獣は遠き約束を胸に抱く

夜渦

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3.糸

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3.糸

 週が明けて、今日もいつもの日常が訪れる。イチカは寝起きのぼんやりした頭のまま玄関の新聞を取り、炉に火を入れる。見出しだけをざっと追いながら、無意識のうちに眉をひそめた。
「おはよう、イチカ。朝から怖い顔でどうしたの」
 スノウも起きていたらしい。新聞を読むなら引き受けるという言葉に甘えてイチカは炉の前を退き、朝食の仕度を任せた。矢車草の茶葉を使うように言えばスノウが小さく笑う。
「アルのお土産だね」
「ああ。──しばらく忙しくなるかもしれん。もし俺がいつもの時間に帰ってこなかったら待たなくていい」
「何かあった?」
 浅い鉄の片手鍋に油をしいて卵を割り落としながら灰白色の瞳が尋ねる。
「南西国境での小競り合いが少し大ごとになってきた。サイスタからも人を出す必要があるかもしれん」
 出勤してみなければわからないが、騒ぎはしばらく続くだろう。国境付近の街の人間が隣国に寝返り、民間人による駐留軍への無差別攻撃が頻発している。
「俺やイチカが駆りだされるってこと?」
「いや。それは基本的にはないはずだ。まだそういう交渉段階にすら入っていない」
 いくら何でも会計の人間とただの一般人を戦場へ送る方便は用意できまい。頁を繰りながら答えるイチカにうなずきながら茶のカップを置き、スノウはパンを切る。卵のほかに腸詰を炙ったのと、林檎。
「前から思っていたが手馴れているな」
「こればっかりやってたし、嫌いじゃないしね。それを言うならイチカだって相当まめな方だってラーズが言ってたよ。炉のある部屋って高いんでしょ?」
 ラズバスカは食事は外でと割り切って炉のない部屋に住んでいるという。
「燃費が悪いから自炊した方が安いんだ」
「結構容赦なく食べるもんねえ」
 スノウがまた笑う。無意識にその表情を追いながら、五門機関に赴いたのはよかったかもしれないと思った。どこか険が取れたようになり、よく笑う。ふるまいのぎこちなさが減ったようにも感じられて、兄弟に会うというのはどうやら彼にとっていい方向に働いたようだ。
「今日は遅いのか」
「多分、夕方には帰れるんじゃないかな」
 まだ身分証の発行がないため正式な雇用ではないが、できるだけ早いうちにとのことでスノウはラズバスカの勤め先に出入りするようになっていた。見た目も経歴も能力も異質なスノウを早くなじませてやろうとしているのだろう。ラズバスカらしい、とイチカは思う。
「わかった。戸締りだけちゃんとしてくれ」
「はーい」
 スノウが食べ終わらぬうちにイチカは早々に食事を終え、立ち上がった。
「それと、俺の予定が合わなくても例の会合には行けよ。お前は特にひどいありさまだと言われていたぞ」
 シャツの袖口を止め、椅子の背にかけていた上着を羽織る。段々と上着を着て出勤するのが暑くなってきた。
「自覚はないんだけど、そうらしいね」
「皆、心配しているらしい」
「……俺を?」
 意外そうにスノウが目を丸くしてイチカを見る。浅くうなずけば、やがて嬉しそうに破顔した。
「そっか。みんな、優しいね」
「言葉はきついがな」
 イチカが小さくため息をつく。
「サァラのこと?」
「ああ。なかなか苦手な部類だ。ずいぶんな正義感だった」
 心情としてはかなりサァラに賛成する部分が強いのだが、なにぶんあの物言いである。イチカは肩をすくめ、面倒はごめんこうむると苦笑した。
「義憤で突っ走ってかえって周囲を苛立たせる、ってティーレが言ってた」
「言い得て妙だな。獣まで潔癖でなくてよかった」
 とりあえずクズミは話ができるからと心底苦手な様子を見せる。
「丸くなったんだってよ、サァラ」
「……あれでか」
「うん」
