について肯定を示すことになる。京哉もエージェントとして厳しい教育を受けてきた人間だ。まさか、そんな事すらわからないほど馬鹿ではない。
何故何も話さないのだろうか。麗慈にはそれが不思議でならなかった。
「楽譜、本当はお前が盗んだ訳じゃねーんだろ?」
「……盗んでない」
ボソリと返ってきた言葉に、麗慈は彼から真実を聞き出す道筋を頭の中で描く。
「じゃあ、何で第3楽章だけ消えたのかわかるか?」
京哉ではない人物が盗難に関与しているのか。遠回しにそう尋ねるが、今度は何の返事も無い。
「……盗んでない。でも…」
「でも……?」
ゆっくりと顔だけを向けてきた京哉と目が合う。その先の真実を告げる事を躊躇うかのように、唇が震えていた。
「京哉…教えてくれよ。俺はお前の事疑ってない。何かあるなら言わねぇとわかんねぇだろ」
静かな口調で諭す麗慈に、京哉は戦慄かせていた唇を噛み締める。
…………………………………………………………………………………
翌朝オーストリアに戻ってきた京哉とミーアは、その足で楽団本社最上階に位置する社長室に向かった。
その日の午前中はロジャーが不在にしている事はミーアが事前に確認をとっている。
防犯カメラに映らぬよう社長室直通の階段を使い、移動式の本棚を動かして隠し扉から室内に侵入する。
「…支部長は何でも知ってますね……」
「これでも一番彼の信頼を得ている人間だからな。さあ、こっちだ」
ズラリと楽譜が並んだ棚の前に案内された京哉は、ミーアの指示で『素戔嗚尊』が収められた一冊を手に取った。…その瞬間、京哉はその厚みに違和感を覚える。
「……あれ?」
「どうかしたのか?」
8年前の記憶と言えど、毎日血反吐を吐きながら練習した曲。しかし、何故か今手に取った楽譜は全く別の物のように思えて仕方がなかった。
「あ、いや……なんかちょっとだけ薄いような……気のせいだとは思うんですけど…」
京哉の違和感は『八岐大蛇』のパートが剥ぎ取られた事によるものだった。託斗は『素戔嗚尊』の災厄によって京哉が絶命しないようにする為に、特殊なロジックを組み込んでいたのだ。
不安に駆られながらも、京哉はハードカバーの表紙を捲って1ページ目をミーアの目の前に差し出す。
「タクトの書いた曲は最速で音エネルギーを極大にする技術が組み込まれている。災厄による物理を超越した異能を得ずとも、この曲を奏でるというだけで大きな力を得られると私は仮定していたんだ」
「流石に持ち出したらバレますからね……この場で暗譜して元の場所に戻しておけば親父にもバレませんよね」
特異体質であるミーアは、災厄の影響を受けずに楽譜の祝福を受ける事ができる。それ故に作曲者である託斗から超絶技巧との接触を禁止されていた。
狡猾な彼の事だ、彼女が楽譜に触れればその証拠が残る様な呪いを込めた可能性もある。そこでミーアから真実を打ち明けられた京哉は、彼女の望み通り自身が修得した曲を“共有”する事に同意し、暗譜の為に譜面台兼ページターナーを買って出たのだ。
「第3楽章の災厄は君と因果を結んでいる。私が演奏したことによってどんな災いが君に襲いかかるかわからない…それでも同意してくれるんだな?」
リング通りを走る車内で再度確認された京哉は、心配性な自身の師匠の性分に苦笑いを見せながらも、内心嬉しさを感じていた。
得体の知れない、気味の悪い存在として遠ざけられてきた彼にとって、しっかりと自分という存在を見て接してくれるミーアは母親や麗慈と並んで信頼のおける人間であった。
そんな彼女からの心からの頼みを断る理由は無い。
…………………………………………………………………………………
暗譜を終えたミーアと社長室を出てオフィスフロアに戻ってきた京哉は、一般スタッフと楽しげに談笑している託斗を見つけてしまい息を呑む。
「あれ?ミーアじゃないか。どうしたんだよこんな所で……あら、誰だい隣の色男は~……って、よく見たら僕の可愛い一人息子じゃないか!」
白々しい一人芝居を打ちながら歩み寄ってきた託斗に向き直ったミーア。京哉を自分の背後に立たせて距離を取る。
「3年ぶりだね。図体ばかり大きくなってないだろうね?少しは上手くなったかい?」
「……アンタは相変わらず年取らねぇな…」
