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第一話 女神による盤上の世界フィドヘル
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なるほど。と僕はまだ湯気を立てる陶器のカップを持ち上げる。厚手のカップはテーブルに置かれて、目の前で腰掛ける人虎にとってはひどく小さい。
身を屈めて、どこか居心地が悪そうに人虎は身を屈めている。陶器に用いられて釉薬が美しく、つまりは窯で千度を超えるほどの熱を扱える程度の文明があるということだ。
「すまぬな。人虎さん。衣服まで貸してもらって」
「いいや。御人さまにお礼を言ってもらえる方が、違和感でさ。それに人虎さんなんてよしてくだせぇ。お気軽にシュバルツとお呼びくだせぇ」
へっへ。と人虎は人懐っこい笑みで僕を見た。なぜか森に消えていった人虎は、魔女に連れられすぐに帰ってきた。
罰が悪そうに額へ手を当てる人虎と息を切らした黒い魔女。人虎の手には衣服が握られており、子供用ですが。と人虎は僕に差し出した。言われるがままに袖を通すと僕よりもひと回り大きい。
見上げるほどの背丈の人虎を見ると、長い間鍛えた体も貧相に思えてしまう。人虎と同じ白いシャツとブラウンのオーバーサイズのパンツ。皮のベストに触れると手触りが心地よい。
家畜や動物たちもいるのだろう。少なくとも縫製技術と金属を加工する鋳造技術も発達はしているらしい。それでも歪だと違和感が腕を這う。
これほどの文明を有していながら、都市と呼べる場所は石の外壁で囲まれて、うかがい知ることはできなかった。
周囲には木々が生い茂っており、田畑は土地を耕すばかりで水路がない。歪だった。それが僕の住んでいた世界とは違うから、と言われたら仕方がないのだけど。
加えて僕の体もまた変わっていた。くたびれた肉体は張りを取り戻し、触れる髪もまた艶やかだ。あの疲れ切っていた自分とは思えないほどに活気にあふれている。
若返っている。もしくは年齢を奪われたのか。寄りかかる黒い女神の冷たい体温を思い出した。
魔女は窓際のベッドとは対角に作られた厨房のような場所で、黒い鋼の鍋で木ベラをかき回し続けている。魔女の窯のように深く円形の鍋に、足台を置いて背伸びをしながら汗を額に浮かべていた。
しかし人虎の体躯は恐ろしいな。子供のサイズで僕のひとまわりよりシャツは大きく、下衣の丈は必要以上に折り曲げ投げば歩むのもままならない。
草の匂いが色濃く部屋を満たし、花の香りも漂う。魔女の妙薬と言ったところか。陶器のカップからはカミツレだった。
「それにしても御人さまとはどういうことだ? 僕には僕よりもシュバルツの方がずっと優れていると思う。敬称をつけてくれるのはありがたいが、僕のことも気軽に高橋と呼んでくれ」
「いやいや。それはいけねぇ。御人さまを気軽に名で呼ぶなんて失礼だ。他の御人さまに知られたらおそろしい。・・・それにしても珍しいお名前ですね。響きが柔らかで、御人さまの人柄みたいだ」
はっは。と人虎は椅子に身を預け、ギシリと音を立てた。
「いいよ。シュバルツが気を使わなくて。無駄に偉そうなだけの人なんだから」
小さなガラス瓶がシュバルツの前に置かれる。先の細い小瓶は鮮やかな青緑色をしており、小瓶の蓋には羽ばたく鳥が装飾してあった。曇りのないガラス瓶を造形する技術まである。まだ僕が見ていないだけで、豊かな職人と工房があるのだろう。
「ただの人? 御人さまにはギフトと呼ばれる特別な才能があるのでしょう? 白い都市に住む白騎士さまはいつだって不思議な力を使うじゃないですか」
「いいえ。タカハシは紛れもなくただの人。残念ながら魔法もギフトも使うことができないの」
「そんな人もいるんですなぁ。まるであっしらみたいだ」
人虎は視線を緩めて肩の力も抜いた。やっとのことで陶器のカップへ手を伸ばすと、口に近付けあちぃ。と舌を出し、目を細める。やはり猫科。猫舌ではあるらしい。
「先ほどから気になっているのだが、なぜ人をそんなに持ち上げるのだろう? 僕からしたら人虎・・・シュバルツの方が人より優れているとしか思えない。人は獣たちには力でかなわない。ゆえに技術を発展させた。知恵があったからだ。脳の容量が増し前頭葉を発達させて人と獣は袂を別かれた。シュバルツのように獣の力を持ち、人のように振る舞える存在に人は勝てない」
