ミミは生涯の番と別れられるか?

みづきかやの

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1話 裏切りの夕方

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 足元の影が大きく伸びていた。もうすぐ闇とひとつになる。

 兎獣人族のミミは、混雑した大通りを避けて細い坂道を急ぎ足で歩いていた。油断すると誰かとぶつかりそうになり、思わず白い土壁に手をつけ避ける。

 この日ミミは勤め先であるパン屋のお使いで、町の丘にある孤児院を訪ねていたのだ。

 町は近年、急速な発展をとげていて、来るたびに新しい建物が増えていく。どこを見ても目新しくて、帰りには新しくできた大きな神殿で祈りを捧げていたのだ。

 祈りはミミの母親の習慣だった。幼少期の頃から一緒に村の小さな神殿へ行ってふたりで祈りを捧げていたのだ。今ではミミの日課の一つになっていた。

 この世界の動植物は魔力と呼ばれる体内エネルギ―を持っている。優れた者はその力を使い魔法や魔道具を生み出すことができるのだが、残念なことにミミにその才能はなかった。

 母曰く、祈りはすべての者たちが使うことのできる唯一の魔法らしい。だからミミは祈った。時間を忘れるほど真剣に。気づけば帰宅の時間が迫っていた。

 この春で結婚二年目。夫であるベナスは、実家のグリフォロー商会の仕事を手伝っている。いつも帰りが遅いのだが、ミミは早く家路につきたかった。掃除をして、洗濯をして、料理をして、お風呂を焚いて、ミミはいつだって完璧な妻でいたかったのだ。

 少し冷たい風がミミの長い髪と頭から生えているふわふわの長い耳をなびかせていった。兎獣人たちの中でも、ひときわ美しい白毛をミミは持っている。容姿に自信のないミミにとって、唯一の自慢でお手入れは欠かせない。

 そんなミミがつがいに選んだのは、一回りも年上のベナスだった。

 当時ミミは十八歳で、学校の卒業祝賀会でふたりは出会い、その日にベナスから一目惚れしたと言われたのだ。

 短い飴色毛のベナスは背が高くて身体もミミより大きい。いつだって小さなミミを優しく包んでくれるのだ。濃い琥珀色の眼は温かく、彼が身にまとう清潔感はミミにとって誰よりも魅力的だった。

 出会ってすぐの結婚に、ミミの両親は大反対した。兎獣人族にとって番とは生涯のもの。まだまだ世間を知らないミミには早すぎると大喧嘩となったのだ。冷戦状態の両親を説得したのはベナスだった。ベナスは老舗の三男で、お金と人脈、あらゆる手を使ってミミとの婚姻を勝ち取った。

 そんなふたりに両親は一つの条件を付けた。ふたりに子どもができるまで、ミミが働きに出ることだった。この条件にベナスはいい顔をしなかったのだが、ミミは大いに喜んだ。すぐに町外れにある小さなパン屋の募集を見つけて働き始めたのだ。

「早く帰らないと……」

 番になってからは、ふたりでは広すぎる家に住んでいる。町に近いので庭は小さいのだが、ベナスの実家の庭師がいつも手入れに来てくれていて美しさを保っていた。庭の一角にはミミの薬草畑もあり、休日は自分で水やりもしている。その庭で遊ぶ子どもはまだいない。でもいつか――。

