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エピローグ
しおりを挟む――2025年8月 イギリス コッツウォルズ地方。
青年は、夏季休暇にロンドンからコッツウォルズ地方へと足を運んでいた。スーツケースと、画材道具一式を重たそうに持ち、田舎道を歩いていた。
一つに束ねた金色の髪は、丘の上の麦畑のように風に揺れている。
なにが彼をそうさせたのかは分からない。
青年には描きたいものがあった。
旧時代を彷彿とさせる、田園風景。
都会で暮らす彼には縁遠い場所であるが、なぜか無性に心惹かれるものがあった。
「ここか……立派なお屋敷だなぁ」
チェックインカウンターで手続きを待っている間、応接間に通される。
応接間には過去の領主の肖像画が飾られていた。
興味を持って一つ一つ眺めていると、暖炉の側に一枚の絵画が壁にかけられていた。
青い空と、白い花。
丘の上に立つ、人影。
春の希望と祝福が込められた、生命の美しさを感じる絵だった。
一瞬、自分がその場にいたような臨場感が五感をくすぐった。
風の音。花の匂い。誰かの話し声。
誰のものなのかも分からない、泣きたくなるような衝動だった。
「お客様、お待たせいたしました」
宿泊係の女性が青年の元へやってきた。
「お部屋は201号室です。朝食のお時間は7時から9時まで」
女は淡々と説明をしていく。アーモンド色の髪は綺麗にまとめ上げられ、青い瞳は澄んだ湖のようだ。
「あの、この絵は……」
「こちらは1889年にアルルの画家から購入した絵だそうです。作者は不明ですが、当時の当主が大層気に入っていたようですね」
青年は食い入るようにその絵を見つめた。
アンバーの瞳の中に、白い花が映り込む。
「あの」
「はい」
「ルームキーを」
「……え?あ、すみません。僕、熱中するといつもこうで」
青年は慌てて彼女からルームキーを受け取った。その際、袖に付いていた蜂蜜色の美しいカフリンクスが目に留まった。
男は女の瞳をじっと見つめた。
まるで、瞳の奥深くを覗き込むような視線だった。
「あの、何か」
「はっ……す、すみません」
荷物を背負うと、階段を昇ろうとした。しかし数段昇ると、何かを決意したかのように再度下へと引き返す。
「あの!き、今日ってお仕事は何時に終わりますか!?」
宿泊係の女性はあ然とした表情で青年を見つめた。そして、またか、といううんざりした表情を浮かべて目を伏せた。
女の顔立ちは美しく、なぜこんな田舎で働いているのか問いただしたくなるほど浮世離れした美貌を持っていた。
「申し訳ありませんが……」
そう言っていつものように断ろうと男の顔を見据えた。
男は決して下心を抱いているような表情ではなかった。頬は紅潮し、肩は震えている。琥珀色の瞳は澄んで純真さを宿している。
必死すぎて、こちらが恥ずかしくなるほど真剣さを滲ませた表情だった。
なぜだろう。不思議と嫌悪感が湧かなかった。
見つめられることが自然なことのように思えた。
二人の間の境界線が、曖昧に溶けていく。
――ずっと待っていた。
長い間固く閉じていた蕾が綻ぶように、感情が胸の奥で広がった。
「ご、ごめんなさい。こんな、普段こんなことしたことないんだけど……なぜか分からないけど――君のことが、知りたいんだ」
「……仕事中ですので」
冷たい表情に項垂れ、もう一度謝罪しようと思ったその時、女が何かを差し出してきた。
「明日は休暇です」
「……っ!」
それは、彼女のテレフォンナンバーが書かれた、黄色いメモ用紙だった。
「それでは、ごゆっくりどうぞ」
女は丁寧に頭を下げると、カウンターへと戻ってしまった。
男はそのメモ用紙を握りしめ、階段を長い脚で二段飛ばしで駆け上がった。
羊の鳴き声。
干し草の香り。
陽が落ちると金色に輝く、田舎の村。
森に満ちる、鈴の羽音。
(なんだか、自分の家に帰ってきたみたいに落ち着くなぁ……)
ベッドの上で微睡み、彼女のことを考えた。
メモ用紙に書いてある、オリヴィア・シャーウッドという文字を指でなぞる。
(なんだろう。ずっと探していたものが見つかった時のような、欠けたピースがぴったりとはまった時のような清々しい気分だ)
明日はきっと、素敵な一日になる。そんな予感がした。
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