陶器のカップをテーブルに下ろすと、カタリと音が部屋の中に響く。
人虎はあんぐりと口を開けたまま額に手を当て、黒い魔女は腰に手を当て首を左右に振った。間違ったことは言っていないのだけど。と首をかしげる。
「ほら言ったでしょう? ただの人だって。いえ、それ以上に面倒くさいこじらせた青年なの。こう・・・目の前の現実を受け止めることすらできない」
「十分に受け止めているよ。受け止めた上で考えている。僕はシュバルツのような肉体に生まれ変わりたかった」
「あのねぇ。タカハシはもう生まれ変わっているの。この世界で、現世の姿を捨てて、そっか・・・まだあんたは自分の姿を見ていないんだっけ」
魔女は杖の先端を軽やかに回すと、先端がかげろうを作る。大気中から集められた水滴が大きさを増し、両手を広げた程度の大きさに膨らんでいく。口が乾くのを感じた。そして風が吹く。窓から流れ込んでくる風は勢いを増して水滴を円形に形成した。
宙空に湖面が広がる。そして僕の姿を映し出した。思った通り、僕の顔はずっと昔、高校時代の時と同じ活気に満ちて頬が赤く、シワひとつない。
「これでは会社には行けそうにないな」
ポツリとこぼすと、魔女と人虎は不思議そうに顔を見合わせた。そうか、もう出社する必要はなく、別の世界なのだ。今まではどこか漠然と実態を持たなかった考えが、急に心の中で形を持つ。
なぜだか急に心細くなり、現世から離れてしまったことに対して恐怖感を覚えた。どれほど満たされて、不自由がなかったかを思い出した。
このまま文明も不確かな世界で生きるのだろうか。それは嫌だった。僕にはまだやり残した仕事があって、少なからず知人もまたいるのだ。帰りたいと思った。両親も残したままだ。たいして好きではなかった世界のはずなのに、帰りたいと思えるのは不思議だった。
黒の女神は自ずと帰れる方法がわかると言った。そうであるのだろうか? それに盤面を黒く染める。核心から遠のいた曖昧な指示だ。どう動けばまったくわからない。
しかし・・・魔女の口振りはまだ真実を隠している。とにかく僕はまだ、何もかも知らなすぎる。魔女の名すらも。
「ところで、魔女の名を教えてくれないか。まだ聞いていなかった」
「ん? 別にいいけど。あんたにまで魔女なんて呼ばれてたくはないしね。私の麗しき名前は、リリィ、気軽にリリィさまと呼んでいいからね」
「わかった。リリィ。とにかく僕はこの世界のことをまだ知らない。他の人はどこにいるんだ?」
リリィは目を細めて杖の先を地面に置いた。僕の問いにはシュバルツが口を開く。
「それは・・・湖の中央にある白の都市に住んでおります。御人さまは都市に住むことを許されていますので」
「ならばシュバルツはどこに住んでいるんだ? リリィは・・・なぜ?」
再びふたりは顔を見合わせている。理由はわからないが、シュバルツは困り顔のまま立ち上がった。虎であっても表情は豊かである。
「ならあっしと一緒に来るといいです。あっしらは都市に住むことは許されていませんが、納品がありますので」
そうか。とつられて僕も立ち上がると、隣でリリィが帽子のつばで顔を隠すのが見えた。赤黒いラインの入った黒い三角帽子の奥にある表情は見えない。尖らせた口元だけが見える。
「こいつひとりだけでは何をやらかすかわかったもんじゃないから、私も行く」
「いいんで? あっしらはともかく魔女さまは・・・」
いいから行く。と魔女は首を振る。僕は魔女の考えていることがわかった。
「大丈夫だリリィ。正直、僕もおしゃれをすることは苦手だ。でも意外と周りは他人の格好には興味がないんだよ」
違う。とリリィは声を荒げ杖で床を鳴らす。ふむ。違ったか。女心というものはどの世界でも変わらず難しいものらしい。
ただシュバルツが身を屈めて、魔女の顔を覗き込もうとしているのが気にかかった。リリィは表情を見せずに首を縦に振る。街に行くだけなのに悲しみにくれる表情がどうしても気にかかった。
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