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#082 Drängend Ⅱ
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湯河原町・当時29歳「言葉って難しいですな…。私が日本語を理解してた気になってただけかもしれないけどさ。やっぱり本人が言わないと伝わらない事ってあるんだよ。だから、こっちに来る前にちゃんとさ…」
…………………………………………………………………………………
シャルル=マリー・ジャン・オベール・ヴィドール
『フルートとピアノのための組曲』
明快かつ爽快感のあるこの組曲はフルート、ピアノ共に技巧的な演奏と音楽的な表現力が求められる作品であり、全5章から構成されている。
京哉と託斗のアンサンブルが始まった途端、上空を周遊していた零式自鳴琴が突如進路を変更した。大きな顎が向いている方向は虎ノ門ヒルズ森タワーである。
プールサイドに立って演奏を聞きながら空を見上げていたシェリーは、巨体が猛スピードで此方に接近している事に気が付いて慌てて駆け出した。
派手な柄の黄色いグランドピアノの影に隠れるが、頭上を物凄い速さで通り過ぎていった零式自鳴琴の巻き起こした風で立っていられなくなりその場に尻餅をついてしまう。
一旦高高度まで上昇した巨体は、再度森タワーに近付きグルグルと旋回し始めた。まるで此方の様子を伺っているような動きである。
「…凄い……こんな近くに……あ!」
演奏が始まる前に受けた託斗からの指示を思い出し、シェリーは打ち付けた尻を摩りながら立ち上がった。生い茂った緑を掻き分けてエレベーターホールに戻り、奥の用具倉庫に駆け込んで行く。
倉庫内にはかつて屋上で催された様々なイベントの為の資機材が所狭しと並べられていた。その中で窓際に置いてあるステンレス製のスタンドとガイコツマイク、そして幾重にも巻かれたシールドを手に取ったシェリーは、床に直置きしている機材にぶつけないように慎重になりながら爪先立ちで倉庫から脱出し、屋上庭園に戻る。
風を切る音が聞こえる程近くを旋回し続ける零式自鳴琴。やはり、この曲に反応すると言う事はその中枢を担う脳はシエナのものなのだろう。
「京哉、この距離なら届く筈だ!」
ゴウゴウとまとわりつく様な風の音に割り込むように、演奏を続けながらそう叫んだ託斗。縦に首を振った京哉のフルートから奏でられる音は消え、ピアノの伴奏だけが響き始める。
零色自鳴琴も体を覆う核は金属でできている。京哉が得意とする技術で溶かす事ができるかもしれない。
しかし、やはり本体まで音が届いていないのだろう。先程までと状態は全く変わらない。零式自鳴琴との距離が離れそうになった為、奏法を戻してフルートの音がピアノに重なる。
首を横に振った京哉の前にシェリーがマイクスタンドを担いで戻ってきた。長く伸びるシールドの先はオーケストラの目の前に設置されていた集音装置に繋がれている。
マイクの電源が入った事を確認したシェリーは、京哉に向けてコクリと頷いた。
再びフルートの音が消える。
同報無線スピーカーより京哉の放った音の波が増幅されて東京の空を漂った。生音に比べれば威力は落ちるものの、遠くまで届く音という意味ではこちらの方が確実であろう。
先程とは異なり、うねうねと体を複雑にうねらせながら進んでいる。
「もしかして…音の波が見えるのか?」
「え…?目に見える物なの…??」
託斗の予想通り、零式自鳴琴のボディには金属融解の前兆すら見られない。音による空気の振動を感知する能力があるのだろうか。
「……避けられちゃうなら大きい音出してもダメなのかな…」
シェリーが眉をハの字にして、遠ざかってしまった金属の巨体を見送る。
第5楽章まで奏で終えた京哉と託斗も空を見上げながらどうしたものかと頭を悩ませた。
幼少の頃より母親に聞かせたいと願い練習を重ねてきたこの曲を、このような形で披露する事になるとは思ってもみなかった京哉の悲しげな横顔を見て、託斗はその肩を叩く。
今は悲観している時ではない、と。
距離がある状態では攻撃はまるで当たらない様子であった。
「直接アイツに飛び乗って…って、僕まで巻き添え食うか……」
鋼鉄の溶解温度は約1370℃から1520℃と言われており、素材によっても様々ではあるがとても人間が生きていられる温度ではない。ゼロ距離でダメージを与えるのであれば、金属溶解ではなく物理的攻撃しか考えられなかった。
「でも太刀の刀身の熱を高い状態で維持してブッ刺す…ぐらいなら出来るかも」
それは京哉が良く使う芸当であったが、果たしてあの巨体に対して有効なダメージを与えられるかは疑問だ。試してみる価値はありそうだが、どうやって零式に近付くかが問題である。
飛び乗って攻撃を与えた拍子に暴れて落下すれば、飛行する手段の無い京哉は地上へ真っ逆さまであろう。
作戦を練っては問題点が見つかり実行に移せない。一向に攻撃手段が見つからないまま、悪戯に時間だけが経過していった。
…………………………………………………………………………………
時刻は20時。ただ大空を旋回しているだけだった零式自鳴琴に動きが見られた。顎の奥…大きな開口部が金色に輝き始めたのだ。
「なんか…すごく嫌な予感がするんですけど…」
「崩壊プログラムってやつが始まるんじゃない?……自爆とかされたらアタシ達も……」
並んで空を見上げていた京哉とシェリーは、不穏な変化を見せた零式に表情を曇らせる。
「一旦、自爆されるっていう最悪の状況じゃなかった場合の事を考えようか」
パンパンと手を叩いた託斗の元に集合した二人は、上空の様子を気にしながらピアノ椅子に座っている託斗の前に腰を下ろした。
