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3.糸
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窓を開け放てば、秋の日差しが色づき始めた山肌を照らしていた。実り豊かな季節の太陽はやわらかな金色を帯びて湖面にきらきらと光を散らす。少し冷え始めた空気を室内に入れながら、少女は振り返った。
「いいお天気よ、アル」
「ああ、山の色が秋になってきたね」
寝台に上体を起こしたソルレアルが眼を細める。その背にクッションをいくつかあてがって支えにし、ティーレは茶を入れるために台所に向かった。軽い足音が響く。
ホローグ湖のほとりに建てられた小さな家に二人は暮らしていた。家の周囲の小さな畑が二人で暮らすに足りる程度の実りをつけ、不足はティーレが街へ買い出しに出る。太い木を組み合わせて作られた家には手織りの敷物が何枚も敷かれ、大きく切った窓からは湖とその背後に迫る山々を眺めることができた。短い夏を終え、すでに山は秋の支度を始めている。標高が高く山深いこの場所では夏も秋も一瞬で過ぎる。だからこそ秋は輝くような美しさをたたえていた。
「いい季節だ。本当に」
噛みしめるように言って、ソルレアルはありがとうとつぶやく。ティーレが視線を上げた。
「ティーレ。君のおかげだ。秋を美しいと思えるようになった」
「私じゃないわ。アルががんばったのよ」
「はは、そんなことはない。そんなことはないんだ……」
榛色の双眸が己の手を見た。左の手の甲に刻んだ起動紋章。それはソルレアルの体内魔力の生成速度を上げて出力を円滑にするためのものだった。かつてあの戦争の中で魔力を切らすことなく術式を回し続け、己の心の空白を埋めようと吠えながら文字通り命を削って魔術を行使した。その代償に内臓は傷つき、実際の年齢よりも十も老け込んで死期を迎えている。老いた手に紋章だけは褪せることなく残っていて、否応なく己の所業を突きつけられる心地がする。
「僕は君に甘えて、すぐいい方に回ってしまうな」
男は乾いた声で笑った。
絶望の秋、と呼ばれた争乱がある。平地にも秋の気配がただよい始めた、晴れた日だった。秋の風に麦の穂がさざめいてそうして、虐殺劇は幕を開けた。あまりにも突然のことに人々は惑い、怯え、散り散りに逃げ回ったが、今思えば不穏は以前から日常に忍び寄っていたのだろう。何年もかけて綿密に下地は整えられていた。
レニシュチにはレニシュチ人とテトリ人がいる。同じ土地に暮らすまったく別の系統の人々だった。レニシュチ人の方が人口は多かったが、潜在魔力量が多いテトリ人が様々な分野の要職に就いていた。それは必要な能力に応じた当たり前の分担のはずなのに、気づけばレニシュチ人の劣等感を煽り、テトリ人の選民意識を育てていった。数で勝るレニシュチ人を押さえ込むためにテトリ人は魔術権益の独占を図り、レニシュチ人は土地を開拓して経済基盤を作り上げていった。目に見えぬ分断は少しずつ少しずつ亀裂を深め、少しずつ少しずつ分離政策が進んでいった。いつしかソルレアルはレニシュチの集まりに妻と娘を連れて行くことができなくなった。妻がテトリ人だったからだ。逆もまたしかりで、テトリとレニシュチの夫妻は奇異の視線にさらされるようになっていた。兆候は間違いなくあったのだ。それなのに、ソルレアルは黙殺した。
──関係ない。
そう言って。そうしてあの、秋の日。美しく晴れ渡った青い空に黄葉が映えていたことを鮮明に覚えている。誰かが立ち上がれと叫んだ。そうして気づけば人々は手に武器を取り、煽動されて隣人たちを襲った。同じ街で、同じように暮らしてきたテトリ人とレニシュチ人が互いに渾身の憎悪を込めて殺し合いを始めた。そうしてソルレアルは、妻と娘を失ったのだ。
