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第82話 お休みなさい、良い夢を
しおりを挟む太陽が地平線の果てに沈み、月が夜を誘いやってくる。
(ミースに聞いても、結局夜伽係は何をしたらいいのか教えてもらえなかったわ)
白いナイトドレスに、ゆったりとしたガウンを羽織った私は、アルサリオンの寝室で彼が来るのを待っていた。ミースからは「アルサリオン様が教えてくださいますからぁ」としか言われなかった。
夜に寝室で行うことなら、寝る前の支度だろうか。思い返せば、メアリーは私の髪を梳いてくれたり、暖かい飲み物をいれてくれた。
(それにしても、こんな格好で彼の寝室にいるだなんて、なんだか変な気分だわ)
寝室はとても広い。開放的な窓の側には、一人で寝るには大きすぎる天蓋付きのベッド。
本棚にはたくさんの本が整然と並んでいた。
天井は緩やかなアーチ型で、ステンドグラスが埋め込まれたバラ窓が私を見下ろしている。
緊張の面持ちであれこれ考えていると、きい、と扉が開いた。
「あ……」
「何故貴女がここに?」
私が口を開くより早く、彼が言葉を発した。アルサリオンはとても困惑しているような表情を浮かべていた。夜伽係のことはシルヴァーラ様から聞いてないのだろうか?
「女王にお願いしたんです。何か貴方の役に立てるお仕事をくださいって」
「それで?」
「そうしたら、夜伽係をしなさいと」
「そうですか、夜伽係……夜伽係!?」
彼が急に大声を上げたので、驚いて肩が跳ねた。そんなに驚くようなことなのかしら?アルサリオンは眉間に皺を寄せて険しい表情を浮かべていた。
「貴女は夜伽係の意味を知ってここに来たんですか?」
「教えてもらえれば上手にできると思うわ」
自信ありげにそう言えば、今度は苦虫を嚙み潰したような顔をした。そんなに難しい仕事なの?
「迷惑だった?あの、髪を梳いたり暖かい飲み物を入れたりすることくらいは私にもできるわ。他には何をすればいいの?」
そう問えば、彼は肺の空気をすべて押し出すような深いため息をつき、鏡台の椅子に座り込んだ。
「それでいいです。髪を梳いて、暖かい飲み物をいれて部屋に帰りなさい」
「分かったわ!任せてちょうだい」
許しを得たので私は彼の後ろに立ち、長い髪を手に取ってブラシで梳かしていった。開け放した窓からは夜風が吹き込み、私の手からさらさらと掬い取るように銀糸を揺らす。
月の光に照らされて、彼の髪は上質なシルクのような光沢を放っていた。もつれないよう、痛みがないよう、丁寧に少しずつ梳かしていく。
「綺麗な髪の毛ね。羨ましいわ」
「エルフは皆銀色の髪ですよ」
「でも、貴方の髪は特別綺麗。流れ星が落ちたみたいよ」
ふと鏡に視線を向ければ、私に身を任せているアルサリオンの姿が映る。彼が目を伏せると、長い睫毛は彼の顔に影を落とした。
(なんだか気を許してくれているみたいね)
「髪の毛はこれでいいわ。飲み物を準備するから待ってね」
♢♢♢
「はい、どうぞ。ホットミルクよ」
赤い鉱石でできたコースターには保温の効果があるようで、カップはちょうどいい人肌の温かさだ。手渡すと、一瞬だけ指先が触れる。
それだけのことなのに、無性に胸がドキドキした。
彼はカップに目を落とし、ゆっくりとミルクを飲み込んだ。カチャリ、と陶器が置かれる音がする。
「これで貴女の仕事は終わりです。さあ、もう部屋に帰りなさい」
「分かったわ、お休みなさい」
扉を開き、部屋を出る前にもう一度振り向いた。彼は、鏡台の前に座ったままだった。
「……貴方は寝ないの?」
「――どうせ、眠れないので」
まだベッドに入ろうとしないアルサリオンに尋ねてみると、彼は落とすように笑った。
「眠れないの?それはいけないわ」
彼の手を引き、ベッドへと連れて行く。この時私は、夜伽係の意味をはっきりと理解した。
夜伽係とは、"眠れない彼に安眠をもたらす役目"なのだ。
ベッドに横たわった彼に、そっと布団を掛けてやる。
「大丈夫よ、貴方が眠るまでここにいるからね」
「いや、だからもう部屋に下がってよいと……」
「ほら、お喋りはお終いよ。しぃー……」
そっと瞼の上を撫でて目を閉じさせる。そして囁くような声で、子守唄を歌った。幼い頃に、お母様にしてもらったように。
また「子ども扱いするな」と怒られるかしら。
一曲歌い終わった後に聞こえたのは、規則正しい静かな寝息。
(良かった、眠れたみたい)
私も一つ欠伸をした。
彼の前髪を撫で、額に口づけを落とす。そして、「お休みなさい、良い夢を」と呟いた。
(彼の寝顔は、初めて見るわね)
少し険しい顔つきで、疲れた顔をしている。眉間の皺をそっと伸ばしてやると、子どもみたいなあどけなさを感じた。
(アルが一晩中私の寝顔を見ていた理由が、少しだけ分かった気がするわ)
もう少しだけ見ていたい。あと、少しだけ。
月明りに照らされて眠るアルサリオンは、美しかった。
♢♢♢【side アルサリオン】
部屋に帰ると、リーナがいた。
なぜいるのかと問えば、シルヴァーラから夜伽係を命じられたとのことだった。
彼女は夜伽係の意味を理解してここに来たのか?