「ハイ」
「はい、京哉くん」
手を挙げた京哉を指差す託斗。
「親父はどんな事態を想定してんだよ?」
「それは『崩壊』がどちらのの意味かによるな」
託斗の回答に、小首を傾げた京哉とシェリー。
「さっきも言っただろ。自爆じゃない場合の事を考えようって。どちら、の意味は二通り…自己の崩壊又は世界の崩壊」
「……自爆じゃ無い場合……ヤケクソに暴れ回って世界壊滅させるかも…ってコト?」
そうそう、と首を縦に振る託斗を見て二人は顔を見合わせて絶望を表情に出した。反して託斗はニコニコと笑っている。どうせ死ぬつもりと言っていた彼は、もうこの世界は助からないと諦めてしまっているのだろうか。
一人だけ余裕そうにニヤついている彼にイラついた京哉が不満げな表情で問い掛ける。
「何で笑ってんだよ不謹慎だな……それとも何か良い方法でもあんのか?」
「ふふふ…後者ですよ、京哉くん……これはチャンスだと見た」
いきなりシェリーを指差した託斗。本人はキョトンとしてしまっている。
「シェリーちゃん、もとい壱式自鳴琴の存在意義ですよ、ズバリ!」
「……確かに。制御装置も別にあるし、アイツはあの通り自由に動き回ってるし……」
京哉もシェリーの方を見やった。
「シェリーちゃんにはさっき話したんだよ。まぁ、今お前の理解の為にまた一から話をするのも面倒だからさ…生き延びたら本人の口から色々聞いて欲しいんだけど、肝心な所だけ説明すると壱式自鳴琴はバックアップ電源なんだよ」
零式自鳴琴はより多くの目標を破壊する為に、浮遊して地上を俯瞰する設計になっている。体内で自家発電した電力を消費して荷電粒子砲を放った際、自身の浮遊機構の稼働力を下げないようバックアップ電源として壱式自鳴琴を搭載する構造となっていた。
「つまり、今目の前にシェリーちゃんがいるって事は、アイツは攻撃打ったら地上に落ちてくるって訳。充電に要した時間を考えると一発で…ってのは考えにくいけどね。でも、力尽きて落ちてきたタイミングで攻撃できそうじゃない?」
託斗の案に京哉はなるほど…と目を見開く。しかし、やはり懸念はあった。
「ただ、現段階での問題点は二つかな。このビルを攻撃されたらお陀仏って事と、浸水の影響で地上に降りる方法が今の所無いって事」
「ダメダメじゃん!」
攻撃できる利点に勝る欠点…このままでは自爆でなくともそのうち相手の渾身の一発を喰らって塵と化すのも時間の問題だ。
せめて地上に降りる方法が見つかれば…。ふと顔を上げたシェリーの視線の先には木々に囲われたエレベーターホール。
「…ねえ、昔はこの屋上って色んなイベントに使われてたんだよね?だったら、緊急時用の下に降りる道具とかもあるんじゃ…?」
シェリーの閃きに、男二人は大層感心した様子を見せる。
「確かにそうだ!シェリーちゃんはよく気がつく子だなぁ…」
時間が惜しいと立ち上がった3人はエレベーターホール奥の倉庫に駆け寄っていき、引き戸を勢いよく開けて進入する。
埃っぽい倉庫内を歩き回っていると、シェリーの言った通り非常下降器具が収納された金属製のボックスが発見された。しかし、ボックス上面のシールに貼られた但し書きを読んだ託斗と京哉は残念そうに肩を落とす。
「地上52階なんて高さから降りようとしたら、途中で強烈なビル風に煽られて大変な事になるってのはなんとなくわかってたけど…」
発見された器具は40階、30階…と10階刻みに同じ物が設置されており、段階を踏んで降下するという仕組みであった。当然、一気に降りようとしてもロープの長さが足りない。10階は既に浸水している為、それならエレベーターで降りていっても結果は同じである。
落胆する2人を背に大きな箱の中を漁るシェリー。彼女が見つけたのはプラスチックでできた椅子に硬めのゴム紐が4本取り付けられた道具。
「何これ?」
シェリーが持ち出してきた道具を見た託斗は紐の部分を弄りながら考え込む。
「うーん…座って何かする道具?あ、ハーネスも付いてる。屋上で使ってたんなら、もしかしたら逆バンジーとか?」
「ぎゃ、逆ばん…?」
小首を傾げた京哉に紐付きの椅子を押し付ける託斗。今度は彼が閃いたようで周囲の棚を漁り始めた。子供のように箱の中身をポイポイと後方に投げて散らかす背中を訝しげな表情で睨んでいた二人。
…………………………………………………………………………………
「あったー!多分コレ、エアーテントでしょ!」
宝物を探し当てたように喜んでいる託斗の背後に歩み寄った京哉とシェリーは、小脇から彼の見つけた物を覗き込む。
「エアーテントって…文字通り空気で膨らませるテントって事?」
「催事や災害時に使ってたって聞くね。コレとさっきの逆バンジーの椅子を組み合わせたら…」
シェリーは頭の中で2つをドッキングさせる。…パラグライダーのように地上に降下する事ができそうである。
更に幸か不幸か、今の東京の街にパラグライダーでの降下を邪魔する建物は存在しない。
「おぉ…親父にしては名案だ…!でも、誰が膨らませんの、コレ?」
綺麗に折り畳まれたエアーテントを受け取った京哉が託斗とシェリーを交互に見る。
スッと差された2本の指先は真っ直ぐ京哉に向けられていた。
便利なエアーポンプなど存在する筈も無く、楽器を拭くクロスで綺麗にしたノズルの部分に直接口を付けて息を吹き込み始めた京哉。
「……だ、大丈夫?京哉死ぬんじゃ…」
「大丈夫、大丈夫ー!ほれ、頑張れ頑張れ!」
必死に空気を吹き込む京哉の背後で楽しそうに応援の舞を踊る託斗を見たシェリーは、呆れ顔でピアノ椅子に腰掛ける。
そしてふと視線を落とした時、白鍵盤に目立つ赤い点に気がついてしまった。恐らく血である。
「………コレ…」