ベタベタと触ってこようとする父親の手を左右に去なしながら答えると、またもや白々しく照れ笑いを見せていた。そして、咳払いをしたミーアの方に視線を移す。
「支部長様がわざわざお迎えかい?何かあったのかな?」
「ああ。彼をアジア支部の応援に行かせようかと考えている。もちろん期間限定でこちらに戻ってきてもらわねば困るが……。日本なら幼馴染の彼も活動中だし、タクトも安心だろ?」
日本に拠点を移そうと打診してきたのはミーアであった。
『素戔嗚尊』の祝福を災厄との因果関係無しに享受できた場合、彼女自身も必中の刃を繰り出す事が出来るようになる。
しかし、二人が同じ地区に滞在すればもしミーアによる粛清の中、旋律師が素戔嗚尊の力によって殺害されれば、真っ先に京哉に疑いの目が向けられる。
ミーアの実力を考えれば、楽団に所属する旋律師の殆どは彼女より格下という事になり、超絶技巧を使わざるを得ない場面は想像し難い。しかし、相手が複数であった場合や非常に不利な条件が揃っていた場合この限りではないのだ。用心に越した事はない。
「日本か…良いんじゃない?そろそろ選挙で新しい総理大臣になる頃だろ?聞く話だと筆頭候補は大の音楽嫌いで有名だそうじゃないか。お仕事バンバン舞い込んで来るんじゃないのかな?」
聞いてもいない情報を饒舌に語る託斗の姿を見て、何も疑念は持たれていないのだと安堵した京哉。ミーアと顔を合わせて深く頷いた。
…………………………………………………………………………………
そして、時は経ち3年後。
日本で数々の依頼を熟してきた京哉のPHSがオーストリアからの着信を受ける。
『忙しい所済まないな、私だ』
「支部長…どうかしましたか?」
ミーアからの連絡は彼の予想だにしない内容であった。
楽団への報告無しにカナダ政府と密約を交わし、他国への諜報活動を行っていたという二人の旋律師がいたという。
オーストリア警察の刑事局長と個人的なコネクションを持っていたミーアは、彼の力を借りて秘密裏にカナダに渡っていた。
そして二名の処刑を執行中、彼らの予想以上の実力に苦戦を強いられることになったのだ。
オーストリア行きのチャーター機の離陸時間が迫り、一刻も早く決着を付けねばならないという状況に陥ったミーアは最後の切り札を切ってしまった。
『初めてだ…素戔嗚尊を使ってしまったのだが……非常にまずい事になった』
「ま、まずい事…?」
無事予定時間内に楽団に戻る事ができたミーアであったが、妙に社内が騒がしい。聞けば上層部が緊急会議を開く所だという。
集められた人間の前でロジャーが告げたのは、『カナダで二人の旋律師が惨殺された事件』について、そして、『密室だった筈の社長室から第3楽章の楽譜が何者かに奪われた』というものであった。
何の前触れもなく、素戔嗚尊の楽譜が消失してしまったのだ。
緊急会議に参加していた託斗も不思議そうにロジャーの話を聞いており、二つの議題に関連性を見出す者はいなかった。
……当事者であるミーアを除いては。
超絶技巧は作曲者の託斗ですら、その災厄と祝福の内容を想定出来ていない程不確定要素の多いものであった。
第3楽章は既に災厄との因果が結ばれた状態であった事、八岐大蛇の存在によりその災厄の因果関係は他の楽譜より複雑になっていたこと、そして完奏者が特異体質のミーア出会った事……様々な要素が重なり、『存在が消えてなくなる』という事態に陥ったのだ。
自身の中に結ばれた因果すら消失してしまったのではないかと不安になった京哉は、その晩良縁屋を抜け出し誰も仮住まいにしていない廃ビルの屋上で素戔嗚尊の序章を奏でた。
確かに腹の中の疼きを感じ、異能は修得したままなのだと安堵したのだ。
カナダでの一件は敵組織による旋律師狩りの一環として片付けられ、上層部もロジャーでさえもミーアと京哉の関与を疑わなかった。
しかし、託斗だけはこの事件の顛末は単純な物ではないと疑念を抱き続けていた。
京哉を上回るフルートの演奏技術と剣の腕前。思い当たる人間は一人しかいなかったのだ。
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「……だから、僕も支部長も……誰も何も裏切っちゃいない」
月明かりが差し込むフロアで、京哉の声だけが響く。隣で静かに聞いていた麗慈には、すぐに返す言葉が見つからなかった。
