悪役令息レイナルド・リモナの華麗なる退場

遠間千早

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第四部

五十八話 呪われた王女は終末を語りて 中①




 ――古いアパートの部屋はゴミでいっぱいだった。
 片付けられなくなった雑貨や服が積み上がって、ペットボトルとか弁当の容器を入れたゴミ袋が散乱している。

「あれ? なんだここ」

 呟いた俺の声は小さくて高い。
 
 なんでこんなところにいるんだっけ、と思いながら周りを見回し、ああそうだ。と思い出した。

 迎えに来るから待っていて。
 と、お母さんが言った。

 だから俺は待っているんだ。この部屋で。一人で。

 物がいっぱいに溢れた部屋の床に、落書き帳を見つけた。それを拾った俺の手は小さい。
 まるで子供じゃないか。
 そう思ってまたあれ? と思った。
 手に持った自由帳をめくる。中は黒いクレヨンで描いた絵でいっぱいだった。

 布団の上にも物が溢れて寝られなくなり、お母さんはリビングの隅で、俺は洗面所の床の隙間で毛布を敷いて寝ていた。ダンボールに入れていたおもちゃはもうずいぶん前に取り出せなくなってしまったから、唯一手元にあった自由帳と一本だけ残った黒いクレヨンで絵ばかり描いていた。
 昔よく読んでもらった絵本に出てきたおもちゃのネズミの絵。たくさん描いて画用紙がなくなってしまってからは、頭の中にいるネズミと隠れんぼして遊んだ。隠れるところはたくさんあったから、その遊びが意外と楽しかったことを覚えている。

 ……覚えている?

 この光景を覚えていると思う、俺は誰だ?

 少し考えてわからなくなり、俺は玄関に座り込んだ。
 ゴミ袋に埋もれてしまいそうな玄関の隙間に座って、コンクリートのたたきに短くなった足を置く。そこには子供のサンダルしかない。
 唯一あった大人の靴は、お母さんが履いて出ていったからだ。

 帰ってくるから。
 いい子にしていて、と言って。

 俺はその言葉を玄関で聞き、黙って頷いた。

 どこにも行かないでよ。
 一緒に連れてって。

 そう言えたらよかったんだろうか。そしたら、お母さんは俺を一人にしなかっただろうか。
 でも、たとえそう言ったとしても、多分連れていってはもらえなかった。
 あの人はずっと疲れていた。お父さんと離婚してから、ずっと一人でどこか遠くを見ていた。

 いい子にしていたら、お母さんはあらたを見てくれるよ。

 そう思っていたから、我儘なんか言わなかった。
 だから帰ってくると思ってた。
 背を向けて去る姿を見送り、冷たい玄関に座って、自由帳を抱きしめながら一人で待っていた。
 鍵のかかっていない扉を見つめ、きっともうすぐ迎えにきてくれると、自分に言い聞かせてずっと待った。

 結局、このまま待ってもお母さんは戻ってこないんだ。
 数日後に、たまたま訪ねてきた民生委員のおばさんに、俺は玄関のゴミ袋に埋もれてぐったりしているところを発見される。

「お母さんが帰ってきたら連絡するからね」

 そう言われて、施設で暮らすことになった後も、俺はずっと待っていた。そのうち迎えに来てくれると信じていたかった。
 成人して、社会人になって、もういい加減諦めようと思ったけれど、多分心のどこかではまだ待っている自分がいた。
 世の中はそんなものだと割り切って生活するうちに、過去の記憶はだんだんと薄れていく。けれど、理由のない哀しみは俺の中にいつまでも残った。
 身体は大人になっても、心の内側には薄暗い玄関で座り込む子供がいた。

 誰からも愛されたかったわけじゃない。

 俺を愛してくれる人がたった一人でもいいから、この世界にいるんだと思えたら、それで幸せだった。
 でも他人に期待することは怖かったから、誰とも深く付き合おうとしなかった。
 そういう人間だったから、藤咲新は寂しい大人だった。迷子の子供がそのまま大きくなったような、所在なさがいつまでも消えない、曖昧で、いつも人に合わせてふらふらしているような。

「でも、それは俺じゃないんだ」

 この部屋の記憶を思い出している俺は、今は別の人間だったはずなんだ。

 別の人間として生まれ変わって、そして前世を思い出した、今の俺。
 そう、藤咲新だった記憶を持って、別の世界で生まれた俺はなんでここに帰ってきたんだ?

 ここは嫌だ。
 帰ってこない人を待つのは、苦しい。

「……グウェン」

 俺の口からその名前が零れた。
 呼び慣れた名前がひとりでに漏れたように、俺の中から、俺を俺にしてくれる人の名前が。

 グウェン。
 グウェンドルフ・フォンフリーゼ。

「っ」

 その瞬間、頭の中にビリッとした電気が通ったように感じた。霧の晴れたみたいに思考がすっきりする。 

「そうだ、俺は」

 レイナルドだ。今の俺は、レイナルド・リモナ。
 十二歳で前世の記憶を思い出して、最初は混乱した。でも今の家族への慕わしさに気づいたとき、小さな悩みや葛藤は全部どうでもよくなった。
 友人もいるし、ウィル達は可愛い。
 そして俺を心から愛してくれる大事な人ができた。

