獣は遠き約束を胸に抱く

夜渦

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3.糸

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 スノウが働く新聞社はアサーディル社といった。明けの明星の別名だ。魔術に特化した記事を取り扱い、編集部だけがサイスタ市街地にある。印刷は下請けの会社に任せざるをえないような小さな新聞社だが、その分新しいことにも果敢に挑むだけの情熱を持っていた。ユルハのみならず外国での魔術研究の動向や政治経済の話題など貪欲に扱っている。スノウの仕事は魔術研究と技術系の記事の内容に間違いが無いか、あるいは言葉回しに誤解を生じる表現がないかを確認することだ。それに加えて新しいことを頼みたいと言われ、今日はそれに集中して取りかかっていた。研究論文の要約だ。ラズバスカに見てもらいながら何度か校正を行ったことで、スノウの言語能力に問題が無いと判断されたらしい。
「それで、どんな感じ?」
 スノウに割り当てられた机にラズバスカがひょっこり顔をのぞかせた。彼はいつもスノウを気にかけてくれ、また他の社員との間に立って早くなじめるよう心を砕いてくれている。
「とりあえず要点を箇条書きにしてるけど、文章の方がいいかな」
「いや、それでいいよ。全体の流れを先に教えてくれた方が助かるから」
 ラズバスカはすぐ隣に椅子を引きずってきてスノウの手から紙束を受け取った。ざっと斜めに内容を確認しながら青年はわずか眉根を寄せる。
「これ、夢渡りの延長ってこと?」
 人の夢に潜り込む、古くからある魔術だ。
「うん。だけど着眼点というか、起点が面白い。今までそういう発想で術式組んだ人いないんじゃないかな」
 術石と従来の魔術を組み合わせた複合魔術で、遠くにいる人間の意識と魂を再構築して通信する技術だという。
「え、可能なの?」
「条件がかなり厳しい。相手が眠っていることが大前提だし、術石の容量も術者の魔力量も相当必要。でもそこ何とかできれば不可能じゃない、って感じ」
 術石にため込んだ魔力を使ってかりそめの肉体を組み上げ、その中に魂の複製と意識を落とし込む。本体の肉体と魂を損なうことなく意思疎通ができ、記憶は共有できる。理論上は。
「……これだけ魔力食うなら転移しちゃった方が早くない?」
「そこなんだよね。これだけ転移術式が広まっている中でわざわざ夢渡りの遠見術式からこれを組み上げてくるってなかなか挑戦的だと思って」
 言ってスノウは茶化すように笑ったが、頭の中では違うことを考えていた。ラズバスカに返された紙面を見る。相手が眠っていること、高純度大容量の術石を必要とすること、魔力量の多い術師が術式起動しなければいけないこと。その条件の全てを自分は、自分たちは満たせる。それはつまり、五門を開放することなくアスギリオの魂をこちら側に再構築できるということだ。
 ──アッシュに、会える。
 スノウはアスギリオとの記憶を全て思い出したわけではない。彼女の顔もどこか曖昧だ。いずれそれは思い出すだろうとクズミたちは言ったが、それでも彼女への強烈な思慕は確かに心の一番深い部分に根を張っていた。イチカとは全く別の位相で彼女を思うと魂が震える心地がする。
「スノウくん、そんなにこれ気に入った?」
 どこか面白がる調子のラズバスカの問いかけに少年はほころぶように笑んだ。
「会いたい人がいるんだ」
 心は完全にはしゃいでいた。スノウには明瞭にその道筋が見える。一度で成功させることは難しいかもしれないが、少なくともこの論文に記された術式を再現できるという自信はあった。それがどの程度の精度で理論を実現できるのかはわからないが、なにがしかの成果は見込めるだろう。そこから調整と改良を加えることはそう難しいことではない。
「転移できないとこ?」
「難しいね」
「そっか……」
 それ以上を問うことなく、ラズバスカは仕事に話を戻した。スノウの出自がレニシュチであることと結びつけて考えたのかも知れない。
「そういや今週イチカひまかな」
 他の原稿の確認を終えたラズバスカにふと尋ねられ、スノウは首をかしげた。
「ちょっと忙しいみたい」
