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5 名も知らぬ
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「境界?」
シェリーも空を見上げれば、紅く染まっていた月が、元の色を取り戻し始めていた。
「そうだ。境界だ。あの色があって初めて、現世と俺達の棲む世界との境界が重なる」
「俺達……? 神って、ひとり……」
言いかけ、シェリーは神話を思い出す。
「じゃ、ないわね。色々な神が居るわね、神話に。……そういえば、あなたはなんの神様?」
血糊を拭き取った剣を鞘に戻し、荷物が入った袋を背負いながら、シェリーは尋ねる。
スラリとした体躯、高い背、さらりと指通りの良さそうな腰までの水色の髪、深い青の瞳、透き通るような白い肌。そして、誰もを魅了しそうなほど、整った容貌。
の、神だった男は。
「……時と場合による」
渋い顔で言った。
「なにそれ」
「そもそもお前達の作る神話とやらは、俺達の行動の一部を切り取り、想像を広げ、理想像のようなものを当て嵌めたもの。違う神が同神として語られたり、同じ神なのに別のものとして語られたりしている、と、周りからは聞いている」
「あー、まぁ、そうね。そう言われると、否定出来ない」
ふむ、とシェリーは顎に手をやって。
「じゃあ、こっちに来た時に何か、特徴的な行動をしたことはある?」
「特徴的な……ああ、一番最近は、いつだか正確には思い出せないが、猟師の親子と出会ったな」
「……」
一つ、思い当たるものがある。
「……ねえ、その親子。父親と娘の親子だった?」
「ああ」
「……あなた、お兄さんいる?」
「いるが」
「そのお兄さん、奥さんが二十人くらいいたりする?」
「いるな」
「それとあなた、独り身?」
「そうだな。伴侶を得たことはない」
さらりと言った男の横で、シェリーは頭を抱えそうになった。
「どうした」
「……どうしたもこうしたもないわ……! あなた、トゥベリウスじゃない!」
「トゥベリウス」
「ええ、トゥベリウス。最高神の弟、愛に飢えた孤独の神のトゥベリウスよ!」
「愛に飢えた、孤独の神?」
目を丸くする男の前で、シェリーは額に手を当て、呻く。
「ああああ……! よりにもよって、トゥベリウスだなんて! なんて皮肉!」
「待て。俺の話はどう伝わっているんだ?」
「はぁ……さっき、猟師の親子と出会ったって言ったわね」
「ああ」
シェリーは男へと顔を向け、
「それ、神話になってるわ。猟師の娘を見初めたトゥベリウスは、娘を自分のものにしようとした。けれど娘はそれを拒み、激怒したトゥベリウスに星にされてしまった。……そんな話よ」
「……。見初めた覚えも、星にした覚えもないが」
「ちなみに、その猟師の娘の星は、星座になってる。猟師の乙女座。あそこに見えるのが、それよ」
シェリーは空へ顔を向け、指をさす。
「あの一等輝く黄色い星が、娘の心臓。その少し上にある青い星が、娘の涙だって言われてるわ」
「……。人間の想像力は、逞しいな」
その星々へ目を向けた男は──トゥベリウスは、心底呆れた、といった風な声で言った。
「あーもう。……どうしようもないわ。トゥベリウス、さっさと帰りましょ」
「帰る、のは良いが、俺の名はトゥベリウスではないし、愛に飢えてもないし孤独な訳でもない。訂正させろ」
歩き出したシェリーの横を、ふわふわと着いてくるトゥベリウス、という名前ではないらしい男は、不満そうな声で言う。
「じゃ、なんて名前なの」
「ユルウアルカ・ディーン・ケイラス・マルディウス=ヨルボロス、だ」
「長いわ。覚えにくい。略称は?」
「お前……」
男は、ハァ、と溜め息を零し。
「なら、ユルロ、と呼べ」
「ユルロ?」
「俺の幼名だ。この名前の由来でもある」
「へぇ」
神にも幼名があるのか。そんなことを思いながらシェリーは湖を後にし、聖域を囲む高い塀が見える場所まで来ると。
「……」
その足を止めた。
「? どうした」
「……あなた、実体はないけど、見えるわよね」
「ああ、見えるが」
「門番の人達に、あなたをどう説明すればいいのかしら……」
シェリーは頭に手をやって、深く溜め息を吐いた。
「あなたが神様だってことは言えないし」
「なぜ」