 おおらかだなとつぶやくのを見て、クズミのやり方は子育てのようだと言われていたのを思い出した。
「俺はイチカに育てられてるから逆だな」
「養育はしていないぞ」
「でもほら。まっとうに生きろ、って言ってくれたじゃない」
 それはスノウの中の何かを育てる言葉のように思えた。だがイチカは肩をすくめるばかりだ。
「特別なことは何も言っていない。俺に魔術云々はわからない以上、人として扱うしかないだろう」
「ふふ、俺イチカのそういうとこ好きだよ」
 当たり前に口にされる理想が、心地いい。
「そいつはどうも。──行ってくる」
「いってらっしゃい」
 灰白色の瞳に見送られ、イチカは出勤していった。
 スノウの仕事は順調らしかった。元々魔術の知識はあるし、経験もある。さらに技術的なあれこれを言葉で説明するのも上手い。門外漢のイチカから見てもあまりつまずくような気はしなかった。何より本人が楽しそうだ。仕事として何かを任せてもらえること、他の人間と関係を築くこと、どちらも彼が今まで経験してこなかったことで、新しい世界が開けたようだと笑っていた。ラズバスカ主導で会社の皆と一緒に昼食会もしたようで、連日スノウの話題は尽きることがない。
 良い兆候だと思う。獣と守人の外側の世界は彼に多くを与えるだろう。イチカはこれから一気に忙しくなる。イチカのいない家で一人ぼんやり待っているような時間がないに越したことはない。ふっとイチカはくちびるの端で笑った。
「いいことだ」



「ラムダットファン。監査室だ」
 出勤するなりツヴェンがそう言った。
「面倒なやつだから俺も行く」
 イチカの返事を待つことなく会計監査部部長は上着を手に立ち上がる。慌ててイチカは必要なものを支度して後を追った。二人並んで回廊を歩む。
「俺はなぁ、ラムダットファン。お前のこと買ってんだよ」
「……恐縮です」
 平坦な声音で突然言われてイチカは返答に窮した。背中を丸めたツヴェンはいつものようにイチカに視線をやることもなく、続ける。
「仕事は丁寧だし余計なことは言わねえし感情的でもねえ」
 突然賛辞を並べられて困惑しきったイチカは、はぁとあやふやないらえを返すことしかできなかった。
「だからまぁ、コッチの仕事も任せてきたし長く関わらせるつもりでいたんだけどな」
 それは表に出せない類いの会計書類だ。密偵の活動費やら捕らえた情報提供者の処理やら、人知れず焼き払った家屋の地権代やら。表向きは雑費だとか運営費だとかいう名前をつけて計上される数字の裏側をイチカは担当していた。それは人の命を数字にする作業に他ならず、スノウに思わず最悪の仕事だなどとこぼした記憶がある。だが自分はその仕事を辞するでもなくこうして文句を言いながら日々を送っているのだから、最悪なのは自分の方なのかもしれない。
 ── イチカ自分で言うほど安定志向じゃねえって。
 ラズバスカの言葉を思い出す。確かにそうだ。この仕事を任されるということはツヴェンが言うとおりそれなりに期待されているということだし、いずれ中央に抜擢される道もある。魔術に関する一切を持たぬイチカにとって数少ない出世の手段だ。積極的に出世を望まないが自ら外れるつもりもない。そんな中途半端な場所にいるのだと唐突に気がついてしまって、イチカは苦い顔をした。
 二人がやってきたのは監査棟と呼ばれる建物だ。両開きの扉の片側は封鎖されており、細く開けられた隙間から身を滑り込ませるようにして中へと入る。衛戍の金銭関係の会議や会計監査などが行われる建物で、その機密を維持するため、必要最低限の人間しか出入りを許されない。出入り口は一ヶ所、窓もすべて鉄格子がはめ込まれている。北側の立地と石造りのおかげで建物内は夏とは思えぬほど涼しかった。
 硬質な音を立てて階段を上り、監査室に足を踏み入れる。イチカが先で、ツヴェンが後。当たり前に自分が先に通されたことにちり、と何かが引っかかって振り返れば、ツヴェンが扉の錠を下ろしたところだった。
「……部長?」
「いやほんと、手塩にかけた部下を手放すことになって残念だ」
