獣は遠き約束を胸に抱く

夜渦

文字の大きさ
上 下
4 / 16
2.五門機関

2-1

しおりを挟む
2.五門機関

 指定された日は夏にしては珍しく薄曇の朝で、サイスタの街は普段よりも沈んだ色彩に見える。イチカは一日限りの休暇をとり、悩んだ末に上層部に報告することはやめた。軍装で赴くのも気が引けて、結局は何の飾り気もない私服だ。普段服装など気にも留めないのに、今日はなぜか落ち着かない。祝祭の前日の子供のようだ。想像もつかない非日常が自分の眼前に迫ることへの緊張感が胸中に細波を立てる。
「イチカ、大丈夫?」
「問題ない」
 そう言いながらもイチカはうろうろと居間を歩き回る。いつもどおりの無表情のままだが、緊張しているのがありありとわかってスノウはわずかに困惑を交えて笑った。短い付き合いながら、イチカはあまり動揺することがなく、感情表現にも抑揚がないことは知っている。よく言えば精神的に安定しているのだろう。そんな彼が緊張しているさまは珍しく、少し微笑ましい気持ちになる。
「そろそろ行こうか」
 スノウは長椅子から立ち上がってイチカの前に立った。
「……ああ。頼む」
 声が堅い。スノウはまた小さく笑って目を閉じるように言った。
「大丈夫。一瞬だよ」
 魔術の青い炎が床を走る。それは正確な真円を四つ描き、陽炎のように沸き立つ。青い光が二人を包みこみ、浮き上がるような浮遊感に襲われた。いくつもの文字が中空に浮かんでは消えていく。圧迫感が強くなる。
「目、開けないで。危ないから」
 状況を見ようとしたらしいイチカを押し留めた。転移の魔術は時間と空間を恣意的に歪め、世界の裏側に強引に隧道を通す。一歩でも動けば世界の隙間に呑まれて永遠に元の場所には戻れない。
「──目当ては五角形と二本鍵掲げし堅牢の砦。我が意に従い疾く奔れ」
 スノウの言霊が響いた。
「ついたよ」
 目を開けるなと言われてから十も数えぬうちにそう言われ、イチカは訝しげに瞼を持ち上げる。そして瞠目した。言葉が出ない。そこはイチカの住宅ではなかった。どこかの宮殿かと見まごうような広間だった。見上げたドーム型の天井からは装飾硝子を透かして陽光が降り注いでおり、純白の壁面には精緻な植物文様が象嵌されている。床は美しい斑目の大理石で金泥か何かで五角形と真円の文様が描かれ、イチカの知らない文字が書き込まれていた。魔術の余波を受けて青く光るそれをイチカは声もなく凝視する。
「イチカ。大丈夫?」
 無言で動揺しているのを察してスノウがこわごわと声をかけると、大事無いと低く答えた。
「ラーズが執着するわけだ。とんでもないな」
 長いため息をついて自分を落ち着かせようとしているらしい。
 円形の部屋の入り口がゆっくりと開かれた。両開きの、天井にまで届く扉から現れたのは砂色の髪の若い男。衛戍に訪れた男たちと同じようになでつけた髪を一つに結わえ、薄灰色の袖の大きな服に身を包んでいる。
「お待ちしておりました。イチカ・ラムダットファン・ロー」
 抑揚のない声に師団長室の風景が脳裏をよぎる。
「こちらへどうぞ」
 イチカの返答も待たずに歩き出す男の後を二人は追う。よく訓練された男のようで、歩く姿勢が驚くほど一定だ。足音一つ立てずに歩く。広間の外もまた大理石の床と装飾の壁で、イチカは半ば呆れたような息を漏らした。学生時代に見学をした総督府本館よりもさらに豪勢に見える。だが人影はなく、スノウの足音だけが遠くこだまするだけだった。長い廊下を抜けて中庭ぐるりと囲む柱廊を歩む。人工の水路が走る庭は美しく、植物も完璧に管理されている風情で、枯れた花など一輪もない。
「……まるで宮殿だな」
 思わずこぼした言葉を拾い上げ、先導の男が答えた。
「五門機関本部は他国の宮殿と同等の権威と機能を備えておりますので」
 慇懃な声音の中にどこか人を見下した調子を読み取ってイチカはわずかに眉をひそめる。
「そうか。ご丁寧にどうも」
「いえ。それではこちらでお待ちください」
 やはり抑揚のない声で言って、男はイチカに一礼して去っていった。スノウには目もくれない。