「悪魔はどうなった? ここはどこだ?」

 ついさっき、ナミアの聖堂で聖杯の魔法を起動したはずだ。
 グウェンを助けるために、女神様に救いを求めた。日本にいるわけないのに。
 玄関で立ち上がって、周りを見回す。さっきと打って変わって、視界がぐんと上に広がった。自分の身体を見下ろすと、大人になっている。見慣れたレイナルドの身体だ。大人になって部屋の中を見ると、記憶にあるよりもずっと狭く感じる。

「早くグウェンを助けないと」

 この場所はなんなんだろう。俺の前世が具現化してるのか?
 困惑しながら、玄関の扉を押す。
 鍵を開けたのに、扉は開かなかった。

「なんで?」

 ノブを回して引いても押しても、扉はびくともしない。

「ちょっと、なんだよ! 開けて!」

 こんなことしてる場合じゃないんだ。
 早くグウェンを助ける方法を探さないと。

「そっちじゃないよ」

 突然後ろから声が聞こえて、思わずびくっとした。

「え?」
「こっちだよ、あらた」

 聞き覚えのない声だ。小さくて、ちょっとキイキイした。
 まさか幽霊……とおそるおそる振り返ると、部屋の中は相変わらずゴミが溢れているが人の気配はない。

「あらた」
「ひっ」

 見えないのはもっと怖い。
 扉に背中をつけて後ずさったら、クスッと笑うような気配がして、もう一度「ここだよ」と声が聞こえた。
 だいぶ下の方から。

 視線を下に落とすと、玄関のたたきにある落書き帳の上に、ちょこんとネズミが乗っていた。
 灰色の、おもちゃみたいな見た目にデフォルメされたネズミ。

「ネズミ……?」
「あらた、久しぶりだね」

 目を細めて俺を見上げるネズミを見つめ、既視感を覚えた。

「あれ? このネズミって……」

 見慣れたネズミじゃないか。
 えっと、最近めっきり出てこないけど、ほら、俺の頭の中でよく駆け回ってたよな……『約束された末路』って書いてある看板持って……

「ぼく、あらたの最初の友達でしょう?」
「え……?」
「あらたの子供のときの記憶はぼくが持ってるのもあるから、ぼくのこと覚えてないのも仕方ない」

 ネズミはごそごそして落書き帳を開き、そこに描かれたネズミの絵をちょん、と短い手で示した。

「一緒に隠れんぼしたでしょ」
「あ……え? あれ?」

 俺が描いたネズミと、目の前に現れたネズミを見比べて、はっとした。
 空想の中で一緒に遊んでいたネズミだ。そういえば、俺は前世で子供の頃、ネズミの友達がいた。確か、名前は。

「チロル」
「そうだよ、あらた」

 ようやく思い出してくれたね、とネズミはチュウと鳴いた。
 好きだったお菓子の名前だ。俺がつけた。

「えっ、ちょっと待った。チロルは確かに前世の俺の、子供の頃想像上の友達だった。イマジナリーフレンドっていうんだっけ? でも、まさか転生先にもついてきてたの? それともこれ全部俺の妄想?」

 混乱しつつ、チロルを見下ろす。
 チロルは長い尾を振って鼻先を上げた。

「ぼくは君であり、君の一部だ。ぼくはあらたの心から生まれたけど、あらたの心を守るために大人になってからは隠れてたの。当然あらたの生まれ変わった先にもついていったよ。あらたがピンチを感じるとちょっとだけ思い出すみたいだった。僕が見えてたでしょ」
「え? ……うそ。ほんとに? でも確かにあのネズミは、思い返すとチロルかも……」

 俺にもよくわからなくなってきた。
 俺の一部だと言われても、会話してるんだから不思議だよな。
 チロルがチュウ、と鳴いて廊下の先に駆けていく。

「女神様のところに行くでしょう。ぼくが案内するよ」
「女神様がいる場所を知ってるのか?」
「知ってるよ。こっちだよ」

 まさか女神様のところに連れて行ってくれる? 
 驚きで目を丸くした俺に、こくっと頷いてチロルは部屋の中に戻っていく。
 ゴミ袋を掻き分けて追いかけると、チロルが床の上をしゅるると走って洗濯物の山の裏に潜っていく。

「待って」

 慌てて追いかけると、服とゴミ袋の中に埋まったテレビがあった。
 そういえば、小さなテレビとテレビ台がソファの前にあった。いつの間にか服をかけるための台になって、そのうち物に埋もれて見えなくなったんだった。
 服をどかすと、チロルがジャンプしてテレビのスイッチを入れた。
 画面は真っ黒のままだけど、ランプが点って微かな電子音がする。

「この中だよ」
「テレビの?」
「テレビというより、ネット回線だよ。このアパートはケーブルテレビでよかったよね」
「ネット回線」

 チロルの口から予想外の言葉が続けて出てくるので面食らう。
 ネット回線……女神様ってネットの中にいるの?

 なんだこれは、と混乱し始めた俺に、チロルはチュウ、とまた鳴いて尾を振った。

「ネットはどこにでも繋がるってこと。細かいことは考えず、ついてきて!」

 そう言ったチロルが黒い画面の中に飛び込んでいった。
 
「あ! 待って!」

 ここに残されるのは困る!
 この部屋は嫌だ。俺は思い切ってテレビの画面に手を伸ばした。チロルと同じように、画面を突き抜けた腕が吸い込まれる。二十型にも満たない大きさのテレビの中に、俺の身体はするりとすり抜けた。
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