獣は遠き約束を胸に抱く

夜渦

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1.白の獣

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 今日は寝過ごすことなく起き出して、イチカは仕事に出かけて行った。紺色の軍服は折り返しが青で、金の縁取りはついていないもののエヴェリエが身につけていたものとほとんど同じだ。略式のタイを締め、いかめしい軍靴を履いたイチカは身長もあいまって、ずいぶんと威圧的な印象だった。
「子供が泣きそう」
「気にしているんだ。やめてくれ」
 日暮れには帰ると言い置いてイチカが出かけてしまえば、当然家の中にはスノウが一人で残される。
「懐かしい、気がする」
 思わずつぶやく。五門機関にいる間は常に傍らに誰かがいて寝台の中以外に一人になる場所はなく、誰かを一人待つなどということもない。留守番は久しぶりだった。前の主と暮らしていた頃は家のことをして彼女の帰りを待ち、二人で食事をしながらたくさんの話を聞いた。仕事のこと、魔術のこと、これからのこと。それが当たり前の日常だったのに、いつの間にか遠くなっていることがどうしようもなく寂しく思われた。
「……スノウ」
 ふと、昨日与えられたばかりの名を口にしてみる。飾らない名だ。それがイチカらしいといえばイチカらしいような気もする。
「スノウ」
 早く慣れようと何度も何度もその名を呼ぶ。自分のことだと認識できるように。それは同時に、新しい主を選んだのだと否応なく自分に言い聞かせる行為でもあった。拭いようのない罪悪感が膨らんでいくのを止められない。
「……ナナ」
 前の主はナナ・セシュカといった。蜂蜜色の髪と菫色の瞳の愛らしい少女で、両親にも友人にも恵まれたごく普通の、幸福な娘だった。努力家で人に優しく、公正で一途な、きらきらした少女だった。
 ──たくさん楽しいことをしよう。
 そう言って、色々なところへ行った。夏には避暑のために海に行き、冬は山を越えて星を見に行った。春の花も秋の日差しも、いつも彼女のまわりできらきらと光を放つようだった。だから、彼女のための自分であろうとした。彼女の隣にふさわしい自分でありたかった。
「星、きれいだったな」
 天文台が流星群が流れると発表したのだ。魔術に必要だからと秘されてきた空の事象がちょうど一般に開放され始めた頃で、冬の空に星が流れると聞いてナナははしゃいだ。両親の許可を得て二人、街外れの丘まで行って毛布にくるまり、スノウが用意した熱い茶を飲みながら星を見た。遠くに街の灯が見えてもっと遠くに山並みの影が黒々として、そうして深い深い藍色の空に銀の筋が幾重にも流れていった。ナナと過ごした時間はどれも大切に胸の内にあるが、あの夜の光景は特に鮮やかに残っているように思う。
 懐かしい思い出に手を引かれるように手のひらを天井に向ければ、ふわりふわりと蛍のように光がこぼれだして、ゆっくりと飛び立っていった。それは所在なげに部屋を漂いながら上っていき、ぱっとはじけていくつもの光の粒をばらまく。花火のような、星のような。青白い燐光をたなびきながら小さな光が降り注ぐ。そうして床に落ちるより先にかき消えていった。
 これはナナとスノウが作った遊びだった。魔術といえるほど精密なものではなく、手品のようなものだ。スノウの体内の魔力をあふれさせて可視化し、飛ばしている。尾を引く光を降らせた後は大気に紛れて霧散し、スノウの中に戻ることはない。ただ場の魔力圧を少しだけ上げることができ、ナナが複雑な術式を使うときの手助けくらいにはなった。
「俺は何を間違えたんだろう」
 ふわふわと星を飛ばしながらスノウはつぶやく。二人で見た星を部屋の中に作ろう、と言って構築式を組んだ。存在自体が魔術に近いスノウにはたやすくできることであってもナナには少し難しくて、どうすれば簡単に操作できるかを考えてああでもないこうでもないと時間を重ねた。そうしてナナの手から光が飛び上がった日は子供のように二人ではしゃいで、いつまでも光を飛ばしていた。その試行錯誤が決定打となり、ナナは魔術職を目指すと決めたのだ。今まで以上の努力を重ねるようになり、スノウもスノウなりにそれを応援したし手助けもした。スノウにナナのような知識はないが実践する力はある。仮組みの術式を起動しては修正を重ねて二人で魔術を作り上げたのだ。そうして、公的機関にも認められるような精度のものも生み出せるようになっていった。