 変わらぬ平坦な声音だが、じろりをこちらを見上げるまなざしが鋭い。イチカの体に緊張が走った。
「よかったなラムダットファン。栄転だ」
 イプリツェに行け、とツヴェンは言った。
「軍総監魔術局付、正式な辞令は出るんだっけかな。まぁ何でもいい。そういうことだ。──白の守人」
 すっと内臓の奥が冷える心地がする。じわじわと何かが足下を這い上がってくる。
「あの白い坊やが獣か? まぁ俺にはよくわからんが、とりあえず魔術局の連中は大盛り上がりだそうだ。今まで術者不足魔力不足で起動できなかった術式がわんさかあるんだとさ」
 心底興味がなさそうに男はため息をついた。
「んでまぁ、わざわざここまで連れてきたのは特級機密ってこともあるが……自分の意思で行ってもらわにゃならん。中央も五門機関と戦争する気はない」
 上司の言葉が遠い。最悪だ、と思った。
「故郷の親とあの新聞記者、どっちがいい」
「……どっち、とは」
「言わせる気か?」
 ツヴェンの声に感情は乗っていない。けれど視線はイチカをとらえて離さない。人の顔を見て話をしないと語り草になっている男が、まっすぐにイチカを見据えている。
「小指から順番だ。お前が行くと言うまで」
 ぎり、と奥歯を噛みしめた。かつて口にした言葉が耳の奥に響く。
 ── とりあえずの日常を守って生き延びるか、いっそ殺してくれと思いながら生かされるか。
 これは、どちらだ。
「……家を引き払う時間が欲しいのですが」
 声がかすれていた。
「三日だ。普通はそういうのやらねえんだけどな。五門機関の手前、ただの転勤としての体裁は整えてやれる」
 まぁ餞別だとツヴェンが言って、同じ声のまま続ける。
「余計なことは考えるなよ。獣が来た日に逃げなかったお前が悪い」
 イチカは答える言葉を見つけられなかった。ただ黙してツヴェンを見つめる。
「俺としては下策だと思うがな。こんな脅す真似して五門機関に泣きつかれでもしたら元も子もねえ。ただの転勤として首府に出向させてあっちで拘束すりゃ話が早えってのに、エヴェリエ中将閣下も功を焦ったかね」
「……俺を拘束する理由がありますか」
「お前、坊やを人間として育ててるだろ。そういう情の入れ方してるやつに、術式開発用に獣を差し出せって言ったときの面倒さを上も理解してるのさ」
 その言葉にここまでの生活を監視されていたのだと知る。よく考えれば当たり前のことだ。同時に中央がスノウをどう扱おうとしているのかを嫌というほど理解させられて、どうにもならない感情がこみあげてくる。
「ま、話は以上だ。どうする?」
 こつん、とツヴェンが拳で扉を叩いた。



 イチカは何事もなかったように会計監査部の部屋へ戻り、己の席に着いた。お疲れと声をかけてきた同僚にああとうなずいて見せ、そして本来の業務である会計の計算を再開した。ただ淡々と数字を合わせ、記録していく。午後はそうして時が過ぎて、イチカは定時に家路についた。ツヴェンとは一言も言葉を交わさなかった。
 衛戍を出てサイスタの街の方へ足を向け、停留所で乗合馬車を捕まえる。長身を小さくして座席に納め、窓の外を見やった。夏の夕暮れに沈む街はぽつぽつと灯りを灯し始め、川面に橙の光がゆらめく。それを眺めながら、引っ越しの支度をしなければとぼんやり思った。荷物が多い方ではない。スノウもまだ暮らし始めたばかりで男二人、身軽なものだ。首府はサイスタよりも東の平野部にあって、後背に山を負った新しい街だ。徹底した都市計画に基づいて作り上げられた街並みは整然として美しく、機能的で清潔だった。そこに行くという。おそらくは国が用意した住宅をあてがわれて、魔術局への出向という形になるのだろう。
 ──そうして、スノウを差し出す。
 何かがせり上がってきて、イチカは衝動的に口元に手をやった。