 ──不愉快な連中だ。
 取り残された部屋もまた天井が高く、白い壁と金の装飾で明るく見える。腰を下ろすに躊躇するような華麗な装飾が施された長椅子と卓が据えられ、果物と飲み物が用意されていた。大きく切られた窓からは眼下が一望できる。どうやらこの五門機関というのは山の上にあるようで、窓の外は海へと続く急斜面だった。ユルハよりも山の緑が濃い。
 スノウが身じろいで、小さくイチカを呼んだ。そちらに目を向けると、赤毛の男が近づいてくるところだった。イチカたちよりも先に部屋にいたのだろう。年のころは二十代の後半といったところで、愛想よく笑んでいる。
「当代の白と、その守人だよな?」
 癖のない、真紅に近い赤の髪を無造作に結い上げ、細身だが背丈はラズバスカよりも高い。目の色もまた髪と同様赤く、その人間離れした容貌からイチカはその正体を知った。
「赤の獣、クズミだ。当代の白とは初めましてだな」
 名乗った男はおもむろに手を伸ばしてスノウの頭をわしわしと撫でる。スノウの肩が小さく跳ね、驚きに目を見開いた。初対面の人間にそんなことをされた経験などなく、どうしていいかわからない。みるみるうちに髪が乱されていく。
「ええと、あの」
 灰白色の眼を困惑に染めてスノウはクズミを見上げた。制止すべきなのかどうかもわからなかった。赤い瞳としばし視線がからんでそうして、ふっとクズミの表情がゆるんだ。
「ん、大丈夫だな」
「いきなり、何なの」
 ようやく解放されたスノウの髪は乱れきっていて、少年は見栄えを整えようと手のひらを頭へやった。
「初めましてと久しぶりの間を追求した結果?」
「俺は初めましてなんだけど……」
「まぁまぁ細かいことは気にしない気にしない」
 にかっとクズミが笑う。親しげで屈託のない笑顔に小さな既視感がよぎった気がした。遠い記憶の果てで彼を知っているのかもしれない。漠然とそう思った。
「サァラ」
 クズミが名を呼ぶ。すぐそこの長椅子からゆるりと人影が立ち上がった。イチカよりも少し年上だろうか。ゆるく巻いた黒髪と深緑色の瞳の、はっきりした顔立ちの女だ。白いシャツにタイを結んだ身軽な装いが快活な雰囲気を漂わせていた。
「赤の守人、サァラ・ゲレンフトよ。よろしく」
 語頭の調子が少し強い。イチカの眼前まで歩んで値踏みするようにわずか眉根を寄せる。
「イチカ・ラムダットファン・ローだ」
 他に言うべき言葉も見つけられぬまま沈黙するイチカに、クズミが横から声をかけた。
「その名前、もしかしてあんたユルハ人か。どこ? イプリツェ?」
「いや、サイスタだ」
 ラズバスカのおかげで馴れ馴れしい相手には慣れている。
「西の方か。あのへんは腸詰おいしいよな」
「知っているのか?」
 イチカが尋ねると、かつての守人と訪れたことがあると答えた。
「で、お前さんの名前は?」
 クズミがスノウに向き直る。
「スノウ」
「うん、いい名前だ」
「ありがとう。俺もそう思う」
 イチカがつけてくれたんだと少し照れくさそうにする姿にクズミがうなずく。青年はどこか安堵を匂わせているように見えた。
「お待たせ」
 少女の声がした。入り口を振り向けば、黒髪の少女が車椅子を押して入ってくるところだった。背の高い安楽椅子には大きな車輪が取り付けられており、老爺が穏やかに座している。大の男が一人座っているというのに少女は重そうなそぶりも見せずにゆっくりと四人のそばまで車椅子を押してくると、スノウとイチカに気づいて微笑んで見せた。肩口で綺麗に切りそろえられた黒髪と大きな黒い瞳の、愛らしい少女だ。十二、三歳といったところだろうか。
「あなたたちが新しい白の獣と守人ね。黒の獣のティーレよ。よろしくね」
「黒の守人の、サラザ・ソルレアルだ。アル、と呼んでおくれ」
 乾いた声だったがどこか人をほっとさせるぬくもりのある声音だ。
「白の獣のスノウ、です」
「イチカ・ラムダットファン・ローです」
 ソルレアルはまなじりをゆるめてよろしくと言って笑った。座ったままですまないと言ったソルレアルに、ティーレが暖かい茶を差し出す。
