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2章 異国[羈旅( きりょ)]編

2-9 男の腕の魅せどころ ※ランド回

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 よく踏み固められた古い道は、藪に飲み込まれても完全に消えずに残っていることが多い。ランドの推察通り、背丈ほどもあるやぶの中から、かつての道の名残りが現れた。

 進むべき方向は決まった。そこに向かって進むだけ。
 その前に、まずは本日の食糧問題が残っていた。シンプルに言うと、米はあるが肉がない。

「漁をしよう」
 ランドがそう言って、小屋を後にしてから三時間ほど歩いた頃だろうか。

 斜面の向こう側に力強い川音が聞こえてきた。見つけた獣道を通って音のする方に下りると、目の前に魅力的な流れが現れる。

 ゴロゴロと水面に顔を出した岩の間を、上流から流れてきた水が滑り落ち、水は岩にぶつかって、その下流で渦を巻く。いかにも川魚が好みそうな渓相だ。

 倒木は多いが、滝や落差の大きい流れもないので、危なくもない。また天候が急変してもいつでも林の中に逃げられる地の利便性もいい。

 フェイバリットが大きな岩の上から水面をのぞき込んでいる。視線の先にある小さな淵に、三匹の魚が群れているのが後ろに立つランドからも見えた。
 
 しゃがみ込む小さな背中に、弾んだ声でランドは声をかけた。

「よし――今日はここで漁をして、そのままこの辺りで泊まろう」

 まだ見ぬ獲物に想いを馳せると、ランドの胸にはやる気持ちがせりあがってくる。

 普段のお兄さん然とした顔と違い、浮かれるランドが可笑しいのだろう。フェイバリットが興味深げにこちらを見て小さく笑うのが視界の隅に映る。だがそれも今は気にならなかった。そのくらい高揚していたのだから。

 ランドは矢も楯もたまらず背負い袋を下ろすと、奥の方にしまってある得物を取り出した。川でランドが得意とする狩りは、魚をヤスで突く”魚突き”だ。

 やり方は至って単純。岩の下に潜りこむ魚影を目で追いながら、ヤスで素早く魚を突き刺す――それだけ。
 必要なのは暗い岩の下に潜る魚を正確に捉える目、そしてヤスを突きだす手の速さ。これに尽きる。

 得物は穂先が三つ又になっている長いヤス。そのままの長さだと背負い袋に入らないので、三本に分かれた柄をつなげて使う仕様になっている。

 ランドは慣れた手つきで素早く柄をつないでいく。先が曲がらないよう、穂先に巻いた皮の覆いを外すと三つ又に分かれた黒い切っ先が現れる。

 里では穂先の太さや柄の長さを自分の好みに調整する。ランドのヤスの柄は、かなり細めに仕上げてある。急流でも水の抵抗を受けないようにするためだ。何年も使い込んだ道具は、ランドの手にしっくり馴染んでいた。

 空は晴天。ランドは流れの深さと重さを確かめるように、ゆっくり川に足を踏み入れる。

 足に絡みつくような流れを感じたが深さはももよりも下までで、水の力も押し流すほど強くはない。水温も冷たいが冬ほどでもない。いけると判断したランドは、胸までゆっくりと水中に体を沈み込ませるとさっそく漁を開始する。

 水温に体を馴染ませた後、水面に顔をつけると、岩の下で魚の尾びれが動くのを視界に捉えた。

 だが一匹は狙いをあえて外す。漁を行う時、最初の獲物を川に捧げるのが、川の神への礼儀だからだ。
 銛は岩の手前に当たり、その隙に素早く魚影が岩から飛び出して勢いよく泳いでいく。

 それを見送り、再びランドは水中で目を凝らした。奥のほうにかたまりになった魚の群れが見えた。幸い魚はこちらには気づいていない。あの魚はアマゴの群れだ。

 だがこの距離では穂先が届かないので、いったん脅かして岩陰に逃げたところを狙うことにした。水底から石を拾い上げると、水面から手を出して石を投げ入れる。

 魚の群れの向こう側に石が落ちて、水面が一瞬泡立つのが見えた。目論もくろみ通り、驚いた大きい魚影が一匹、岩の中に逃げ込んだのを見て、ランドはその岩にそっと近づいた。

 左側の隙間が怪しい。穴の奥に八寸(約24センチ)ほどの魚の模様が見えた――瞬間、ヤスを突き出す。

 狙いを定めたところに返しのついた切っ先が入った。銛先から魚の体が抜けないように慎重に引き出しながら手で掴む。これはぽってりとした体がなかなか可愛いアマゴだとランドは一人悦にる。