「……実を言うとね、あまり覚えていないんだ」
何がどうしてそうなったのか、記憶は曖昧だった。ただ妻と娘は鍬で頭を割られ、ソルレアルは傷を負いながらも生き残った。気づけば彼はレニシュチ人の民兵組織の中にいて、テトリ人掃討作戦に参加していた。元々が魔術師だ。やれることはいくらでもあったし、抵抗もなかった。ただ胸の穴を埋めるように術式を回し、もっともっとと望んで起動紋章を刻み、命を数字に変えて屠っていった。
「君にとんでもない汚れ仕事をさせてしまったという後悔はあるのに、罪悪感はないんだ。こんな穏やかな日を迎える資格なんて無いはずなのに」
ソルレアルは手の甲を撫でる。今はただの刺青と化しているそれはかつて、ティーレにつながっていた。あの日ソルレアルの眼前に降り立った少女は確か、今よりもずっと年嵩の姿をしていたはずだ。濡れたような漆黒の瞳にソルレアルは吠えた。
──今更何をしに来た。
彼女がもっと早く現れていれば、自分は家族を守れたのに。
ティーレは答えなかった。次々と罵声と怨嗟と後悔を吐き散らす男の言葉をただ聞いていた。そうして男と契約をしたのだ。より多くを殺すために、より多くを奪うために。男は少女の魔力を使うことをためらわなかった。人ならざるものの魔力量を体に流し込んで回し続け、死に急ぐように戦場を駆け抜けた。そうして。
──あなたは、さみしいのね。
ぽつりとつむがれた言葉。淡く笑んだティーレの顔がどうしてか直視できなくて、男はくずおれた。突然涙があふれて、何もかもを手放して泣きじゃくった。言葉にしてしまえばあまりにも簡潔な、けれどどうしても振り払えぬ感情のためにあらゆるものを燃やしたのだと今更に気づかされて、流す涙とともに何かが体の中から抜け落ちていったのを覚えている。
「私に善悪はわからないわ。ただアルが、この場所でそれでも生きようとしていた。ならその道行きをともに行くのが私の役目。あなたと光を探すのが私の生きる理由。それだけ」
何もかもを捨てて戦場を去った男の傍らに少女の姿だけがあった。二十年、彼女は隣にあり続けている。変わらぬままの姿で。どこか彼の娘に面差しの似たその姿を望んだのは他ならぬソルレアルだった。命をやる代わりに娘を返せと彼女にぶつけるべきでない感情をたたきつけ、決別できぬままここに至ってしまった。男の表情が歪む。
「僕は、きっと君の手を放すべきだった。自分一人で背負うべきものを、自分で向き合うべきものを、どうして……」
「残念、あなたが手を放しても追いかけるだけよ。言ったでしょう。私に善悪はわからないの。人間じゃないんだもの」
だから、とティーレは困ったように笑った。
「あなたを断罪してあげることもできなかった」
ソルレアルの手を取ったティーレはレニシュチを転々とした。戦火が迫れば居を移し、成長しないことを疑われれば交わりを断った。度重なる干魃も食糧難も関係なかった。ないのならあるところから持ってくるまでだ。ティーレは惜しげなく己の力を使ってソルレアルを生かした。戦争を生き延び、飢餓をくぐり抜け、彼が望むままに時を止めて生きてきた。けれどその中で、彼の行為に言及したことはなかった。彼が奪った命の数も、傷つけた人の数も、数えることに意味を見いだそうとは思わなかったのだ。
「これで良かったのかわからないのは、私も同じだわ」
少女が微笑む。二人きりの世界に閉じこもることなく時を止めることなく、彼を人の中に帰すべきだったのかもしれない。そう思ったことは何度もあった。クズミやレムリィリにこぼしたこともある。それでも、彼が今を穏やかに過ごせているという事実を捨てることができなかったのだ。彼女にとって、彼の平穏は何ものにも代えがたく、少なくともこの国は人の温かさを信じられるような状況にはなかった。他の国へ行けばまた違ったのかも知れない。だが彼はレニシュチにいたいと望んだのだ。