 ミミはいつだって大きな愛に包まれていた。

 夕日が沈み、ゆっくりと、でも確実に夜が迫っている。昼の色から夜の色へと変わろうとしているその町で、ミミは気づいた。

 目の前の少し先に、夫のベナスがいる。

 人垣をかきわけて前に進みながら何度も顔を確認した。見間違えを願って……。ミミは呼吸をするのも忘れで凝視した。

 夫のベナスが同じ兎獣人の女と腕を絡ませ、仲睦まじく歩いている。ミミの知らない女だ。

 兎獣人の特徴的な頭にある長い耳には、リングが片耳に三つ付いている。毛色はわからない。夜に染まってしまったからだ。

 ふたりは歩くのを止め、見つめ合う。互いの唇が近づき、触れ合った。

 そしてふたりは――。

 一軒の宿へと入っていったのだった。

 その瞬間、ミミの身体は硬直し、耳鳴りが暴れ出す。頭が痛い。浅く呼吸を繰り返し、苦しみが去るのを待った。

 今、目の前で見た映像が、ミミの脳内に焼き付いて離れない。

 愛が終わった瞬間だった。

『夫から愛される、完璧な妻でいられますように』

 そしてミミの祈りは届かなかった。



 ミミはどうやって帰ってきたのかわからない。気が付いたら、勤め先のパン屋に戻ってきていたのだ。ミミを見たパン屋の女将は慌てて側にきて、優しく彼女の腕をさすった。

「大丈夫かい!? 顔が真っ青だよ?」

 ミミは答えられない。騒ぎが聞こえたのかパン屋の店主も顔を出した。

「ミミ、何があった?」

 優しい声にミミは泣きたくなった。いつもは無口な店主が気づかわしげに声をかけてくれている。

 でもミミは答えられない。言ってはいけないのだ。今あったことを、この目で見たことを……。

「大丈夫です……」

 そんな言葉しか出てこなかった。

 女将さんに見送られて、ミミは家路についた。

 急に寒気がやってきて、ベッドの上にあった毛布の中で丸くなる。震えが止まらない。自分の身にまさかこんなことが起こるなんて。

 獣人たちが多く住むアーニルマ国。

 広大な土地を持つこの国は、近隣の大国たちに対抗するためにできた寄せ集めの国で、各種族がそれぞれの領地を持ち暮らしている。

 決して仲がいいわけではない。多くの戦いの歴史があった。ときに嫌悪し、ときに尊重し、互いに監視しあいながらも今はなんとか平和に過ごしているのだ。

 そんな彼らにはそれぞれの種族ごとに独特の文化や風習、考え方、そして掟を持っていた。

 建国の際に各種族はそれらを自分たち独自の法として定め、互いの領地に入ればその法が適用され従わなければならないという決まりをつくったのだ。それはまとまる筈のなかった種族たちをまとめるための苦肉の策であり、今もなお国としてまとまらない原因の一つとなっている。

 なぜ、そんな法をつくったのかとお互いが思うような法もあり、国としての決まりごとを話し合う場ではしばしばその法が壁となるからだった。

 兎獣人族もまた、他種族に理解されない独自の法をつくっている。

 彼らの領地は国都から遠く離れた北の緑豊かな山と森に囲まれた中にあり、代々の領主一族を中心に質素に慎ましく生活していた。

 外から見れば古いと思うしきたりも多く残っていて、その一つが番制度だ。

 兎獣人族の番は生涯にひとりだけ。愛し愛されて生涯を終えることが至高の番同士とされている。番になったら双方の魔力登録が義務付けられ、兎獣人族が運営する行政に管理されるのだ。魔力は指紋のようにそれぞれが違い、二つとして同じ物はないとされている。

 他種族との番は認められず、そのときは領地を出なくてはならない。国自体では他種族との番は婚姻という形で認められているのだが、申請するには国都へ行く必要があった。

 兎獣人族はそのほとんどが外の世界を知ることなく領内で生涯を終える。他の種族からは極めて保守的で閉鎖的だと思われているのがミミたち兎獣人族だった。

 不倫や浮気などの騒ぎは、兎獣人族の中ではほとんど起こらない。いや、あってはならないのだ。

 もし自分の番が不貞行為をしたならば、悪いのは……。

 された方になる。

『あなたの愛が足りないから番は浮気した』

 この言葉の中には、愛情・献身・能力・魅力それらすべてが浮気相手よりも劣っているとの同義が含まれている。世間への露見は、浮気した方よりも、された方がより厳しい立場に立たされることを意味しているのだ。

 これがアーニルマ国で生きる兎獣人族たちの常識だった。

 よって、兎獣人族の番持ちたちは、相手の浮気に目を瞑る。裏切られた事実をひとり胸の内に隠し、気づかないふりをするのだ。

 ミミにとってそれは遠くの出来事だと思っていた。ベナスを信じ、愛されていると信じ、裏切られることなどないと信じていたのだ。

 まさか自分がその立場に立たされるとは……。

 先が見えない。これからどうしたらいいのか、どうするべきなのかミミにはわからない。周りに知られればきっとミミが責められる。話のネタにされ、おもちゃにされて、あざ笑われるのだ。

 黙る以外の道はない。

 でも――あのときの映像が蘇る。微笑み合うふたり。絡まる腕。ミミの赤い瞳から大粒の涙が零れた。

 誰か教えて欲しい。裏切られた苦しみを生涯隠して番と生きていけるのか。

 誰か教えて欲しい。苦しくて、悲しくて、悔しくて、そしてとても怖かった。

 幸福な時間は消えてしまったのだ。

 経験したことのない感情のはざまで、ミミは自分が壊れてしまうのではないかと震えた。



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