「二人ともよく来てくれた。会えて良かったよ。きっと、次はないからね」
「……どこか、悪いんですか」
 不穏な物言いに思わずスノウが尋ねるのへ、ゆるりと男は笑った。
「若い頃になかなか無茶をしてね。中がぼろぼろなんだ」
 中、と言ってソルレアルの手が腹を撫でる。その手の甲に術式の起動紋が刻まれているのが見えた。
「治せないの?」
「治さないんだ」
 このまましまいにするのだと老爺は静かに言った。スノウはティーレと呼ばれた少女を見る。ティーレはスノウのまなざしの意味を正確に理解して小さく首を振った。
「それが、アルの望みだもの」
 スノウは口をつぐんだ。彼女は自分と同じ獣だという。ならばその言葉はきっと、自分が知る感情と同じものだろう。主の望みが、獣の望みだ。
「ソルレアル。もしかしてレニシュチの方ではありませんか」
 ふと思い立ったように尋ねたのはイチカだった。
「そうだよ。よくわかったね。名前かな?」
 おかしげに笑って、レニシュチでは姓を先に名乗るのだと言った。
「レニシュチ……」 
 つぶやくスノウにソルレアルは肯定するように浅くうなずく。
「ああ。長く、戦争をしていた国だよ」
 妻と娘を亡くしてからティーレと出会い、それからずっと二人なのだと老爺は静かに言った。その榛色の瞳は深い色をたたえている。彼が背負うものを推し量ることができず、イチカは何と答えていいかわからなかった。
「そっか。俺、全然詳しくなくて。レニシュチって何がおいしい?」
 スノウがすとんとソルレアルの前に膝をつく。何のてらいもなく当たり前につむがれた言葉に老爺は小さく首をかしげた。
「この時期だと鱒かねえ。苦手でなければ茸なんかも豊富だよ」
「チーズとクリームでパイにすると結構おいしいわよ」
「ああ、あれはいいね。うちの秋の定番なんだが、よかったら食べに来るといい」
 にこやかにソルレアルが言うのへ、スノウがそうかとうなずいてイチカを振り返る。
「聞いた? 来られないなら俺たちが行けばいいんだ」
「……それはそうだが、あまり先走るなよ」
 かろうじてそう答え、ソルレアルとレニシュチの話に興じるスノウを見る。老爺の目尻はゆるやかに下がり、ティーレもまた傍らで優しい笑みを浮かべていた。
 真似できない、と思った。レニシュチという単語を耳にした瞬間からイチカは自分の中に暗い印象しか想起できなかった。壮絶な虐殺合戦で総人口の三割以上を失い、内戦終結から十年の時を経てなお焦土と化した大地は食糧不足に喘いでいる。政府は十全に機能しているとは到底言えず、難民の流出も止まらない。そんな国の美しさを、イチカは想像もできない。
「さすが白だな」
 すぐ隣でクズミが小さくつぶやいた。上背が近いイチカにしか聞こえないほどの声に、どういう意味かと問い返す。
「俺たちはずっとこの場所で転生し続けてる。見てくれや性格が変わったとしても魂は同じなんだ」
 それぞれの根底にある性質は変わらない。
「白は神経が細い。繊細すぎて百年も生きられないやつばかりだ。でもその分、守人の気持ちを真摯に受け止めようとする」
 歌うように流れるようにクズミが言った言葉があまりしっくりこない。よく気がつくとは思うが神経が細いとまで思ったことはなく、守人の気持ちを真摯に受け止めるというのも何かが違うような気がした。ただ曖昧にそういうものかとだけ答える。
「ま、長い付き合いになるんだ。そのうちわかるさ」
 ひらひらとクズミが手を振る。どうもこの男は多くを見透かしたような話し方をする。
 再び扉が開いたのはそれからほどなくしてだった。金色の髪の娘とその母親ほどの年齢の、濃茶の髪の女。
「アル。久しぶりじゃないか。体調は大丈夫?」
 部屋に入ってくるなり女は親しげな様子でソルレアルのもとへ歩み寄る。そしてその前に膝を着くスノウを見て顔をほころばせた。
「新しい白の子だね。あたしはファランドール・ターシャ。黄の守人だ。ドールと呼んでおくれ。こっちが、レムリィリ」