「ああ、月末だから?」
「国境線がもめてるとか言ってたよ」
 ああそうかとつぶやいてラズバスカの表情がわずかに曇る。
「南西国境の掃討作戦が始まるって情報が入ってたな」
 彼はどこから情報を得ているのか、国内外の事情に精通していた。詳しいねと言えば、苦笑めいた表情で肩をすくめて見せる。
「イチカには嫌がられる」
「……心配してた」
 軍に踏み込みすぎていないか、自分を切り売りするような真似をしていないか、口数少なく案じる横顔を覚えている。スノウから見てもわざわざそこまで深入りをする必要はないように思えた。少なくとも仕事は回っている。ためらいがちにそう口にしたスノウへラズバスカは少し難しい顔をしてみせる。
「うーん、何て言うのかな。仕事がどうとかいうことじゃなくて、執着のなれの果てだよ」
「執着?」
「まだ道がある、って思いたいんだ。……元々魔術職目指してたんだよね」
 何でもないように語る表情には確かに自嘲の気配があって、スノウはくちびるを噛みしめた。
「結構がんばったんだけどさぁ、実技がどうにもならなくて。潜在魔力量が何をどうしても基準値に満たないんだ。補助紋章入れようとして施術断られるくらい」
 どんなに底上げしようとしても生まれ持った器を拡張することはできない。実践を伴わない理論魔術の道もなかったわけではないが、性分として向いていなかった。それでも道を求めて魔術道具を作る職人に弟子入りするとか、魔術師業所の事務とか、色々な関わり方を模索した末にたどりついたのがここだったという。
「ここならさ、色々な情報に触れていられるじゃん。まだ見つけてない道があるんじゃないかって思って、色々なこと追いかけてるうちに術石が出てきた」
 ユルハで術石の研究運用は軍部が一手に担っている。市井に出回ることはほとんどなく、大学などの研究機関も基本的に軍の息がかかっている状態だった。畢竟、軍部との繋がりがなければ深入りすることはできない。
「術石なら回路式だからさ、起動の魔力すらいらないだろ? 俺どころかイチカでも魔術が使える」
 幸か不幸か、その回路式を読み取れる程度の知識はあった。必死に手を伸ばせば、触れられる場所にある。そう思ったら引き返せなかった。あと少し、もう少しと手を伸ばし続けてそうして。
「こうなっちゃったってわけ」
 男が笑う。その笑顔がどうしてか痛々しく見えてスノウはぎゅっと拳を握りしめた。
「結構ギリギリなとこにいるって自覚はあるよ。これでも。でもさ……あと少しなんだ。きっと、あと少しで」
 ──手が届く。
 その切実な声。狂おしいまでに焦がれる響き。
「ま、こんな話されても困るよな。ごめんごめん」
 わざわざ明るい調子でつむがれた言葉の向こう側に確かに嫉妬の色を読み取って、スノウは返す言葉を見つけられない。初めて会った日を思い出す。ラズバスカはスノウが手持ち無沙汰に飛ばしていた魔力の光にはしゃぎ、きらきらした眼で術石の未来を語っていた。それをスノウは魔術が好きなんだなと思ったのだ。その向こう側など想像しなかった。
「俺、無神経だったね。……ごめんなさい」
 何が、とは言えなかった。言ってはいけないと思った。ラズバスカがわずか眼を見開いてそうして、手のひらに顔を埋める。肩が震えた。それは喉の奥で笑っているようで、嗚咽をこらえているようで。
「……本当に、君がただの獣だったらイチカを憎めたかもしれないのになぁ」
「ラーズ……?」
 絞り出された言葉に確かな不穏を感じてスノウは眉根を寄せる。
「……知ってるの?」
「うん」
 沈黙が落ちた。そしてラズバスカが尋ねる。
「なんでイチカなの。魔力ないから?」
 ああそうかと納得する。ラズバスカの嫉妬の向かう先は自分ではない。
「イチカがイチカだからだよ。たとえ魔力があってもきっと、俺はイチカを選んでた」
「……そっか」
 ありがとうと青年は小さくつぶやく。
「イチカはさ、いい奴なんだ。もう十年以上の付き合いだけど、俺がどんなにうまくいかなくてもへこんでも黙ってそばにいて一緒に飯食ってさ。そんで最後には俺がやりたいようにやればいい、なんて無責任なこと言うんだぜ」
