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3章 歓びの里 [鳥の妻恋]編
3-14 深夜のおしゃべり会 (中)
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三日遅れでなんとか更新。大変申し訳ありません。
よろしくお願いします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「『ソジ』って男の子に会ったんだよ」
「―――は?」
真ん丸な淡緑の瞳に薄く開かれた口もと――獣ながらに素っ頓狂な顔とはこういうものかと、フェイバリットはまじまじと黒猫の顔を見る。
「え――うん。見た目は子供。大人顔負けに賢くて、漢気に溢れて、義理人情に厚く、今どき珍しい気骨のある男の子、でしょ? …間違ってた?」
「う・いや――間違うて…はないな。『ソジ』はそういう男の中の男や。ちゅうか君、よお全部覚えとったなぁ。――で、そいつに会うたんか?」
褒められたフェイバリットは嬉しそうに頬を緩めながら、小さく頷く。
「うん…――あのね」
◆
ガチャリ。
皆の視線が一斉にそちらを向いた。扉の握り玉が回される音だ。
それほど大きな音ではない。だが緊張に包まれた部屋に風穴を開けるには十分だった。
皆の意識が扉に一身に集まる中、キイィと甲高い音が室内に長く尾を引く。扉を押し開き、誰かがゆっくりと室内に入ってくる。その相手を見て、チャンジの口から驚いたような声が洩れた。
「――“親指”」
扉の前で静かに佇む男の髪色は、チャンジ達と同じく翠玉色。
左右の耳上の毛束を捻りながら、後頭部でざっくりひとつにまとめただけ。残りの髪はそのまま背中に垂らしている。
頭の上半分だけ髪を結い上げた簡単なまとめ髪だが、素朴だからこそかえって端正な美貌をより際立たせた。
加えてしなやかな筋肉に包まれた体躯。
背丈はチャンジとそう変わらないが、がっしりと逞しい彼に比べると幾分すっきりしている。その姿はチャンジとはまた違った美丈夫と言えた。
だが圧倒的にチャンジと異なるのはその覇気だ。ただそこに佇んでいるだけなのに体から放たれる威圧は凄まじく、空気を伝ってビリビリと肌に痛いほど。
気の弱いフェイバリットなどは、圧に耐えかねてついつい身を縮こめてしまう。
皆の視線に気づいて、オムジと呼ばれた男は無言で頭を軽く下げる。
「あらあら、これは珍しい方のお越しですこと――オムジ兄さん」
「本当に。今日はまたどういうご用向きなのでしょうね」
フェイバリットの両脇からコムジたちが口々に話しだす。
「兄さん」という言葉に、赤い瞳がぱちぱちと忙しなく瞬きをしながら姉妹を交互に見る。姉妹がそうだとばかりに頷き、ちらりと兄二人に視線を投げかける。
「そりゃあ言葉にしなければ分かるはずありませんよね? チャン兄様も――オム兄様も。言葉が足りないとは思いませんか?」
「無口はいつもの事とは言え、オムジ兄様も黙って部屋に入って来るのは止めてくださいな」
姉妹二人に大袈裟に溜め息まで吐かれて、チャンジの顔が苦々しく歪む。
「ここぞとばかり…くそが…あ――お嬢は会うの初めて…だよな。親指は俺たちの一番上の兄だ。普段は里と外界との境界を警護していて、本邸に来ることは滅多になくてな…ともかく見ての通り怪しいモンじゃねえ…」
「あら? 見知らぬ男が無言で女性の部屋に乗り込んできて、それを怪しく思わないとそうおっしゃるのですか?」
「本気でそう思っていらっしゃるなら、チャン兄様も大概ですわね」
姉妹の冷たい視線が気まずいのか、チャンジはちっと短く舌打ちすると、さっとオムジに顔を向けた。
「~~~。で? オムジはなんでここに?」
――どうやら話題を長兄に振って、自分は早々に安全な場所に避難することにしたらしい。
「ああ――お前、客人にそろそろ肉を食わせたいと言ってただろう?」
そう言って、オムジが腰に下げた袋に手をかける。取り出されたのはウサギだった。
「おお、わざわざすまねえな。ありがたく受け取るよ――兄さん」
チャンジは礼を言ってウサギを受け取る。
「よお。兎肉、食えんだろ?」
チャンジがウサギの耳を握った手を高く掲げる。すでに息絶えて、ダラリとぶら下がるウサギの体が目に入る。
