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第7話 これが正解。理想の相手よ
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2月中旬。土曜日の夜。
湊が都内の家に帰ってから、数日が過ぎていた。
凛は駅近くの落ち着いたイタリアンレストランにいた。
向かいに座っているのは、マッチングアプリで出会った訪問診療医・後藤宗介だ。
「……へえ、あの施設で疥癬が流行ってるんですか?」
疥癬は、皮膚に寄生するダニによって起こる感染症だ。
肌が接触することで人から人へ感染し、夜間に激烈なかゆみを起こす病気だ。
「そうなんですよ。スタッフの対応が遅れちゃってね。あそこは高齢の入居者が多いから、広まると大変で」
宗介がワイングラスを揺らす。
「皮膚科へのコンサルトも増えそうですね。実際、怪しい人がいた場合はどうするんですか?」
「往診やってる皮膚科の先生に紹介してますね。これがなかなか難しくて、うちのクリニックにも非常勤の皮膚科の先生が来てくれるといいんですけど」
そう話すと、宗介はワインを口にした。
疥癬なんて色気のない医療現場の話だが、凛にとっては心地よかった。
仕事の苦労を共有できる。
専門用語が通じる。
何より、宗介の穏やかな語り口は、疲れた心に染み渡るようだ。
(……感情を振り回されることも、余計な世話を焼く必要もない。やっぱり、大人はいいな……)
落ち着いた照明。
美味しいワイン。
スマートな会話。
(これこそが、私が求めていた「理想のデート」よ)
その時。
テーブルの上に置いていた凛のスマホが、ブルッと短く震えた。
また湊だ。
都内に戻ってからというもの、彼は頻繁にメッセージを送ってくる。
無視すればいいのに、凛はつい画面をタップしてしまった。
『凛ちゃん元気?俺、荷造り進んでるよ』
『早くそっち行きたいなー』
『ダンボールだらけで身動き取れなくなってきた』
メッセージと共に送られてきたのは、部屋の惨状を写した写真だった。
積み上げられたダンボールの山に埋もれるようにして、湊が死んだふりをしている自撮り。
その必死さが妙におかしくて、凛の口元が緩む。
「ふふっ……」
思わず声に出して笑ってしまった直後、ハッとした。
(……って、やば!デート中なのに!)
せっかくのいい雰囲気が台無しだ。
凛は慌ててスマホを伏せ、宗介の方を見た。
「ご、ごめんなさい!ちょっと変な連絡が入ってて……」
しかし、宗介からの返答はない。
不思議に思って顔を上げると。
「……」
宗介もまた、険しい顔で自分のスマホ画面をガン見していた。
何かを考え込むような、ためらうような表情。
それから少しして、彼の口元が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
「あ、あの……宗介先生?」
「えっ!?」
宗介は弾かれたように顔を上げ、スマホを隠した。
「す、すみません。……仕事の方のメールが入ってて、つい」
「あ、いえ……。院長先生だと、土日も関係なく色々な連絡が入りますもんね」
「はは……まあ、そんなところです」
宗介は曖昧に笑ってグラスを傾けた。
(……私がメッセージに夢中だったから、向こうもメールを見始めたのかしら……)
凛は自己嫌悪に陥った。
せっかくのデートなのに、お互いに上の空なんて。
このまま「脈なし」と判断されてもおかしくない。
「……そろそろ、行きましょうか」
「そうですね」
店を出た後、宗介は駅まで送ってくれた。
「今日は楽しかったです。またご飯、行きましょう」
「はい!ぜひ!」
別れ際、宗介は変わらない優しい笑顔を向けてくれた。
*
帰りのタクシーの中で、凛は大きく息を吐いた。
(……ふぅ。緊張したけど、なんとかなったかな)
窓の外を流れる夜景を眺めながら、今日のデートを振り返る。
会話も弾んだし、料理も美味しかった。
ただ、一つだけ気にかかることがある。
それは、宗介がスマホを見ていた時の、あの表情だ。
『仕事の方のメールが入ってて』
そう言って笑っていたけれど。
あの瞬間、彼は私との会話が耳に入らないくらい、画面に食い入っていた。
眉間に皺を寄せ、何かに追い詰められたような、必死な形相で。
(……なんか、私といる時より、スマホを見てる時の方が真剣だったような……)
胸の奥に、チクリと小さな棘が刺さる。
もしかして、私とのデートが退屈で、仕事のトラブルの方が気になっていたんだろうか。
(……いやいや、卑屈になるな私!)
凛は首を横に振った。
(相手は院長先生よ?土日だって緊急の連絡が入るし、責任重大なんだから。スマホくらい気にするわよ)
ネガティブな思考を振り払うように、自分の頬をパンパンと叩く。
(それに、帰り際に「また行きましょう」って言ってくれたじゃない。今のところ、確実にいい感じよ!)
