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◆モノクロームと砂糖とミルクと◆

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 翌月の辞令で正式に異動となり、旭は予想通りの忙しさに追われた。以前からちょこちょこと顔を出していたものの、一から新しい仕事を覚えなきゃいけないとなると骨の折れる思いがする。
 忠犬のようについてきていた河原とも、新商品チームの打ち合わせ会議以外ではほとんど顔を合わせなくなっていて、それがなんだか寂しく思った。
 煙草を吸わない河原を何度も喫煙所に呼び出すのも不自然だし、昼メシでも誘おうかと営業部を覗けば、時間関係なく慌ただしく外に飛び出して行く姿を何度も見かけた。今日も誘えずに営業部のオフィスから一人で引き返している。
「よ!」
「西条先輩」
「ちょっと付き合えよ」
 会社近くの食堂に入り、生姜焼き定食を頬張りながら「最近どうよ」と西条が尋ねた。旭は正直に「毎日大変です」と答えた。西条は豪快に口を開けて笑う。周りの目が一瞬そこに向けられて、旭は慌てて「先輩!」といさめた。
 入社してすぐの頃もいつもこんな感じだったなと、ふと懐かしくなる。何かあればこんなふうに先輩が愚痴を聞いてくれていた。
「・・河原はなんで俺のこと慕ってくれるんでしょうか」
 西条はぐいっと水を飲み込むと、うーんと視線を上に向けて考え込んだ。
「俺はよく知らんけど、でも世話になったって聞いたぞ」
 世話になったと言っても、話しかけてきていたのは専ら河原の方から。飲みに行って愚痴を聞いたりはしていたけれど、西条のように上手く励ましたりなんか出来なかった。
 昼休憩から戻る前に喫煙ルームに寄った。三本目の煙草に火をつけながらため息をつく。どんなにニコチンを体内に摂取しても、すっきりしないことに苛立ちが募った。
 ブルブルとポケットのスマートフォンが振動して、そろそろ戻らなければと火を消した。そういえば、今週末に見に行く予定の港町の下調べもまだ出来ていない。
「飯田さん!」
 その声に沈んだ表情のまま顔を上げると、河原がこちらに駆け寄ってきた。途端に顔がほころぶ気配がして、旭は頬をぱちんと叩いた。相変わらず疲れ知らずな笑顔に癒される。
「どうした?」
「今日飲み行きましょう!終わったら迎え行きますから帰らないで下さいね!」
 あまりにも唐突な誘いでとしてしまう。その様子に河原はハッとして頭をかいた。
「すみません、突然過ぎました。飯田さん、たまに昼メシ誘いに来てくれてましたよね。ずっと忙しくて行けなくて申し訳ないって思ってたんです。今日は早く終われそうなので、夜どうですか?」
「そうゆうことか」
 久しぶりのこの感じに、ふっと最近の嫌な緊張感が解けていく気がした。どうしてもゆるんでしまう顔を隠したくて後ろを向いた。「わかったよ」と手をあげて返事をして、足早にその場から離れる。
 角に隠れて「はぁ」と息をつく。旭は眉間をおさえた。この胸をぎゅっと掴まれるような感覚に覚えがある。
「・・いや、駄目だ」
 すごく疲れているせいだ、きっとそのせい、旭はそう言い聞かせて仕事に戻った。
 
 旭は腕時計を見た、もうすでに二十時を回っている。
「うわっ!」
 ぐったりとデスクにもたれかかった瞬間に冷たい缶コーヒーが頬に触れた。びっくりして身体を起こすと、河原が汗びっしょりで立っていた。
「すみません、お待たせしました」
「そんな待ってないよ。俺も今の今までしばかれてたところだから」
「飯田さんでもしばかれることあるんですね」
「そりゃ、あるよ」
 急いで来てくれたんだろうか、息があがっている。自分よりも遥かに疲れる仕事をこなしてきて、それでもそれを表に見せないで明るく振る舞う河原に、単純に凄いと思う尊敬の念と、自分のためにしてくれて嬉しいという気持ちが混ざり合って込み上げた。
 居た堪れずにスマートフォンを取り出し、飲み屋の検索ページを開く。いつもの所でいいかと河原に尋ねると、なぜか黙って旭を見つめていた。
「今日うちに来ませんか?」
「・・え?」
 思わず聞き返した。
 真面目な顔をして河原はとんでもないことを言う。今更、別に変な意味じゃないのはわかっているが、「どきん」と大きく心臓が跳ねる。
「俺こう見えて実は料理得意なんです。飯田さん疲れてるみたいだし、家だと周りを気にせずに思いっきり酔えますしね。」
 緊張する旭をよそに河原はニコニコと営業トークをかましてくる。痛いところをつかれるし、男同士で断るのも逆に変なのかもしれないと、旭は迷った末に「いいよ」と返事を返した。
「お邪魔します」
「適当に座って寛いでて下さい」
 河原は家に着くと早々にキッチンに向かっていった。トントントンとリズミカルに野菜を切る音がキッチンから聞こえる。
 案外、本格的な料理の香りに出来上がりを期待した。旭はエプロン姿の河原が楽しそうに鍋に材料を並べているのを眺めて待った。
「冷蔵庫にさっき買ったビール入ってるんで良かったら先飲んでて下さい」
「ああ、ありがとう」
 缶ビールを取り出し一気に煽った、シュワシュワと爽やかな炭酸が程よく喉を刺激する。
「大丈夫ですか?」
「え、何が?」
「眉間」
 河原は出来上がった料理をテーブルに並べて、眉間の間をトントンと指で叩いた。
「ずっとシワ寄ってますよ。ここ最近ずっと辛そうな顔してます」
 旭は押し黙る。それ以上口を開かない様子を見て、河原は一呼吸置いて話題を変えた。
「食べましょうか。疲れた身体に優しいように鍋にしました」
 河原は几帳面にバランス良く具材を取り分けて器によそう。「どうぞ」と渡された器から出汁の良い香りが湯気と共に鼻を抜けた。とても美味そうだ。
「いただきます」
 まずは一口、出汁のスープを啜る。ほっこりと優しい味が旭の胃袋を温めてくれる。夢中で具材を箸で掴み口に放り込む、一つ一つの具材にしっかりと味が染み込んで、歯ですり潰すたびにじわっと溢れ出してくる。野菜、豆腐、肉、魚、スープ、空っぽになった器をテーブルに戻して、ビールをぐいっと飲みこんだ。
「最高だ、美味い」
「良かったです」
 河原は満足げに笑みを浮かべ、器を再び手に取った。新しく満たされたものを旭の前に置いてから、姿勢を正して向き直った。
「俺、自分がしんどい時にずっと飯田さんに助けてもらってましたから、飯田さんが辛い時には力になりたいです。愚痴でも何でも話聞きますから頼って下さい」
 河原の言葉は素直に嬉しかった。
 でも自分が抱えている問題はきっと河原とは共有できない。千歳の事、仕事の事、全て曝け出したところで解決するわけでもないし、正直言うと反応が怖かった。それでも自分の知らないところで、誰かのためになっていたという事実が、なんだかこそばゆくて照れ臭く思えた。
 旭は少し考えて「ありがとう」とだけ伝えた。河原は何か言いたげにしばらく見つめていたが、旭が顔を上げないと分かると、それ以上は何も言わなかった。
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