兎肉は好きだ。食べたのはだいぶ前だが今も舌に味が残っている。思いのほか、食い意地の張っているところが自分にあることを、最近自覚した。
唾を飲み込みこくこく頷くと、その隣に立つ男が釣られてこちらを見る。男と真っ向から目が合って、フェイバリットは小さく息を呑んだ。
整ったその顔の、左の眉毛の付け根から右頬の下までザックリと、斜めに大きく走る痛々しい傷痕が目に入ったからだ。
呆けたように見入ることしばし、フェイバリットは慌てて視線を下げる。じっくり見過ぎてしまった。そんな時だった。
「…オム兄さあ…僕、もう帰っていい?」
小さな声がポツリと場に割って入る。それは子供特有の甲高い声だった。
声の出処をたどって、全員の目がオムジの立つ辺りに集まる。
見上げるほど大きな体の男の影に隠れるように、気配を殺した小さな人影があった。
オムジが大きな一歩で立ち位置を変えると、男の影になっていた人物の姿がよりはっきりと見えた。その背丈は明らかにこの部屋の誰よりも小さい。
オムジにそっと背を押されて、渋々部屋の中に進み出るのは――小さな男の子だった。
「…ホントは部屋から出たくなかったのに、オム兄が一緒に来いなんて言うんだもの」
オムジの隣に並び立つも、噴き出す不満は抑えられないらしい。少年はなおも口の中でブツブツとぼやき続ける。
小さな頭を支える細い首、薄い体から伸びる手足はまだまだ細い。握り締めた拳も小さく、床を踏みしめる足は掌にすっぽりと収まりそうだ。
不機嫌そのものという顔をしたこの少年の見た目は七歳くらいだろうか。
肩の辺りで切り揃えられた白金色の髪は癖もなくまっすぐで、まるで上質な絹糸のようだ。頭を振ればきっとさらさらと音がするに違いない。
「まあそう言うな。久しぶりの客人しかもこんな可愛い女の子だ。一度くらいきちんと顔を見せて挨拶をしても罰は当たるまい」
「何それ。下手な嫌味は止めてくれる? それに僕は女の子になんて、ちっとも興味ないよ」
少年はニコリともせず、つまらなそうにそっぽを向く。取りつく島もない。
頑なな少年の姿に呆れたように小さな溜め息を落とすものの、それ以上は無理強いせず、静かな表情がこちらを見た。
「この子は“小指”。俺たち兄弟の末の弟だ」
(ソジ――?)
瞬間、脳裡に浮かんだのは黒猫の顔だ。
――君が元気になった時は“ソジ”っちゅう男の子が君に会いにくるよって。
(あのソジ…?)
気がつくと、まじまじと相手の顔を眺めていた。そんな視線があまりにも不躾だったのだろう。
視線の先の少年の顔がムッと眉根を寄せる。はっと我に返って、フェイバリットは慌てて顔を伏せた。
「――僕は子供じゃない」
ソジと呼ばれた子供がぶすりと唇を尖らせる。
「あらまあ…これまた輪をかけて珍しいお客様ねぇ」
「誰も来たくて来たわけじゃないさ。ちゃんと話聞いてた? 姉さんたち。いくら年を取ったと言っても、まだ耳が遠くなるほどでもないと思うんだけど?」
少年はすかさず応酬する。
見た目だけならその様子は、まるで子猫が毛を逆立てたような可愛さだ。
だが幼い見目からは想像がつかないくらい、その物言いは辛辣で容赦がない。やられたらやり返す、それも倍返しだ。
ふくれっ面で足もとに目を落とす少年を怒らせないよう、フェイバリットはそっと相手を垣間見る。
実際の年が幾つなのかは知らないが、少なくとも長兄のオムジと随分年が離れているのは間違いないだろう。オムジと並べば二人の身長差は天と地ほどもある。
少年の背丈は男の下腹あたり、頑張れば鳩尾に届くかどうかというところだ。二人が並ぶと、親子と言ってもなんら不思議はない。
その顔は、頬に子供らしい丸みはあるものの、あまりにも整いすぎていて、可愛いというよりまさに綺麗。その言葉が一番しっくりくる。
抜けるように白く、キメ細かい肌。伏した目がまばたきをすると、すうっと伸びた長い睫毛が揺れるのが、少し離れた所からもはっきりと見て取れた。
(わ…あ…っ、睫毛…長~い。それになんて可愛い――ううん…キレイ)
心の中で、思わず感嘆の声が洩れる。それほどまでに完璧に整った顔立ちだ。
室内の面々をちらりと見渡せば、相変わらず暴力的な美貌がそこここに居並ぶ。やはり血というのは争えないものなのだと改めて思った――その時。
(…あれ?)