「経緯を説明しなきゃいけないからよ。そうしたら私、あなたを殺そうとした罪で異端審問にかけられちゃうわ」
「自業自得だな」
「言ってくれるわね。たかが人間一人に殺されかけたくせに」
「……」
男、改めユルロは口を閉じ、明かりの灯る塀を見つめ、
「……異端審問、か」
「ええ。ああでも、あなたにとっては好都合ね。私が死ねば、あなたは私から解放させるんでしょ?」
はは、と笑うシェリーの頭に、半透明の手が乗せられる。
「……何かしら」
「お前は、もっと自分を大事にしろ」
その言葉に、シェリーは顔を歪めた。
「……出来たら、とっくにしてるわ」
シェリーは歪んだ顔から笑顔になり、ユルロへと明るい声で言う。
「私、誰からも愛されないって言ったわよね。誰からも、よ。それは、私自身も含まれるの。分かる? 私は私を愛してないの。大事に思えないの」
「……。なるほどな。では、お前が死なぬように、今の俺にも出来ることをしよう。手を出せ」
「……何か神様のアイテムでもくれるの?」
差し出したシェリーの手に、半透明の手が重なる。
「いや、俺自身だ」
そう言ったユルロの、半透明の体が淡く光り出す。
「は?」
光はシェリーの手に収束し、その光が収まると──
「……は?」
シェリーの手のひらには、水色の石が嵌まったブローチが、コロンと乗っていた。
「どうだ? これなら門番達も、俺をただの装飾品としてしか見ないだろう?」
ブローチから、ユルロの声。
「……うわぁ……」
「嫌そうな顔をするな。お前のためを思ってのことだぞ」
「ああ、ええ、そうね。うん……ありがとう。じゃ、行くわ」
シェリーはブローチとなったユルロをポケットに仕舞い、塀へと歩き出した。
◆
「さあ、もうここは宿の部屋だから、元に戻っていいわよ」
ポケットから取り出したブローチに向かってシェリーが言えば、
「ふむ……宿、か」
ブローチは一瞬にして、ユルロの姿に戻った。
ふわふわと揺蕩うユルロは、部屋をぐるりと見回し、ポツリと言う。
「狭いな」
そこは、人が五人も入れば満杯になりそうな広さで、簡単な作りのテーブルと椅子、そして寝心地があまり良くなさそうなベッドが一つという、とても簡素な部屋だった。
「狭くて悪かったわね。個室なだけ有り難いのよ? ゲアドル湖、あの湖がある聖域に入るには、莫大なお金がかかるの。私が今までコツコツ貯めてた貯金も、それで半分消えたわ。節約しないといけないの」
言いながら、シェリーは乾きかけた上着を脱ぎ、椅子の背に掛ける。
「……はぁ……」
そして、そのまましゃがみ込んだ。
「どうした。疲れが出たのか?」
「……いいえ……疲れというより、徒労感ね……」
シェリーはゆらゆらと立ち上がり、そのままフラフラとベッドに座る。
「──ああ、ああ、ああああ……!」
そして、頭を抱え、呻き出した。
「どうしてこうなっちゃったのかしら……!」
◆
「……本当に、そのまま寝るとはな」
『私、明け方には出ないといけないし、もう寝るから!』
と、掛布をひったくるように被り、シェリーは寝てしまった。
「相手が神とはいえ、男がいる、この部屋で。……警戒心がないというより」
──私は私を愛してないの。大事に思えないの。
何をされてもいいと思っているのだろうか。と、ユルロは推測する。
「俺はまだ」
揺蕩っていたユルロは床へと降り立ち、眠っているシェリーの顔を覗き込む。
「お前の名も聞いていないというのに。……どうしたものか」
と。
「……ぅ、……」
「ん?」
「いや……」
寝ているシェリーの口から、苦しげな声が零れる。
「いや……いや……! 嫌…………!」
その表情も苦しげで、小さく悲鳴のように呟きながら、シェリーは涙を零す。
「いや……行かないで……お兄様……! お母様……!」
その手はシーツを破らんばかりに握り締め、シェリーの額からは汗が滲む。
うなされているシェリーを見て、
「……」
ユルロは、彼女の額に手を置いた。
「これくらいなら、今の俺にも出来る」
そう言い、力を流し込む。
彼女の悪夢を押し流し、理想を夢に溶け込ませる。
「いや、……ぁ、…………、…………」
シェリーの呻きは徐々に収まり、その顔も、和らいでいく。
「おに……さま……。おか、ぁ、さま……」
握り締めていたシーツも、手から離れ。シェリーは微笑んでいるような、安らかな寝顔になった。
ユルロはシェリーから手を離し、
