『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第五章 秋風のロジックと、古びた記憶の鍵

第39話 省エネの竜巻と、仕組まれるステージ

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10月上旬。

衣替えの季節を迎え、病院内を行き交うスタッフの制服も、心なしか厚手のものに変わっていた。

今日、皮膚科医局に新しい研修医がやってきた。

「……おはようございます。初期研修医2年目の新巻 竜平あらまき りゅうへいです」

朝のカンファレンス。

気怠げに挨拶をしたのは、切れ長の目をした、背の高い好青年だった。

寝癖なのかセットなのか判別がつかない無造作な髪に、少し着崩した白衣。

美雲が「よろしくね、新巻くん!」と明るく迎えても、彼は「はい」と短く返すだけで、表情筋が死滅しているのかと思うほど無愛想だ。

指導係に指名された皐月は、早速彼を連れて病棟へ向かった。

「えっと、新巻くんは皮膚科志望ではないんだよね?」

「はい。麻酔科志望です」

即答だった。
迷いのないその返答に、皐月は苦笑いするしかない。

「そ、そっか。でも皮膚科の知識も少しは全身管理には役立つから……」

「適当に単位取れればいいんで。あんま熱血指導とかいらないっす」

新巻は欠伸を噛み殺しながら、悪びれもせず言った。

「定時で帰りたいんで、効率重視でお願いします」

(……す、すごい子が来た)

皐月は冷や汗をかいた。

前任の晴瑠には「計算高い愛想の良さ」があったが、彼は「計算高い無愛想」だ。

コミュニケーションの難易度が、また違うベクトルで高い。

しかし、その「やる気のない研修医」という評価は、数時間後に覆されることになった。 

処置室でのことだ。

「新巻くん、この患者さんのガーゼ交換お願いできる?」

「了解す」

彼は面倒くさそうに返事をしたが、手袋をつけた瞬間、その手つきが変わった。

古くなったガーゼを剥がす際の、皮膚への愛護的な操作。洗浄の丁寧さ。
そして、新しいガーゼを固定するテープの無駄のない貼り方。

「……すごい。器用だね」

「プラモデル作るの好きなんで」

彼は淡々と答え、カルテに向かった。 

その記載も簡潔にして完璧。
必要な情報がSOAP形式で美しく整理されている。 

「無駄が嫌い」という言葉通り、彼は仕事においても徹底的に無駄を省き、最短距離で正解を叩き出していたのだ。



その頃。形成外科医局。
こちらも新体制が始まっていた。

「研修医の立花晴瑠です。今日から3ヶ月間、よろしくお願いします!」

晴瑠は、強張る頬を必死に上げて笑顔を作った。

目の前には、形成外科の医師たちが並んでいる。

優しそうな和泉桐也先生。

それと対照的にーー私を振った五十嵐先輩と、私の秘密を握って脅してきた雷久保先生。

晴瑠にとって、ここは処刑場にも等しい場所だった。

「へぇ、五十嵐の後輩なんだっけ。指導よろしく」

桐也がにこやかに言うと、指名された五十嵐が前に出た。

「わかりました。……行こうか、立花」

五十嵐の声は、以前と変わらず低く、落ち着いていた。

晴瑠は「はい」と答え、彼について歩き出す。

心臓が痛いほど脈打っている。 

彼女は昨夜、一睡もできなかった。

五十嵐にどんな顔をして会えばいいのか。
雷久保に何を言われるのか。

晴瑠は不安で押しつぶされそうだった。

中央手術室の更衣室前で、五十嵐が足を止め、振り返った。

「……立花」

「は、はいっ!」

身構える晴瑠の顔を、五十嵐がじっと覗き込んだ。

「顔色、悪くないか?目の下にクマができてるぞ」

「え……」

「昨日、寝てないのか?」

図星だった。

晴瑠が言葉に詰まると、五十嵐は困ったように眉を下げた。

「無理して手術入らなくていいから、医局で休んでてもいいぞ。最初のうちは見学だけでも疲れるだろうし」

その言葉に、晴瑠の胸がズキリと痛んだ。

優しい。とても優しい。
……振られる前よりずっと。

けれどそれは、出来の悪い妹を心配するような、完全に「異性として見ていない」優しさだった。

「……大丈夫です。行けます」

「そうか?倒れるなよ」

五十嵐はポンと晴瑠の肩を叩くと、さっさと更衣室へ入っていった。

残された晴瑠は、胸の苦しさに服の上から心臓を押さえた。

冷たくされるより、この「兄のような優しさ」の方が、今の晴瑠には残酷だった。

先日、雷久保に言われた言葉が脳裏に蘇る。

『毎日、朝から晩まで五十嵐と一緒に働けるんだよ?オペに入って、病棟回って、一緒に飲み会して。……むしろ、ここからが本番じゃない?』

『一度振られたくらいで諦めるの?近くにいれば、情だって湧くかもしれない。逆転のチャンスなんて、いくらでも転がってるのに』

『このまま引き下がったら、ただの『いい人』で終わっちゃうよ?』

分かってる。あの人の言葉は毒だ。
私を煽って、面白がっているだけだってことくらい、頭では理解している。

でも……。

晴瑠は唇を強く噛み締めた。

(諦めなきゃいけない。もう、答えは出ているんだから)

