上 下
19 / 37
飛竜と海竜は惹かれ合う

第十九話 月夜の口づけ 前

しおりを挟む
 リアンが思案していると、船長が立ち上がり、寝台の方に歩いていった。なんだろうと目で追うと、そっと布団をめくった中にふかふかの獣が丸くなって寝ている。

「え?」

 生き物? と思って眼を凝らすと、薄い茶色の毛で大きな耳がある、顔は狐のような小動物が穏やかな寝顔を見せていた。彼は健やかに寝ているその生き物を確認すると、またそっと布団をかぶせて口元を緩めた。

「フェネックという動物なんだ。普段は砂漠に住むような生き物なんだがね、こんな海の上なんて場違いな場所でも逞しく生きてるんだよ。そこが気に入っている」

 確かに狐の顔はかわいかったが、隻腕の船長が小動物を飼っているというのが意外で面食らった。

「人間もそうだ。この場所でしか生きられないなんてことはない。こうしようと思った自分の気持ち次第で、いくらでも幸福は掴める」

 そう呟くように言った船長はリアンに顔を向けた。
 それ以上何も言わない朽ち葉という海賊を見つめて、なんとなく、励まされているような気持ちになった。リアンの事情は知らないはずだが、彼の穏やかで落ち着いた声を聞いていると、不思議と心が穏やかになるような気がした。

「ありがとうございます」

 お礼を言うと、彼は口の端を微かに上げた。
 明日の段取りを考えなければならないと立ち上がり、早々に船長の部屋から退室することにした。扉までリアンを見送ろうと歩いてきた船長は、黒い色眼鏡で視界が不良だったのか、途中何かに躓いて床に膝をついて転んだ。

「大丈夫ですか⁈」

 駆け寄って彼に手を貸そうと右手を伸ばす。リアンの手を見てハッとした顔になった彼は「触るな」と鋭い声を出して制した。驚いて固まると、船長は慌てたように立ち上がって、リアンから少し距離を取る。

「いや、すまない。大丈夫だ。ありがとう」

 取り繕う船長の態度を訝しみながらも、彼は隻腕だし、人から利き手を触られるのは警戒するのかもしれないと思い至った。
 少し変な空気になってしまったが、別に怒っているような雰囲気ではない。バツが悪そうな船長に内心で首を傾げながらリアンはもう一度お礼を言って、部屋から通路に出た。



 その夜、リアンは船室で自分の軍服を寝台の上に広げていた。
 海から落ちたときに着ていた軍服は、この船に拾われた当初トマが洗って乾かしてくれていた。祖父に左肩を撃ち抜かれたときの穴が空いたままの白い軍服をじっと見下ろす。

 リアンがこれを着て燕に戻っても、もう空軍に自分の場所はない。しかし自分が飛竜である以上は、これを着て空に戻るべきだろう。飛んでいくつもりだから武器は多く携行できないが、持っていた拳銃一つでは心許ない。ウミガラスから武器を借りて行こうと思い立ち、部屋から出た。

 寝静まって静かになった船内を歩いてこっそり武器庫に入り、いくつか小銃とサーベルを確認した。朝船から発つときに少しの間借用できないかガウスに頼んでみるつもりだった。
 頭の中で明日の動きを想定していたら、ふと気づく。燕に無事下り立つことができればいいが、最悪の場合リアンは攻撃されるだろう。もし空から狙撃されたら、燕に接近するまでの間攻撃を回避して対抗する武器が必要になる。
 そう考えて、今日の昼間にシーサーペントを始末したときに使用した擲弾発射器のことを思い出した。あれは肩に担げてちょうどいい大きさだった。充填する擲弾がまだ残っていれば、あれを借りるのがいいかもしれない。

 船内の通路を抜けて、甲板に出る扉を開いた。デッキには誰もいない。夜の闇と月の光に照らされた黒い波が綺麗だった。思わず、しばらく甲板の柵に近寄って静かに流れる海の景色に見とれた。

 夜、燕のデッキから見る月が綺麗だと思っていた。空の上で雲の隙間から見える月がこの世で一番綺麗だと思っていたのに、自分が海の上で波に映る月を綺麗だと思う日が来るなんて思ってもいなかった。そんな感慨にふけってしまい、少し苦笑した。

 見張りの船員は上の船橋にいると思うが、甲板の上まではきっと暗くて見えないだろう。誰にも断らずに武器庫を開くのは忍びないと思いながら、今日トマが擲弾発射器を取り出していた収納庫に近づき、扉を開いた。

 そのとき背後でザバっと音がした。直後に何かが甲板を踏む湿った気配がして、後ろを振り返る。


 視線の先に、頭を振って髪をかき上げるヴァルハルトがいた。


「え?」

 思わず小さな声が口から漏れた。
 その声を聞いたヴァルハルトが顔を上げ、鋭く眇められた海色の目が大きく見開かれる。グラディウス、とその唇が微かに動いたのが見えた。