「……一時的にではあるが、良い夢を」
そう、呟いた。
シェリーも空を見上げれば、紅く染まっていた月が、元の色を取り戻し始めていた。
「そうだ。境界だ。あの色があって初めて、現世と俺達の棲む世界との境界が重なる」
「俺達……? 神って、ひとり……」
言いかけ、シェリーは神話を思い出す。
「じゃ、ないわね。色々な神が居るわね、神話に。……そういえば、あなたはなんの神様?」
血糊を拭き取った剣を鞘に戻し、荷物が入った袋を背負いながら、シェリーは尋ねる。
スラリとした体躯、高い背、さらりと指通りの良さそうな腰までの水色の髪、深い青の瞳、透き通るような白い肌。そして、誰もを魅了しそうなほど、整った容貌。
の、神だった男は。
「……時と場合による」
渋い顔で言った。
「なにそれ」
「そもそもお前達の作る神話とやらは、俺達の行動の一部を切り取り、想像を広げ、理想像のようなものを当て嵌めたもの。違う神が同神として語られたり、同じ神なのに別のものとして語られたりしている、と、周りからは聞いている」
「あー、まぁ、そうね。そう言われると、否定出来ない」
ふむ、とシェリーは顎に手をやって。
「じゃあ、こっちに来た時に何か、特徴的な行動をしたことはある?」
「特徴的な……ああ、一番最近は、いつだか正確には思い出せないが、猟師の親子と出会ったな」
「……」
一つ、思い当たるものがある。
「……ねえ、その親子。父親と娘の親子だった?」
「ああ」
「……あなた、お兄さんいる?」
「いるが」
「そのお兄さん、奥さんが二十人くらいいたりする?」
「いるな」
「それとあなた、独り身?」
「そうだな。伴侶を得たことはない」
さらりと言った男の横で、シェリーは頭を抱えそうになった。
「どうした」
「……どうしたもこうしたもないわ……! あなた、トゥベリウスじゃない!」
「トゥベリウス」
「ええ、トゥベリウス。最高神の弟、愛に飢えた孤独の神のトゥベリウスよ!」
「愛に飢えた、孤独の神?」
目を丸くする男の前で、シェリーは額に手を当て、呻く。
「ああああ……! よりにもよって、トゥベリウスだなんて! なんて皮肉!」
「待て。俺の話はどう伝わっているんだ?」
「はぁ……さっき、猟師の親子と出会ったって言ったわね」
「ああ」
シェリーは男へと顔を向け、
「それ、神話になってるわ。猟師の娘を見初めたトゥベリウスは、娘を自分のものにしようとした。けれど娘はそれを拒み、激怒したトゥベリウスに星にされてしまった。……そんな話よ」
「……。見初めた覚えも、星にした覚えもないが」
「ちなみに、その猟師の娘の星は、星座になってる。猟師の乙女座。あそこに見えるのが、それよ」
シェリーは空へ顔を向け、指をさす。
「あの一等輝く黄色い星が、娘の心臓。その少し上にある青い星が、娘の涙だって言われてるわ」
「……。人間の想像力は、逞しいな」
その星々へ目を向けた男は──トゥベリウスは、心底呆れた、といった風な声で言った。
「あーもう。……どうしようもないわ。トゥベリウス、さっさと帰りましょ」
「帰る、のは良いが、俺の名はトゥベリウスではないし、愛に飢えてもないし孤独な訳でもない。訂正させろ」
歩き出したシェリーの横を、ふわふわと着いてくるトゥベリウス、という名前ではないらしい男は、不満そうな声で言う。
「じゃ、なんて名前なの」
「ユルウアルカ・ディーン・ケイラス・マルディウス=ヨルボロス、だ」
「長いわ。覚えにくい。略称は?」
「お前……」
男は、ハァ、と溜め息を零し。
「なら、ユルロ、と呼べ」
「ユルロ?」
「俺の幼名だ。この名前の由来でもある」
「へぇ」
神にも幼名があるのか。そんなことを思いながらシェリーは湖を後にし、聖域を囲む高い塀が見える場所まで来ると。
「……」
その足を止めた。
「? どうした」
「……あなた、実体はないけど、見えるわよね」
「ああ、見えるが」
「門番の人達に、あなたをどう説明すればいいのかしら……」
シェリーは頭に手をやって、深く溜め息を吐いた。
「あなたが神様だってことは言えないし」
「なぜ」
「経緯を説明しなきゃいけないからよ。そうしたら私、あなたを殺そうとした罪で異端審問にかけられちゃうわ」
「自業自得だな」
「言ってくれるわね。たかが人間一人に殺されかけたくせに」
「……」