 ──なのに。
 人差し指で線を描く。光がその方向へ誘導されて彗星のような尾を引いた。
 ナナは少しずつ何かを違えていった。少女を脱した彼女は大きな魔術師業所に務めるようになって、魔術開発に従事するようになった。夢を叶えたのだ。満ち足りた毎日のように見えた。けれどいつの間にかナナの表情から笑顔が消え、疲労困憊で帰宅してはスノウにすがりついて泣くようになった。スノウが涙の理由を尋ねても首を振るばかりで、翌朝には青ざめた顔のまま出勤する。同時にスノウの外出を嫌がるようになった。行かないでと泣きながらスノウを抱く腕を振り払ってまで、行きたいところなどなかった。
 ──お前の望みを言え。
 イチカの言葉がよみがえる。
 ──俺の望みだったよ。
 断言できる。だって彼女はそうしなければ立っていられなかった。家にスノウがいる。自分の味方が待っている。あの部屋で必ず自分を出迎えてくれる。彼女はきっとその事実を確認したかったのだ。ならばそれに応えるのが自分のありようだと、今なお確信している。自分は獣だ。守人を愛し、守るものだ。だから。
「ナナを、守りたかった……」
 やつれていくナナは取り乱すことが増え、休日は寝付いたまま起き上がれないことも珍しくなくなった。彼女の身に何が降りかかっていたのかをスノウは知らない。最後まで教えてくれなかった。心配しておろおろするスノウを見て淡く笑いながら、それでいいと繰り返した。そばにいてくれればいい。この心を埋めてくれればいい。そう繰り返した。ならばそうする、そばにいると何度も何度も繰り返してそうして、ある日ナナは帰ってこなかった。
「……俺は、何を間違えたんだろう」
 またつぶやく。何度も何度も口にした疑問。彼女を連れて遠くの街にでも行けば良かったのだろうか。魔術師のいない国へ行けば良かったのだろうか。わからない。どうすれば彼女を守れたのか、答えは出なかった。だが自分が契約しなければ、彼女を見つけなければこうはならなかった。それだけは理解した。だから、次の守人を選ぶことなく望むことなくこの生をおしまいにしようと思ったのに。
 ──イチカ。
 新しい主を、見つけてしまった。守人を見つけたら報告するようにと言われて馬鹿正直に五門機関に報告したのが間違いだったのかもしれない。イチカの口ぶりからするにわざわざことを大きくして逃げられなくしたのだろう。彼らは基本的に五門の安定が全てに優先する最重要事項で、そこにからむ人や獣の感情はどうでもいいのだと今更に理解する。
「間違えたんだな……」
 ナナのときと同じように。
 自分はイチカを死なせるのだろうか。失うのだろうか。視界が揺れる。感情の揺らぎにつられて浮かんだ星々が明滅を繰り返した。
「封印の要ならなんで人格なんか残したんだ。ただの獣でよかったのに」
 本当に獣なら、間違えなかった。傷つけなかった。
「ただいま。──スノウ?」
 ふいに声がして扉が開き、イチカが顔をのぞかせる。そしてわずか瞠目した。薄暗い居間の真ん中で光を漂わせながら立っているスノウが目に飛び込んできたからだろう。少年は何となく気まずくてへらりと笑った。
「おかえり。早いね」
「ああ。今日は急ぎの案件が入った代わりに早く上がってきた。これは……星か?」
「うん。ひまだったから」
 応える言葉に別の誰かの声が重なった。
「うわ何だこれすげえ!」
 聞いたことの無い声に目を白黒させていると、イチカが半歩身をずらす。するとスノウの知らない人物がそこにいた。イチカと同じ黒い髪と瞳の青年。身長はちょうどイチカと今のスノウの間くらいだろうか。軍服ではなく、生成りのシャツにしゃれたリボンを締め、編上靴を履いていた。夏が迫っているからか上着は持っておらず、身軽な出立ちだ。人好きのする笑みを浮かべている。
「十年来の友人でラズバスカという。たまたま行き会ってな。なりゆきで夕飯を一緒にと」
 イチカの言葉にスノウは愛想よく笑った。
「はじめまして。スノウです」
「よろしく。俺、ラズバスカ。ラーズでいいよ。ところでこれスノウくんがやってんの? どうやって?」