 そう言って明るく笑う。短く刈り込んだ髪と体の線に沿った衣服、そして闊達な気風はファランドールを年齢以上に若く見せているようだった。
「久しいね、ドール」
 車椅子に座したソルレアルが懐かしそうに相好を崩した。
「痩せたんでないかい、アル。ちゃんと食べてるかね?」
 スノウは二人に気を使ってそっとソルレアルのそばを離れる。立ち上がると目の前でレムリィリと呼ばれた娘が待っていたように声をかけた。
「名前をうかがっても?」
「あ、スノウです」
「レムリィリです。レム、とお呼びくださいな」
 スノウを越える長身の娘だ。背の中ほどまで伸ばされた髪は見事な金色で、瞳も同じ色彩であった。
「イチカ」
 スノウがイチカを呼ぶ。イチカは応じてそばへ行き、何度目かわからぬ自己紹介をした。ファランドールがイチカを下から上まで丁寧に見上げる。
「いい体してるねえ。何を着せても似合いそうだし、スノウと並べると絵になる」
 ファランドールは眼を細め、何度もうなずいた。
「……それはどうも」
 どう反応していいかわからない。
「せっかくだ、一枚仕立てさせておくれよ。とびっきり似合うやつを贈るさ」
 仕立屋を営む彼女は祝祭の終わったこの時期は手持ち無沙汰だから是非にと言って笑った。イチカは断り方がわからず沈黙を守るほかない。
「ほとんど押し売りじゃない、ドール。パンジュみたいよ」
 ティーレの声音はどこか揶揄する調子だ。
「そうかもね。あれは気は合わないが趣味は合うんだ。腹の立つことに」
 ファランドールは肩をすくめ、そうしてふと尋ねる。
「軍人かい?」
「いや、軍歴はあるが今は事務方だ」
「え、軍服着て仕事に行くのに軍人じゃないの?」
 スノウが驚きの声を上げた。
「毎日定時に帰ってくる軍人がどこにいる。俺の所属は会計監査部だ」
 知らなかったとつぶやくスノウを見てティーレとレムリィリが笑う。クズミもまた同様に笑っていたが、わずかに声の調子を変えてイチカを見た。
「俺が言うのもどうかと思うけど、イチカ。転職できそうならしたほうがいいぜ」
 予想外にまっすぐな双眸が何を言わんとするのかを理解し、イチカはゆるく首を振る。
「もう遅い」
「……そうか」
 気づけばずいぶん人数が集まっているが、これで全部ではないようだ。誰かを待っている気配がある。
「あとは誰が来るんだ?」
「紫の二人」
 紫、と思わずイチカはつぶやく。レムリィリと言葉を交わしていた黒髪の少女が笑った。
「あなたが想像しているようなのは来ないわよ。まぁ、ちょっと派手ではあるけど。パンジュも来るならずいぶん久しぶりに全員そろうわね」
 心なしかティーレは嬉しそうだ。イチカは一同を見渡す。年齢も国籍もばらばらな四人の守人と、それぞれに色を冠した獣。これが、子供の頃から何度も繰り返された五門を担うものたちなのかと思うとどうにも不思議な心地がする。その中に自分がいることも、スノウがいることもだ。
「ヴィーユール、来たぞ」
 紫の獣だとクズミが言う。紫、という言葉にイチカの中で小さな好奇心と期待が首をもたげた。何となく全員が沈黙して扉を見守る。やがてしゃん、と鈴の音がした。
「あれ、もしかして僕たち最後?」
 そんな言葉とともに入ってきたのは黒髪の青年だった。長い髪を複雑な形に編みこんで後頭部にまとめており、その上からいくつもの金細工とビーズの飾りを連ねている。薄い布を幾重にも重ねた衣装の裾には鈴が縫い付けてあって彼が動くたびに涼やかな音を立てた。秀麗な顔はどこか女性めいていて、左目の周囲に魔除けの文様が顔料で描いてある。
「また派手になったねえ」
 つぶやいたのはファランドールのようだ。
「パンジュも大概いい趣味してるよな」
 クズミが笑う。それに対して青年は憮然とした表情を浮かべた。
「最近は奥方たちもだよ……。人を着せ替え人形みたいに」
「ま、身長から髪の色から長さまで自由自在だからな。飾りがいもあるだろうよ」
「君たちだってそうだろ」
「俺たちには飾る金がない」
 からからと笑い声を上げるクズミの隣に見慣れぬ姿を見てとって、青年は歩み寄ってくる。足首には真鍮の足環が重ねてあって、やはり優美な音を纏う。
