『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第四章 残暑の告白と、共犯者たちの宴

第32話 手放したお守りと、届かなかった約束

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夜。病院の職員用駐車場。

車の中で、俺ーー五十嵐拓海は深く息を吐いた。

目を閉じると、9年前の記憶が蘇る。

あの頃の俺にとって、天野皐月は「光」だった。 



11年前。高校1年の春。父が死んだ。
現場仕事での事故だった。

『拓海は頭がいいんだから、医者にでもなって楽に暮らせ』

笑いながら言っていた口癖が、遺言になった。

葬式の翌日、俺は母に言った。

「俺、サッカー部辞めるよ。バイトして家計助けるから」

母は泣きながら俺を怒った。

「そんなこと言わないで!お金の心配なんてしなくていい。拓海は、やりたいことを諦めないで!」

母の悲痛な叫びに、俺は何も言えなくなった。

結局、俺はサッカー部を続け、母は朝から晩までパートを掛け持ちすることになった。



高校3年の4月。

昼休みの職員室。
教師に質問を終えた俺の背中に、声がかかった。

「同じクラスの五十嵐くんだよね?」 

振り返ると、そこには天野皐月がいた。

明るい茶色の瞳。屈託のない笑顔。
俺とは住む世界が違うような、キラキラした女子。

「五十嵐くんも、医学部志望なの?」

彼女は俺の手元にある赤本を見て、目を輝かせた。

「……ああ」

俺は短く答えた。 医者になる。
それは父の遺言であり、貧困から抜け出すための唯一の手段だった。

 「私もなの!一緒だね!」 

彼女は嬉しそうに笑った。

その笑顔が、俺の高校生活を変えることになるとは、まだ思ってもいなかった。



それからの日々は、まるで夢のようだった。

放課後の図書室。
窓から差し込む西日と、ページを捲る音。

 「ここ、計算間違ってる。基礎だろ」

俺が指摘すると、彼女は「あーもう! うるさいなぁ」と頬を膨らませる。

その顔を見るだけで、家での重苦しい空気が嘘のように晴れた。

この時間だけが、俺を「貧乏な家の長男」ではなく、「普通の男子高校生」にしてくれる気がした。



「あ、塾の時間だ!行かなきゃ」

夕方になると、彼女は慌ただしく鞄を持って立ち上がる。

「五十嵐は塾行かないの?」

何気ない問いかけ。
悪気なんて欠片もないことは分かっていた。

「俺はいい。独学でやる」

「まあ五十嵐なら余裕かぁ。さすがだね!」

彼女は無邪気に笑って手を振り、去っていった。

塾なんて行けるわけがない。

俺がここを出た後向かうのは、予備校ではなく、未海と海斗の待つ保育園だ。

俺は息を切らして、家へ向かって走る。
そして、家に置いてあるママチャリに乗り、保育園まで爆走する。

本当は、学校から自転車に乗って行く方が速い。
だが、ママチャリに乗っているところなんて、高校の奴らには絶対に見られたくない。

保育園に着くと、周囲の保護者たちがヒソヒソと噂話をしているのが聞こえる。

「ほら、あの子よ。毎日制服で迎えに来るお兄ちゃん」

「親御さんは何してるのかしらねぇ」

俺は聞こえないふりをして、2歳の双子を自転車に乗せて帰る。

家に帰り、テレビを見せている間に夕飯を作る。

ガチャリ、と玄関が開く音がした。

「ただいま……」

母が、泥のように疲れた顔で帰ってくる。
平日も休日も、朝から晩まで働き詰めの毎日。

「母さん、おかえり。飯できてるぞ」

「ありがとう、拓海……ごめんねぇ」 

母の申し訳なさそうな顔を見るのが辛かった。