 魚を手に水面から顔を出すと、フェイバリットが岸際の岩場に腰を下ろしてこちらを眺めているのが見えた。魚が刺さったヤスを高く差し上げると、離れた場所からでもその顔が笑顔になるのがわかった。

 フェイバリットが立ち上がって、こちらに向かって声を張り上げる。

「すごいね! でも無理しないでね!」

 親指を立てて応じると、さらにフェイバリットが続けた。

「あの――ね! この辺りを少し歩いていい?――山菜でもないか探してみようと思うんだ」

 少し考えて、遠くに行かないならいいぞと返事を返す。こんな場所で人に出会うことはなさそうだし、熊がいるとしたらもっと奥山だろうと思ったからだ。

 立ち上がったフェイバリットが周囲を見回しながら、ゆっくり歩き出すのを見送って、ランドはふたたび漁に戻る。それからどのくらい経った頃だろうか。

 十分な量の魚を突いて我に返ったランドが、水面から顔を出して岸を振り返る。辺りはさわさわと草木のこすれる音が空気を震わせるばかり、そこに人の気配は全く感じられなかった。

 ドクンと大きく心臓が脈打つのがわかった。夢中になりすぎたと、後悔と共に自分を叱責する気持ちが湧きあがる。そう思うやいなやランドの次の行動は早かった。

 ざぶざぶと水の流れを引きちぎるように岩場に駆け上がると、周囲を覆う樹林に目をやる。

 見える範囲をぐるりと見渡しながら、耳で物音を探ることも忘れない。胸の内に搔きむしりたいほどの焦燥がぬるりと肌を這い上がり、そのおぞましさに悪寒が走る。

 えも言えぬ不安に、心臓が苦しいくらいに早鐘を打ち始め、ランドは浅い呼吸を繰り返した。息をするのも苦しい。

「フェイバリット!」

 躊躇なく声をあげた。だが返事はない。募る焦燥感に突き動かされて、ランドはその場を駆け出した。何度かフェイバリットの名前を呼びながら辺りを探るものの、相変わらず呼びかけに応じる声は返ってこない。

 かぶりを振って髪からしたたる水を飛ばしながら、変幻をして上空から探すべきかと思案した時。視線の先に見慣れたものを見つけて、ランドは考えるより先に駆け寄り、地面に落ちたを拾い上げる――フェイバリットが被っていた外套だ。

 『かどわかし』。その言葉が脳裡に閃いた。
 白い髪、赤い瞳という稀有な色を持つその姿をまぶたの裏に思い浮かべる…迂闊うかつだった。無意識に握り込んだ外套に深く皺が刻み込まれる。全身から、どっと嫌な汗が吹き出すのがわかった。

「……っつ。フェイバリット! どこだ?!」

 たまらず大声を張り上げた時。斜面に沿って走る小さな流れの辺りからガサリと音がした。音がした方にはっと顔を向けると、警戒もなんのそのランドは一目散にそちらに向かって駆け出す。

「ラ、ランドっ…!」

 生い茂った木の向こうから小さな――聞き慣れた声が耳に飛び込んだ。その途端、胸の内に占めていた不安が一気に安堵に変わり、ランドはほうっと大きく息を吐いた。

「あ…やっ…ちょ――」

 ひどく動揺した声。声をかけたのに姿を現さない。
 (動けないのか?)そう思った時にはすでにランドの体は動いていた。

「どうした?! 怪我をしたのか――?」
「来ちゃダ――」

 二人の声が重なり合い、フェイバリットの声がかき消される。草を掻き分けてランドが飛び込んだ。ハタリと二人の視線が互いを捉えて固まった。

 ランドの視線の先には、自身を抱えてうずくまる一糸まとわぬ姿があった。

 白い顔を真っ赤に染め上げ、小さく唇を震わせて、みるみるその赤い瞳が涙でにじむのが見て取れた。

 こういう時に限ってなぜか視界が澄み渡り、よく見えるのはどういうわけなのだろうと、ランドは頭の片隅で不思議に思う。

 断じて不埒な心からではないとランドは誰に言うともなく心で言いわけした。

 何か弁明をしなければ、とランドはそっと目を伏せながら、おず…と口を開く。多分、まわれ右をしてその場から離れるのが正解だったのだろうと後で思ったが、この時はそこまで気が回らなかった。

「あ…。…。ん…その、は見てないから……」
「!!」

 フェイバリットの口が大きく開く――やがて。
 川のせせらぎをはるかに上回る悲鳴と共に、木々から一斉に、バササッと激しく羽音を立てながら鳥たちが飛び立った。 
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