「君たちが新しい白だよね。僕はヴィーユール。紫の獣だ」
 スノウと同じくらいの背丈だろうか。首が細いせいか、スノウ以上に中性的な印象を受ける。イチカを見上げる瞳が深い紫色をしていた。
「さすがに紫色の髪じゃないんだな」
 イチカの言葉にいくつかの笑い声が重なる。どうやらここにいるものの多くが、イチカの反応を予想していたらしい。
「だから言ったでしょう? 想像しているようなのは来ない、って」
 ティーレだ。この小さな少女は話好きのようで、くるくるとよく笑う。逆にあまり前に出ないのがレムリィリで、おっとりと笑んだまま皆を見守っている。
「紫色の髪なんて目立って仕方ないだろ」
「赤と白も充分目立つと思うが」
 スノウについてはいつの間にか見慣れてしまったが、クズミの赤は視界の端で鮮やかだ。
「目の色以外は変えられるから気になるなら頼んでみれば?」
「本質は変えられないんじゃないのか」
「染められるってことは本質じゃないよ」
「……わからん」
 魔術による線引きがいまいち認識できず、イチカはため息をついた。そしてまだ名乗っていないことを思い出した。
「俺はイチカ。イチカ・ラムダットファン・ロー」
「パンジュほどじゃないけど長いね。君は?」
 紫色の瞳が白い少年を見る。
「スノウ」
 短く答えたスノウをまじまじと見つめながらヴィーユールが何か言いたげに見えたが、何を言おうとしているのかはわからない。するとクズミが横から口を挟んだ。
「初めての弟の感想はどうよ?」
「別にどうとかないよ。ただ、やっぱり若いんだなって」
「お前さんも十分若いぞ」
 クズミの言葉にティーレとレムリィリも笑ったようだった。そのしぐさからおそらくその三人は他の二人よりも年が上なのだろうと思う。
「パンジュは?」
 尋ねたのはクズミの守人だった。サァラの物言いはやはり調子が強く、時折なじるような印象を与える。ヴィーユールは小さく首をすくめた。
「すぐ来るよ」
 彼の守人は自分で転移魔術を行えるのだという。その言葉と時を同じくして魔術師のような気配が降り立ったことを獣たちは知覚する。五門機関付きの魔術師でないことはすぐにわかった。魔術師のようでいて、どこか気配が違うのだ。スノウはその理由がわからず、小さく首を傾げた。ヴィーユールがその横顔につぶやく。
「……パンジュを見せるの、恥ずかしいなあ」
 苦笑を浮かべる紫紺の瞳に困惑し、スノウはまたたく。
「口で説明しにくいんだけど、多分驚くと思うよ。見た目も中身もあくが強いから」
 違いない、とつぶやいたのはクズミで、ティーレとレムリィリも声を潜めて笑っている。首を巡らせてみれば、ファランドールとソルレアルも笑みを浮かべていた。イチカとスノウだけが状況についていけていないらしい。
「わざわざ到着時間ずらしたってことは絶対何か企んでる」
 ヴィーユールが大仰にため息をついたのと扉の向こうで鈴の音がしたのが同時。その獣と同様にしゃんと音がして扉が開く。
「そなたが、新しい白の獣か」
 低く響く男の声が鼓膜を震わせた。薄紅色の花びらが舞い、どこからともなく乳香が香る。見たことがないほど豪華な衣装と装飾品に身を包んだ男が傲然と扉をくぐるところだった。褐色の肌をした堂々たる偉丈夫だ。複雑な模様の織られた布をゆるく頭に巻き、端を肩にたらしている。高襟の裾長い服には金糸銀糸で華麗な縫い取りがほどこされ、羽織る紗には小さく砕いた輝石がちりばめられていた。漆黒の鞘に螺鈿細工が美しい刀を腰に佩いている。年のころは四十を越えるかどうかといったところ。全身が金粉をまとうようにきらきらと光を弾き、風もないのに花びらが男の周囲を舞っていた。
 スノウの灰白色の瞳が大きく見開かれたまま固まっていた。ヴィーユールが大きくため息をつく。
「ふむ、確かにヴィーよりも若いようだ」
 通った鼻梁と丁寧に整えられた髭。低く笑う男の、年を経た醸造酒のような色の瞳。その鋭い眼光に射すくめられる。スノウはまばたきを繰り返すばかりで何も言葉が出てこない。男は、人を無条件に惹きつける強烈なまでの華を持っていた。しゃら、と服の裾の細かな真鍮のビーズが音を立てる。