振り向いた先で京哉を茶化す託斗。元気そうに見えるが、災厄を被りその命を落とす時が近付いているのかもしれない。
膨らみ終えたエアーテントの横で京哉が五体投地していた。ラウ・チャン・ワンとの、闘いでもここまで疲弊した様子は見られなかった。
シェリーと託斗が硬いゴムロープの先に接続されているカラビナをエアーテントの脚の先に取り付けている時であった。
不協和音が響き渡り、空が昼間の様に一瞬明るくなる。遅れて聞こえてきたのは何かが発射されるようなけたたましい轟音。
零式自鳴琴の崩壊プログラムが始まった。
東の空に向けて放たれた荷電粒子ビームは東京湾を一瞬で通過し、対岸の陸地に届く。そして数秒の後にムクムクと膨れ上がった光の球が天高く巨大な火柱を上げながら爆発した。
続けて西の空に放たれる光線。一瞬明るくなった方向を見やると、遠くに見えていた山の側面が大きく抉れている。
「え?今の、マウントフジ!?」
「そうかも…噴火なんて誘発されないと良いけど」
シェリーと託斗が即席で仕上がったパラグライダーを、破壊されたプールの縁まで運んだ。
「いつまでヘバってんだ馬鹿息子ー!」
3発目のビームが上空を駆け抜ける様子を仰ぎ見ていた京哉は、託斗の呼び掛けに重い腰を上げる。
…………………………………………………………………………………
4発目が空を照らした直後、急に動きを止めた零式自鳴琴。そして、みるみるうちに自由落下を始める。
その落下地点を予測し、京哉が床を蹴って空中に飛び出した。本物のパラグライダーのようにはいかないが、揚力を得て順調に降下していく。
「大丈夫かな…たった一人で…」
心配そうに胸の前で腕を組みながら見守るシェリー。
「心配しても、今闘えるのはアイツしかいない。まずはどうにか攻撃を当て…」
落下を続けていた零式の顎の奥が眩く光っている。その先には滑空する京哉。
「まずい…っ!京哉!まだアイツは…」
京哉に向けて叫んだ託斗が吐血する。プールサイドに散らばった血溜まりの中に膝を付いた彼はゼエゼエと苦しげな息を繰り返していた。
「タクト…っ!?」
駆け寄って託斗の背中を摩るシェリー。やはり無理をしていたのだ。身体は確実に蝕まれている。
滑空を続ける京哉に照準を合わせながら発射準備をする零式自鳴琴。しかし、地上落下前の最後のビームが放たれる間際、その頭がガクンと空から紐で釣られたよう真上を向く。
真上に発射された光の柱を見上げながら、京哉は無事地上に到着した。その直後に、数百メートル離れた場所に巨体が落下する。
地響きと共に落下地点の瓦礫が高く舞い上がり、爆風が同心炎上に広がっていく。
衝撃が収まった頃、スクっと立ち上がった京哉は零式の落下地点に目を凝らした。
「…何だ……さっきの動き…」
即席パラグライダーを投げ捨てた京哉も、先程の奇妙な動きに気が付いていた。まるで、あえて京哉から攻撃を逸らしたようにも見えた。
落下地点近くは舞い上がった瓦礫が壁のように積み重なっており、なかなか本体に到達できない。やっと登りきった瓦礫の山の頂きから見える零式自鳴琴は、浮遊中見えていた腹部の開口部を天に向けて横たわっており、じっと動かない。
瓦礫の斜面を滑り降り近くまで歩み寄った京哉は、方々に荷電粒子ビームを放ち暴れ回っていた頭の方へと移動していった。
先端に拳大のレンズが埋め込まれている。サーモカメラの類であろうか。
背中側と腹側を分ける縁には細いLEDライトがぐるりと体全体に付けられているようで、赤色の弱い明かりが力無く明滅していた。
発電の中枢は、シエナの脳だ。本体と切り離してしまえばいくら終末兵器と言えども動けまい。
フルートを構え、リッププレートに下唇を乗せる京哉。外殻を溶かそうと演奏を始めた瞬間に、零式自鳴琴の顎の裏側から太いワイヤーの様にしなるアームが飛び出してきて彼の体を目にも止まらぬ速さで拘束した。
肺を圧迫され咳き込む京哉。フルートはコンクリートの禿げた地面に落ち、カランと短く音を立てて横たわる。そのフルートもまた新しく伸びてきたアームに絡め取られて京哉と共に顎の奥に開いた開口部へと引き摺り込まれていった。
真っ暗で熱の籠った居心地の悪い空間を通り過ぎる間、京哉の耳にはずっとオルゴールの音が聞こえていた。それも1曲だけではない。様々な曲が入り混じって不協和音となっており、頭が割れそうな程の不快感が彼を襲う。
暗闇の終わりが見えたのは360度グリーンのLEDに囲まれた奇妙な空間に差し掛かった時。アームの締め付けが急に緩み、フルートと共にグレーチングの床に投げ出された京哉。
不思議な場所であった。何も無いだだっ広い空間。その中央には縦一直線に伸びる柱状のもの。フルートを拾って駆けていく京哉は、距離が縮まる毎に鮮明になる柱の正体に目を背けたくなった。
円柱状の水槽に浮かぶ白いものに繋がれた無数の電極。ブクブクと下の方から浮き上がってくる水泡がぶつかる度に震える白い物体は、人間の脳であった。
間違いなく、シエナのものである。
目の前で惨殺された彼女の亡骸の一部。京哉の脳裏にはまたあの時の光景がフラッシュバックしていた。
旋律師としての京哉が叫んでいた。早く水槽を破壊しろ、と。全ての元凶であり、最悪な終末兵器の動力源である脳の活動を停止させよ、と。
しかし、彼が一向に刃を向けられないでいたのは、ソレをシエナだと認識してしまっていたからであった。耳にまとわりつく不協和音。一つ一つを紐解いていくと、どれも昔彼女が自分に聞かせてくれた曲だったのだ。
どうすれば良い……どうすれば………
…………………………………………………………………………………
ふと、目の前が再び真っ暗になる。
顔を上げた京哉が周囲を警戒していると、LEDの壁にドイツ語で文字が1行浮かび上がってきた。
【泣かないで】