これ以上傷つく前に、ただの後輩に戻るべきだ。

それが一番賢くて、一番正しい選択だと分かっている。

けれど、7年だ。
大学1年生から追いかけ続け、私の青春のすべてを捧げてきた恋心。
それはあまりにも深く根を張っていて、そう簡単に引き抜くことなんてできない。

(……優しくしないでよ)

先ほどの、肩に残る掌の温もり。
心配そうに覗き込んでくれた瞳。

その無自覚な優しさが、あきらめようとする心に水をやり、枯れかけた希望を無理やり生かそうとする。

『近くにいれば、情だって湧くかもしれない』

悪魔の囁きが、またリフレインする。

もし、本当にそんな奇跡があるなら。
毎日顔を合わせ、同じ時間を過ごすことで、あの強固な「妹ポジション」を壊せる日が来るのなら。

(……私、まだ期待してるの?)

あんなにハッキリ振られたのに。
皐月先生には敵わないと、思い知らされたはずなのに。

「形成外科ローテート」という逃げ場のない環境が、雷久保の言葉が、晴瑠に残酷な夢を見させ続ける。



夕方。17時ジャスト。

皮膚科医局では、新巻がパソコンをパタンと閉じ、立ち上がった。

「お疲れ様でした」

「えっ、もう帰るの? まだ振り返りが……」

「業務時間終了ですよね? 振り返りとか精神論なんで結構です。エビデンスないし」

彼は鞄を掴むと、あっという間に医局を出て行ってしまった。

残された皐月は、ポカンと口を開けるしかなかった。

隣の席で、雪村が「……悪くない」とボソリと呟いた。

「え?」

「感情論で動かない分、扱いやすい。……前任のうるさい女よりはマシだ」

どうやら、この省エネモンスターは、合理主義の雪村のお眼鏡には適ったらしい。

皐月は深いため息をついた。この子と、これから3ヶ月やっていけるのだろうか。



夜。
更衣室へと続く職員用通路を、美雲と桐也が並んで歩いていた。

二人は仕事終わりのタイミングが合い、一緒に帰るところだった。

「ねえ桐也くん。そっちの歓迎会、いつになりそう?」

「うーん、みんな忙しいから調整が難しくてね。今のところ、来週の木曜日の夜になりそうかな」

桐也の言葉に、美雲がパッと顔を上げた。

「えっ、本当!?奇遇だね!うちも新巻くんの歓迎会、来週の木曜になりそうなんだよ!」 

「マジで?すごい偶然だね」

二人が顔を見合わせて笑い合っていると、背後から陽気な声がかかった。

「おやおや。それは運命的な偶然だねぇ」

振り返ると、白衣を肩にかけた雷久保が立っていた。

「あ、雷久保先生。お疲れ様です」

「お疲れー。今の話、聞こえちゃったんだけどさ」

雷久保は二人の間に割って入り、声を潜めてニヤリと笑った。

「日程が同じならさ、いっそのこと形成外科と皮膚科、合同でやろうぜ」

「え?合同ですか?」

「そう。晴瑠ちゃんもこの間まで皮膚科にいたし、知ってる顔がいた方が楽しいだろ?」

もっともらしい理由だが、その瞳は悪戯を思いついた子供のように輝いている。

「ただし……当日まで本人たちには内緒な」

「えっ、内緒?」

美雲が目を丸くする。

「そう、サプライズだよ。皐月ちゃんたちには『皮膚科の飲み会』、五十嵐たちには『形成の飲み会』って伝えておいて、店に行ったら鉢合わせ……ってわけ。面白そうだろ?」

雷久保は、楽しそうに喉を鳴らした。

気まずい関係の人間を一堂に会させ、化学反応を楽しむ。
彼らしい悪趣味な演出だ。

「ええー……大丈夫かなぁ」

「いいじゃんいいじゃん。盛り上がるって!」

渋る美雲たちに、雷久保はトドメのキラーフレーズを放った。

「金は俺と潤一が持つからさ!A5ランクの焼肉、食わせてやるよ」

美雲と桐也が顔を見合わせる。

スポンサー付きの焼肉。
しかもA5ランク。……抗えるはずがなかった。

「……わかりました。サプライズ、やりましょう」

美雲が覚悟を決めて頷くと、雷久保は「交渉成立!」と指を鳴らした。

窓の外では、日が落ちて夜の帳が下りようとしている。

何も知らない皐月や晴瑠、そして五十嵐たちを巻き込んで、秋の夜長にふさわしいカオスな宴の準備が、水面下で整いつつあった。
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