 それができないから悩み苦しんでいるのだとわかっているだろうにとほんのわずか恨み節を乗せながら、ラズバスカの黒い瞳は憧憬めいた色を滲ませている。ラズバスカの夢を笑わなかったのはイチカだけだった。彼の努力を無駄と断じなかったのは、イチカだけだったのだ。ラズバスカのありようを茶化すことなく嘲弄することなく受け止め、イチカもまた淡々と己のありようを生きていた。それはあまりにも心地が良く、彼とともにある理由などそれが全てだ。己が無才を慰めるための友人などではない。それなのに。
「守人に選ばれたって話聞いたときになんでイチカなんだ、って思った。イチカ魔術嫌いなのに、って」
 切々としたラズバスカの言葉を、スノウはただ聞いていた。
「獣がいれば魔術職につける。それどころか師業所だって開ける。手が、届くんだ。なのになんでそれがイチカのところに、って思ったんだ」
 見知らぬ誰かならこんな気持ちにはならなかった。青年の黒い双眸がスノウの灰白色の瞳を見る。ラズバスカにとっては奇異な色彩だ。だが、それはまごうことなく人のもので、そして真摯に自分の言葉を受け止めようとしていた。
「君は、術石じゃないのにな」
 泣き笑いのようだった。
 ── 俺がお前に望むのは、まっとうな人間として普通に生きることだ。
 イチカはスノウにそう言ったらしい。あまりにイチカらしくて、同時に自分の浅ましさを思い知らされた気がした。ラズバスカの友人は誰かが害されるのを良しとせず、ありのままを尊重する。本人がやりたくないのなら無理強いをすることに意味は無いと、当たり前につむがれる理想論めいた言葉は心地よい。そうしてその言葉に守られたこの少年は、確かに人だった。
 スノウは彼の感情をどう受け止めていいのかわからない。嫉妬と憧憬の狭間で、それでもイチカを憎むことができなかったと語る双眸は痛みをはらみ、言葉をつむぐことはできなかった。ただ彼の感情の根底にあるものは理解したように思う。
「さ、仕事しようぜ」
 つとめて明るく絞り出された声にスノウは静かに答えた。
「俺も、イチカが好きだよ」
「そういう話じゃねえんだなぁ」
 ラズバスカが笑う。
「でも、君とイチカで良かったんだろうって思うよ」
 きっと、と青年は言った。



 イチカと予定を合わせてまた食事に行こうという話をしながらラズバスカとスノウは会社を出た。乗合馬車の停車場までは一緒だ。そうして同時にその姿を見つける。人の道と馬車の道を分ける縁石のところにたたずむ長身。腕組みをして眉間にしわを寄せ、いつになく難しい顔をしていた。
「イチカ?」
「どうしたんだよ。仕事終わり?」
 二人が近づけば低い声が降ってくる。
「スノウ。前に言っていた認識されなくなる結界とやらを張れるか」
「偽装遮断膜? できるけど……」
 なぜと委細を尋ねるより早く、ラズバスカにかけてくれとイチカが口早に言った。ただならぬ気配に圧されてスノウが手を一振りすれば空気が震えてラズバスカを覆い、イチカの目には友人の影が薄くなったように見える。ラズバスカはぱちくりとまたたいて、そして何事か思い当たって真剣な表情で友人を見上げた。イチカ、と名を呼ぶ声にかぶせるようにイチカが口を開く。視線はスノウを見ている。まるでラズバスカがそこにいないように。
「イプリツェに転勤になった。明後日には引っ越しだ」
 その言葉にスノウが瞠目した。
「すまない」
 ラーズ、と名前をつむぐ言葉は音を伴わない。くちびるがそのまま音のない言葉を形作る。
 ──逃げてくれ。
 くしゃりと顔を歪めてラズバスカは乱暴に自分の頭をかいた。
「あちゃー……何、そういうこと?」
 およその状況を察してラズバスカはああともううともつかない音を吐き出す。そして状況がわからぬままのスノウを見た。
「スノウくん、俺いないと思って話した方がいい。多分聞かれてる」
 少年がまたたく。
「そのままイチカと話してる感じにしといてね。軍部は君たちのことを把握してる。守人と獣がサイスタの衛戍にいる、って。それをイプリツェに移して監視下に置く。目的は……まぁ、わかるだろ?」
「どうして……」
 ラズバスカの言葉は理解している。奇しくも彼が先ほど口にしたとおりスノウを術石代わりに魔術にまつわるあれこれをやらせようというのだろう。だがこぼれ出る疑問を抑えきれなかった。