「何もしてないよ。魔力浮かしてるだけ」
 ぐいぐいと身を乗り出してくるラズバスカに少なからず困惑しながらスノウは答えた。
「いやいや、だけって言わないよこれ。結晶化してんじゃん。術石かよ」
「ううん、結晶じゃない。魔力を内側に収束回転させて圧縮してるだけだから離れると崩れちゃう。術石みたいな安定性はないよ」
 言って、手のひらの星を上げれば音もなく光は霧散して飛び散った。
「ちょっとコツはいるけど、指向性操作できればすぐ」
「へえ、面白いな。やり方教えて」
「いいよ」
 ラズバスカに乞われるままに始まった構築式の話にイチカが呆れた声を上げた。
「ラーズ、夕飯はどうした」
「うん、ここ終わったら行くからちょっと待って。──こう?」
 手のひらの上に青白い光を回転させながらラズバスカはこちらを見もしない。スノウの言葉をなぞりながら魔力の光を丸めている。イチカはため息をついた。こうなるような気はしていた。
「スノウくんさ、レニシュチの人だっけ」
「……うん」
「これじゃ今のレニシュチ大変だったでしょ。普通に迫害されるやつじゃん」
 言われて、スノウは曖昧に笑った。情勢を正確に知っているわけではない。思わずイチカを見た。その助けを求めるようなまなざしに気づいてイチカが口を開く。
「そこまでなのか」
「ああ。この操作精度と魔力量なら全然自前の師業所開けるだろうし、そうなると良くて財産没収、下手すると収容所行き。本当馬鹿げてるよな。時代に逆行してる」
 イチカも委細は知らないが、終わらない内戦の理由に魔術を持ち出して弾圧を加えているという。治水に土木、土壌改良などいくらでも魔術師の手が必要なはずだが、レニシュチの臨時政府は頑なだった。容赦のない仕打ちに魔術関係の人材が根こそぎ国外脱出を図り、結局荒れた国土の復興が遅れている。
「それだけ、抱えた傷が深いんだろう」
 何を憎めばいいのかわからぬほどに。
「いい加減腹が減った。もういいか」
 イチカに促されて、スノウが出かける支度をしに行く。その背中を見送りながらラズバスカが声をひそめてささやいた。
「何があったんだよイチカ。相当の訳ありだろあれ」
 付き合いの長い友人だがレニシュチに縁があったという話は聞いたことがなく、スノウの立ち振る舞いも難民と呼ぶにはあまりに陰がない。予想していたよりもずっと大ごとの気配がするとラズバスカは案じるそぶりを見せた。
「……悪いが、守秘義務だ」
 イチカの声が堅い。その表情に何かを察してか、ラズバスカは食い下がることなくそうかとだけ言って話題を変える。
「この部屋にしてよかったろ? 男の一人暮らしに客間がいるかとか言ってたけど役に立ってんじゃん」
「元々役には立っていた。酔い潰れた誰かさんを放り込んだりな」
「その節は大変お世話になりました」
 イチカが火元の確認をし、三人は家を出る。外はすっかり夕暮れに沈んでいて、黒々とした影が道に落ちていた。暑気も落ち着き、夕方の風が吹き抜ける。共同住宅の玄関を出て左に折れた。執政府通りに出ると今度は右に折れ、北の方へ向かう。石畳の道は馬車が通る道と人間が歩く道が敷石によって分けられていて、ずいぶんと歩きやすく整えられていた。
「スノウくんいるから市場のとこの魚料理屋とかいいんじゃねえかな」
 ヘレ川に沿った常設の市場には、訪れる多くの客のために料理屋が軒を連ねている。ほどほどににぎやかで安価で、治安がいい。
「そうしよう。魚は食べられるか?」
「問題ないよ」
 夕食時、通りのあちこちから食欲をそそる匂いがする。小さな押し車を即席の店舗とした屋台がそこここに出ているためだ。街路灯の明かりがぽつぽつと点き始めた時分は稼ぎ時らしく、時折大勢の人間に囲まれた屋台が見えた。
「屋台、珍しい?」
 興味深げに見ているスノウへ、頭の後ろで腕を組んだラズバスカが肩を並べる。
「珍しい、かな。前にいた街は屋台じゃなくてこう、道まで伸ばした庇をつなげてそこに飲食店を出しているような街だったから」
「ああ、雨の多い街でよくやるやつだな」
 イチカは二人の他愛もないやりとりを半歩後ろから聞きながら歩いていた。もともと人懐こいラズバスカのこと、スノウにいきなり会わせても問題ないだろうとは思っていたが、案の定それなりに楽しそうに会話をしている。スノウもまた親しい友人に対するようにラズバスカに対応しているようで、イチカは無意識に安堵の息を漏らした。