「オーベル?」

 驚いて固まっているリアンに向かって、海竜は脇目も振らずに突進してきた。
 立ち尽くしていたらあっという間に目の前に迫った男に腕を取られて強く抱きしめられた。太い腕が背中に回り、びしょ濡れの軍服に押さえつけられる。
 途端につんと潮の匂いが香って、目の前にいるのが確かにヴァルハルトだと認識した。

「あんたが死ぬはずがねぇと思ってた」

 耳元で掠れた低い声が響く。
 ぎゅうぎゅうに抱きしめてくるヴァルハルトの腕の力は緩まない。力のかぎり圧迫されるせいで、治ったばかりの胸が少し痛い。

「よかった……。グラディウスからあんたは海に落ちて事故死したって連絡があったが、俺は絶対に信じねぇと思った」

 なぜ、と思ったが声にはならなかった。
 まだ目を丸くして固まっているリアンを離さずに、ヴァルハルトがまた苦しげに息を漏らす。顔だけ動かして男を見上げると、月明かりに照らされたヴァルハルトの顔は眉間にきつく皺が寄って、何かを耐えるように唇を噛みしめていた。

 二人の間に隙間がないから、濡れた服ごしにだんだん相手の体温を感じとれるようになってくる。抱きしめられていることに、不快な感情を抱かなかった。
 むしろ、嬉しいと思った。
 リアンが死んでいなかったことにヴァルハルトが心から安堵していることがわかったから、嬉しかった。こんなに自分を案じてくれる人間がいると思っていなかった。力強い腕に締め上げられるように抱きつかれて、男の存在をはっきりと感じ取れることが、不思議なほど心地よかった。

 会えてよかった。

 昼間は躊躇ってしまったのに、今面と向かって会ったら怖気付いていた気持ちが消えてなくなった。

 驚きが去って少し落ち着き、まだリアンを離さないヴァルハルトの横顔を見ながら口を開いた。

「オーベル。なぜ私がここにいるとわかった」

 そう聞くと、ヴァルハルトは少しだけ腕の力を緩めてリアンを見下ろした。険しく強張っていた竜の表情は少し和らぎ、青い瞳がリアンを見つめて微かに揺れた。

「今日ウミガラスの奴らがシーサーペントを倒したって聞いて見に来たとき、死骸を見てわかった。あの海獣の頭を吹っ飛ばしたのはあんただろ。船の上から撃っても普通あんな爆ぜ方はしねぇ。空の上から擲弾ぶっ放した奴がいたなと思った」

 それを聞いて、なるほどと思った。

「あんたがこの船にいるかもしれないとは勘づいたが、無事なら軍部に連絡を取らない理由がねぇ。ガウスに聞いてもしらばっくれるし、俺を見ても外に出てこねぇなら、多分軍艦を警戒してるってことだろう。だから昼間は一旦帰って夜一人で来ることにした」
「……お前は思ったよりも、頭が回る奴だったんだな」

 つい感心した声を出すと、ヴァルハルトは眉間に皺を寄せたまま苦笑した。

「……あんたはこんなときにもそんな間の抜けたこと言ってんなよ」

 多少気持ちが緩んだのか、ヴァルハルトはようやくリアンから手を離した。まだすぐに触れるくらいの近さにいる男が、真剣な表情でリアンをのぞき込んでくる。

「何があった。合同演習の日、海蛇に信号を送ってきたのはあんただろう」

 リアンが咆哮を使って送った音波は誰かに拾われていたらしい。あれが無駄にならなかったならよかったと思い、リアンは小さく頷いた。

「グートランドからの魚雷は回避できたのか」
「できた。怪しい音波が流れてきたって聞いて、調べたら領海の端でうろついてる戦艦を見つけた。海蛇で接近して、魚雷を発射したら報復するって通達したら奴らはそのまま撤退してった」
「そうか」

 それを聞いてほっと胸をなで下ろした。
 海蛇は無事だろうと聞いていたから心配はしていなかったが、ヴァルハルトの口から力強い言葉を聞いてようやく安心した。

「あんたが今ヤバい状況になってるなら手を貸す。誰にも見られねぇようにするから、海蛇に来るか」

 そう言ったヴァルハルトを思わず見上げた。
 男の顔面にいつもの不遜な表情はどこにもない。本当にリアンを案じていることがその眼を見てわかった。そしてそれが嘘ではないことを、リアンは素直に信じることができた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

4人の兄に溺愛されてます

まつも☆きらら
BL
中学1年生の梨夢は5人兄弟の末っ子。4人の兄にとにかく溺愛されている。兄たちが大好きな梨夢だが、心配性な兄たちは時に過保護になりすぎて。

浮気疑惑でオナホ扱い♡

恋愛
穏和系執着高身長男子な「ソレル」が、恋人である無愛想系爆乳低身長女子の「アネモネ」から浮気未遂の報告を聞いてしまい、天然サドのブチギレセックスでとことん体格差わからせスケベに持ち込む話。最後はラブラブです。 コミッションにて執筆させていただいた作品で、キャラクターのお名前は変更しておりますが世界観やキャラ設定の著作はご依頼主様に帰属いたします。ありがとうございました! ・web拍手 http://bit.ly/38kXFb0 ・X垢 https://twitter.com/show1write