「いいって。大学行ったらバイトするから、少しは仕事減らせよ」

そう言って笑ってみせるのが精一杯だった。

成績は学年トップクラスだった。
しかし先日、担任は悔しそうに頭を下げた。

『すまん、五十嵐……。お前の家の事情は痛いほど分かってる。成績も申し分ない。だが……推薦規定の出席日数が足りないんだ』

保育園からの呼び出しによる早退。
双子の発熱による欠席。

家族を守るための時間は、学校の評価においては「自己管理不足」という数字でしかなかった。

『……分かってます。先生』

先生を責めるわけにはいかない。

推薦という安全な道は、俺には閉ざされている。

絶対に、一般入試の一発勝負で、現役で国立に入らなければならない。

俺が大学生になって、バイトをして、母さんを少しでも楽にさせるんだ。

失敗は許されない。
そのプレッシャーが、鉛のように重くのしかかっていた。



秋。
天野が学校で機嫌良さそうにしていた。

「何かいいことあったのか?」

「うん!この間、国立大学の学祭に行ったんだけど、そこで会った医大生のお兄さんから、『君のような人が、医者になるべきだ』って言ってもらえたの!私、絶対に国立大学に入りたい!」

俺は眩しくて目を細めた。

その日の放課後。
俺たちは学校裏の神社へ行った。

俺は絵馬とお守りを1つずつ買わされた。

並んで手を合わせる。

横顔を見ながら、俺は勇気を出して言った。

「……なあ、天野。俺たち、二人でこの大学に入って、医者になろうな」

それは、精一杯の「未来の約束」だった。

彼女は嬉しそうに頷いた。

あの時の俺は本気で信じていた。

苦しくても、辛くても、この先には彼女との未来があるのだと。



そして迎えたセンター試験。
自己採点の結果は、9割を超えていた。

この点数なら、二次試験で大失敗しなければ合格圏内だ。
大丈夫だ。いける。

ーーその安堵が、俺の中にわずかな隙を作っていたのかもしれない。

迎えた前期試験の当日。

試験開始直前の張り詰めた教室で、隣の席の天野が、筆箱を床にぶちまけた。

顔面蒼白で、震える手で筆箱を拾っている。

俺は拾うのを手伝った。

 「……大丈夫か」 

小声で聞くと、彼女は泣きそうな顔を向けた。

「ど、どうしよう……緊張して、手が震えて……頭真っ白で……」

センター試験での失敗を引きずっているのか、彼女はパニック寸前だった。

俺はため息をついて、自分の筆箱を開けた。

一本の鉛筆を取り出す。

五角形の、『合格祈願』と金文字で刻まれた鉛筆。

センター試験の日。母が「これ、パート先の人に貰ったの。ご利益あるんだって」と、照れくさそうに渡してくれたもの。

俺にとって、唯一の神頼みであり、母の想いが詰まった「お守り」だった。

本来なら、自分で使うべきものだ。

でも、今の俺には「センター9割」という貯金がある。余裕がある。

だから。

「……ほら」 

俺はそれを、天野に渡した。

「え、でも……これ、五十嵐の……」

「俺はいい。……絶対受かるから。お前も頑張れ」

一緒に合格したい。その気持ちに嘘はなかった。

けれど、その底には「俺は大丈夫だ」という、傲慢な慢心があったのだ。

「……ありがとう……!」 

彼女は泣きそうな顔で、その鉛筆をギュッと握りしめた。

俺は、これでいいと思った。これで二人で合格できると。

ーーそんな甘い考えが、通用する世界じゃなかったんだ。



英語の試験が始まった。 

問題用紙を開いた瞬間、俺はめまいがした。 
ーー傾向が、まるで違う。 

過去問で対策してきた形式が、ガラリと変わっていた。 

冷や汗が背中を伝う。指先が震える。

(……大丈夫だ、落ち着け。俺にはセンターの貯金がある)