 三叉路を右に入ってヘレ川の方へと向かうと、やがて市場の大門が姿を現した。市場は大小さまざまな店舗が立ち並ぶ三つの大路と数多くの小路を擁する。それらの道はすべて硝子天井でもって覆われ、天井の終わりには門が据えられていた。門をくぐるなり香ばしい肉や魚の香りが漂い、否が応でも食欲を掻き立てられる。ラズバスカは勝手知ったる様子で人並みを分けて進んでいった。
「三人だけど空いてる?」
 恰幅のいい壮年の夫婦が営むこじんまりした店だ。イチカとスノウが数歩送れて到着した頃には三人分の席が確保されていた。窓辺の奥まった席からはすぐ裏の川面を臨め、店の喧騒から少しだけ距離を置ける。荷揚げ用の小桟橋があることから、朝と昼は魚を商い、夜には店先を片付けて定食屋にしているらしい。
「うちの編集長おすすめの店でさ。鮮度がいいんだって」
 上手に人をよけたラズバスカがさっさと椅子に陣取り、スノウもそれに続いた。体格のいいイチカにはなかなか真似のできない芸当だ。
「俺、麦酒飲むけど。イチカどうする?」
「もらおう」
 通行する人間の邪魔にならぬよう椅子の位置を調整しながらイチカが言った。
「スノウくん林檎水とかどう?  結構おいしいよ。泡の出るやつ」
 益体もない話をしながらもラズバスカが手早く飲み物と食べ物の注文をして、三人は待つ体勢に入る。鮭の炙り焼きや旗魚とハーブを揚げたものなど、確かに魚料理が名物らしい。
「そういや、注目されないね。イチカとスノウくんの取り合わせめちゃくちゃ目立つのに」
 麦酒をあおりながらラズバスカが言った。全身が真っ白のスノウと扉より上背のあるイチカだ。目立つなという方が無理がある。にも関わらず店内は皆自分の話に忙しいらしかった。
「知覚錯誤の結界張ってる。普通の人に見えてると思うよ。イチカ、目立つの嫌いでしょう?」
 揚げた白身魚と芋を自分の皿に取りながらスノウが答えた。イチカが眉を持ち上げ、ラズバスカが瞠目する。
「あれ、もしかして余計だった……?」
「むしろ助かるが」
「いやいやいや、それ夕飯食べに行くだけのときに使うやつじゃなくない? 偽装遮断膜でしょ?」
 魔術で物の本質を変容させることはできない。ゆえに他人の認識に干渉する類いの術式だ。効果範囲の広さによるが、こんな人でごった返した場所で機能させるのはそう容易なことではない。
「ラーズは詳しいんだね。偽装遮断膜ではないんだ。あれより循環効率のいい術式があって、何ていうんだろう。存在感を薄めるみたいな」
 すらすらと述べられる構築式にラズバスカがうなった。
「スノウくんもしかして魔術開発の経験者?」
「手伝ってたよ」
 なるほどと納得をしたラズバスカがここぞとばかりにまた魔術の話を始めて、到底口を挟むことができないイチカはただ見守るばかりだ。
「そうそう、この間アフタビーイェに行ったんだけどさ。術石の産地だけあってあそこは魔術の発展も導入も桁違いに早い。砂漠の緑化に着手したんだとさ」
 鱈とチーズをまとめてほおばりながらラズバスカが言う。スノウは術石、と復唱するようにつぶやいた。特殊な鉱物だ。水晶の何百倍もの魔力容量を誇るそれの発見によって魔術は目覚しい発展を遂げている。
「スノウくん術石使ったことは?」
「さすがに希少品だし現物はないよ。あれ構築式じゃなくて回路式なんだよね。試作品はいくつか組んだことあるけど実践はしてない」
「試作はしたんだ?」
 ラズバスカが感嘆の声を上げた。
 そこへ魚料理が数点まとめて運ばれてきた。鮭や鱈、 鰈などここが内陸部であることを忘れさせるような海の魚ばかりだ。酢漬けの生魚まである。
「もう夏だぞ。生はまずくないか」
 眉をひそめたイチカにラズバスカが得意げに言う。
「大丈夫だって。魚を凍らせて運んでくるんだ」
「どうやって」
「聞きたい?」
 にやりと笑ったラズバスカにイチカは首を振る。
「いや、遠慮しておく」
 スノウとやってくれとげんなりした声にけらけらとラズバスカが笑った。
「イチカは昔から魔術嫌いだよな」
「お前は好きだな」
「まあね。でなきゃこんな仕事してないって」