「俺は家を引き払う支度をする。お前にも買い出しを頼みたい。西の市場はわかるか? ラーズの家の近くだ」
 言いながらイチカがメモを手渡す。スノウは半ば呆然としたままそれを受け取って紙面に目を落とした。走り書きの文字で記された日用品の数々。その中から不自然に歪んだ文字を無意識に拾い上げ、よく知る名前を編み上げる。
 ──クズミ。
「頼めるか」
 つとめて平静につむがれた言葉はしかし真剣な響きを帯びており、スノウの体は緊張にこわばった。
「……うん。行ってくる」
 強くうなずいて、偽装遮断膜の強度を上げ、さらにもう一段階認識阻害の術式をつむいだ。それなりの魔術師が本気で看破をかけない限りはラズバスカが認識されることはないはずだ。じきに術者であるスノウ以外には見えも聞こえもしなくなる。
「イチカ。お前のせいじゃないからな」
 ラズバスカが張り上げた声がイチカに届いたのかはわからない。ただ行けと言われてスノウはラズバスカとともに歩き出した。確かな不穏が始まっていた。



 スノウが戻ったのは早かった。メモに記された品を両手に抱え、慣れない場所で少し道に迷ったと言えば誰もが納得するであろう程度の時間だ。
「……どうだった」
 玄関扉を閉め、スノウが右手を振る。家の中におかしな気配がないことを確認してからイチカを見た。
「クズミとサァラが引き受けてくれたよ。ダジューにいる」
 赤の二人は少し驚いてはいたが快くラズバスカを受け入れてくれた。元々が難民支援を行っている財団だ。一人増えるくらい大した話ではないとクズミが笑っていた。
「落ち着いたら連絡するって。クズミのところの受け入れ門陣教えてもらったから、いつでも行けるよ」
「……行けるものならな」
 抑揚のない乾いた声がスノウから言葉を奪う。
 ラズバスカが姿を消したことをすぐに上は把握するだろう。次は故郷の親だ。だがラズバスカと違ってスノウのことやら今の状況やらを知っているわけではないし、説明したところで受け止める余裕があるとも思えない。となるとひたすら従順に上に従って見逃してもらうほかなかった。
「言うのが遅くなって悪かった。明日一日でここを引き払って明後日、イプリツェに行く」
 改めて言葉にしてみれば肺の奥が重くなる心地がする。
「普通なら馬車で二週間だが、軍が動くなら天候次第で十日というところだろう」
 スノウはイチカを見た。
「イチカは、ダジューに行かないの」
 クズミにも同じことを聞かれた。ユルハの置かれている状況を考えればこれから先はきな臭くなるばかりだと言って案じる様子を見せていた。
「……言っただろう。行き当たりばったりに暮らしていけるだけの生活力はないと」
「でもクズミもサァラもいる。もっと遠くならパンジュのところもある。みんな助けてくれるよ」
「俺の知己はラズバスカだけじゃない」
 全員を連れて行くことは不可能だし、イチカを連れ戻すためなら国も軍も何だってするだろう。ラズバスカを逃がしたこともかなりぎりぎりの選択だった。かえって刺激してしまうのではないかとも思ったが、彼は軍部に食い込んでしまっている。スノウのことを知っているのみならず同僚として過ごしもした。イチカにとってもスノウにとっても切り札になると認識されているのは明白で、ユルハに留まって状況が良くなる気はしなかった。ラズバスカの意思を確認する余裕がなかったことは引っかかるが、逃がす以外を思いつけなかった。
 ラズバスカを逃がしたのが自分ではないと証明する手立てはないが、イチカが逃がしたと断じる証拠もないはずだ。転勤までの猶予を与えられるということは、まだ譲歩を引き出す目が残っていると思いたい。
 ふと視線を上げればスノウが不安に染まった顔でこちらを見つめている。安心させるように口元をゆるめてみせた。
「大丈夫だ。何とかやってみせる」
「でも、それはイチカがやりたいことじゃないんでしょう……?」
 スノウにはこれから何が起きるのか想像することは難しい。だがイチカが望んでいないことだけはわかる。それで十分だった。
「ああ、やりたくはないな。だが俺がここでへたな動きをして俺の知る誰かが傷つけられるのはごめんこうむる」
「イチカが傷つけられるかも知れないのに?」