自分に言い聞かせ、シャーペンを握る手に力を込める。

だが、視界の端で、天野が俺の鉛筆を使ってカリカリと解答しているのが見えた瞬間、心の中に黒い不安がよぎった。

お守り。
母さんがくれた運を、手放してしまった。

一度生まれた疑念は、焦りと共に膨れ上がり、思考を白く塗りつぶしていった。

英文が頭に入ってこない。時間だけが過ぎていく。

パニックの中で、俺の前期試験は終わった。



結果発表の日。

掲示板の前で、俺たちは言葉を失っていた。

番号が、ない。二人とも、落ちていた。

血の気が引いていく音だけが聞こえた。

その時、どす黒い感情が、理不尽に湧き上がってきた。

――あの鉛筆だ。 

試験の直前、俺が天野に渡した「合格祈願」の鉛筆。
母さんがくれた大切なお守り。
あれを手放したからだ。

あいつに貸したせいで、俺の運気が逃げてしまったんだ。

最低な八つ当たりだ。
自分の実力不足を、親切のせいにするなんて。

でも、そう思わなければ、足元から崩れ落ちてしまいそうだった。



鉛のように重い足取りで向かった公園。
俺はベンチに座り込み、動けなくなっていた。

慰めようとする天野の言葉が、鋭利な刃物となって俺を切り裂いた。

 『来年だって、その次だって、何回受けたっていいんだし』 

来年?その次?そんなもの、俺にはない。

彼女には、滑り止めがある。金もある。
予備校に通う選択肢もある。

でも、俺には何もない。

後期は募集定員が少ない。
倍率が高い。ほとんどの人が落ちる。

センター試験の自己採点はよかったのに。
マークがズレていた?
二次試験の出来が悪かった?

いや、違う。

俺が「お守り」を手放したからだ。

お前が、俺の運を奪ったんだ。

「……いいよな、お前は」

自分でも驚くほど冷たい声が出た。

「家に金があるやつは余裕があっていいよな!俺には私立なんて受けられねぇんだよ!浪人もできない、後がねぇんだよ!」

叫んだ瞬間、彼女の顔が凍りついた。

違う。
そんな顔をさせたいわけじゃない。

でも、止まらなかった。

「お前とは違うんだ!」

叫んだ瞬間、喉が引きつった。
言ってはいけない言葉だと、頭では分かっていた。

彼女は泣きながら走り去っていった。

追いかけなきゃいけない。
謝らなきゃいけない。

そう思うのに、足がすくんで動かなかった。

俺は一人、公園に取り残された。

最低だ。

『大切な人を助けたい』と勝手に貸した鉛筆のせいにし、一番傷つけたくない相手に、自分のコンプレックスをぶつけてしまった。

俺たちの「普通の高校生」ごっこは、ここで終わったのだ。



後期試験結果発表の日。
掲示板に俺の番号があった。

受かった。信じられなかった。
担任に電話したら泣いて喜んでくれた。

センター試験の貯金と、崖っぷちの執念が、首の皮一枚で俺を救ったのだ。

ふと、周囲を見渡す。天野の姿はなかった。

あいつは……どうなったんだ?

連絡する勇気なんてなかった。
あんな酷いことを言った俺に、合わせる顔なんてない。

でも……。

俺は約束を思い出した。

『受かったら、またここに報告に来ねぇか?』

俺は神社へ走った。 息を切らして境内に着く。

夕暮れの風が吹く中、そこには誰もいなかった。

俺は待った。

日が暮れて、星が見え始めても、彼女は現れなかった。

……そうか。 彼女は落ちたのか。

それとも、もう俺との約束なんて忘れてしまったのか。 

俺は一人で手を合わせ、静かに帰った。



4月。大学の入学式。 
俺は人混みの中で、無意識に彼女を探していた。

いない。

『絶対に国立大学に入りたい』
『何回受けたって』 

彼女の言葉を思い出す。

きっと、浪人して頑張っているんだ。
来年、また会えるかもしれない。

しかし、大学2年の春も、その次の春も、彼女が現れることはなかった。

スマホに残った『天野』の連絡先。

指をかけるたび、あの日の自分の怒鳴り声が蘇り、通話ボタンを押すことができなかった。

そうして何年も過ぎた。

俺は医師になり、日々の忙しさに追われ、あの日の記憶を「若気の至り」として心の奥底に封印していた。

まさか、彼女が俺の目の前に現れる日がなんて、夢にも思っていなかった。

――あの頃よりもずっと強く、そして美しい医師として。
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