 ふとラズバスカがスノウを見る。スノウは熱心に鮭の小骨をとっているところで、ラズバスカの視線に気づいてわずかに首をかしげた。
「正直、羨ましいよ」
「何が?」
「才能がないのに諦めきれないって、つらいぜ?」
 その翳りのある表情に既視感を覚え、耳の奥によみがえる少女の声を封じ込めるように小さく頭を振った。
「スノウ」
 声をかけたのはイチカだった。スノウの皿にパンを乗せる。
「あのさ、イチカ。昨日から思ってたんだけど、どうしてそんなに食べさせようとするの」
「お前、俺がいないと食べないだろう」
 彼はイチカが留守のときに食べ物に手をつけていたことがない。
「一人で食べてもつまらないだけだよ」
「どうだか」
 しれっとそう言ってイチカは烏貝を剥き始めた。
「スノウくん細いもんねー。ちゃんと食べないとイチカみたいになれないぞ」
 同じ皿から海老を奪い取りながらラズバスカがからかうように言う。
「イチカのことは好きだけどなりたくはないかな」
「あはは熱烈」
 笑って、酒にわずか上気した顔でラズバスカがスノウを見る。
「スノウくんさ、読み書きできる?」
「できる、けど」
 スノウは学校へ行ったことがない。それでも記された文字列の情報を正確に読み取ることができ、そして同様に綴ることもできた。聞いたり話したりする方も同様で、言葉で困ったことはなかった。どうやらスノウの中の魔力がそうさせているらしい。
「じゃあさ、うちで働いてみない?」
 灰色の瞳が大きくまたたく。すぐ隣でイチカも似たような表情を浮かべていた。
「俺、新聞社で働いているんだけど、魔術関係の記事の校正をやって欲しい。それだけ知識があって術石の回路式までわかってる人材、貴重なんだ」
 まぁ大した金額は出せないがと言いながらラズバスカがスノウに向かって笑って見せる。
「どう?」
 スノウはどうしていいのかわからず、縋るようにイチカを見た。
「イチカ。どうしよう」
「俺に聞くな。お前がしたいようにすればいい」
 常と同じ調子で言ってイチカは店員を呼びとめ、パンの追加をする。
「冷たくない? あ、もしかして学校行かせるつもりだったとか?」
「それも俺が決めることじゃない。スノウが働くなり学校に行くなり決めればいい」
 やりたいことがあるなら反対はしないし必要な金なら出すとイチカが言った。
「お前が保護者なんだろ? もっと真剣に聞けって」
「本人がやりたくもないことをさせてどうする。自分で考えて決める。おかしなことは言っていないぞ」
「イチカってそうだよな。優しいんだか突き放してるんだか。とりあえず、考えておいてくれる?」
「……わか、った」
 スノウは何度もまばたきを繰り返す。不思議な感覚だった。この感情の名前も理由もわからない。遠い記憶のどこかで似た感覚を知っているような気がするが思い出せない。ただ、負の感情ではないように感じた。
 イチカとスノウが帰宅したのは夜半も近くなってのことだった。居酒屋などはまだまだにぎやかで宵っ張りの客を抱え込んでいたが、住宅街のほうはずいぶんと静まり返っている。二人は音を立てぬよう注意をしながら共同玄関を入った。イチカは郵便受けに白い封筒の姿があるのを見てとって、スノウを先に行かせる。取り出した封筒は魔術による最速達便。イチカの名前が記され、深い緑の封蝋の色には五角形に二本鍵の紋章が推されていた。思わず眉をひそめる。
「スノウ。さっそく何か来ているぞ」
 ひらひらと封筒を振ってみせ、居間の長椅子に腰を下ろした。封を切って中を見る間にスノウが台所へ行って焜炉に火をかける。茶を淹れようとしているらしい。その容貌から受ける印象以上に彼は細々とした家の中のことに気づく。
「青い缶の茶葉にしてくれ」
「わかった。そっち何か深刻な話?」
「いや……」
 スノウから茶の入ったカップを受け取りながら、イチカはスノウに封筒ごとそれを渡す。
「五門機関本部で他の守人と対面してみないかとのことだ」
 対面をして何をするのかなど具体的なことは書かれておらず、日にちとおおよその時間の目安だけが記されているだけだ。少年は書面に目を通しながら首をかしげた。
「定期的に集まっているらしいのは知ってるけど、俺は行ったことないんだ。行く?」
「行くも何もどこにあると思っている。往復で七月かかるんだぞ」