泣かないで?一体誰が泣いているのだろう。
眉を顰めた京哉であったが、自分の頬が濡れている事に気が付き、燕尾服の袖で拭った。
「……お母さん…?」
熱っぽさにボンヤリとする中、震える声を絞り出して尋ねればまた壁に文字が流れてくる。
【どうしてそう思うの?】
「…流れてる曲が…全部お母さんが聞かせてくれたやつだから……」
自分は何と対話しているのか。それすらわからなくなっていた。
「お母さん…どうすれば良い?僕……正直、世界がどうこうなんて、どうでも良いんだ」
俯きながら心の内を吐露し始める京哉。
「親父も勝手だよ。僕に世界を変えろとか託したくせに…自分は死ぬ?ふざけんなよ……」
京哉の脳裏に、託斗と過ごした数少ない思い出が蘇る。
親らしい事は正直してもらった記憶は無い。超絶技巧のレッスンだってスパルタ過ぎて何度も吐いた。
大人になってからもあまり会う事は無く、二人きりで話しても仕事の事ばかり。
「僕がいなければ親父は楽団に縛られる事もなかった。右目も失わずに済んだ。それに…クローンって何だよ……居たら駄目だろ、そんなの……そんなの、人間じゃ…」
また空間が真っ暗になる。
そして、数秒後に新たな文字が浮かび上がった。
【君の名前を決めたのは彼だよ】
顔を上げた京哉の瞳に鮮やかな緑色が反射する。
【彼が一度だけ、日本に手紙を送ってくれたの】
「…手紙……」
京哉が5歳になる年の夏、湯河原の別荘を松川洋司と佳苗の二人が訪ねていた。彼等は託斗、そしてミーアから秘密裏に依頼を受けた楽団の協力者である。
「すみません、麦茶しか無くて…」
ガラスのコップに注いだ麦茶を縁側に並んで座っていた二人の元に運んだシエナ。無理な生活が祟り、かなり体を悪くしていた彼女はこの頃病気がちであった。
「お構いなく…どうか楽になさってくださいな…」
廊下に上がった佳苗に支えられながら座ったシエナに、洋司が白い封筒に入った手紙を手渡した。
「これは?」
「右神託斗様より…奥様に渡して欲しいと頼まれた手紙です」
その場で封を開けようとしたシエナの手をそっと押さえた佳苗は、静かに首を横に振った。
「…お一人の時に、ゆっくりお読みになってください。きっと、とても大事な事が書かれていますから」
手紙を渡しただけで帰ってしまった二人を不思議に思いながら、シエナは受け取った手紙を懐にしまった。
…………………………………………………………………………………
夜、寝室に並べて敷いた布団。寝てしまった京哉の横で、シエナは物音を立てないようコッソリと先程の手紙の封を開ける。
中には便箋3枚程の手紙。ドイツ語で書かれているのは松川夫妻に万が一の事があった場合を考えての事だろう。宛名や差出人の名前が無いのもその為。
【拝啓 盛夏の候 皆様ご健勝でお過ごしのこととお喜び申し上げます】
書き出しはシエナとの関係がわからないよう、妙によそよそしい。
「……オジサンかなぁ」
ボソッと声が出てしまい、慌てて口を手で塞いで先を読み進めるシエナ。
君が湯河原で生活し始めてから5年も経つのか。早いな。僕は相変わらず、社長にこき使われて窮屈な毎日を送ってるよ。
あの子も5歳なら結構上達してきたんじゃないか?君は生後半年ぐらいで練習始めるとか息巻いてたからさ…。
でも、あまり無理はせずに生活して欲しい。僕達があの子に託した夢は…まぁ、そんな感じだっただろ?楽しくやってもらえば良いんじゃないかなって思う。
オーストリアでの近況、シエナの日本の生活で気掛かりなこと…具体的な固有名詞を使えないからか、中途半端な内容でなんだかもどかしさすら感じる。
託斗からの手紙は嬉しかったが、佳苗が言う程の『大事なこと』が書かれている様には思えないシエナ。
しかし、最後の1枚の便箋を手に取った時、彼女の言葉の意味がわかった。
最後になるけど、君にお願いがある。
そろそろ物事がわかる頃だろうから…あの子に伝えて欲しいんだ。父親は事故で亡くなったんだと。
君たちとの生活を夢見てたけど、多分…難しい。君には迷惑を掛ける。本当にごめん。
僕と繋がりがあるというだけであの子には厳しい未来が待ってる筈なんだ。だから、あの子の将来の為にも…。
でも、僕はちゃんとあの子を愛していたんだっていう想いだけはそれとなく伝えて欲しいな。これは本当の事だから。
【もっともっと、伝えなきゃいけなかったのにね】
託斗が、父親として京哉をどれだけ大切に想っていたのか。シエナはそれを京哉が十分に理解する前にこの世を去ってしまったのだ。
【ごめんね、ちゃんと伝えられなくて】
膝から崩れ落ちた京哉の目からは涙が溢れていた。
これまでずっと、託斗の事をどこか遠くに感じていた。
だから、ミーアの口から自分は彼のクローンだと聞かされた時、妙に納得してしまったのだ。
親では無いのだ、と。
しかし、託斗が京哉に対して距離を置いてきたのは、きっと自分との繋がりが彼を苦しめる事をわかっていたからだった。
楽団の要と呼ばれた男の子ども、呪曲を作る男の子ども。
自分が忌子であったから、その血を継がせてしまった事を酷く憂いていたのだ。
だからこそ、京哉を守る為に距離を取った。
自分はずっと、父親に愛されていたんだ。
そんな事を理解するのに14年も掛かってしまうなんて。
【もう、時間が無いんだ】
壁面に表示された文字が滲む視界に映り込む。
【私が抑え込めるのはここまで】
【じきにまた、たくさん壊し始める】
【次はきっと、最後まで】
次々に切り替わる文字。
【お母さんは、もういないんだよ】
母親はもう死んだのだ。理解した筈だったのに。涙を拭った京哉は、握りしめたフルートを構える。そしてリッププレートから息を吹き込もうとした時、足元のグレーチングがガタガタと波打つように動き出し、京哉をこの空間に引き摺り込んだアームが再び彼を絡め取って突如足元に現れた開口部から外へと投げ捨てた。