楽団内における私刑は明確な規則違反である筈。しかし、その動機は組織を守る為であり、彼女の粛清がなければ楽団は今頃崩壊していたかもしれないのだ。
そしてもう一つ、もし楽団がミーアと京哉を処罰の対象とした場合、重大な戦力不足に陥る事は明白である。
「どうすんだ、託斗?」
雑居ビルの外階段で鬼頭と並んで煙草を蒸していた託斗の耳にはイヤホンが嵌め込まれていた。手錠に仕込んだ盗聴器から、京哉と麗慈の会話は全て筒抜けとなっていたのだ。
フゥッと白い煙を虚空に散らした託斗は、鉄製の手摺りに煙草を押し付けて火を消し吸い殻をペール缶の中に投げ捨てる。
「……懺悔しまーす。聞いてくれるかな?」
いきなり何だ?と驚く鬼頭に構わず、託斗は頬杖を付きながら続けた。
「京哉、多分…ずっとか……寂しかったんだろうなって。親の愛情に飢えてた期間があまりにも長かったし、亡命してからも子供らしく振る舞えない環境にいたから…」
母親を目の前で殺されてから約3年間、京哉は地獄のような日々を過ごしてきた。5歳から8歳というまだ甘えたい盛りの時期に、誰からも手を差し伸べられる事なく孤独を味わってきたのだ。
そして、旋律師になる為の修行期間においても楽団の社員寮に幽閉され続けていた。
旋律師になってからも、次々に舞い込む依頼は彼の心を踏み躙るような内容ばかりであった。
「父親失格。息子の為に何もしてないバカ親父の代わりに、アイツを育ててくれたのはミーアだ。……もちろんフルーティストとしてだけど、それでもアイツが彼女にそれだけ信頼を置いてるのは愛情を感じてきたからだろ」
楽団が“正しく”あるために。ミーアは常に、できる限り京哉を無用な殺生を強いる依頼から遠ざけ、守り続けてくれた。
「それじゃあお前…」
鬼頭の方へ向き直った託斗は、ニッカリと歯を見せながら笑う。
「あーあー、何も聞こえなかった。最近耳遠いんだよなー、歳かなぁ?」
彼の十八番である白々しい演技を目の当たりにして、鬼頭も口元に笑みを浮かべた。
「俺もだ。このイヤホン壊れてるみてぇだな。何も聞こえやしねぇ」
受信機から引き抜いたイヤホンを丸めてペール缶の中に投げ込んだ鬼頭。
夜景を失った東京の静かな街並みの上に広がる満天の星々を見上げ、これで良いのだと自分に言い聞かせながら静かに頷く。
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蛇口を思い切り捻り、湯気が出始めたところで湯船の底に栓をする。ドボドボと滝のような音を立てながらお湯の嵩が増していき、湯船の3分の2程度まで貯まった所で衣服を着用したままの京哉を投げ入れた。
自白剤の使用条件に書かれていた低めの気温設定から、原材料は熱に弱い毒であると考えた麗慈。
手錠で繋がれている事よりも、一人で身動きが取れない状況の方が煩わしいと、京哉に何の相談も無しに今の状況に至る。
「ぶっ…!服!何でそのままブチ込むんだよ!しかも熱ッ…!!」
口だけはよく回るようになってきた京哉は、雑な扱いを受けている事に文句を言い始めた。
「どうせこっちの手首に引っかかって全部は脱げねーんだから良いだろ」
自身が京哉と繋がれている方の手を上下させると、諦めたようで静かにお湯の中に沈んでいく。
楽団が正しくある為に、音エネルギーが正義の為にある為に。ミーアは何も間違っていない。組織を裏切ってなどいない。楽団の為に手を汚したのだ。
湯の中でゆっくりと瞼を持ち上げた京哉は、ゆらゆらとぼやけた視界の向こう側が青白くまばゆい光に包まれたのを見て慌てて顔を水面から出した。
静かな浴室の中、浴槽から溢れ出す湯の音だけが鼓膜に纏わりつく。
先程まで左手首に感じていた重みが全く無い。
「……え…?」
ズルリと浴槽から抜けていった手。全く動かない麗慈の背中からはドクドクと血が流れ出ていた。
薄暗いユニットバスの床に広がる赤い水溜まりが、溢れ出た湯と混ざり合いながら排水溝に引き込まれていく。
…………………………………………………………………………………
喉の渇きを覚えて厨房スペースに向かったシェリーは、奇妙な物音に気が付く。
何かを引き摺る音であった。
「……誰かいるの…?」
左手で壁伝いに歩きながら、恐る恐る声を出したシェリー。
全て閉めた筈の窓の一部が開いており、カーテンが冷たい風にはためいていた。
