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第89話 愛は死んだ
しおりを挟む彼女の制止の声も聞かず、足を持ち上げて、白い太ももの内側に口付けをいくつも落とした。
誰にも暴かれたことのない清い体に、赤い花を散らしていく。
止めるつもりはなかった。
だって、私たちは引き裂かれた半身なのだろう?
今から一つに還るだけだ。
この腕の中に捕まえて、閉じ込めて、どこにも逃しはしない。
ずっと私だけを見て生きればいい。
二度と引き裂かれないようにする為には、縛り付けるしかないんだ。
心も、体も、魂さえも。
そう、あの二人のように。
その時、彼女の体が震えているのに気が付いた。
視線を顔へ向ければ、リーナは頬を紅潮させ、手で口元を押さえ必死に泣き声を殺していた。
涙はとめどなく頬を伝い、瞳に浮かぶのは怯えと拒絶の色。
心臓が大きく波打った。
――違う。
こんなことを望んだんじゃない。
『《愛を疑うな。疑えば、愛は死ぬ》』
ディグレインの言葉が、唐突に呼び起こされた。
床に落ちた彼女のガウンを拾い上げ、上からそっと掛けてやる。
リーナは何が起きているのか分からないような顔をしていた。
「ア、アルサリオン……?」
彼女は胸元でガウンを抑えて起き上がった。震えた声を聞くだけで、自分のした愚かな行為に吐き気を覚えた。
(――もう、愛されない。愛は、死んだ)
自分で壊したんだ。
愛される唯一の機会を、永久に失った。
私はこれ以上惨めな気持ちになりたくなかった。
「……自分の国に帰れ。君の愛した男はここにはいない」
何度か呼び止められたけど、彼女を一人残して部屋を去った。
♢♢♢【side エヴェリーナ】
朝まで待ったけど、アルサリオンは寝室には帰ってこなかった。
冷えたシーツが、彼がここにはいないという証明だった。
次の日も、その次の日も、彼が離宮に足を踏み入れることはなかった。
「エアリエル、アルサリオンは……?」
エアリエルは、黙って首を横に振るだけだった。
♢♢♢
(どうすればいいのかしら……)
首筋や胸に咲いた赤い花は、今日もあの日の出来事を私に思い出させる。
怖かった。
与えられる感覚も、腕の強さも、全てが私の知らない彼だった。
壊れそうに歪んだアルサリオンの顔が、今も鮮明に瞼の裏に焼き付いている。
きっと私は、彼に愛の証を与えてあげられなかったのだ。
傷付けてしまったことを謝りたいのに、会っても貰えない。
手紙も受け取りを拒否された。
私は彼に、完全に拒絶されてしまったのだ。
目頭が熱を帯び、じわりと涙が溢れ出る。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
私はただ貴方と一緒にいたかっただけ。
貴方と幸せになりたかっただけ。
それだけなのに――。
♢♢♢
部屋のバルコニーからアルサリオンのいる王宮の方に目を向けた。
アルサリオンは今何をしているんだろう。
ちゃんと眠れているだろうか。
食事は摂っているだろうか。
元気でいるのだろうか――そんなことばかり考えていた。
すると、何やら騒がしい気配がする。
王宮の門から、騎馬兵が何頭も出立していくのが見えた。
1頭や2頭ではない。何十頭もの銀の鎧を纏った白い馬が、列をなして大地を駆け抜けていく。
まるで今から戦争をしにいくみたいだ。
「……何かしら」
酷く胸騒ぎがした。嫌な音を立てながら鼓動は早くなっていく。私は部屋を飛び出し、ミースを探した。
「リーナ様ぁ?どうしたんですかぁ、そんなに慌てて……」
「ミース、王宮から騎馬兵が何頭も出て行ったわ。何があったの!?」
ミースの顔がさっと曇った。視線を彷徨わせている彼女の肩を、強く掴んだ。
「ねえ、何があったのか教えて!」
「……魔物の国が、国境線を侵攻してきたと今朝早くに伝令が……殿下は前線で指揮をとるため、参戦されました……」
「そんな……!」
ミースの呼び止める声も耳に入らず、私は離宮を飛び出した。
今から走ったって到底間に合わないだろう。
もう彼は行ってしまった。
もしかしたら、このまま二度と――。
息が上がって苦しい。
喉が焼け付くように痛い。
涙で視界がぼやけて、前もよく見えない。
ようやく王宮の門の前に辿り着いた時には、砂埃が微かに舞い上がるだけでそこに彼の名残は一つも見つからなかった。
「アル……アルサリオン……」
私はその場に力なく膝をついた。
名前を呼んでも返事はない。
もう、生きて会える保証もないのだ。
私に出来るのは、彼の無事をこの守られた場所から祈ることだけだった。
♢♢♢【side アルサリオン】
「《殿下、出立のお時間です》」
「《今行く》」
彼女と会わなくなってから、また亀裂が開き出した。
以前よりも大きく、そして頻回に。
だが、それもちょうどよかった。
何かしらしていなければ、心が食い潰されそうだったから。
国境に辿り着くと、既に闇の軍勢が待ち構えていた。後方からは「《醜い化け物共め》」と敵を罵る声が聞こえる。
「《化け物……か》」
ぽつりと呟いた声は地響きでかき消されていく。
「《全軍、出撃》」
この戦いに勝者はいない。
ただ真正面からぶつかり合い、向かって来る敵を薙ぎ払うだけ。
交渉も、投降も、戦術すらも存在しない。
それに誰もなんの疑問も持たない。
金属がぶつかり合い、肉が裂ける音が耳を打つ。
鮮血が迸り、死骸が焼ける腐臭が鼻を刺す。
剣で切りつけ、貫き、どちらかが朽ち果てるまで戦うのだ。
この世界は本当に祝福された楽園か?
魔法を連発して、腕が痺れてきた。
口の中に鉄の味が広がる。
ミスリルの剣は唸り声を上げて、燃えるような真紅に染まっていた。
こうしてこの世界の消耗品として生きていれば、自分という存在もいつかは擦り減り消えてなくなるだろう。
誰にも愛されず、何千年も一人で。
「……ははっ」
戦場には似合わない、乾いた笑いが漏れた。
最初から、私のものなど何一つなかったのだ。
じゃあ、もう終わっていい。
愛が死んだなら私も死ぬべきだ。
終われ、終われ、終われ
「《終われよ》」
天を仰いだ瞬間、肩に鋭い痛みを感じた。
燃えるように熱い。全身がどくどくと脈を打った。
「《はっ……》」
矢だ。鎧を貫き、矢が右肩に刺さっている。
矢じりに手をかけると、そのまま無理やり引き抜いた。
「《ぐぅっ……!!》」
「《殿下、大丈夫ですか》」
「《ああ、問題ない》」
戦場で呆けていれば待っているのは死だ。
痛みで我に返った私はまた攻撃を開始した。
何のために戦っているのかも、もうよく分からなかった。
ただ、このまま戦っていればいつかは死ねるだろう――そう、思った。
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