 魔術局がスノウに何をやらせようとしているのかはわからない。それがどの程度彼に負担をかけることで、どの程度人道に触れることなのかも知らない。ただ、脳裏にソルレアルの姿が浮かんだ。老爺は若いときに魔術で酷使しすぎて体を壊したと言っていた。魔術とは代償なしに何かを為せる技術ではないのだ。必ず術者に返ってくる。ゆえに術石という新しい技術に世界中が飛びついているのだとラズバスカも言っていた。人間を消費することなく恩恵だけを受けることが出来る夢のような技術なのだと。世界はようやく魔術から人を守ろうとし始めたと。ならば。
 ──スノウはどうなる。
 彼は人ではない。少なくともそういうことになっている。しかもイチカを掌中に収めてしまえば逆らうことなどできはしない。ただそれだけのことが、魔術局の人間を歓喜させている。一級魔術師五人分の魔力を蓄えた異形をどう扱うのか、想像したくもなかった。
 馬車はヘレ川を越え、市街地に入って止まった。ちょうど執政府通りと交差するあたりだ。馬車を降りたイチカは外の空気を大きく吸って、気持ちを落ち着ける。馬車に酔ったわけでもないのに吐き気がしていた。
 ──俺は、間違えたのか。
 遠くに逃げよう、と言ったスノウの言葉に従えばよかったのだろうか。否、そんなことをしたところでラズバスカや親元に人が派遣されて知りもしないイチカの居場所を聞き出すために拷問にかけられたことだろう。
 ──ならばこれが最善なのか。
 是、と到底思うことができない。違う、と心が叫ぶ。けれど正解はわからない。今からでも遠くへ行くべきなのか。スノウの力を使えば可能だとすでに証明されている。クズミもパンジュもいざというときは受け入れると言っていた。その言葉に嘘はないだろう。けれど。
 ──結局スノウを利用するのか。
 彼の力はイチカの力ではない。自分で抗うこともせず、交渉することもせずに、人の力で助かろうというのか。スノウにはまっとうに生きろとうそぶいておきながら。それはあまりにもスノウに対して不実に思えた。
 ──けれど他に、何ができる。
 閉塞感に息が詰まる。
 執政府通りを南に下り、道を渡った。居酒屋の灯りが石畳を照らし、調子のいい客引きの声がする。肉を焼く匂いがただよっていた。ふと視線をやれば今日の夕食をどうしようかと真剣に店を選ぶ人がいて、すでにできあがっている酔っ払いがいて、久方ぶりの友との邂逅に笑う人がいた。どうしてか数歩の距離にあるその光景があまりにも遠くまぶしく感じられて、イチカは心臓が締め付けられる心地がする。同じ地面に立っていながら自分だけが隔絶されている感覚に、何もかもを投げ捨ててそちらへ飛び込みたくなる。イチカは長く長く息を吐き出して首を振り、胸元に手をやった。今はそれどころではないのだ。そのとき、声がした。
 ──さみしいか?
 突然視界が真っ白に灼ける。がくりと膝が崩れる。何かに呑まれそうになる。それが何かはわからない。知らない誰かの歌声。遠のきかけた意識をなけなしの理性でつなぎとめる。何が起こったのか理解できない。耳だけが周囲の音を拾い上げる。馬の悲鳴、男の怒声、腹部への強い衝撃。かすかな浮遊感と全身を貫く痛み。そして、自分を呼ぶ声。
「イチカ──!」
 気づけば男は道の端に座り込んでいた。馬車の道と人の道を分ける敷石の上で呆然と周囲を見上げる。彼の周りには人だかりができかけていた。血相を変えた男がこちらに駆け寄ってくるのと、そのすぐ背後で馬車の馬が興奮したように蹄を鳴らしているのが見える。
「大丈夫かあんたら!」
 御者の言葉に、イチカはようやく腹部の違和感に気がついた。イチカの腹に白い頭が埋まっている。
「スノウ……?」
 思わず名を呼べば、がばっと少年は顔を上げてイチカを怒鳴りつける。
「何をしてるのイチカ! 死にたいの!」
 灰白色の瞳は怒りに燃えているようだった。イチカはぼんやりと何が起きたのかを理解する。
「……すまない。ぼんやりしていた」
「ぼんやりで轢かれないでよ。びっくりしたよ」