雲の合間から月明かりが漏れ出し、一瞬フロア全体が明るく照らされる。
全身びしょ濡れで意識を失った京哉が、肩を担がれている。黒いロングコートに身を包んだ人影が窓の方に向かっているのだとわかったシェリーは、恐怖など忘れて慌てて駆け寄ろうとした。
「キョウヤを離せ!何処に連れて行くんだよ!!」
手を伸ばしたシェリーの指先は京哉に触れる事なく空を切る。
「Lassen Sie uns wieder zu treffen.」
黒い人影が去り際に放った一言に、シェリーは目を見開いて動きを止めた。
何故、どうして。言葉を紡ごうと口を動かした頃には、既に二人の姿は完全に消えてしまっていた。
[50] Recitativo Ⅵ 完
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最上階に到達したエレベーターの扉が開き、アミティエルの叫び声がフロアに響き渡る。
騒ぎを聞きつけて集まったスタッフ達の手で脚を拘束していた氷が叩き割られると、興奮した様子の少年は険しい表情でふらつきながら立ち上がる。そして、一目散に廊下を駆け出して行った。
「ガブリエルッ!アイツらは……楽団の……!」
駆け込んだ大広間には異端の主要メンバーが集められており、その中心にはミゲルの姿もあった。
失った筈の左足は義足によって補われ、立ち姿だけでは以前と何ら変わらない様にすら見える。
「アミティエル。心配したよ。さあ、君もこっちに来てくれ」
にこやかに手招きされ、多少落ち着きを取り戻した様子で列に加わったアミティエルの背中をサラフィエルが小突く。
「抜け駆けすんな、お前」
やたらと交戦的な性格の彼女は、自分も連れて行けば良かったのにと残念そうな表情を見せていた。
「楽団の連中にホームを襲撃された。ユリエルの書庫が燃やされた他に被害の状況は?」
ミゲルがぐるりと周囲を見回すと、椙浦が小さく手を挙げた。
「わ、私の部屋も荒らされた形跡がありました……」
これから盗品の確認をすると述べた椙浦を鼻で笑ったのは、壁に寄り掛かって足元をじっと見つめていたダンタニアンであった。
「ドクターの部屋から楽団の奴らが盗みたい物なんて一つしかないでしょ……オルバスの遺作についてまとめられた資料ですよ」
最後にヒヒヒと不気味に笑ったダンタニアンを一瞥したミゲルは、眉を顰める。
「……ドクタースギウラ、至急確認を頼む。設計図が盗まれたとなると……タクト・ウガミが連れ回している娘の覚醒も近いということだ」
先日、異端の本拠地に送りつけられてきたラファエルの亡骸によって、彼と行動を共にしていたペネムの生存も絶望的となっていた。
ペネムがオルバスの設計図について楽団に話していたなら、今回の襲撃の狙いは間違いなくソレだろう。
超絶技巧を暗譜した人間の対処は本来の目的を隠すための囮であったのだ。
「ユリエルはどうした?やられた訳じゃねーだろ?」
サラフィエルが椙浦の方を見やりながら尋ねる。フルフルと首を横に振った彼は、更に気不味そうに顔を歪めた。
「……楽団の要に接触しながら、何もできませんでしたので…流石のユリエルさんでも堪えたんじゃないでしょうか?まだ書庫にいる筈です」
壁から天井まで真っ黒な煤に塗れた書庫内は、可燃性のものは全て焼失してしまっていた。燃え広がった際の火力を考えれば、事前に火をつけるつもりでガソリンが撒かれていた可能性がある。
スプリンクラーからポタポタと滴った水の音と、パキパキと何かが爆ぜたような小さな音が響く静かな書庫内に立ち尽くしていたユリエルは、自身の顔の半分を覆い隠していた白い面を取り外す。
酷い火傷の痕は、彼の父親が殺害された時のものだった。死体を燃やす為に放たれた炎によって、ユリエルは全身の70パーセント以上の皮膚に三度の火傷を負って生死の境を彷徨っていた。
まだ規制のない時代のアメリカでオーケストラの指揮者をしていたユリエルの父親が殺された理由は、楽団という組織に所属する音楽家の中で限られた奏者にしか演奏を許されない曲があるという事実を人伝いに知り、興味を持ってしまったことだった。
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「ユリエル、大丈夫かい?」
背後から声を掛けたのは、ぎこちない歩き方をしながら近寄ってくるミゲルであった。