「お初にお目にかかる」
 背が高い。イチカと同じくらいあるだろうか。
「アフタビーイェ五大部族が一、マニハーイーの次期総領にして金鷲の旗を持つもの。弱きものの希望、孤児の親、ヒラーの獅子たらん戦士、パンジュ・ジス・ルムート・マニハーイーだ。よしなに」
 言われた言葉の半分も拾い上げることができない。
「だから、それやめてって言ってるのに。初対面の相手を困らせて楽しんでるだけだろ」
 状況についていけていないスノウと、楽しげに笑みを浮かべたままスノウを見る男の間にヴィーユールが割って入った。
「花まで散らして恥ずかしいったら」
「マニハーイーの礼を尽くしただけだぞ?」
「……本当性格悪いよね。スノウ、大丈夫?」
 長いため息をつき、ヴィーユールはスノウに声をかけた。スノウは何度かまたたいてもう一度パンジュに視線をやる。気づいたパンジュが満面の笑みを浮かべた。
「スノウ、です」
 他に言えるようなことも思いつかない。何とも言えない沈黙が落ちる。スノウはぼんやりと何かで見た砂漠の王様を思い出した。すぐそこでイチカもまた何度目かわからぬ自己紹介をしている。パンジュは何かイチカに尋ねていたようだったが、やがて一同を見渡して笑った。
「話には聞いておる。アフタビーイェに来るときは是非訪ねておくれ。一族を挙げて歓待しようぞ」
 大げさな身振り手振りの芝居がかった言動をする男にスノウはどう対応していいのかわからず、ただ曖昧に笑った。
「それはいかんな」
 パンジュが大きく息をついて、スノウは首をかしげた。
「愛想笑いなどすべきではない。つまらぬときはつまらんと言って大口を開けて笑えばいいのだ」
 動いた拍子にその衣からも馥郁とした香りが上る。あくまで芝居がかった言動にティーレが呆れた声音を漏らした。
「パンジュ。あなた、新しい子に興味津々なのはいいけど色々度が過ぎているから警戒されるのよ」
「はしゃいでるんだよ、これ」
 ヴィーユールがため息をつくが、パンジュは意に介さない。
「せっかくの守人同士獣同士、仲良くやりたいだけなのだがな。手土産もちゃんと持ってきておるぞ? 人間関係は挨拶が肝心であるからな」
 一向に聞き入れる気配を見せない砂漠の男にティーレがお手上げとばかりに肩をすくめる。パンジュは綺麗な硝子瓶を取り出し、机の上に置いた。広口の瓶の蓋には小さな石が飾られており、石は薄青い燐光を宿してちりちりと明滅している。スノウの目がその石を追う。
「それ、術石?」
「そうだ。純度は四、密度は三。一番汎用性の高い透石を持ってきたぞ。ちなみに瓶の中身は棗椰子の砂糖漬けだ」
「ちょっとやりすぎよ、それ」
 呆れきったサァラの言葉にイチカがすいと眉をひそめ、低くスノウの名を呼ぶ。具体的な価値は、ということらしい。
「金額はわからないけど、容量は執政府通りの街路灯全部を丸一日分くらい」
 イチカが渋面を浮かべる。到底手土産と呼べる金額ではない。ため息をついたのはファランドールだった。
「およしよパンジュ。趣味が悪い」
「何がというのだ刀自。わが国の名物を贈ろうとしておるだけだ」
「あんたが何を考えてるのは予想がつくけどね。それはほとんど悪意だよ」
 その言葉に反論するものはいなかった。パンジュは笑みを崩さぬままイチカを見る。
「ならば本人に問うとしよう。いらぬか?」
 値踏みをするようなまなざしに気づいているのかいないのか、いつも通りの無表情のままイチカはあっさりと首を振る。
「必要ない。気持ちだけ受け取っておく」
「そなたが使わずともなかなかによい値で売れるぞ?」
 いまや同じ重量の金よりもなお高値で取引されるのが術石だ。アフタビーイェ以外で産せず、ゆえに魔術の徒であれば誰もが欲しがる。だがイチカは首を縦に振らなかった。金額よりも出所を疑われるほうがよほど面倒なことになるからだ。パンジュは矛先を変えた。
「スノウはどうだ?」
「もらっても困るなぁ。使い道もないし」