「運転手さん、ここで大丈夫です」
凛は前向きに気持ちを切り替え、タクシーを降りた。
*
同じ頃。
駅からほど近い自宅マンションへと続く夜道を歩きながら、宗介は胃の奥が冷えるのを感じていた。
人気のない道端で足を止め、震える手でもう一度スマホの画面を開く。
そこに表示されているのは、急患の知らせでも、スタッフからのトラブル報告でもない。
件名:近況報告です
『今日は患者さんのご家族にありがとうって言われました!感謝の言葉を直接言ってもらえるのって、凄く嬉しいことですね!』
宗介は返信など、一度もしたことがない。
なのに定期的に送られてくる、一方的な「修行の報告」。
画面の向こうにいる「差出人」の、純粋で、どこまでも重い熱量。
宗介は今日も返信をしようとして、止めた。
宗介はこの熱を受け止めることができず、無言で画面を伏せることしかできなかった。
湊が都内の家に帰ってから、数日が過ぎていた。
凛は駅近くの落ち着いたイタリアンレストランにいた。
向かいに座っているのは、マッチングアプリで出会った訪問診療医・後藤宗介だ。
「……へえ、あの施設で疥癬が流行ってるんですか?」
疥癬は、皮膚に寄生するダニによって起こる感染症だ。
肌が接触することで人から人へ感染し、夜間に激烈なかゆみを起こす病気だ。
「そうなんですよ。スタッフの対応が遅れちゃってね。あそこは高齢の入居者が多いから、広まると大変で」
宗介がワイングラスを揺らす。
「皮膚科へのコンサルトも増えそうですね。実際、怪しい人がいた場合はどうするんですか?」
「往診やってる皮膚科の先生に紹介してますね。これがなかなか難しくて、うちのクリニックにも非常勤の皮膚科の先生が来てくれるといいんですけど」
そう話すと、宗介はワインを口にした。
疥癬なんて色気のない医療現場の話だが、凛にとっては心地よかった。
仕事の苦労を共有できる。
専門用語が通じる。
何より、宗介の穏やかな語り口は、疲れた心に染み渡るようだ。
(……感情を振り回されることも、余計な世話を焼く必要もない。やっぱり、大人はいいな……)
落ち着いた照明。
美味しいワイン。
スマートな会話。
(これこそが、私が求めていた「理想のデート」よ)
その時。
テーブルの上に置いていた凛のスマホが、ブルッと短く震えた。
また湊だ。
都内に戻ってからというもの、彼は頻繁にメッセージを送ってくる。
無視すればいいのに、凛はつい画面をタップしてしまった。
『凛ちゃん元気?俺、荷造り進んでるよ』
『早くそっち行きたいなー』
『ダンボールだらけで身動き取れなくなってきた』
メッセージと共に送られてきたのは、部屋の惨状を写した写真だった。
積み上げられたダンボールの山に埋もれるようにして、湊が死んだふりをしている自撮り。
その必死さが妙におかしくて、凛の口元が緩む。
「ふふっ……」
思わず声に出して笑ってしまった直後、ハッとした。
(……って、やば!デート中なのに!)
せっかくのいい雰囲気が台無しだ。
凛は慌ててスマホを伏せ、宗介の方を見た。
「ご、ごめんなさい!ちょっと変な連絡が入ってて……」
しかし、宗介からの返答はない。
不思議に思って顔を上げると。
「……」
宗介もまた、険しい顔で自分のスマホ画面をガン見していた。
何かを考え込むような、ためらうような表情。
それから少しして、彼の口元が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
「あ、あの……宗介先生?」
「えっ!?」
宗介は弾かれたように顔を上げ、スマホを隠した。
「す、すみません。……仕事の方のメールが入ってて、つい」
「あ、いえ……。院長先生だと、土日も関係なく色々な連絡が入りますもんね」
「はは……まあ、そんなところです」
宗介は曖昧に笑ってグラスを傾けた。
(……私がメッセージに夢中だったから、向こうもメールを見始めたのかしら……)
凛は自己嫌悪に陥った。
せっかくのデートなのに、お互いに上の空なんて。
このまま「脈なし」と判断されてもおかしくない。
「……そろそろ、行きましょうか」
「そうですね」
店を出た後、宗介は駅まで送ってくれた。
「今日は楽しかったです。またご飯、行きましょう」
「はい!ぜひ!」
別れ際、宗介は変わらない優しい笑顔を向けてくれた。
*
帰りのタクシーの中で、凛は大きく息を吐いた。
(……ふぅ。緊張したけど、なんとかなったかな)
窓の外を流れる夜景を眺めながら、今日のデートを振り返る。
会話も弾んだし、料理も美味しかった。
ただ、一つだけ気にかかることがある。
それは、宗介がスマホを見ていた時の、あの表情だ。
『仕事の方のメールが入ってて』
そう言って笑っていたけれど。
あの瞬間、彼は私との会話が耳に入らないくらい、画面に食い入っていた。
眉間に皺を寄せ、何かに追い詰められたような、必死な形相で。
(……なんか、私といる時より、スマホを見てる時の方が真剣だったような……)
胸の奥に、チクリと小さな棘が刺さる。
もしかして、私とのデートが退屈で、仕事のトラブルの方が気になっていたんだろうか。
(……いやいや、卑屈になるな私!)
凛は首を横に振った。
(相手は院長先生よ?土日だって緊急の連絡が入るし、責任重大なんだから。スマホくらい気にするわよ)
ネガティブな思考を振り払うように、自分の頬をパンパンと叩く。
(それに、帰り際に「また行きましょう」って言ってくれたじゃない。今のところ、確実にいい感じよ!)
「運転手さん、ここで大丈夫です」
凛は前向きに気持ちを切り替え、タクシーを降りた。
*
同じ頃。
駅からほど近い自宅マンションへと続く夜道を歩きながら、宗介は胃の奥が冷えるのを感じていた。
人気のない道端で足を止め、震える手でもう一度スマホの画面を開く。
そこに表示されているのは、急患の知らせでも、スタッフからのトラブル報告でもない。
件名:近況報告です
『今日は患者さんのご家族にありがとうって言われました!感謝の言葉を直接言ってもらえるのって、凄く嬉しいことですね!』
宗介は返信など、一度もしたことがない。
なのに定期的に送られてくる、一方的な「修行の報告」。
画面の向こうにいる「差出人」の、純粋で、どこまでも重い熱量。
宗介は今日も返信をしようとして、止めた。
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