「タクト・ウガミを誘い出すつもりであの女を殺させたんですがね……全て奴の手の中で転がされていただけのようです。申し訳ありません」
面を付け直したユリエルはミゲルの方に向き直り、深々と頭を下げた。
「ミゲル…我々は一体何処に向かうつもりなのでしょうか?行く宛もなく燻っていた我々のような野良の音楽家を集め、異端と名前をつけて各国のトップに取り入る…。その先にどのような未来が待っているのか…私にはわからないままです」
新興オーケストラ異端。楽団を憎む人間の集う彼らの組織が詳細不明とされている理由は、明確な目的が明らかになっていない為であった。
そして、所属している当の本人達でさえも、自身が何に向かって進んでいるのかわかっていないのだという。
床の水溜りにできる波紋をじっと眺めていたミゲルは、答えを強く求めるユリエルの視線真っ直ぐな視線に観念した様子で小さくため息をつく。
「……なかなか上手くいかないものだな」
カツカツと靴の底を鳴らしながら焼け焦げた床を進んでいき、ガラスが爆ぜて窓枠だけになった空間からニュー千代田区画の煌びやかな夜景を見下ろしたミゲル。
バサバサと吹き込む風を浴びながら踵を返した彼は、苦笑を浮かべていた。
そして、ポツリと呟くように言葉を投げ掛ける。
「会いに行こうか、我々の神に」
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パイプ椅子に固く括り付けられたビニール紐を何とか解き終わる頃には、京哉の意識はだいぶ正常に戻っていた。
「……冗談じゃねェぞ…何で俺まで…」
託斗の奇行によって京哉と手錠で繋がれてしまった麗慈は不満たらたらにその場に立ちあがろうと膝に力を入れる。しかし、ぐったりとした状態の京哉に引っ張られて上手く身動きが取れない。
「おい、立て。倉庫から出て双子にこの手錠ぶっ壊してもらうぞ」
「……むり。うごけない」
プイッと顔を背けた京哉は、呂律の回らない状態であった。命令だったとはいえ自身の行動によって京哉に身体的苦痛を与えてしまった事に罪悪感を感じていた麗慈。
「じゃあ、運んでやるから。せめて掴まってろ」
運ぶとは言ったものの、右手と左手を繋がれてしまっている為、取る事が可能な体勢にはかなり制限があった。
試行錯誤した結果、お互いに体の正面を向けた状態でコアラが木に抱き付くような体勢で麗慈の体に京哉がしがみつく。
身長体重もそこまで変わらない大の大人を一人担ぐのはかなり骨の折れる作業で、倉庫の扉を開けて外に出た時には麗慈も酷く息を切らしていた。
時刻は深夜0時を回っており、先程ネットカフェエリアで騒がしくしていたシェリーや双子の姿は見えなかった。
麗慈はナツキとフユキに割り当てられた個室を目指して、常夜灯のぼんやりとした明かりを頼りにパーティションの間を進んでいく。
しかし、途中で京哉の腕の力が限界に達してしまい、床にズルリと転がっていく彼に引き摺られて、共に床に倒れ込んでしまった。
並んで仰向けになり、ぼんやりと天井を眺める。ろくに動こうとしない京哉をここまで連れて来た麗慈も疲れ果てていた。
そして、託斗の言い残した『やり方を変える』という意味を考える。
「お前、楽団抜けようとか考えてないよな?」
天井をじっと見つめたままの京哉に問い掛ける。
自白剤を使用した尋問に対して、一言も心の内を語らなかった。無言を貫くということは、ある意味彼に掛けられた容疑、そしてミーア・ウィルソンとの関係について肯定を示すことになる。京哉もエージェントとして厳しい教育を受けてきた人間だ。まさか、そんな事すらわからないほど馬鹿ではない。
何故何も話さないのだろうか。麗慈にはそれが不思議でならなかった。
「楽譜、本当はお前が盗んだ訳じゃねーんだろ?」
「……盗んでない」
ボソリと返ってきた言葉に、麗慈は彼から真実を聞き出す道筋を頭の中で描く。
「じゃあ、何で第3楽章だけ消えたのかわかるか?」
京哉ではない人物が盗難に関与しているのか。遠回しにそう尋ねるが、今度は何の返事も無い。
「……盗んでない。でも…」
「でも……?」
ゆっくりと顔だけを向けてきた京哉と目が合う。その先の真実を告げる事を躊躇うかのように、唇が震えていた。
