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29話 何一つ忘れたくないのに
しおりを挟むその後のことは、私の胸の内に留めておこう。
国に戻ってエルフとして生きろと言われても、10年間人間として生きてきた自分にとってそれは受け入れ難い事実だった。
人間の両親が自分を愛さなかった理由は分かったが、かといってエルフの両親に親愛を感じることもできなかった。
『セシル・パーキンズは仮初の名前。お前の真名はアルサリオン・フォン・アヴァロン。女王の子としてその名に恥じぬよう生きよ』
名前を変えられ、居場所を奪われ、私の心は頑なになった。時折父だというロリアンが様子を見にくるが、それすら煩わしいだけだった。
そして日毎溶け落ちていく、セシルだった頃の記憶。ゆっくりと、紅茶に入れた角砂糖みたいに四隅から崩れていく。記憶の消失は、緩やかにはじまった。
最初に母の声が思い出せなくなった。次に、父の顔が消えた。家の場所を忘れ、村の人の顔が薄れ、麦畑の香りも、羊の鳴き声も、全てが曖昧になっていく。
『寝るたびに、忘れていく。父さんも母さんも、村のことも、どんどん分からなくなっていく。このまま、エヴェリーナのことも忘れてしまうの……?』
そんなの、絶対に嫌だ!!
他のことはいい。エヴェリーナのことだけは忘れたくない、何一つ。
私は毎晩祈るように彼女の名前を呟いた。朝が来た時に彼女を思い出せなくなっていたらと思うと、恐ろしくて眠ることも難しかった。
『エヴェリーナ、エヴェリーナ……彼女の名前は、エヴェリーナ・エイヴェリー。僕の一番大切な女の子……』
彼女との日々を繰り返し頭の中で思い出した。
二人で交わした会話を何度もなぞった。
エヴェリーナの笑顔を、瞼の裏に思い描いた。
次の日の朝、目覚めた瞬間に思うことは、『朝だ……よかった、まだエヴェリーナを思い出せる』
ということだった。
誰とも馴染むことができず心を閉ざしたまま一年が過ぎる。
この頃には、人間だった頃の記憶はほとんど思い出せなくなっていた。けれど、結婚を誓った彼女との思い出だけは、消えることはなかった。
見えない糸で繋がっているような、確かな感覚が私の心にはあった。
そんなある日、私は王宮の図書室で一冊の古びた書物を見つけた。
それは、異界の者が別の世界の者へ求婚する儀式の方法が書いてある文献だった。
例え住む世界が違っても、これなら彼女をエルフの国に連れてくることができる。結婚したら、ずっと一緒にいてもらえる。
やっと私は、生きる希望を見出すことができたのだ。
それからというもの、あらゆる分野の知識を学び、魔法の力を磨いた。
シルヴァーラから魔法の基礎を学び、独学でより精度の高い魔法の習得をした。
国の歴史や文化を学び、王子としての基盤も整えた。
周囲からはエルフの王子として期待され、羨望と尊敬の眼差しで見られるようになった。
それでも、私の心は一つも満たされなかった。
三年が立つ頃には、精霊の国の泉からエヴェリーナの姿を見ることができるようになっていた。
その時ようやく彼女が置かれている状況を知った。エイヴェリー家は女主人を亡くし、領地の不作で困窮していたのだ。
その事態に対して、特別感情は動かなかった。彼女が苦労していることについては、"早く私が助けてあげなければ"と思った。だが、それだけだ。
たくさんの命が失われたことも、エヴェリーナが母を失った悲しみも、私は一欠片も理解していなかった。
できなかったのだ。この時の私は、紛れもないエルフだったから。
セシルだった時の記憶は薄まり、人間界で育んだ人間らしい感情の揺らぎは失った。徐々にエルフの思考に影響され、感情が平坦になっていく。
感情が無い、とは少し違う。
善悪の区別はつく。何が正しくて何が正しくないのかも分かる。喜怒哀楽というものも理解はできる。
ただ、心が動かないのだ。何を見ても、何を聞いても、ただ"そうか"と頷くことしかできない。
エルフの心は穏やかに流れる細い川のようだ。澄み切っていて、一寸の乱れもない。一箇所に留まることもなく、たださらさらと下流に向かって流れるのみ。
人間からすれば、これが酷く冷酷に映るのかもしれない。
会えない日々は想いを募らせる。君は約束を忘れていないだろうか。私のことを覚えてくれているだろうか――会いたい。
エヴェリーナと離れて10年が経った。私は20歳になり、成人の儀が終わった直後の議会で宣言をした。
『……求婚の儀?』
『はい。私には心を決めた相手がおります。その方以外と番う気はありません』
エルフの女王に、求婚の儀を施行し人間を娶りたい旨を伝えたのだ。
議会はざわつき、若いエルフは勝手なことを言い出した。彼らは人間を軽視しているし、自分たちをさぞ高尚な生物だと思っているようだ。
『人間などすぐに死んでしまうではないか』
『エルフの王子が人間を娶るだなんて』
『やはりチェンジリングの影響か……』
しかし、思いの外高齢のエルフは反対の意を唱えることはなかった。
『本当に良いのだな?』
エルフの女王であり、私の母であるシルヴァーラが、全てを見透かしたような目で私を見据えた。
『はい。既に誓いを立てました』
『ならば仕方がない……滞在期間は慣例に従って六ヶ月……』
『一年です。滞在期間は一年間。過去に一年間の滞在を許された事例があります。貴女たちの都合で勝手に引き離されたのですから、これくらいの特別待遇はしてもらわねば』
すると、シルヴァーラの隣に座っている私の父、ロリアンは、弱々しい声で小さく反論した。
『だ、だが、あまりエルフが異界に長く滞在するのは、バランスが……』
私は舌打ちをして鋭い視線を彼に向けた。
『あっご、ごめんね口出して……』
ロリアンは肩を落として私から目を逸らした。彼はエルフらしからぬ、感情を露わにする男だ。いつもおどおどとしているので、見ていると腹立たしくなってしまう。
『……そう怖い顔をするな。一応この男はお前の父なのだぞ』
『大変失礼いたしました。人生の半分を人間界で過ごしましたので、そのような感覚も育ちませんでした』
シルヴァーラは愛おしそうな目でロリアンの頭を撫でている。私とエヴェリーナのことは引き離したくせに。互いを愛し合う姿を見ると、ちりっと胸が燻る音がした。
『よかろう、滞在期間は一年間。影響を及ばさない最低ラインだ。その間に連れ帰れ。見届け人はこちらで選定するが、良いか?』
『はい、問題ございません。ご理解頂きありがとうございます』
こうして私はロンドンに向かい、エヴェリーナと再会することができた。
大丈夫だ、もう私は平民ではない。エルフの王子なら、彼女の身分に見合うはずだ。
彼女のどんな望みも叶えることができる。だからきっと、エヴェリーナは私を愛してくれる。
もう二度と離れるのは嫌だ。
求婚の儀を必ず成功させて、彼女を連れて行く――そう固く決意した。
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