 ユルハから東方へ陸路と海路を乗り継いだ隣の大陸、ベーメンドーサという小国だ。ユルハとは直接の国交すらなく、時間と金がどれほどかかるのか想像もつかないような遠国である。五門機関の本拠地ということ以外実際にどのような国なのかは知らない。そんな遠くへスノウを連れての出国など上層部が認めはしないだろう。
「距離は気にしないで大丈夫だよ。日帰りできるから」
 スノウは封筒をイチカに返しながらこともなげに言った。
「五門機関本部には転移魔術の門陣が敷いてあるんだ。もともと俺もあそこで生まれたし、行って帰ってくるだけなら今すぐにでも行ける」
 言ってからイチカが難しい顔をしていることに気づいて、スノウはきょとんとイチカを見つめる。おかしなことを言っただろうか。
「本当に、とんでもないことが平気で起こるな」
 彼は長いため息をついて、頭をがしがしと掻いた。七月行程をこともなげになかったことにしてみせる。
「転移使ったことない?」
「ないな。起動する魔力がない」
「そういえばそうだったね」
 ならば自分が起動して同伴すると少年はうなずいてみせた。
「わざわざ送りつけてくるということは来いということだろうな。面倒だが仕方ない。スノウ、悪いが頼む」
「問題ないよ。任せて」
 イチカはカップを台所に片付け、あくびをかみ殺す。酒に弱いたちではないが、今日は急の案件もあって少し疲れているためか酔いがまわってきた。
「これで明日も続きか」
「嫌な仕事なの?」
 イチカの物言いに気がついたらしく、スノウが尋ねる。
「ああ最悪のやつだ」
「そっか。もし遠くに行くなら協力するからね」
「お前はそればかりだな。まぁ最終手段として覚えておく」
 あえて明るい声音でつむがれた言葉にイチカもまた笑って答え、それ以上は互いに語らなかった。
「ねえ、イチカ。ラーズの仕事の話なんだけど、俺、行ってもいいかな」
 灰色の瞳は伏せられ、どこか探るようなうかがうような様子だった。
「お前はどうしたい?」
 いつもと同じイチカの声。スノウの望みを尋ねる言葉。今日まで何度も彼はそう口にした。少しだけ緊張しながらスノウは口を開く。
「……やってみたい」
「ならやればいい。俺がどうこう言うことじゃない」
 少年の顔がぱっと華やいでイチカを見た。そのまぶしくさえ感じられる表情にイチカは少し気圧される。
「ありがとう」
「いや。じゃあ俺は寝る」
「おやすみなさい」
 スノウはイチカの背を見送って、右手を振った。焜炉の残り火が消え、ランプの明かりも徐々に薄れていく。その光景をぼうと眺めながら、この数日のできごとを反芻する。
 新しい守人を選ぶのは嫌だった。つらい思いをするのもさせるのも嫌で、考えることも選ぶこともせずにこの二年間、煙に巻き続けた。意識の片隅では確かにイチカのことを認識しながら、抗い続けたのだ。体が弱っているのは知っていた。それでもいいと、このまま死んでしまえばいいと思っていたはずなのに、ある日突然強烈な思慕に塗りつぶされた。またたく間に本能は理性を上回り、飛び出したのだ。呼ばれている感覚にそれ以上抗えなかった。ナナを見つけたときと同じどうしようもない慕わしさに引き寄せられて、そうしてスノウはイチカを見つけた。
 不思議な男だった。
 長身で体格が良く、笑わない。声は低く響いて無駄を言わず、そして自分の望みなど考えたこともなかったスノウに一人の人間としてまっとうに生きろと、己の足で立てと、そう言ってくれた。獣と守人でなはく、スノウとイチカとして生きていく。そう明言されたことが、どうしてか嬉しかった。ナナとの関係も主従というよりは年の近い姉弟のようなもので、決して束縛された主従関係ではなかったのに、イチカの引いた線はスノウの中に鮮やかだった。自分の存在を、個としてのありようを、無条件に肯定してもらえたような気がした。
 イチカに報いたいと願う。けれど魔術を必要としないイチカに自分ができることなどわからない。魔術以外の能力も知識もなく、イチカに言わせればただの子供でしかない。それでもいつか彼に何かを返すために、今の自分の精一杯をやってみようとそう思ったのだ。
「……がんばろう」
 確かな決意をはらんで、ふわりと少年は笑った。
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