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—誕生—
しおりを挟む禁忌を犯したキッカの眼前に神が立っていた。
神——アンデギヌスはひどく激昂し、憤然と鼻を鳴らしている。
儀式開始を三日過ぎて、四日目に突入していた決闘に勝利したのは兄のキッカだった。
闘いが長引いたのは二人が示し合わせた結果ではなかったが、どちらからともなく息を合わせていた。その理由は、共に過ごせる期限を引き延ばしたかったために他ならなかった。
四日目の夕陽が沈むころに、弟の心臓の真横に剣を突き立てて、延命ぎりぎりの傷を負わせたキッカの視界は涙で溺れたようだった。血を吐いた弟の顔は、赤く染まってしまった涙の海で見えなくなっていた。
だが残酷にも決闘を終わらせたキッカはすぐにメッカから引き剥がされ、その場で儀式の続行を促された。キッカは言われたように祈りの言葉を口にして、弟を刺した剣を首に当てる。
神に捧げられる魂は人間の手によって汚されてはならないとされるゆえに、自らで命を断つのが望ましい。——というのが、馬鹿みたいな決まりだった。笑ってしまいたいほどに。
実際、キッカは笑っていた。
大声で、大空に響くように声を上げて、死んだ。
ご先祖たちに言わせれば、神のもとに魂が還ったのだ。
首を切り裂いたキッカは意識を一瞬手放し、頭の中で雷が轟いたかの音を聴いて覚醒した。
ぱちんと瞼が開いた最も初めに自分の足元が目に入り、しっかりと二本の足で直立しているさまに絶句する。
(死んでない? 生きてる? まさか儀式が失敗したのか?)
かなり勢いよくざっくりいったはずなので、生きているはずもない。自決未遂を怪しんだが、ありえない。よく考えると血も出ていないし、闘ったときに負った傷も消えていた。
———おかしい。
想像を絶する違和感に思考を巡らせるキッカは、頭を押さえながら顔を上げて、目を瞠った。
考えていたことが一瞬で吹き飛んでしまった。
しかし、疑問がすべて解決したといってもいいかもしれない。
山羊の頭に人間の身体を持ったアンデギヌスは実在したのだ。
神は何もない空間にひっそりと佇んでいた。キッカは改めて周囲に目を走らせてみた。床や地と呼べるものがないのに、キッカは今いる場所に立っていた。浮いているのとも違い、確実に足を踏ん張って立っている感覚がある。
強いて例えるなら、いつも地上から見上げていた空の雲のなかに乗っているみたいな景色だろうか。
神は先ほどから静かだ。周囲と一体化したようにまったくの無であり、空気同様に害意はなさそうに見える。はたして意思疎通は可能なのかと、キッカが足を踏み出そうとした途端、まるで動作を予知したかのごとく、神が生命機能を取り戻したかに思えた。
「来たか」
神の声がキッカの耳に聴こえた。
だが神は、またしてもキッカから勝手に情報を感知し、「ううん?」と低く唸った。
「お前はなぜ来た」
そんなことを問われても困る。憤りすら感じる愚問だ。
キッカは目の前にいる人智を超えた生命体に恐怖するよりも憎悪が走り、悪態をついた。
「あんたに捧げられたからだろう」
「嘘をつくな」
「嘘ではない! 大事な兄弟と殺し合いまでさせられたんだぞ」
「・・・・・・」
黙り込んだ神に、キッカは間髪入れずに次の罵声を浴びせようとするが、はっとして口を慎しむ。
植物と見紛うほどに穏やかな気配だった神が怒っている。
眠っていた火山が大噴火を起こしたようだ。
「ぐっ」
キッカはよろけて、あとずさった。それだけの威圧感を感じていた。
「神に逆さおうとは良い度胸であるな」
ずしんと、腹に拳をぶちこまれたみたいな重圧の声。
自身と弟に科せられた運命を怨み、あらゆることを頭から排除してしまっていた。しかし今この瞬間に、強制的に脳内に呼び起こされた現実。