「京哉…教えてくれよ。俺はお前の事疑ってない。何かあるなら言わねぇとわかんねぇだろ」
静かな口調で諭す麗慈に、京哉は戦慄かせていた唇を噛み締める。
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翌朝オーストリアに戻ってきた京哉とミーアは、その足で楽団本社最上階に位置する社長室に向かった。
その日の午前中はロジャーが不在にしている事はミーアが事前に確認をとっている。
防犯カメラに映らぬよう社長室直通の階段を使い、移動式の本棚を動かして隠し扉から室内に侵入する。
「…支部長は何でも知ってますね……」
「これでも一番彼の信頼を得ている人間だからな。さあ、こっちだ」
ズラリと楽譜が並んだ棚の前に案内された京哉は、ミーアの指示で『素戔嗚尊』が収められた一冊を手に取った。…その瞬間、京哉はその厚みに違和感を覚える。
「……あれ?」
「どうかしたのか?」
8年前の記憶と言えど、毎日血反吐を吐きながら練習した曲。しかし、何故か今手に取った楽譜は全く別の物のように思えて仕方がなかった。
「あ、いや……なんかちょっとだけ薄いような……気のせいだとは思うんですけど…」
京哉の違和感は『八岐大蛇』のパートが剥ぎ取られた事によるものだった。託斗は『素戔嗚尊』の災厄によって京哉が絶命しないようにする為に、特殊なロジックを組み込んでいたのだ。
不安に駆られながらも、京哉はハードカバーの表紙を捲って1ページ目をミーアの目の前に差し出す。
「タクトの書いた曲は最速で音エネルギーを極大にする技術が組み込まれている。災厄による物理を超越した異能を得ずとも、この曲を奏でるというだけで大きな力を得られると私は仮定していたんだ」
「流石に持ち出したらバレますからね……この場で暗譜して元の場所に戻しておけば親父にもバレませんよね」
特異体質であるミーアは、災厄の影響を受けずに楽譜の祝福を受ける事ができる。それ故に作曲者である託斗から超絶技巧との接触を禁止されていた。
狡猾な彼の事だ、彼女が楽譜に触れればその証拠が残る様な呪いを込めた可能性もある。そこでミーアから真実を打ち明けられた京哉は、彼女の望み通り自身が修得した曲を“共有”する事に同意し、暗譜の為に譜面台兼ページターナーを買って出たのだ。
「第3楽章の災厄は君と因果を結んでいる。私が演奏したことによってどんな災いが君に襲いかかるかわからない…それでも同意してくれるんだな?」
リング通りを走る車内で再度確認された京哉は、心配性な自身の師匠の性分に苦笑いを見せながらも、内心嬉しさを感じていた。
得体の知れない、気味の悪い存在として遠ざけられてきた彼にとって、しっかりと自分という存在を見て接してくれるミーアは母親や麗慈と並んで信頼のおける人間であった。
そんな彼女からの心からの頼みを断る理由は無い。
…………………………………………………………………………………
暗譜を終えたミーアと社長室を出てオフィスフロアに戻ってきた京哉は、一般スタッフと楽しげに談笑している託斗を見つけてしまい息を呑む。
「あれ?ミーアじゃないか。どうしたんだよこんな所で……あら、誰だい隣の色男は~……って、よく見たら僕の可愛い一人息子じゃないか!」
白々しい一人芝居を打ちながら歩み寄ってきた託斗に向き直ったミーア。京哉を自分の背後に立たせて距離を取る。
「3年ぶりだね。図体ばかり大きくなってないだろうね?少しは上手くなったかい?」
「……アンタは相変わらず年取らねぇな…」
ベタベタと触ってこようとする父親の手を左右に去なしながら答えると、またもや白々しく照れ笑いを見せていた。そして、咳払いをしたミーアの方に視線を移す。
「支部長様がわざわざお迎えかい?何かあったのかな?」
「ああ。彼をアジア支部の応援に行かせようかと考えている。もちろん期間限定でこちらに戻ってきてもらわねば困るが……。日本なら幼馴染の彼も活動中だし、タクトも安心だろ?」
日本に拠点を移そうと打診してきたのはミーアであった。
『素戔嗚尊』の祝福を災厄との因果関係無しに享受できた場合、彼女自身も必中の刃を繰り出す事が出来るようになる。
しかし、二人が同じ地区に滞在すればもしミーアによる粛清の中、旋律師が素戔嗚尊の力によって殺害されれば、真っ先に京哉に疑いの目が向けられる。