[82] Drängend Ⅱ 完
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シャルル=マリー・ジャン・オベール・ヴィドール
『フルートとピアノのための組曲』
明快かつ爽快感のあるこの組曲はフルート、ピアノ共に技巧的な演奏と音楽的な表現力が求められる作品であり、全5章から構成されている。
京哉と託斗のアンサンブルが始まった途端、上空を周遊していた零式自鳴琴が突如進路を変更した。大きな顎が向いている方向は虎ノ門ヒルズ森タワーである。
プールサイドに立って演奏を聞きながら空を見上げていたシェリーは、巨体が猛スピードで此方に接近している事に気が付いて慌てて駆け出した。
派手な柄の黄色いグランドピアノの影に隠れるが、頭上を物凄い速さで通り過ぎていった零式自鳴琴の巻き起こした風で立っていられなくなりその場に尻餅をついてしまう。
一旦高高度まで上昇した巨体は、再度森タワーに近付きグルグルと旋回し始めた。まるで此方の様子を伺っているような動きである。
「…凄い……こんな近くに……あ!」
演奏が始まる前に受けた託斗からの指示を思い出し、シェリーは打ち付けた尻を摩りながら立ち上がった。生い茂った緑を掻き分けてエレベーターホールに戻り、奥の用具倉庫に駆け込んで行く。
倉庫内にはかつて屋上で催された様々なイベントの為の資機材が所狭しと並べられていた。その中で窓際に置いてあるステンレス製のスタンドとガイコツマイク、そして幾重にも巻かれたシールドを手に取ったシェリーは、床に直置きしている機材にぶつけないように慎重になりながら爪先立ちで倉庫から脱出し、屋上庭園に戻る。
風を切る音が聞こえる程近くを旋回し続ける零式自鳴琴。やはり、この曲に反応すると言う事はその中枢を担う脳はシエナのものなのだろう。
「京哉、この距離なら届く筈だ!」
ゴウゴウとまとわりつく様な風の音に割り込むように、演奏を続けながらそう叫んだ託斗。縦に首を振った京哉のフルートから奏でられる音は消え、ピアノの伴奏だけが響き始める。
零色自鳴琴も体を覆う核は金属でできている。京哉が得意とする技術で溶かす事ができるかもしれない。
しかし、やはり本体まで音が届いていないのだろう。先程までと状態は全く変わらない。零式自鳴琴との距離が離れそうになった為、奏法を戻してフルートの音がピアノに重なる。
首を横に振った京哉の前にシェリーがマイクスタンドを担いで戻ってきた。長く伸びるシールドの先はオーケストラの目の前に設置されていた集音装置に繋がれている。
マイクの電源が入った事を確認したシェリーは、京哉に向けてコクリと頷いた。
再びフルートの音が消える。
同報無線スピーカーより京哉の放った音の波が増幅されて東京の空を漂った。生音に比べれば威力は落ちるものの、遠くまで届く音という意味ではこちらの方が確実であろう。
先程とは異なり、うねうねと体を複雑にうねらせながら進んでいる。
「もしかして…音の波が見えるのか?」
「え…?目に見える物なの…??」
託斗の予想通り、零式自鳴琴のボディには金属融解の前兆すら見られない。音による空気の振動を感知する能力があるのだろうか。
「……避けられちゃうなら大きい音出してもダメなのかな…」
シェリーが眉をハの字にして、遠ざかってしまった金属の巨体を見送る。
第5楽章まで奏で終えた京哉と託斗も空を見上げながらどうしたものかと頭を悩ませた。
幼少の頃より母親に聞かせたいと願い練習を重ねてきたこの曲を、このような形で披露する事になるとは思ってもみなかった京哉の悲しげな横顔を見て、託斗はその肩を叩く。
今は悲観している時ではない、と。
距離がある状態では攻撃はまるで当たらない様子であった。
「直接アイツに飛び乗って…って、僕まで巻き添え食うか……」
鋼鉄の溶解温度は約1370℃から1520℃と言われており、素材によっても様々ではあるがとても人間が生きていられる温度ではない。ゼロ距離でダメージを与えるのであれば、金属溶解ではなく物理的攻撃しか考えられなかった。
「でも太刀の刀身の熱を高い状態で維持してブッ刺す…ぐらいなら出来るかも」
それは京哉が良く使う芸当であったが、果たしてあの巨体に対して有効なダメージを与えられるかは疑問だ。試してみる価値はありそうだが、どうやって零式に近付くかが問題である。
飛び乗って攻撃を与えた拍子に暴れて落下すれば、飛行する手段の無い京哉は地上へ真っ逆さまであろう。
作戦を練っては問題点が見つかり実行に移せない。一向に攻撃手段が見つからないまま、悪戯に時間だけが経過していった。
…………………………………………………………………………………
時刻は20時。ただ大空を旋回しているだけだった零式自鳴琴に動きが見られた。顎の奥…大きな開口部が金色に輝き始めたのだ。
「なんか…すごく嫌な予感がするんですけど…」
「崩壊プログラムってやつが始まるんじゃない?……自爆とかされたらアタシ達も……」
並んで空を見上げていた京哉とシェリーは、不穏な変化を見せた零式に表情を曇らせる。
「一旦、自爆されるっていう最悪の状況じゃなかった場合の事を考えようか」
パンパンと手を叩いた託斗の元に集合した二人は、上空の様子を気にしながらピアノ椅子に座っている託斗の前に腰を下ろした。
「ハイ」
「はい、京哉くん」
手を挙げた京哉を指差す託斗。
「親父はどんな事態を想定してんだよ?」
「それは『崩壊』がどちらのの意味かによるな」
託斗の回答に、小首を傾げた京哉とシェリー。
