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ぐっどにゅーす オリジナル版
○マタイ61
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イエスはそこを去って、ガリラヤの海べに行き、それから山に登ってそこにすわられた。
すると大ぜいの群衆が、足なえ、不具者、盲人、おし、そのほか多くの人々を連れてきて、イエスの足もとに置いたので、彼らをおいやしになった。
群衆は、おしが物を言い、不具者が直り、足なえが歩き、盲人が見えるようになったのを見て驚き、そしてイスラエルの神をほめたたえた。
イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、
「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。恐らく途中で弱り切ってしまうであろう」。
弟子たちは言った、
「荒野の中で、こんなに大ぜいの群衆にじゅうぶん食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れましょうか」。
イエスは弟子たちに「パンはいくつあるか」と尋ねられると、
「七つあります。また小さい魚が少しあります」と答えた。
そこでイエスは群衆に、地にすわるようにと命じ、七つのパンと魚とを取り、感謝してこれをさき、弟子たちにわたされ、弟子たちはこれを群衆にわけた。
一同の者は食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると、七つのかごにいっぱいになった。
食べた者は、女と子供とを除いて四千人であった。
そこでイエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダンの地方へ行かれた。
感想
ここの記述はファンタジー過ぎて、なんとも言えません。
四千人分の食事を用意する素材が、七つのパンと小さい魚とか、計算が合いません。「オー、マイゴット!」「オー、ジーザズ」などの言葉が自然と出そうです。
小さい魚って、ジンベイザメじゃないでしょうし? 奇蹟と言う事なのでしょう。
☆≡
パリサイ人とサドカイ人とが近寄ってきて、イエスを試み、天からのしるしを見せてもらいたいと言った。
イエスは彼らに言われた、
「あなたがたは夕方になると、『空がまっかだから、晴だ』と言い、また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。
あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」。
そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。
弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。そこでイエスは言われた、
「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」。
弟子たちは、これは自分たちがパンを持ってこなかったためであろうと言って、互に論じ合った。
イエスはそれと知って言われた、
「信仰の薄い者たちよ、なぜパンがないからだと互に論じ合っているのか。まだわからないのか。覚えていないのか。五つのパンを五千人に分けたとき、幾かご拾ったか。また、七つのパンを四千人に分けたとき、幾かご拾ったか。わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。
ただ、パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい」。
そのとき彼らは、イエスが警戒せよと言われたのは、パン種のことではなく、パリサイ人とサドカイ人との教のことであると悟った。
感想
パリサイ人やサドカイ人と言うのは、当時、影響力を持つ有力者や権力者や学者のようです。
イエスを論破できない彼らは、素直に従う道を選ばず、誹謗中傷をしていたようです。まぁ、現代にも通じる感覚ではあります。権威ある人は、新たな権威を恐れるものかも知れません。
頼みの弟子たちも、論点から外れた議論を展開します。おそらく、パンを忘れた責任の押し付け合いと言う、次元の低いものでしょう。
「やれやれ」と、溜め息をついたかも?
☆≡
イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、
「人々は人の子をだれと言っているか」。
彼らは言った、
「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。
そこでイエスは彼らに言われた、
「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
シモン・ペテロが答えて言った、
「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
すると、イエスは彼にむかって言われた、
「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。
そのとき、イエスは、自分がキリストであることをだれにも言ってはいけないと、弟子たちを戒められた。
感想
人々の言う人の子とは、イエスを指しているようです。
「人の子は人々に入ってないんか~い」と言いたい所ですが、本当の人。と言う意味なのでしょう。
つまり、罪のない子、理想とすべき人の姿と言う事でしょうか? 罪人のマリアから産まれたイエスが人の子たる由縁は、処女降誕、つまり、聖霊によって身籠ったからでしょう。
キリストとは、救世主を意味します。弟子たちには、生ける神の子キリストと認知されていますが、最後まで信じ続けられるか? イエスの言葉は、先を見越すように未来を語ります。それは、弟子と教会が行くべき道を予言しているかのようです。
☆≡
この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、
「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。
イエスは振り向いて、ペテロに言われた、
「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
それからイエスは弟子たちに言われた、
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
感想
イエスの長台詞が決まる瞬間ですね。カメラワーク的には、正面からのアップで行きたいシーンです。
長台詞の前にあるぺテロとのヒトコマも魅力です。師に気軽に話し掛ける感じが、彼のイエスに対する認識を物語っています。もちろん、現時点での段階であり、後に殉教する事になるぺテロの心境の変化は、驚くべきものでしょう。
イエスのメッセージの中には、神の計画が発動している事を感じさせます。おそらく、ユダヤの人々の様子の変化に合わせて、プランAとプランBがあったのではないでしょうか?
人に自由意思が与えられているのは、エデンの園での善悪知るの実での騒動でも明白で、救済の作戦も複数が必要な気がします。
発動したのはプランBだと見ています。
「人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。は、処刑後に復活したイエスを指しているのでしょうか?
☆≡
六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。
すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
ペテロはイエスにむかって言った、
「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、
「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。
弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。
イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、
「起きなさい、恐れることはない」。
彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。
感想
かなりファンタジーな内容です。イエスが超越した存在に覚醒し、空から聖霊が降臨した感じでしょうか?
もう、無敵モードの匂いがします。
モーセもエリアも、有名な聖人のようです。特にモーセなら、日本人にも知られた存在でしょう。映画にもなりましたし、十戒や海が割れる逸話は有名です。
それにしても、何故、モーセやエリアが降りてきたと解ったのでしょう。顔か? 雰囲気か?