ミーアの実力を考えれば、楽団に所属する旋律師の殆どは彼女より格下という事になり、超絶技巧を使わざるを得ない場面は想像し難い。しかし、相手が複数であった場合や非常に不利な条件が揃っていた場合この限りではないのだ。用心に越した事はない。
「日本か…良いんじゃない?そろそろ選挙で新しい総理大臣になる頃だろ?聞く話だと筆頭候補は大の音楽嫌いで有名だそうじゃないか。お仕事バンバン舞い込んで来るんじゃないのかな?」
聞いてもいない情報を饒舌に語る託斗の姿を見て、何も疑念は持たれていないのだと安堵した京哉。ミーアと顔を合わせて深く頷いた。
…………………………………………………………………………………
そして、時は経ち3年後。
日本で数々の依頼を熟してきた京哉のPHSがオーストリアからの着信を受ける。
『忙しい所済まないな、私だ』
「支部長…どうかしましたか?」
ミーアからの連絡は彼の予想だにしない内容であった。
楽団への報告無しにカナダ政府と密約を交わし、他国への諜報活動を行っていたという二人の旋律師がいたという。
オーストリア警察の刑事局長と個人的なコネクションを持っていたミーアは、彼の力を借りて秘密裏にカナダに渡っていた。
そして二名の処刑を執行中、彼らの予想以上の実力に苦戦を強いられることになったのだ。
オーストリア行きのチャーター機の離陸時間が迫り、一刻も早く決着を付けねばならないという状況に陥ったミーアは最後の切り札を切ってしまった。
『初めてだ…素戔嗚尊を使ってしまったのだが……非常にまずい事になった』
「ま、まずい事…?」
無事予定時間内に楽団に戻る事ができたミーアであったが、妙に社内が騒がしい。聞けば上層部が緊急会議を開く所だという。
集められた人間の前でロジャーが告げたのは、『カナダで二人の旋律師が惨殺された事件』について、そして、『密室だった筈の社長室から第3楽章の楽譜が何者かに奪われた』というものであった。
何の前触れもなく、素戔嗚尊の楽譜が消失してしまったのだ。
緊急会議に参加していた託斗も不思議そうにロジャーの話を聞いており、二つの議題に関連性を見出す者はいなかった。
……当事者であるミーアを除いては。
超絶技巧は作曲者の託斗ですら、その災厄と祝福の内容を想定出来ていない程不確定要素の多いものであった。
第3楽章は既に災厄との因果が結ばれた状態であった事、八岐大蛇の存在によりその災厄の因果関係は他の楽譜より複雑になっていたこと、そして完奏者が特異体質のミーア出会った事……様々な要素が重なり、『存在が消えてなくなる』という事態に陥ったのだ。
自身の中に結ばれた因果すら消失してしまったのではないかと不安になった京哉は、その晩良縁屋を抜け出し誰も仮住まいにしていない廃ビルの屋上で素戔嗚尊の序章を奏でた。
確かに腹の中の疼きを感じ、異能は修得したままなのだと安堵したのだ。
カナダでの一件は敵組織による旋律師狩りの一環として片付けられ、上層部もロジャーでさえもミーアと京哉の関与を疑わなかった。
しかし、託斗だけはこの事件の顛末は単純な物ではないと疑念を抱き続けていた。
京哉を上回るフルートの演奏技術と剣の腕前。思い当たる人間は一人しかいなかったのだ。
…………………………………………………………………………………
「……だから、僕も支部長も……誰も何も裏切っちゃいない」
月明かりが差し込むフロアで、京哉の声だけが響く。隣で静かに聞いていた麗慈には、すぐに返す言葉が見つからなかった。
楽団内における私刑は明確な規則違反である筈。しかし、その動機は組織を守る為であり、彼女の粛清がなければ楽団は今頃崩壊していたかもしれないのだ。
そしてもう一つ、もし楽団がミーアと京哉を処罰の対象とした場合、重大な戦力不足に陥る事は明白である。
「どうすんだ、託斗?」
雑居ビルの外階段で鬼頭と並んで煙草を蒸していた託斗の耳にはイヤホンが嵌め込まれていた。手錠に仕込んだ盗聴器から、京哉と麗慈の会話は全て筒抜けとなっていたのだ。
フゥッと白い煙を虚空に散らした託斗は、鉄製の手摺りに煙草を押し付けて火を消し吸い殻をペール缶の中に投げ捨てる。
「……懺悔しまーす。聞いてくれるかな?」
いきなり何だ?と驚く鬼頭に構わず、託斗は頬杖を付きながら続けた。