「さっきも言っただろ。自爆じゃない場合の事を考えようって。どちら、の意味は二通り…自己の崩壊又は世界の崩壊」
「……自爆じゃ無い場合……ヤケクソに暴れ回って世界壊滅させるかも…ってコト?」
そうそう、と首を縦に振る託斗を見て二人は顔を見合わせて絶望を表情に出した。反して託斗はニコニコと笑っている。どうせ死ぬつもりと言っていた彼は、もうこの世界は助からないと諦めてしまっているのだろうか。
一人だけ余裕そうにニヤついている彼にイラついた京哉が不満げな表情で問い掛ける。
「何で笑ってんだよ不謹慎だな……それとも何か良い方法でもあんのか?」
「ふふふ…後者ですよ、京哉くん……これはチャンスだと見た」
いきなりシェリーを指差した託斗。本人はキョトンとしてしまっている。
「シェリーちゃん、もとい壱式自鳴琴の存在意義ですよ、ズバリ!」
「……確かに。制御装置も別にあるし、アイツはあの通り自由に動き回ってるし……」
京哉もシェリーの方を見やった。
「シェリーちゃんにはさっき話したんだよ。まぁ、今お前の理解の為にまた一から話をするのも面倒だからさ…生き延びたら本人の口から色々聞いて欲しいんだけど、肝心な所だけ説明すると壱式自鳴琴はバックアップ電源なんだよ」
零式自鳴琴はより多くの目標を破壊する為に、浮遊して地上を俯瞰する設計になっている。体内で自家発電した電力を消費して荷電粒子砲を放った際、自身の浮遊機構の稼働力を下げないようバックアップ電源として壱式自鳴琴を搭載する構造となっていた。
「つまり、今目の前にシェリーちゃんがいるって事は、アイツは攻撃打ったら地上に落ちてくるって訳。充電に要した時間を考えると一発で…ってのは考えにくいけどね。でも、力尽きて落ちてきたタイミングで攻撃できそうじゃない?」
託斗の案に京哉はなるほど…と目を見開く。しかし、やはり懸念はあった。
「ただ、現段階での問題点は二つかな。このビルを攻撃されたらお陀仏って事と、浸水の影響で地上に降りる方法が今の所無いって事」
「ダメダメじゃん!」
攻撃できる利点に勝る欠点…このままでは自爆でなくともそのうち相手の渾身の一発を喰らって塵と化すのも時間の問題だ。
せめて地上に降りる方法が見つかれば…。ふと顔を上げたシェリーの視線の先には木々に囲われたエレベーターホール。
「…ねえ、昔はこの屋上って色んなイベントに使われてたんだよね?だったら、緊急時用の下に降りる道具とかもあるんじゃ…?」
シェリーの閃きに、男二人は大層感心した様子を見せる。
「確かにそうだ!シェリーちゃんはよく気がつく子だなぁ…」
時間が惜しいと立ち上がった3人はエレベーターホール奥の倉庫に駆け寄っていき、引き戸を勢いよく開けて進入する。
埃っぽい倉庫内を歩き回っていると、シェリーの言った通り非常下降器具が収納された金属製のボックスが発見された。しかし、ボックス上面のシールに貼られた但し書きを読んだ託斗と京哉は残念そうに肩を落とす。
「地上52階なんて高さから降りようとしたら、途中で強烈なビル風に煽られて大変な事になるってのはなんとなくわかってたけど…」
発見された器具は40階、30階…と10階刻みに同じ物が設置されており、段階を踏んで降下するという仕組みであった。当然、一気に降りようとしてもロープの長さが足りない。10階は既に浸水している為、それならエレベーターで降りていっても結果は同じである。
落胆する2人を背に大きな箱の中を漁るシェリー。彼女が見つけたのはプラスチックでできた椅子に硬めのゴム紐が4本取り付けられた道具。
「何これ?」
シェリーが持ち出してきた道具を見た託斗は紐の部分を弄りながら考え込む。
「うーん…座って何かする道具?あ、ハーネスも付いてる。屋上で使ってたんなら、もしかしたら逆バンジーとか?」
「ぎゃ、逆ばん…?」
小首を傾げた京哉に紐付きの椅子を押し付ける託斗。今度は彼が閃いたようで周囲の棚を漁り始めた。子供のように箱の中身をポイポイと後方に投げて散らかす背中を訝しげな表情で睨んでいた二人。
…………………………………………………………………………………
「あったー!多分コレ、エアーテントでしょ!」
宝物を探し当てたように喜んでいる託斗の背後に歩み寄った京哉とシェリーは、小脇から彼の見つけた物を覗き込む。
「エアーテントって…文字通り空気で膨らませるテントって事?」
「催事や災害時に使ってたって聞くね。コレとさっきの逆バンジーの椅子を組み合わせたら…」
シェリーは頭の中で2つをドッキングさせる。…パラグライダーのように地上に降下する事ができそうである。
更に幸か不幸か、今の東京の街にパラグライダーでの降下を邪魔する建物は存在しない。
「おぉ…親父にしては名案だ…!でも、誰が膨らませんの、コレ?」
綺麗に折り畳まれたエアーテントを受け取った京哉が託斗とシェリーを交互に見る。
スッと差された2本の指先は真っ直ぐ京哉に向けられていた。
便利なエアーポンプなど存在する筈も無く、楽器を拭くクロスで綺麗にしたノズルの部分に直接口を付けて息を吹き込み始めた京哉。
「……だ、大丈夫?京哉死ぬんじゃ…」
「大丈夫、大丈夫ー!ほれ、頑張れ頑張れ!」
必死に空気を吹き込む京哉の背後で楽しそうに応援の舞を踊る託斗を見たシェリーは、呆れ顔でピアノ椅子に腰掛ける。
そしてふと視線を落とした時、白鍵盤に目立つ赤い点に気がついてしまった。恐らく血である。
「………コレ…」
振り向いた先で京哉を茶化す託斗。元気そうに見えるが、災厄を被りその命を落とす時が近付いているのかもしれない。
膨らみ終えたエアーテントの横で京哉が五体投地していた。ラウ・チャン・ワンとの、闘いでもここまで疲弊した様子は見られなかった。
シェリーと託斗が硬いゴムロープの先に接続されているカラビナをエアーテントの脚の先に取り付けている時であった。