「わかっていて選んだからそれはいい」
 どうにもならないと言って、イチカは力なく笑った。スノウは胸が締め付けられる心地がする。人一人救えるのなら自分の命を預けると言ったイチカだ。今の状況がどれほどの重圧か。スノウは顔を歪め、拳を握りしめる。自分にできることを、イチカを傷つけずにすむ手段を考える。とはいえ、スノウにわかることもできることもそう多くはなかった。
「……やっぱりダジューに行こうよイチカ。闇雲に言ってるつもりはないよ。さっきクズミとも話してきた。五門機関から圧力をかけることもできるって」
 国内に身を置くよりは交渉をするのもやりやすいだろうと言ってみるが、イチカはゆるりと首を振った。
「それは、無理だろうな」
 スノウと出会った日、衛戍の師団長室に現れた五門機関の男たちとエヴェリエ。それが答えだ。
「五門機関は俺たちをどう扱おうと黙認するだろう」
「どうして」
「最初から国を巻き込んでいる。それだけ切羽詰まっていたんだろう」
 五門機関の性質からして守人に国を関与させたくはないだろう。守人の身柄を盾に無茶な要求をされる可能性は高く、それに応じるメリットなどない。実際、サァラとファランドールは国に守人であることを把握されていないと言ったし、ソルレアルに至っては長い隠遁生活で生死不明のまま記録が失したという。守人と獣の存在がどこかおとぎ話めいて伝えられているのも、結局のところどこの誰がそうなのかわからない、という状態によるものだろう。その状態を五門機関は意図的に作り上げている。
「俺とお前が契約しなければ最悪、お前とソルレアル氏が同時に不在になると考えれば多少の無茶はするだろう」
 スノウが新しい守人を選ぶことなく死のうとしていたことは知っていただろうし、ソルレアルの状態も把握していたはずだ。実際守人と獣が欠けることで何が起きるのかイチカには想像もつかないが、少なくとも組織としてその状態を避けたいだろうことはわかる。そのためなら何でもするであろうことも。
「元々味方だとは思っていないが、余計な期待はしない方がいい」
 イチカにできることの範囲で切り抜ける道を考えるしかなかった。
「まぁ、手詰まりだが」
 深く嘆息する。よく考えれば一介の事務員に過ぎないイチカに軍と国の動向を予想する方が無理というものだ。確かにスノウの言う通りに遠い場所へ逃げてしまう方がはるかに楽な手段に思えた。
「でも、でも……」
 スノウが泣き出しそうな顔をしている。イチカは思わず手を伸ばしてくしゃりとその頭を撫でた。スノウの白い髪は指通りが良く、当たり前の少年のそれだった。
「不安にさせて悪かった。まだ何もかもが悪くなると決まったわけでもない。案外好待遇かもしれないし、お前が気負うな」
 少年をなだめる言葉にふと自分の中に何かが顔をのぞかせた気がして、イチカはわずか眉を持ち上げる。
 ──なぜこの場所に留まるのだろう。
 愛国心の類いを持ち合わせているわけではない。それなりに安定した給料がもらえて魔術の素養がなくても構わない職業、を突き詰めた結果の軍属だ。故郷への愛着はそれなりにあるとは思うが、離れて暮らした時間の方が長くなった。親とラズバスカ以外の人間関係もそう深いわけでもない。自分がこの場所に執着する理由が自分でわからなかった。ただ、逃げるという選択だけはしたくないと思った。だって。
 ──手に入れたのに。
 瞠目する。
 眼前の少年を呆然と見る。自分の中のそれに、気づいてしまった。
 それは優越感だった。魔術なんてもので自分を疎外してきた人間たちが喉から手が出るほどに欲しがるそれを、自分が得た。そしてそんな彼をただの居候として、まるで魔術の才などない一人の子供として扱うことで溜飲を下げたかったのだ。彼を手中に収めながら利用しない自分、というねじれきった自己肯定だった。
 魔術の素養の無いイチカはずっと疎外されてきた。日常的な簡易術式の起動すらできない体は職を探すに窮し、一切そういうものを求められない事務の仕事にたどり着くまでにずいぶんと遠回りをした。イプリツェで受けさせられた検査もどこか侮る響きでもって残念ながらそういう体質ですね、と結果を告げた。日々を生きるのにイチカは魔術を必要としない。けれど魔術を必要とする人々はそれを持たないイチカを笑うのだ。他人など関係ないと割り切って生きてきたつもりだったが、それでも確かにイチカの中に劣等感は育ち、それがスノウに出会って芽を出したのだと今更ながらに知る。