イエスが再臨したら、見分けられるのだろうか?
すると大ぜいの群衆が、足なえ、不具者、盲人、おし、そのほか多くの人々を連れてきて、イエスの足もとに置いたので、彼らをおいやしになった。
群衆は、おしが物を言い、不具者が直り、足なえが歩き、盲人が見えるようになったのを見て驚き、そしてイスラエルの神をほめたたえた。
イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、
「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。恐らく途中で弱り切ってしまうであろう」。
弟子たちは言った、
「荒野の中で、こんなに大ぜいの群衆にじゅうぶん食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れましょうか」。
イエスは弟子たちに「パンはいくつあるか」と尋ねられると、
「七つあります。また小さい魚が少しあります」と答えた。
そこでイエスは群衆に、地にすわるようにと命じ、七つのパンと魚とを取り、感謝してこれをさき、弟子たちにわたされ、弟子たちはこれを群衆にわけた。
一同の者は食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると、七つのかごにいっぱいになった。
食べた者は、女と子供とを除いて四千人であった。
そこでイエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダンの地方へ行かれた。
感想
ここの記述はファンタジー過ぎて、なんとも言えません。
四千人分の食事を用意する素材が、七つのパンと小さい魚とか、計算が合いません。「オー、マイゴット!」「オー、ジーザズ」などの言葉が自然と出そうです。
小さい魚って、ジンベイザメじゃないでしょうし? 奇蹟と言う事なのでしょう。
☆≡
パリサイ人とサドカイ人とが近寄ってきて、イエスを試み、天からのしるしを見せてもらいたいと言った。
イエスは彼らに言われた、
「あなたがたは夕方になると、『空がまっかだから、晴だ』と言い、また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。
あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」。
そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。
弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。そこでイエスは言われた、
「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」。
弟子たちは、これは自分たちがパンを持ってこなかったためであろうと言って、互に論じ合った。
イエスはそれと知って言われた、
「信仰の薄い者たちよ、なぜパンがないからだと互に論じ合っているのか。まだわからないのか。覚えていないのか。五つのパンを五千人に分けたとき、幾かご拾ったか。また、七つのパンを四千人に分けたとき、幾かご拾ったか。わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。
ただ、パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい」。
そのとき彼らは、イエスが警戒せよと言われたのは、パン種のことではなく、パリサイ人とサドカイ人との教のことであると悟った。
感想
パリサイ人やサドカイ人と言うのは、当時、影響力を持つ有力者や権力者や学者のようです。
イエスを論破できない彼らは、素直に従う道を選ばず、誹謗中傷をしていたようです。まぁ、現代にも通じる感覚ではあります。権威ある人は、新たな権威を恐れるものかも知れません。
頼みの弟子たちも、論点から外れた議論を展開します。おそらく、パンを忘れた責任の押し付け合いと言う、次元の低いものでしょう。
「やれやれ」と、溜め息をついたかも?
☆≡
イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、
「人々は人の子をだれと言っているか」。
彼らは言った、
「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。
そこでイエスは彼らに言われた、
「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
シモン・ペテロが答えて言った、
「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
すると、イエスは彼にむかって言われた、
「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。
そのとき、イエスは、自分がキリストであることをだれにも言ってはいけないと、弟子たちを戒められた。
感想
人々の言う人の子とは、イエスを指しているようです。
「人の子は人々に入ってないんか~い」と言いたい所ですが、本当の人。と言う意味なのでしょう。
つまり、罪のない子、理想とすべき人の姿と言う事でしょうか? 罪人のマリアから産まれたイエスが人の子たる由縁は、処女降誕、つまり、聖霊によって身籠ったからでしょう。
キリストとは、救世主を意味します。弟子たちには、生ける神の子キリストと認知されていますが、最後まで信じ続けられるか? イエスの言葉は、先を見越すように未来を語ります。それは、弟子と教会が行くべき道を予言しているかのようです。
☆≡
この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、
「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。
イエスは振り向いて、ペテロに言われた、
「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
それからイエスは弟子たちに言われた、
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
感想
イエスの長台詞が決まる瞬間ですね。カメラワーク的には、正面からのアップで行きたいシーンです。
長台詞の前にあるぺテロとのヒトコマも魅力です。師に気軽に話し掛ける感じが、彼のイエスに対する認識を物語っています。もちろん、現時点での段階であり、後に殉教する事になるぺテロの心境の変化は、驚くべきものでしょう。
イエスのメッセージの中には、神の計画が発動している事を感じさせます。おそらく、ユダヤの人々の様子の変化に合わせて、プランAとプランBがあったのではないでしょうか?
人に自由意思が与えられているのは、エデンの園での善悪知るの実での騒動でも明白で、救済の作戦も複数が必要な気がします。
発動したのはプランBだと見ています。
「人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。は、処刑後に復活したイエスを指しているのでしょうか?
☆≡
六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。
すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
ペテロはイエスにむかって言った、
「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、
「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。
弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。
イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、
「起きなさい、恐れることはない」。
彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。
感想
かなりファンタジーな内容です。イエスが超越した存在に覚醒し、空から聖霊が降臨した感じでしょうか?
もう、無敵モードの匂いがします。
モーセもエリアも、有名な聖人のようです。特にモーセなら、日本人にも知られた存在でしょう。映画にもなりましたし、十戒や海が割れる逸話は有名です。
それにしても、何故、モーセやエリアが降りてきたと解ったのでしょう。顔か? 雰囲気か?
イエスが再臨したら、見分けられるのだろうか?
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