「京哉、多分…ずっとか……寂しかったんだろうなって。親の愛情に飢えてた期間があまりにも長かったし、亡命してからも子供らしく振る舞えない環境にいたから…」
母親を目の前で殺されてから約3年間、京哉は地獄のような日々を過ごしてきた。5歳から8歳というまだ甘えたい盛りの時期に、誰からも手を差し伸べられる事なく孤独を味わってきたのだ。
そして、旋律師になる為の修行期間においても楽団の社員寮に幽閉され続けていた。
旋律師になってからも、次々に舞い込む依頼は彼の心を踏み躙るような内容ばかりであった。
「父親失格。息子の為に何もしてないバカ親父の代わりに、アイツを育ててくれたのはミーアだ。……もちろんフルーティストとしてだけど、それでもアイツが彼女にそれだけ信頼を置いてるのは愛情を感じてきたからだろ」
楽団が“正しく”あるために。ミーアは常に、できる限り京哉を無用な殺生を強いる依頼から遠ざけ、守り続けてくれた。
「それじゃあお前…」
鬼頭の方へ向き直った託斗は、ニッカリと歯を見せながら笑う。
「あーあー、何も聞こえなかった。最近耳遠いんだよなー、歳かなぁ?」
彼の十八番である白々しい演技を目の当たりにして、鬼頭も口元に笑みを浮かべた。
「俺もだ。このイヤホン壊れてるみてぇだな。何も聞こえやしねぇ」
受信機から引き抜いたイヤホンを丸めてペール缶の中に投げ込んだ鬼頭。
夜景を失った東京の静かな街並みの上に広がる満天の星々を見上げ、これで良いのだと自分に言い聞かせながら静かに頷く。
…………………………………………………………………………………
蛇口を思い切り捻り、湯気が出始めたところで湯船の底に栓をする。ドボドボと滝のような音を立てながらお湯の嵩が増していき、湯船の3分の2程度まで貯まった所で衣服を着用したままの京哉を投げ入れた。
自白剤の使用条件に書かれていた低めの気温設定から、原材料は熱に弱い毒であると考えた麗慈。
手錠で繋がれている事よりも、一人で身動きが取れない状況の方が煩わしいと、京哉に何の相談も無しに今の状況に至る。
「ぶっ…!服!何でそのままブチ込むんだよ!しかも熱ッ…!!」
口だけはよく回るようになってきた京哉は、雑な扱いを受けている事に文句を言い始めた。
「どうせこっちの手首に引っかかって全部は脱げねーんだから良いだろ」
自身が京哉と繋がれている方の手を上下させると、諦めたようで静かにお湯の中に沈んでいく。
楽団が正しくある為に、音エネルギーが正義の為にある為に。ミーアは何も間違っていない。組織を裏切ってなどいない。楽団の為に手を汚したのだ。
湯の中でゆっくりと瞼を持ち上げた京哉は、ゆらゆらとぼやけた視界の向こう側が青白くまばゆい光に包まれたのを見て慌てて顔を水面から出した。
静かな浴室の中、浴槽から溢れ出す湯の音だけが鼓膜に纏わりつく。
先程まで左手首に感じていた重みが全く無い。
「……え…?」
ズルリと浴槽から抜けていった手。全く動かない麗慈の背中からはドクドクと血が流れ出ていた。
薄暗いユニットバスの床に広がる赤い水溜まりが、溢れ出た湯と混ざり合いながら排水溝に引き込まれていく。
…………………………………………………………………………………
喉の渇きを覚えて厨房スペースに向かったシェリーは、奇妙な物音に気が付く。
何かを引き摺る音であった。
「……誰かいるの…?」
左手で壁伝いに歩きながら、恐る恐る声を出したシェリー。
全て閉めた筈の窓の一部が開いており、カーテンが冷たい風にはためいていた。
雲の合間から月明かりが漏れ出し、一瞬フロア全体が明るく照らされる。
全身びしょ濡れで意識を失った京哉が、肩を担がれている。黒いロングコートに身を包んだ人影が窓の方に向かっているのだとわかったシェリーは、恐怖など忘れて慌てて駆け寄ろうとした。
「キョウヤを離せ!何処に連れて行くんだよ!!」
手を伸ばしたシェリーの指先は京哉に触れる事なく空を切る。
「Lassen Sie uns wieder zu treffen.」
黒い人影が去り際に放った一言に、シェリーは目を見開いて動きを止めた。
何故、どうして。言葉を紡ごうと口を動かした頃には、既に二人の姿は完全に消えてしまっていた。
[50] Recitativo Ⅵ 完
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