「ねえ、アル。私はあなたをもっと広い場所へ連れて行くべきだったのかしら」
そうすればあなたは。
──さみしくなかったかしら。
彼とともにあることはできる。ともに歩むこともできる。けれど、それだけだった。彼の抱えた根本的な孤独と喪失感をどうすれば癒やせたのか、今なおわからない。
「ふふ、君がいてくれたんだ。寂しくなんかなかったさ」
ソルレアルが笑う。穏やかに、なだらかな声で。
「君がいてくれた。僕自身が捨てようとしていた僕を、惜しんでくれた。愛してくれた」
十分すぎると言って老爺は目を閉じた。ありがとうとつむがれる声音が少し照れくさく思われて、ティーレはことさらに明るい声を上げる。
「珍しくしんみりしちゃったわね。もっと楽しい話がいいわ。昨日焼いた林檎のパイでも切りましょうか」
どのくらい食べられるか尋ねようと面を上げたティーレはわずか息を呑んだ。目を閉じたソルレアルの呼吸が浅い。少女の目には男の魂の輪郭が揺らいで見えた。それはつまり、彼の旅立ちを意味する。静かに立ち上がり、ソルレアルの手を取る。その手の甲に触れる。
「ティーレ」
かすれた声が名を呼んだ。
「話の途中にすまないね。眠気が強くて、少し眠ろうと、思うんだ……」
「わかったわ。窓、開けておくわね」
常と同じ調子で答えて、少女はそっと男の頭を胸に抱いた。榛色の瞳の焦点が合わない。男は窓の向こうを見ている。乾いたくちびるが切れ切れにティーレではない誰かの名を呼ぶ。ティーレが会うことのなかった二人だ。
「大好きよ、アル。あなたの道行きにどうか、光がありますように」
獣の魂は地に留まる。新しい守人を選ぶ。ここから先をともに行くことはできない。ただ見送るだけだ。彼と過ごした二十年を思う。この道行きは彼にとって幸福だっただろうか。そう尋ねかけて、飲み込んだ。少女のくちびるが笑みを引く。心に決めていた一番とびきりの笑顔でもって、男を送り出す。
「──さようなら」
永の別れであった。
黒の守人の死を、四人の獣は本能で知る。クズミは出勤したばかりの財団の事務所で、レムリィリは夕飯の支度をしながら、ヴィーユールは砂漠の月光の下で、そしてスノウは夕食後の茶を選びながら、ソルレアルの死を知った。四人はゆっくりと空を仰ぐ。
──さようなら。
涙が一筋、こぼれた。
「……どうした」
イチカに問われ、スノウが振り向く。頬を涙に濡らしたまま、静かに言った。
「アルが、死んだよ」
イチカの黒い瞳が見開かれる。
「ソルレアル氏か……?」
スノウが浅くうなずく。自分たちの魂が元は一つなのだと思い知らされる心地がする。気持ちが落ち着かない。ティーレの悲しみが流れ込んでくる。
「もう長くないって聞いてはいたんだけど」
早すぎるとつぶやいてスノウは頬の涙をぬぐった。
「他の兄弟の守人までわかるんだね。知らなかったよ、俺」
どうしていいのかわからず、スノウは棚から矢車草の茶葉を出す。イチカはそれを止めなかった。穏やかな榛色の瞳を思い出す。
──僕はもう次は来られるかわからないけれど。
ただ一度会っただけの人物がこんなにも心の中に強く残っていることに、少なからず驚いた。彼は自分の死期を知っていたのだろうか。レニシュチの内戦を生き延び、獣と二人きりで二十年を生きたという人生は、幸福だっただろうか。守人という生き方を、彼はどう感じていたのだろうか。イチカは柄にもなく彼の人生を思った。
「アルは……幸せだったかな……」
スノウが同じ言葉をつむいだ。イチカはゆっくりと少年を見る。
「ナナは、……たぶん幸せじゃなかった。アルは、どうかな……。俺たちは、見送ることしかできないから、幸せだったら……いいなぁ……」