平然と突きつけられたそれを、キッカは考えなければならない。
ネメトの人々がひたすら信じ続けてきたアンデギヌスなる恵みの神が実在していたとするなら、双子の片われが神の魂の半身であるという伝承は真実で、『ふたご』として儀式を行なったキッカとメッカはこれに準ずるだろう・・・。間違いなく。
今以上にキッカがいくら馬鹿馬鹿しいと思おうとも、避けられない。逃げられない運命の上に二人は立ってしまったのだ。
「何者にも汚されず、何者よりも神聖であるはずのお前たちの肉体がそうではないのはなぜだ?」
「・・・・・・っ」
「神の教えに背いたのだな?」
キッカは何ひとつ言い返せず、ひやりと冷や汗が背を伝うままに立ちすくんだ。
二人が犯した甚大な過ち。されど、訂正するのも耐えがたい。メッカと交わした愛を、過ちなどと思いたくはなかった。けれども二人が定めに反したことで、明確に変わってしまうことがある。
「せいぜい己れらの愚かさを噛み締めるんだな。お前たちのせいでネメトは滅ぶ」
神から放たれた残酷すぎる通告にキッカは叫んだ。
「俺と神はもうひとつになれないのか?」
「そうだ。お前はすでに別の者と交わってしまった。そして私は半身を失ったことになる。力を蓄えるのに、およそ百年は眠る必要ができたのだ。私が力を行使できなくなれば、神の力に頼って生きていたネメトの民は一人残らず苦しんだ末に死に絶えてゆくだろう」
「そんな・・・・・・」
キッカは驚愕のあまり膝をついて、茫然自失に陥っていた。瞼の裏に弟キッカの顔が浮かぶ。これまでの王が決闘後の絶命寸前の深い傷から持ち堪えてこられたのは、神の力のおかげだったのだと考えられるだろう。それが与えられなければ、キッカは一日を待たずして死を迎える。その後はここではなく、違う場所へ逝くのだ。
そして、キッカの死後、ネメトは安寧に見放されこの世から消える。
「ならば俺はどうなる?」
「どうにもならない、儀式によってお前の中に生まれた私の半身の力はお前の中にあり続ける。まことに不本意ではあるが、お前の半分は神と同等の存在に昇華した」
「これからどうすれば」
「自分でどうにかしろ。言っておくが半人前のお前には滅びに向かうネメトの運命を変えることはできぬぞ。それと、ひとつ忠告しておく、神には地上の生物における生と死の概念は当てはまらない。お前はこれから永遠に終わらない孤独を味わうといい、たっぷりと・・・・・・」
「たっぷりと、なんだよ」
そう問いかけたとき、不意に、空間を包み込んでいた重圧が薄まった。
「もう、滅亡が始まったようだ」
悲しみも、憂う気もない単調な口調だった。
代わりにキッカが怒りに身を任せたくなる。けれど、唐突に頭に流れ込んできた視覚とも聴覚ともつかぬやたらとリアルな惨劇の像を感じ取り、思いとどまった。
「お前のしたことを見届けよ」
キッカは神を凝視する。
「これは現実か?」
「さよう、今まさに下の世界で起こっている出来事よ」
「あ・・・・・・うそだ、メッカ・・・・・・ぁ」
キッカの脳裏に再び弟の愛らしい顔が映る。共に過ごし、笑っていたころの思い出と差し替えられるように、長いまつ毛に縁取られた瞼を閉じ、死の眠りについた姿を見せつけられた。王の衣装で着飾られたメッカが横たえられていたのはネメトの神殿。奥歯を食い締め苦悶に耐えるキッカに容赦なく、神殿は崩れ落ち、メッカの亡骸の上に瓦礫が降り注ぐ・・・・・・。
キッカは悲痛の声を漏らし、瓦礫の山に埋まったであろう弟の亡骸に向かって届きもしない手を伸ばした。
神が笑っていた。
本能的な恐怖を煽る声だ。その声は自決間際に大声で笑ったキッカの声に被って重なり、キッカ自身の鼓膜を揺さぶった。
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