 スノウが長いため息を吐き出した。そして立ち上がる。周囲の目がどこか恐ろしげに少年を見ているが、歯牙にもかけずスノウが御者の男に頭を下げた。イチカに代わって謝っているらしい後ろ姿をどこか遠くのことのように思いながら、イチカは何度か手を握ったり開いたりを繰り返す。間違いなく自分の体だ。そんな当たり前のことを確認せずにはいられなかった。
「イチカ、大丈夫? 立てる?」
 どこか具合が悪いのかと戻ってきたスノウが心配げにのぞきこんでくる。
「……ああ。お前、何でここに」
「ちょうど戻ってきたところだよ」
「そうか。順調だったか」
「うん。俺はね」
 イチカは立ち上がる。体はふらつくことなく、しっかりとしていた。自分のことながら何が起きたのか把握できていないが、おそらく馬車の前に飛び出してしまったのだろう。丁寧に御者に謝罪をし、改めて家路についた。御者が突っかかることもなく素直に引き下がったのはイチカの体格と服装のゆえだろう。軍には関わりたくないと思ったのか、ほどなくして見物人も三々五々に散っていった。
「魔術を、使ったのか」
 どうやって自分を助けたのかを問えば、スノウはゆるく首を振った。
「使ってない。咄嗟のことだったから、飛び出して抱えて飛んだだけ」
 イチカがまたたく。長身のイチカをスノウが抱えて道の端まで飛んだのなら、人だかりができるのも納得がいった。非現実的な光景に違いない。
「よく、そんなことができたな」
 スノウを見下ろす。彼は今やイチカの肩に届かないくらいの背丈しかない。
「見てくれと能力が一致するわけじゃないからね。結構力持ちなんだ。それよりイチカは大丈夫? まだ顔色悪いけど何かあった?」
 見上げてくる灰色の双眸から逃げるように視線をそらし、イチカはゆっくり首を振った。彼は人間ではないのだという事実がいやに頭をよぎる。
「いや、特に。少々面倒な案件があっただけだ」
「前言ってた最悪なやつ?」
「……ああ」
 最悪の中でも一番の最悪だ。そうつむぎかけた言葉を飲み込む。
「そっか。でも本当に気をつけてね。今日は俺がいたから良かったけど、乗合馬車とぶつかったら死んじゃうよ」
「……ああ、そうだな」
 彼に告げなければならない話があるのに切り出すことができない。イチカは長いため息をついて、違うことを口にした。
「すまないな。疲れているのかもしれん。今日は早く休む」
「そうするといいよ。あ、そうだ林檎がまだあるよ」
「ウォルター夫人にもらったやつか」
 スノウがうなずいて、甘いものを食べてゆっくり休めばいいと穏やかに笑った。彼はいつの間にか隣人に気に入られたらしい。挨拶をしただけだと言うが、人なつこい質だ。それ以上のやりとりがあったのだろう。
「気に入られたようで、何よりだ」
「多分好奇心だろうけどね。イチカによろしくって」
 二人は家路を急ぐ。何の変哲もない平日の風景。夏の長い夕焼けが影を濃く落とし込む。昨日と同じ景色だ。その中に屈託無く笑うスノウがいて、イチカはそれを眺める。
「ラーズがおすすめって言うパン屋さんで黒パン買ってきたよ。夕飯に食べよう」
 少年が抱えた包みを見せる。今日はラズバスカと資料探しのために本屋を巡り、記事の校正をして、ついでに翻訳の真似事のようなこともしたと嬉しそうだった。
「……そうか。よかったな」
 イチカの声の固さに気づくことなく、スノウは少しはしゃいだ調子で隣を歩いていた。
「お給料が出るようになったらちゃんと家賃払うからね」
 当たり前のようにつむがれた言葉に少々面食らう。
「それは気にしなくていい」
「でも俺、居候なんでしょ? できるだけイチカの負担にならないようにしたいなって」
「……考えておく」
 他に答えようがなかった。彼の世界が確実に広がっていることを確かに喜ぶ自分がいるのに、同時にその無邪気な物言いに神経が逆立つ気がした。決して向けてはいけない言葉を胸の奥に押し戻す。
 ──守人にならなければ。
 昨日と同じ明日を守れたのに。
 転勤の話は、できなかった。
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