不協和音が響き渡り、空が昼間の様に一瞬明るくなる。遅れて聞こえてきたのは何かが発射されるようなけたたましい轟音。
零式自鳴琴の崩壊プログラムが始まった。
東の空に向けて放たれた荷電粒子ビームは東京湾を一瞬で通過し、対岸の陸地に届く。そして数秒の後にムクムクと膨れ上がった光の球が天高く巨大な火柱を上げながら爆発した。
続けて西の空に放たれる光線。一瞬明るくなった方向を見やると、遠くに見えていた山の側面が大きく抉れている。
「え?今の、マウントフジ!?」
「そうかも…噴火なんて誘発されないと良いけど」
シェリーと託斗が即席で仕上がったパラグライダーを、破壊されたプールの縁まで運んだ。
「いつまでヘバってんだ馬鹿息子ー!」
3発目のビームが上空を駆け抜ける様子を仰ぎ見ていた京哉は、託斗の呼び掛けに重い腰を上げる。
…………………………………………………………………………………
4発目が空を照らした直後、急に動きを止めた零式自鳴琴。そして、みるみるうちに自由落下を始める。
その落下地点を予測し、京哉が床を蹴って空中に飛び出した。本物のパラグライダーのようにはいかないが、揚力を得て順調に降下していく。
「大丈夫かな…たった一人で…」
心配そうに胸の前で腕を組みながら見守るシェリー。
「心配しても、今闘えるのはアイツしかいない。まずはどうにか攻撃を当て…」
落下を続けていた零式の顎の奥が眩く光っている。その先には滑空する京哉。
「まずい…っ!京哉!まだアイツは…」
京哉に向けて叫んだ託斗が吐血する。プールサイドに散らばった血溜まりの中に膝を付いた彼はゼエゼエと苦しげな息を繰り返していた。
「タクト…っ!?」
駆け寄って託斗の背中を摩るシェリー。やはり無理をしていたのだ。身体は確実に蝕まれている。
滑空を続ける京哉に照準を合わせながら発射準備をする零式自鳴琴。しかし、地上落下前の最後のビームが放たれる間際、その頭がガクンと空から紐で釣られたよう真上を向く。
真上に発射された光の柱を見上げながら、京哉は無事地上に到着した。その直後に、数百メートル離れた場所に巨体が落下する。
地響きと共に落下地点の瓦礫が高く舞い上がり、爆風が同心炎上に広がっていく。
衝撃が収まった頃、スクっと立ち上がった京哉は零式の落下地点に目を凝らした。
「…何だ……さっきの動き…」
即席パラグライダーを投げ捨てた京哉も、先程の奇妙な動きに気が付いていた。まるで、あえて京哉から攻撃を逸らしたようにも見えた。
落下地点近くは舞い上がった瓦礫が壁のように積み重なっており、なかなか本体に到達できない。やっと登りきった瓦礫の山の頂きから見える零式自鳴琴は、浮遊中見えていた腹部の開口部を天に向けて横たわっており、じっと動かない。
瓦礫の斜面を滑り降り近くまで歩み寄った京哉は、方々に荷電粒子ビームを放ち暴れ回っていた頭の方へと移動していった。
先端に拳大のレンズが埋め込まれている。サーモカメラの類であろうか。
背中側と腹側を分ける縁には細いLEDライトがぐるりと体全体に付けられているようで、赤色の弱い明かりが力無く明滅していた。
発電の中枢は、シエナの脳だ。本体と切り離してしまえばいくら終末兵器と言えども動けまい。
フルートを構え、リッププレートに下唇を乗せる京哉。外殻を溶かそうと演奏を始めた瞬間に、零式自鳴琴の顎の裏側から太いワイヤーの様にしなるアームが飛び出してきて彼の体を目にも止まらぬ速さで拘束した。
肺を圧迫され咳き込む京哉。フルートはコンクリートの禿げた地面に落ち、カランと短く音を立てて横たわる。そのフルートもまた新しく伸びてきたアームに絡め取られて京哉と共に顎の奥に開いた開口部へと引き摺り込まれていった。
真っ暗で熱の籠った居心地の悪い空間を通り過ぎる間、京哉の耳にはずっとオルゴールの音が聞こえていた。それも1曲だけではない。様々な曲が入り混じって不協和音となっており、頭が割れそうな程の不快感が彼を襲う。
暗闇の終わりが見えたのは360度グリーンのLEDに囲まれた奇妙な空間に差し掛かった時。アームの締め付けが急に緩み、フルートと共にグレーチングの床に投げ出された京哉。
不思議な場所であった。何も無いだだっ広い空間。その中央には縦一直線に伸びる柱状のもの。フルートを拾って駆けていく京哉は、距離が縮まる毎に鮮明になる柱の正体に目を背けたくなった。
円柱状の水槽に浮かぶ白いものに繋がれた無数の電極。ブクブクと下の方から浮き上がってくる水泡がぶつかる度に震える白い物体は、人間の脳であった。
間違いなく、シエナのものである。
目の前で惨殺された彼女の亡骸の一部。京哉の脳裏にはまたあの時の光景がフラッシュバックしていた。
旋律師としての京哉が叫んでいた。早く水槽を破壊しろ、と。全ての元凶であり、最悪な終末兵器の動力源である脳の活動を停止させよ、と。
しかし、彼が一向に刃を向けられないでいたのは、ソレをシエナだと認識してしまっていたからであった。耳にまとわりつく不協和音。一つ一つを紐解いていくと、どれも昔彼女が自分に聞かせてくれた曲だったのだ。
どうすれば良い……どうすれば………
…………………………………………………………………………………
ふと、目の前が再び真っ暗になる。
顔を上げた京哉が周囲を警戒していると、LEDの壁にドイツ語で文字が1行浮かび上がってきた。
【泣かないで】
泣かないで?一体誰が泣いているのだろう。
眉を顰めた京哉であったが、自分の頬が濡れている事に気が付き、燕尾服の袖で拭った。
「……お母さん…?」
熱っぽさにボンヤリとする中、震える声を絞り出して尋ねればまた壁に文字が流れてくる。
【どうしてそう思うの?】