矢車草の茶葉を入れた硝子瓶を持ったまま、スノウの双眸から涙がこぼれていた。イチカは答える言葉を持たない。拳を握って、開く。手慰みにそうしながらただ低く、そうだなと答えた。
「いいお天気よ、アル」
「ああ、山の色が秋になってきたね」
寝台に上体を起こしたソルレアルが眼を細める。その背にクッションをいくつかあてがって支えにし、ティーレは茶を入れるために台所に向かった。軽い足音が響く。
ホローグ湖のほとりに建てられた小さな家に二人は暮らしていた。家の周囲の小さな畑が二人で暮らすに足りる程度の実りをつけ、不足はティーレが街へ買い出しに出る。太い木を組み合わせて作られた家には手織りの敷物が何枚も敷かれ、大きく切った窓からは湖とその背後に迫る山々を眺めることができた。短い夏を終え、すでに山は秋の支度を始めている。標高が高く山深いこの場所では夏も秋も一瞬で過ぎる。だからこそ秋は輝くような美しさをたたえていた。
「いい季節だ。本当に」
噛みしめるように言って、ソルレアルはありがとうとつぶやく。ティーレが視線を上げた。
「ティーレ。君のおかげだ。秋を美しいと思えるようになった」
「私じゃないわ。アルががんばったのよ」
「はは、そんなことはない。そんなことはないんだ……」
榛色の双眸が己の手を見た。左の手の甲に刻んだ起動紋章。それはソルレアルの体内魔力の生成速度を上げて出力を円滑にするためのものだった。かつてあの戦争の中で魔力を切らすことなく術式を回し続け、己の心の空白を埋めようと吠えながら文字通り命を削って魔術を行使した。その代償に内臓は傷つき、実際の年齢よりも十も老け込んで死期を迎えている。老いた手に紋章だけは褪せることなく残っていて、否応なく己の所業を突きつけられる心地がする。
「僕は君に甘えて、すぐいい方に回ってしまうな」
男は乾いた声で笑った。
絶望の秋、と呼ばれた争乱がある。平地にも秋の気配がただよい始めた、晴れた日だった。秋の風に麦の穂がさざめいてそうして、虐殺劇は幕を開けた。あまりにも突然のことに人々は惑い、怯え、散り散りに逃げ回ったが、今思えば不穏は以前から日常に忍び寄っていたのだろう。何年もかけて綿密に下地は整えられていた。
レニシュチにはレニシュチ人とテトリ人がいる。同じ土地に暮らすまったく別の系統の人々だった。レニシュチ人の方が人口は多かったが、潜在魔力量が多いテトリ人が様々な分野の要職に就いていた。それは必要な能力に応じた当たり前の分担のはずなのに、気づけばレニシュチ人の劣等感を煽り、テトリ人の選民意識を育てていった。数で勝るレニシュチ人を押さえ込むためにテトリ人は魔術権益の独占を図り、レニシュチ人は土地を開拓して経済基盤を作り上げていった。目に見えぬ分断は少しずつ少しずつ亀裂を深め、少しずつ少しずつ分離政策が進んでいった。いつしかソルレアルはレニシュチの集まりに妻と娘を連れて行くことができなくなった。妻がテトリ人だったからだ。逆もまたしかりで、テトリとレニシュチの夫妻は奇異の視線にさらされるようになっていた。兆候は間違いなくあったのだ。それなのに、ソルレアルは黙殺した。
──関係ない。
そう言って。そうしてあの、秋の日。美しく晴れ渡った青い空に黄葉が映えていたことを鮮明に覚えている。誰かが立ち上がれと叫んだ。そうして気づけば人々は手に武器を取り、煽動されて隣人たちを襲った。同じ街で、同じように暮らしてきたテトリ人とレニシュチ人が互いに渾身の憎悪を込めて殺し合いを始めた。そうしてソルレアルは、妻と娘を失ったのだ。
「……実を言うとね、あまり覚えていないんだ」