【短編】欲望にまみれた僕でもいいですか?

cyan
BL
伯爵家の次男であるリディアーノはある日、騎士同士の情事を見てしまう。 そこから屈強な男に組み敷かれたいという性癖に目覚めた。 女子にはモテたがそんなものには見向きもせず、ひたすら立派な筋肉に包まれた屈強な男を眺め楽しむ日々。 ある日夜会で、最近叙爵されたという騎士クラウディオと出会って、半ば無理やり恋人になった。 リディは幸せだが、クラウディオは…… シリアス無し。リディ視点では欲望の声ダダ漏れでお届けします。 後半のクラウディオ視点はちょっと真面目に向き合います。

どうぞご勝手になさってくださいまし

志波 連
恋愛
政略結婚とはいえ12歳の時から婚約関係にあるローレンティア王国皇太子アマデウスと、ルルーシア・メリディアン侯爵令嬢の仲はいたって上手くいっていた。 辛い教育にもよく耐え、あまり学園にも通学できないルルーシアだったが、幼馴染で親友の侯爵令嬢アリア・ロックスの励まされながら、なんとか最終学年を迎えた。 やっと皇太子妃教育にも目途が立ち、学園に通えるようになったある日、婚約者であるアマデウス皇太子とフロレンシア伯爵家の次女であるサマンサが恋仲であるという噂を耳にする。 アリアに付き添ってもらい、学園の裏庭に向かったルルーシアは二人が仲よくベンチに腰掛け、肩を寄せ合って一冊の本を仲よく見ている姿を目撃する。 風が運んできた「じゃあ今夜、いつものところで」という二人の会話にショックを受けたルルーシアは、早退して父親に訴えた。 しかし元々が政略結婚であるため、婚約の取り消しはできないという言葉に絶望する。 ルルーシアの邸を訪れた皇太子はサマンサを側妃として迎えると告げた。 ショックを受けたルルーシアだったが、家のために耐えることを決意し、皇太子妃となることを受け入れる。 ルルーシアだけを愛しているが、友人であるサマンサを助けたいアマデウスと、アマデウスに愛されていないと思い込んでいるルルーシアは盛大にすれ違っていく。 果たして不器用な二人に幸せな未来は訪れるのだろうか…… 他サイトでも公開しています。 R15は保険です。 表紙は写真ACより転載しています。

完結 裏切られて可哀そう?いいえ、違いますよ。

音爽(ネソウ)
恋愛
プロポーズを受けて有頂天だったが 恋人の裏切りを知る、「アイツとは別れるよ」と聞こえて来たのは彼の声だった

元OLの異世界逆ハーライフ

砂城
恋愛
 私こと加納玲子は、会社帰りの道すがら大型トラックに轢かれ、32歳独身の短い生涯を閉じました。  しかし、なぜか素直にあの世にはいかず、地球とは違う世界・違う肉体へと転生してしまいました。  これって、何かのフラグ? けど、平凡なOLだった私には心当たりとか全くありませんし、『勇者』とか『救世主』とか言われても無理です。今のうちにお断りしておきます。  まぁ、当面その心配はなさそうなんだけど、最初に出会ったイケメン(犬系)と一緒に旅するうちに、あれやこれやで所謂『逆ハー』状態になってきて……。  新しい世界で自由に生きることにした、私の『大切』探しの旅に、よかったらお付き合いください。 2016年 アルファポリス様より書籍化のお話を頂き、該当部分をダイジェストに差し替えております。 またアルファポリスへ再投稿するにあたり、旧稿を見直し、内容を少し変更しての投稿となります。

甘えたオメガは過保護なアルファに溺愛される

ノガケ雛
BL
本編完結 11月28日から番外編更新 アルファとして二十四年間生きてきた堂山真樹。 オメガが嫌いで番を作る気も無かった。 そんな真樹にある日突然オメガにしか起きないはずの発情期が起こってしまう。 後天性オメガだと診断され、絶望の縁に立ち自殺を試みた真樹。ビルから飛び降りようとしたその時、真樹の手を掴んだのは見ず知らずの男で──……。 過保護アルファ×甘えたオメガ R18/オメガバース/甘々/甘えた/過保護 イラスト : きりとが様 イラストの著者名が『真優』となっておりますが、こちらは以前使用していたペンネームになります。

悪役令息(仮)の弟、破滅回避のためどうにか頑張っています

岩永みやび
BL
この世界は、前世で読んでいたBL小説の世界である。 突然前世を思い出したアル(5歳)。自分が作中で破滅する悪役令息リオラの弟であることに気が付いた。このままだとお兄様に巻き込まれて自分も破滅するかもしれない……! だがどうやらこの世界、小説とはちょっと展開が違うようで? 兄に巻き込まれて破滅しないようどうにか頑張る5歳児のお話です。ほのぼのストーリー。 ※不定期更新。

処理中です...