まさか――慣れているのか?
そう思った瞬間、例えようのない不快感が全身を這いまわった。
彼女が他の男に触れられているのを想像しただけで、臓腑が焼けつくような怒りが湧き上がる。
あの時、ゼファーレンがリーナを抱きかかえているのを見た時もそうだった。
そんな考えなど露ほど知らない彼女は「迷惑だった?」と無垢な眼差しで私を見つめた。
(夜伽の意味を知らないのか……)
その途端安堵が広がり、気持ちを切り替えるために深く息を吐き切った。
「それでいいです。髪を梳いて、暖かい飲み物をいれて部屋に帰りなさい」
「分かったわ!任せてちょうだい」
嬉しそうに返事をしたリーナは、私の髪を梳かしはじめた。人に髪を触られて気持ちがいいと思ったのは初めてだ。
今まで何人か夜伽として女が来たが、触れられることに嫌悪感しか湧かなかった。
彼女の手つきはとても優しい。神経の通わぬ髪でさえこんなにも大切に扱うリーナなら、他の場所にはどんな風に触れるのだろう、とつい考えてしまった。
彼女に差し出されたカップは温かかった。だが、受け取るときに一瞬だけ触れたリーナの指の方が、もっと私の心を温めてくれた。
エルフの心は平坦なはずだ。
穏やかに流れる細い川のように、澄み切っていて一寸の乱れもない。
一箇所に留まることもなく、たださらさらと下流に向かって流れるのみ。
そのはずなのに、なぜ貴女は私の心を乱すのだろう。
これ以上はだめだ。
戻れなくなる。
早く部屋に帰さなければ。
そう思ったのに、つい「眠れない」と溢してしまった。
案の定、リーナは私をベッドまで手を引き、布団を掛けて寝かしつけようとしている。
「大丈夫よ、貴方が眠るまでここにいるからね」
――大丈夫だと言われたのも初めてだ。
そんな言葉掛けられたこともない。
目を閉じると、彼女の囁くような優しい歌声が降ってくる。
心地よくて、温かい声だ。
なんて幸福な微睡みだろう。
眠れば悪夢を見ると分かっているのに、その幸せに永遠に酔いしれていたい。
この音色を、遠い昔どこかで聞いたことがなかっただろうか。
けれど、どうにも思い出せない。
もっと聞いていたくて必死に意識を掴んでいようとしたけど、あっさりと手をすり抜けてしまう。
いつの間にか、私の意識は深い海に沈み込んだ。
♢♢♢
朝の光が降り注ぐ眩しさに、はっ、と目を覚ました。ステンドグラスの光が白い床に虹色の影を落としている。
「――朝?」
(朝まで眠っていたのか……?)
小鳥の囀りと羽ばたく音が庭の木々から聞こえる。いつも目覚めた時に感じる悪寒も、今日はない。
(しまった、亀裂が……!)
反射的に剣を顕現させたが、剣は沈黙していた。
「んん……」
隣に目を降ろせば、彼女が無防備な姿で眠っていた。ガウンははだけ、白く細い肩が露出している。
「なっ……!」
咄嗟に布団を掛けてやると、彼女はもぞもぞと布団にくるまり、また寝息を立て眠り込んだ。
なぜ朝まで眠れたんだ?
なぜ昨夜亀裂は起こらなかった?
――なぜ君はここにいるんだ?
彼女の頬に手を添え、そっと撫でてやる。
安心しきった顔が朝日に照らされて、少しだけ顰められた。
「君は――誰だ?」
私の心に、明確な問いが生まれた。
リーナの蜂蜜色の瞳が、薄く開かれる。
顔をくしゃりと破顔させた彼女の口から零れる、幸せそうな寝起きの声。
「――おはよう……」
その時、生まれて初めて心臓の鼓動が胸を大きく叩いた。
同時に気付いてしまった。
この人間の娘が特別な存在だということに。
そしてもう恐らく、手放してやれないということに。
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