 イチカとの生活で魔術が必要となることはほとんどない。持て余すことが明白だった。
「欲のない主従だ。ならば棗椰子の砂糖漬けだけでも持っていくがいい。これは手土産の範疇であろ?」
 喉の奥で笑うパンジュをヴィーユールが小突く。試すような真似をして何をと言いたげだった。
「パンジュは、魔術師なの?」
 スノウがパンジュを見つめていた。彼の周囲に渦巻く魔力が不思議な流れをしている。彼自身の魔力だけとは思えぬ魔力溜まりのようなものがいくつも形成されており、時折風となって男の回りを吹きすぎる。淡い花弁を舞わせていたのはこの風のようだ。
「さあ、どうであろうな?」
 パンジュはにやりと笑んで見せた。またもや大ぶりな動きで両手を広げ、役者のようにくるりと回転する。きらきらと彼の周囲で光がまたたいて、スノウはようやく男が身につける宝石の全てが術石であることに気がついた。透明のものだけではない。とりどりの色石がその身を飾り立てている。
「そんな純度の色石なんかそもそも市場に出回らないのになんで……」
 色のついた術石は希少で、自然現象に作用する力を有している。石に蓄積されるうちに魔力の質が変容するのだ。畢竟、一般人が手を出せるような価格では出回らない。
「ほう。スノウは魔術に明るいようだな」
 男は満足そうに笑うばかりで答えを与えてはくれない。さらに言葉を重ねようとしたスノウに声をかけたのはイチカだった。
「お前、マニハーイーの名前に聞き覚えは?」
「あるような気はするけど、わからない」
「そうか」
 イチカは嫌がりもせずに説明をする。アフタビーイェは一人の王が統べる国ではなく、部族による合議制をとっている。国を実質的に動かす有力部族を五大部族と呼び、中でもマニハーイーはさらに有力な血筋にあたる。パンジュはそのマニハーイーの次期総領としての地位を約束された男だ。今はアフタビーイェの外交政策の陣頭指揮を執っており、イチカが思い当たる程度には名前が知られている。
「つまり、他の国の感覚で言えば王子様ってこと」
 差し継いだのはクズミだった。
「親父殿が七十を過ぎても現役だからな。わしも四十でまだ王子様というわけだ」
 言いながらまだおかしいのか、パンジュが低く笑う。よく笑う男だ。
「もしわしで役に立てることがあればいつでも連絡をくれればいい。わが名に懸けて、わしはそなたらを助けよう」
「あんたの立場でそんな軽はずみな約束をしていいのか」
「構わぬ。世界でたった五人の同じ境遇の人間だ。いくらでも身びいきくらいしてやろう」
 そう言われ、イチカは改めて五人の守人を見回す。自分と同じ境遇の人間、という言葉が耳の中に妙に残っていた。獣と契約を交わし、その命の主導権を譲り渡した五人。五門機関の言うことが正しいのならば、この五人の上に世界が乗っている。
「魔術職が、いないな」
 守人になることは絶大な魔力を手中に収めると同義で魔術的な成功を約束された人間だと五門機関の男は言ったが、ここにいる守人は皆それぞれの生き方をしている。ソルレアルは故郷でティーレとともに穏やかな生活を送っているといい、ファランドールはレムリィリとともに服飾の仕事をしている。女手一つで育てた子供たちは全員独り立ちしたのだそうだ。サァラは移民や難民を支援するための財団を運営し、パンジュは王族稼業と術石交易の仲立ちと、どちらかといえば魔術からは縁遠そうに思えた。そう告げてみれば、クズミがあっさりと答える。
「たまたまだよ。魔術職に転向する守人は何人もいたし、獣の魔力使って財をなしたなんて珍しくないぜ? 有名人で言えばゼーレンヴィッツ世界銀行の初代総帥は守人だ」
 転移魔術を使って世界各国に支店を作り、今の銀行という業態の基礎を一代で築き上げた。その他、貿易業に従事したもの、未開の土地の開拓をしたもの、魔術研究に没頭したものなど、道の選びようは様々だ。
「うちもまぁ裏では色々やってる。表の財団守るためには必要なことだ」
「本当はやめてほしいのだけれどね」
 サァラが柳眉をひそめるのへ、クズミは肩をすくめてみせる。