男、改めユルロは口を閉じ、明かりの灯る塀を見つめ、
「……異端審問、か」
「ええ。ああでも、あなたにとっては好都合ね。私が死ねば、あなたは私から解放させるんでしょ?」
はは、と笑うシェリーの頭に、半透明の手が乗せられる。
「……何かしら」
「お前は、もっと自分を大事にしろ」
その言葉に、シェリーは顔を歪めた。
「……出来たら、とっくにしてるわ」
シェリーは歪んだ顔から笑顔になり、ユルロへと明るい声で言う。
「私、誰からも愛されないって言ったわよね。誰からも、よ。それは、私自身も含まれるの。分かる? 私は私を愛してないの。大事に思えないの」
「……。なるほどな。では、お前が死なぬように、今の俺にも出来ることをしよう。手を出せ」
「……何か神様のアイテムでもくれるの?」
差し出したシェリーの手に、半透明の手が重なる。
「いや、俺自身だ」
そう言ったユルロの、半透明の体が淡く光り出す。
「は?」
光はシェリーの手に収束し、その光が収まると──
「……は?」
シェリーの手のひらには、水色の石が嵌まったブローチが、コロンと乗っていた。
「どうだ? これなら門番達も、俺をただの装飾品としてしか見ないだろう?」
ブローチから、ユルロの声。
「……うわぁ……」
「嫌そうな顔をするな。お前のためを思ってのことだぞ」
「ああ、ええ、そうね。うん……ありがとう。じゃ、行くわ」
シェリーはブローチとなったユルロをポケットに仕舞い、塀へと歩き出した。
◆
「さあ、もうここは宿の部屋だから、元に戻っていいわよ」
ポケットから取り出したブローチに向かってシェリーが言えば、
「ふむ……宿、か」
ブローチは一瞬にして、ユルロの姿に戻った。
ふわふわと揺蕩うユルロは、部屋をぐるりと見回し、ポツリと言う。
「狭いな」
そこは、人が五人も入れば満杯になりそうな広さで、簡単な作りのテーブルと椅子、そして寝心地があまり良くなさそうなベッドが一つという、とても簡素な部屋だった。
「狭くて悪かったわね。個室なだけ有り難いのよ? ゲアドル湖、あの湖がある聖域に入るには、莫大なお金がかかるの。私が今までコツコツ貯めてた貯金も、それで半分消えたわ。節約しないといけないの」
言いながら、シェリーは乾きかけた上着を脱ぎ、椅子の背に掛ける。
「……はぁ……」
そして、そのまましゃがみ込んだ。
「どうした。疲れが出たのか?」
「……いいえ……疲れというより、徒労感ね……」
シェリーはゆらゆらと立ち上がり、そのままフラフラとベッドに座る。
「──ああ、ああ、ああああ……!」
そして、頭を抱え、呻き出した。
「どうしてこうなっちゃったのかしら……!」
◆
「……本当に、そのまま寝るとはな」
『私、明け方には出ないといけないし、もう寝るから!』
と、掛布をひったくるように被り、シェリーは寝てしまった。
「相手が神とはいえ、男がいる、この部屋で。……警戒心がないというより」
──私は私を愛してないの。大事に思えないの。
何をされてもいいと思っているのだろうか。と、ユルロは推測する。
「俺はまだ」
揺蕩っていたユルロは床へと降り立ち、眠っているシェリーの顔を覗き込む。
「お前の名も聞いていないというのに。……どうしたものか」
と。
「……ぅ、……」
「ん?」
「いや……」
寝ているシェリーの口から、苦しげな声が零れる。
「いや……いや……! 嫌…………!」
その表情も苦しげで、小さく悲鳴のように呟きながら、シェリーは涙を零す。
「いや……行かないで……お兄様……! お母様……!」
その手はシーツを破らんばかりに握り締め、シェリーの額からは汗が滲む。
うなされているシェリーを見て、
「……」
ユルロは、彼女の額に手を置いた。
「これくらいなら、今の俺にも出来る」
そう言い、力を流し込む。
彼女の悪夢を押し流し、理想を夢に溶け込ませる。
「いや、……ぁ、…………、…………」
シェリーの呻きは徐々に収まり、その顔も、和らいでいく。
「おに……さま……。おか、ぁ、さま……」
握り締めていたシーツも、手から離れ。シェリーは微笑んでいるような、安らかな寝顔になった。
ユルロはシェリーから手を離し、
「……一時的にではあるが、良い夢を」
そう、呟いた。
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