何がどうしてそうなったのか、記憶は曖昧だった。ただ妻と娘は鍬で頭を割られ、ソルレアルは傷を負いながらも生き残った。気づけば彼はレニシュチ人の民兵組織の中にいて、テトリ人掃討作戦に参加していた。元々が魔術師だ。やれることはいくらでもあったし、抵抗もなかった。ただ胸の穴を埋めるように術式を回し、もっともっとと望んで起動紋章を刻み、命を数字に変えて屠っていった。
「君にとんでもない汚れ仕事をさせてしまったという後悔はあるのに、罪悪感はないんだ。こんな穏やかな日を迎える資格なんて無いはずなのに」
ソルレアルは手の甲を撫でる。今はただの刺青と化しているそれはかつて、ティーレにつながっていた。あの日ソルレアルの眼前に降り立った少女は確か、今よりもずっと年嵩の姿をしていたはずだ。濡れたような漆黒の瞳にソルレアルは吠えた。
──今更何をしに来た。
彼女がもっと早く現れていれば、自分は家族を守れたのに。
ティーレは答えなかった。次々と罵声と怨嗟と後悔を吐き散らす男の言葉をただ聞いていた。そうして男と契約をしたのだ。より多くを殺すために、より多くを奪うために。男は少女の魔力を使うことをためらわなかった。人ならざるものの魔力量を体に流し込んで回し続け、死に急ぐように戦場を駆け抜けた。そうして。
──あなたは、さみしいのね。
ぽつりとつむがれた言葉。淡く笑んだティーレの顔がどうしてか直視できなくて、男はくずおれた。突然涙があふれて、何もかもを手放して泣きじゃくった。言葉にしてしまえばあまりにも簡潔な、けれどどうしても振り払えぬ感情のためにあらゆるものを燃やしたのだと今更に気づかされて、流す涙とともに何かが体の中から抜け落ちていったのを覚えている。
「私に善悪はわからないわ。ただアルが、この場所でそれでも生きようとしていた。ならその道行きをともに行くのが私の役目。あなたと光を探すのが私の生きる理由。それだけ」
何もかもを捨てて戦場を去った男の傍らに少女の姿だけがあった。二十年、彼女は隣にあり続けている。変わらぬままの姿で。どこか彼の娘に面差しの似たその姿を望んだのは他ならぬソルレアルだった。命をやる代わりに娘を返せと彼女にぶつけるべきでない感情をたたきつけ、決別できぬままここに至ってしまった。男の表情が歪む。
「僕は、きっと君の手を放すべきだった。自分一人で背負うべきものを、自分で向き合うべきものを、どうして……」
「残念、あなたが手を放しても追いかけるだけよ。言ったでしょう。私に善悪はわからないの。人間じゃないんだもの」
だから、とティーレは困ったように笑った。
「あなたを断罪してあげることもできなかった」
ソルレアルの手を取ったティーレはレニシュチを転々とした。戦火が迫れば居を移し、成長しないことを疑われれば交わりを断った。度重なる干魃も食糧難も関係なかった。ないのならあるところから持ってくるまでだ。ティーレは惜しげなく己の力を使ってソルレアルを生かした。戦争を生き延び、飢餓をくぐり抜け、彼が望むままに時を止めて生きてきた。けれどその中で、彼の行為に言及したことはなかった。彼が奪った命の数も、傷つけた人の数も、数えることに意味を見いだそうとは思わなかったのだ。
「これで良かったのかわからないのは、私も同じだわ」
少女が微笑む。二人きりの世界に閉じこもることなく時を止めることなく、彼を人の中に帰すべきだったのかもしれない。そう思ったことは何度もあった。クズミやレムリィリにこぼしたこともある。それでも、彼が今を穏やかに過ごせているという事実を捨てることができなかったのだ。彼女にとって、彼の平穏は何ものにも代えがたく、少なくともこの国は人の温かさを信じられるような状況にはなかった。他の国へ行けばまた違ったのかも知れない。だが彼はレニシュチにいたいと望んだのだ。
「ねえ、アル。私はあなたをもっと広い場所へ連れて行くべきだったのかしら」
そうすればあなたは。
──さみしくなかったかしら。
