異世界で演技スキルを駆使して運命を切り開く

井上いるは

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第三章

迷い

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その日、私は寮に帰りたくなくて、寄り道していた。

心のモヤモヤは晴れなかった。
女神様、どうして私はここにいるの?
広場の女神像に問いかけていた。
その時だった。

「あれ、サラ?こんな時間に何してるの?女の子は帰る時間だよ。」

聞き覚えのある声に振り返ると、だらしなく着崩したリックさんが立っていた。

「あ、こんばんは。」

考え事をしていて、辺りが薄暗くなっていることに気づかなかった。

「この時間からは、気をつけないと商売女に間違えられるぞ。」

リックさんがさりげなく私の手を取って、歩き出した。

「あ、あの……。」

お芝居以外で、手を繋ぐなんて経験があっただろうか。
よく考えたら、この世界に来るまで、男性と接することがほとんどなかった。
どこに行っても、身バレしてゆっくりできない生活だった。
もうとっくに20代半ばなのに、男女の清い交際すら経験していない。
今が大事な時だからと、学生時代から共演者との些細な交流すら制限されてきた。

お芝居の中では、どんな自分にもなれた。
でも今は何もない、ただの「私」で、一度しか会ったことのないリックさんに手を引かれている。
男の人の手がこんなにも大きくて暖かいものだと、ぼんやりと感じていた。

「家はどっち?」

リックさんが振り返った時、私は感情が爆発しそうになっていた。

「サラ、大丈夫か?」

彼は何かを察したのか、私の頭に自分の着ていた上着をそっと被せた。

リックさんの香りにほっとした。
柔らかい生地が顔に触れ、その温かさが伝わってきた。
ほのかにウッディでスパイシーな香りが漂い、それはまるで、心を落ち着けてくれるような安心感だった。

「泣いてもいいよ。」

リックさんの優しい声が、私の心に染み渡った。


上手くいかない日常に加え、戦争まで始まり、気持ちが張り詰めていたのかもしれない。

元の世界では、いつも忙しくて、仕事関係以外の友達とは疎遠になっていた。
やりたいことは沢山あったのに、それを叶える時間も余裕もなかった。
家族との時間も少なく、何を目指して頑張っているのか、自分でも分からなくなることがあった。

ここに来て、劇団での生活は新鮮で楽しいけれど、それも一時的なものに過ぎないのかもしれない。
今までになかった自由な時間は、何ものにも変え難いはずなのに、
異世界に来た理由も目的も分からず、ただ毎日を過ごしているだけに感じていた。
だからなのか、帰りたいなと毎日漠然と思っていた。

でも、薄々気づいていたんだ。
帰っても、自由に外を出歩けない。
仕事ばかりの日々……。
やりたいことをやらせてもらえるだけ幸せだと自分に言い聞かせ、20代の楽しみを全て我慢してきた生活。
戻って月日が過ぎていたら、どうなる?
仕事復帰も難しいだろう。
「異世界に行ってました」なんて、信じてもらえるわけがないし、損害賠償も発生する。

それでも、本当に帰りたいの?
ここに留まるにしても、一度きちんと向き合いたかった。
賢者エリオスに話を聞き、帰れる可能性を知りたかった。
しかし、私のそんな欲のせいでマルコが被害に遭ってしまった。
私が責任を感じることではないと分かっているけれど、この気持ちの行き場がなかった。

私はリックさんに手を引かれて歩き続けた。
前が見えないので、どこに向かっているのか分からない。
お芝居とは関係のない大粒の涙が、私の顔をぐしゃぐしゃにしていた。

約10分歩くと、ガチャガチャと音が聞こえた。
それは鍵を開ける音だった。

「入って。」


私が中に入ると、リックさんは外を確認し急いで鍵をかけた。

「ここは拠点の一つなんだ。だから内緒にしてね。」

彼の声はとても優しかった。




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