「ああそうか……」
 手のひらを見る。今し方触れたスノウの体温が残っていた。紛れもない人の命のそれがゆっくりと空気に融けていく。
「これが、守人になるということか」
 魔術の素養が無く魔術に価値など見いだしていないと思いこんでいただけだった。その実スノウを利用し、彼の存在でもって己の劣等感を解消し、歪んだ自尊心を埋めようとしていた。人ならざる強大な力を得るというのは、こういうことだった。失望がじわじわと足下から這い上がってくる。
 ──守人。
 それは獣に選ばれたもの。英雄アスギリオと似た魂を持つもの。強大な魔力を持った獣を従え、五門の安定を守るもの。あるいは使命感だとか誇らしさとかそういったものを生む存在なのかもしれない。だがイチカはそうではなかった。
「ずいぶんと、勘違いをしていた」
 自分は揺らぐことなく昨日と同じ自分なのだと。
「……愚かなことだ」
 自嘲がこぼれた。
 スノウが緩慢な仕草でイチカを見上げる。その瞳に確かに揺らぐ不安と自責を読み取ってイチカは笑んでみせる。
「荷造りをしておいてくれ。俺も荷物が多い方じゃない。気にせず全部持っていけ」
 いつもの声を出せているだろうか。
「お前だけのせいじゃない。お前が悪いんでもない。場所が変わるだけで今まで通りだ」
「……うん」
 選んだのはイチカだ。選択肢がないなどと口にしながら、それ以外を探そうとしなかった。確かにスノウの存在が引き金ではあってもこの事態を招いたのは己の劣等感に負けたイチカ自身だ。なら自分は最低限この少年の尊厳を守り、新しい日常を守っていくほかない。
 ──ほんとうに?
 ふと声がした気がしてイチカは視線を上げる。だがこの家にはイチカとスノウしかおらず、盗聴やら監視の類いの仕掛けがないことはスノウが確認済みだ。
「とりあえず今日は休め。俺もそうする。明日、また考える」
「……うん。ごめんね、イチカ」
「謝ることじゃない」
 そうして引き上げた自室で、イチカはため息を重ねる。何が正解なのかわからない。結局イプリツェに行って新しい生活を始めるのならスノウとダジューに行くのも変わらないのではないかとか、いっそ今すぐ実家に転移して親を連れ出すべきかとか、答えの出ない言葉だけがぐるぐると脳裏を渦巻いていく。少しでも気を抜くと襲い来る圧迫感と閉塞感に思考が鈍る。
「……俺が守りたかったものは、何なんだ」
 ──昨日と同じ明日。
 朝は一緒に食事をしてイチカが先に出てスノウに戸締まりを任せ、夕方には大抵スノウが先に帰っている。市場でめぼしいものがあれば買ってくるし、執政府通りで落ち合って二人で買い物に行くこともあった。そうして帰宅して大人と子供とで台所に立って食事を作って、スノウの話を聞いて時折自分の話をして。そんな毎日が当たり前になり始めたところだ。ついさっきまでスノウのことは本当にただの同居人だと思っていたし、彼自身の人格は衝突を起こすようなものでもなかった。あるいはイチカに気を遣って我慢をしているのかもしれないが、少なくとも今の段階ではいずれ腹を割って話せるようになるというある種の確信もある。この毎日を重ねていく。それでよかった。──それが、よかった。
 ──わかるぞ。
 また、声がした。その出所を探して視線を上げて、それが自分の中からすることに気がつく。
 ──一緒においしいものを食べて、時々遠出をして海でも行って。
 男のような女のような音程のあやふやな声。心臓が熱を帯びる心象。
 ──楽しいことをたくさんしたかった。していたかった。
 視界が明滅する。夕焼けがまぶたの裏にひらめく。
 ──それだけでよかったのに。
 イチカはうめいた。心臓が、痛い。膝が崩れる。意識が飛びそうになるのをこらえて、奥歯を握りしめる。
 ──なぁイチカ。さみしいだろう。
 この日々を失うのは、怖いだろう。
 どさりと長身が床に落ちる。

「私もだよ」
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