彼とともにあることはできる。ともに歩むこともできる。けれど、それだけだった。彼の抱えた根本的な孤独と喪失感をどうすれば癒やせたのか、今なおわからない。
「ふふ、君がいてくれたんだ。寂しくなんかなかったさ」
ソルレアルが笑う。穏やかに、なだらかな声で。
「君がいてくれた。僕自身が捨てようとしていた僕を、惜しんでくれた。愛してくれた」
十分すぎると言って老爺は目を閉じた。ありがとうとつむがれる声音が少し照れくさく思われて、ティーレはことさらに明るい声を上げる。
「珍しくしんみりしちゃったわね。もっと楽しい話がいいわ。昨日焼いた林檎のパイでも切りましょうか」
どのくらい食べられるか尋ねようと面を上げたティーレはわずか息を呑んだ。目を閉じたソルレアルの呼吸が浅い。少女の目には男の魂の輪郭が揺らいで見えた。それはつまり、彼の旅立ちを意味する。静かに立ち上がり、ソルレアルの手を取る。その手の甲に触れる。
「ティーレ」
かすれた声が名を呼んだ。
「話の途中にすまないね。眠気が強くて、少し眠ろうと、思うんだ……」
「わかったわ。窓、開けておくわね」
常と同じ調子で答えて、少女はそっと男の頭を胸に抱いた。榛色の瞳の焦点が合わない。男は窓の向こうを見ている。乾いたくちびるが切れ切れにティーレではない誰かの名を呼ぶ。ティーレが会うことのなかった二人だ。
「大好きよ、アル。あなたの道行きにどうか、光がありますように」
獣の魂は地に留まる。新しい守人を選ぶ。ここから先をともに行くことはできない。ただ見送るだけだ。彼と過ごした二十年を思う。この道行きは彼にとって幸福だっただろうか。そう尋ねかけて、飲み込んだ。少女のくちびるが笑みを引く。心に決めていた一番とびきりの笑顔でもって、男を送り出す。
「──さようなら」
永の別れであった。
黒の守人の死を、四人の獣は本能で知る。クズミは出勤したばかりの財団の事務所で、レムリィリは夕飯の支度をしながら、ヴィーユールは砂漠の月光の下で、そしてスノウは夕食後の茶を選びながら、ソルレアルの死を知った。四人はゆっくりと空を仰ぐ。
──さようなら。
涙が一筋、こぼれた。
「……どうした」
イチカに問われ、スノウが振り向く。頬を涙に濡らしたまま、静かに言った。
「アルが、死んだよ」
イチカの黒い瞳が見開かれる。
「ソルレアル氏か……?」
スノウが浅くうなずく。自分たちの魂が元は一つなのだと思い知らされる心地がする。気持ちが落ち着かない。ティーレの悲しみが流れ込んでくる。
「もう長くないって聞いてはいたんだけど」
早すぎるとつぶやいてスノウは頬の涙をぬぐった。
「他の兄弟の守人までわかるんだね。知らなかったよ、俺」
どうしていいのかわからず、スノウは棚から矢車草の茶葉を出す。イチカはそれを止めなかった。穏やかな榛色の瞳を思い出す。
──僕はもう次は来られるかわからないけれど。
ただ一度会っただけの人物がこんなにも心の中に強く残っていることに、少なからず驚いた。彼は自分の死期を知っていたのだろうか。レニシュチの内戦を生き延び、獣と二人きりで二十年を生きたという人生は、幸福だっただろうか。守人という生き方を、彼はどう感じていたのだろうか。イチカは柄にもなく彼の人生を思った。
「アルは……幸せだったかな……」
スノウが同じ言葉をつむいだ。イチカはゆっくりと少年を見る。
「ナナは、……たぶん幸せじゃなかった。アルは、どうかな……。俺たちは、見送ることしかできないから、幸せだったら……いいなぁ……」
矢車草の茶葉を入れた硝子瓶を持ったまま、スノウの双眸から涙がこぼれていた。イチカは答える言葉を持たない。拳を握って、開く。手慰みにそうしながらただ低く、そうだなと答えた。
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