「…流れてる曲が…全部お母さんが聞かせてくれたやつだから……」
自分は何と対話しているのか。それすらわからなくなっていた。
「お母さん…どうすれば良い?僕……正直、世界がどうこうなんて、どうでも良いんだ」
俯きながら心の内を吐露し始める京哉。
「親父も勝手だよ。僕に世界を変えろとか託したくせに…自分は死ぬ?ふざけんなよ……」
京哉の脳裏に、託斗と過ごした数少ない思い出が蘇る。
親らしい事は正直してもらった記憶は無い。超絶技巧のレッスンだってスパルタ過ぎて何度も吐いた。
大人になってからもあまり会う事は無く、二人きりで話しても仕事の事ばかり。
「僕がいなければ親父は楽団に縛られる事もなかった。右目も失わずに済んだ。それに…クローンって何だよ……居たら駄目だろ、そんなの……そんなの、人間じゃ…」
また空間が真っ暗になる。
そして、数秒後に新たな文字が浮かび上がった。
【君の名前を決めたのは彼だよ】
顔を上げた京哉の瞳に鮮やかな緑色が反射する。
【彼が一度だけ、日本に手紙を送ってくれたの】
「…手紙……」
京哉が5歳になる年の夏、湯河原の別荘を松川洋司と佳苗の二人が訪ねていた。彼等は託斗、そしてミーアから秘密裏に依頼を受けた楽団の協力者である。
「すみません、麦茶しか無くて…」
ガラスのコップに注いだ麦茶を縁側に並んで座っていた二人の元に運んだシエナ。無理な生活が祟り、かなり体を悪くしていた彼女はこの頃病気がちであった。
「お構いなく…どうか楽になさってくださいな…」
廊下に上がった佳苗に支えられながら座ったシエナに、洋司が白い封筒に入った手紙を手渡した。
「これは?」
「右神託斗様より…奥様に渡して欲しいと頼まれた手紙です」
その場で封を開けようとしたシエナの手をそっと押さえた佳苗は、静かに首を横に振った。
「…お一人の時に、ゆっくりお読みになってください。きっと、とても大事な事が書かれていますから」
手紙を渡しただけで帰ってしまった二人を不思議に思いながら、シエナは受け取った手紙を懐にしまった。
…………………………………………………………………………………
夜、寝室に並べて敷いた布団。寝てしまった京哉の横で、シエナは物音を立てないようコッソリと先程の手紙の封を開ける。
中には便箋3枚程の手紙。ドイツ語で書かれているのは松川夫妻に万が一の事があった場合を考えての事だろう。宛名や差出人の名前が無いのもその為。
【拝啓 盛夏の候 皆様ご健勝でお過ごしのこととお喜び申し上げます】
書き出しはシエナとの関係がわからないよう、妙によそよそしい。
「……オジサンかなぁ」
ボソッと声が出てしまい、慌てて口を手で塞いで先を読み進めるシエナ。
君が湯河原で生活し始めてから5年も経つのか。早いな。僕は相変わらず、社長にこき使われて窮屈な毎日を送ってるよ。
あの子も5歳なら結構上達してきたんじゃないか?君は生後半年ぐらいで練習始めるとか息巻いてたからさ…。
でも、あまり無理はせずに生活して欲しい。僕達があの子に託した夢は…まぁ、そんな感じだっただろ?楽しくやってもらえば良いんじゃないかなって思う。
オーストリアでの近況、シエナの日本の生活で気掛かりなこと…具体的な固有名詞を使えないからか、中途半端な内容でなんだかもどかしさすら感じる。
託斗からの手紙は嬉しかったが、佳苗が言う程の『大事なこと』が書かれている様には思えないシエナ。
しかし、最後の1枚の便箋を手に取った時、彼女の言葉の意味がわかった。
最後になるけど、君にお願いがある。
そろそろ物事がわかる頃だろうから…あの子に伝えて欲しいんだ。父親は事故で亡くなったんだと。
君たちとの生活を夢見てたけど、多分…難しい。君には迷惑を掛ける。本当にごめん。
僕と繋がりがあるというだけであの子には厳しい未来が待ってる筈なんだ。だから、あの子の将来の為にも…。
でも、僕はちゃんとあの子を愛していたんだっていう想いだけはそれとなく伝えて欲しいな。これは本当の事だから。
【もっともっと、伝えなきゃいけなかったのにね】
託斗が、父親として京哉をどれだけ大切に想っていたのか。シエナはそれを京哉が十分に理解する前にこの世を去ってしまったのだ。
【ごめんね、ちゃんと伝えられなくて】
膝から崩れ落ちた京哉の目からは涙が溢れていた。
これまでずっと、託斗の事をどこか遠くに感じていた。
だから、ミーアの口から自分は彼のクローンだと聞かされた時、妙に納得してしまったのだ。
親では無いのだ、と。
しかし、託斗が京哉に対して距離を置いてきたのは、きっと自分との繋がりが彼を苦しめる事をわかっていたからだった。
楽団の要と呼ばれた男の子ども、呪曲を作る男の子ども。
自分が忌子であったから、その血を継がせてしまった事を酷く憂いていたのだ。
だからこそ、京哉を守る為に距離を取った。
自分はずっと、父親に愛されていたんだ。
そんな事を理解するのに14年も掛かってしまうなんて。
【もう、時間が無いんだ】
壁面に表示された文字が滲む視界に映り込む。
【私が抑え込めるのはここまで】
【じきにまた、たくさん壊し始める】
【次はきっと、最後まで】
次々に切り替わる文字。
【お母さんは、もういないんだよ】
母親はもう死んだのだ。理解した筈だったのに。涙を拭った京哉は、握りしめたフルートを構える。そしてリッププレートから息を吹き込もうとした時、足元のグレーチングがガタガタと波打つように動き出し、京哉をこの空間に引き摺り込んだアームが再び彼を絡め取って突如足元に現れた開口部から外へと投げ捨てた。
[82] Drängend Ⅱ 完
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