「まぁいずれな。今はきれい事だけで回せる地力がない」
 そうしてイチカの名を呼んだ。
「パンジュじゃないけど、何かあったら頼ってくれ。本部はダジューだ。アフタビーイェよりは近いだろ。一人二人、便宜を図るくらい問題ない」
 旅券がなくても訴追される身であっても何とかしてみせると、真摯な声が告げる。初対面で向けられるには重いその感情をどう受け止めていいかわからず、イチカはただうなずいた。
「さて、一通り自己紹介も終わったわね。スノウ借りるわよ」
 委細構わずティーレがそう言って、半ば連行するようにしてスノウを部屋から連れ出していく。困惑しきったスノウが声を上げるが、意に介してもらえない。
「色々積もる話もあるだろうし、説明よろしく」
 クズミが後ろ手にひらひらと手を振って、そうして扉が閉じられる。止めようもないままにイチカは何度かまたたいて思わずつぶやいた。
「戻ってくる、んだよな?」
「大丈夫、同窓会みたいなもんさ」
 ファランドールが言って、サァラがため息をつく。
「先代の白の守人は、一度もあの子を来させなかったのよ」
 吐き捨てるような口調だ。サァラの言葉はどこか強い。無意識にイチカの体に緊張が走る。
「何か、問題が」
「おおありよ」
 サァラが肩に落ちかかる巻き毛を払いのけながらイチカを見た。
 元々、獣と呼ばれる五人は一つの魂を分けて生まれた。不完全な魂は本体が眠る五門に来ることで安定する。特に若い個体はそれが顕著で、目に見えて体調が違うらしい。
「……想像に余る」
 その類いの話に正直付き合いきれないというのが本音だった。何一つ実感を持つことの出来ない当たり前を押しつけられることにいい加減辟易している。だがそれを言葉にしてしまえばサァラはこちらを責め立てるのであろうことは容易に想像できて、イチカは言葉を飲み込んだ。魂がどうのという話は理解しがたいし突き詰めるつもりもないが、己が今後どう行動するのが望ましいかということだけは了解した。
「スノウくん若い上に前の守人が十年しかもたなかったから、ずいぶん弱ってたって聞いたわよ」
 その言葉に少しだけ引っかかりを覚えたが、正体が知れない。ただ違うことを思い立ってそちらを尋ねた。
「五門機関にいたんじゃないのか」
「守人のいない獣は五門に近づけさせないのよ。どういうわけか」
 サァラは肩をすくめた。
「何か隠してることがありそうなんだけど、クズミもだんまり決め込むのよね」
「物事には話す順番てものがあるからね。そう焦らなくてもいいだろうよ」
「わかってるわ」
 ファランドールにたしなめられ、我慢してると言ってサァラがふいとそっぽを向く。ふとイチカがパンジュを見れば、先ほどまでの饒舌さが嘘のように黙してこちらのやりとりを見守っていた。三人掛けの椅子を一人で占領してくつろいだ様子に見えるが、双眸はどこか思案げだ。
「ん? どうしたイチカ」
「いや、何でも」
 ゆるりと首を振って、イチカはため息をついた。情報量が多すぎてそろそろ疲弊してきたのを自覚する。
「まったく、手に負えない話ばかりだ」
「わかるよ。僕も突然のことに最初はずいぶん戸惑ったものだ」
 ソルレアルだった。なだらかな声が耳に心地よく、イチカをねぎらう調子にふっと肩の力が抜ける心地がした。
「大きな話にばかり目がいってしまうけれども、結局は人と人の話だ。大丈夫、君たちはうまくやれる」
 スノウくんを見ればわかると言って、老爺はやわらかく笑った。
「……彼のありように俺は寄与していません」
「彼が年相応に振る舞えるというだけで充分だよ。本当に、充分だ」
 噛みしめるように言って、ソルレアルがポットを手に取る。いつの間にか花の香りの茶が用意されていた。
「矢車草の花を入れてあるんだ。良かったら少し持って帰るかい?」
 レニシュチの茶葉なのだという。
「……ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
 イチカはカップを受け取った。
しおりを挟む

処理中です...