その違和感に気づいたのは、室内にぐるりと視線を這わせた後だ。フェイバリットはおや?と心の中で小首をかしげる。目の前の少年に視線を戻し、そこで違和感の正体にようやくたどり着いた。
目の前の子供の髪色は、他の兄弟たちのものと違うのだ。
「あんた…さっきからジロジロ見過ぎ。礼儀って知ってる?」
苛々とした口調に、ちっと小さな舌打ちが混ざる。
「ご・ごめん、なさい…」
『ええ子やで』
ふわりとあの優しい声が頭の中に響く。
あの時、黒猫は色々と説明してくれたが、あいにく漢気があるということがどういう意味なのか、それどころか気骨という言葉もこの間、初めて耳にしたばかりだ。
だから目の前の少年が、本当に言葉通りの人物なのかどうか、実のところフェイバリットには知る由もない。黒猫の言うことだから、きっとそうなのだろうと鵜呑みにしただけである。
その『いい子』に、当然のように仲良くしてもらえるものと思い込んでいた。自分がどれほど能天気――いや浅慮なのかと我ながら呆れてしまう。
黒猫というかけがえのない友を得て、双子の姉妹からは妹だと言われて、浮かれて調子に乗ったのだと思う。
――仲良くなれるだろうか。
淡い期待と共に不安が脳裡をよぎる。
仲良くなれればいいなと思う反面、怖気づき、すでに後込みしそうになっている自分がいる。
(でも…今日はたまたま特別、虫の居所が悪いのかもしれない)
「あのぅ…は・初めまして――」
フェイバリットは自身を奮い立たせるように顔を上げる。そこにはじとりとこちらを見る、髪色と同じ白金の瞳があった。
「…その目」
「目?」
自分の目が赤い色をしていることを思い出し、はっとする。もしや、この目の色が不快にさせてしまっただろうか。それを見て、ソジがうんざりとしたように鼻に皺を寄せた。
「……瞳の色のことじゃない。泣いた目をしてる。あんた、もしかして泣いた?」
「え…?」
図星を突かれてどきりとする。
咄嗟に返す言葉もなく声を詰まらせると、子供の目にいらりとした色が浮かぶのが見えた。
「ああ。そう言やぁ、子供同士ちょうどいいんじゃねえか?」
そこに突如として声が降ってきた。チャンジだ。
どういう意味?と、ソジが次兄に怪訝な目を向ける。それをフェイバリットは落ち着かない気分で見守った。
何を言うつもりだろう。揉めたくない。面倒ごとはごめんだ。
防衛本能が働いて、祈るような気持ちでフェイバリットもまたチャンジを見る。
「お嬢の歩行訓練――まあ要は、そろそろ娘の床上げをしようと思ってたとこなんだ。コムジたちは甘やかすばかりでいっそのこと俺が相手をしようかと思ったが…まあ色々あってだな。他に頼める相手もいねえしでちょうど困ってたとこだ。子供同士、仲良くなるついでに、ちいとソジが遊んでやってくんねえか?」
予感的中。
放心しながらも、フェイバリットがふるりと首を振ったのは、けして嫌だという意味ではなく、相手を間違っているという意味だ。
それもソジが不満ということではなく、この気難しそうな子供…いや、いかにも繊細そうなソジの相手役が自分に務まるはずがないという意味だ。それ以外に他意はない。
仲良くなるきっかけに子供同士で遊ぶ。いいことだ。だが今、この組み合わせで二人っきりで遊ぶことが果たして正解かと言われれば――どう考えても無理があるだろう。
恐る恐る子供を盗み見ると、ソジもまた唐突なチャンジの提案に固まっている。
オムジは相変わらずの無表情だが、姉妹はいずれも首を振って頭を抱えるのが目に入った。
この微妙な空気を察して欲しいとチャンジを見るも、悲しいかな――我ながらいい考えだと悦に入る男に、ちっぽけな小娘の悲愴な視線など、おそらく一生届くことはなさそうだ。
ポカンとしていたソジの目が再びこちらを向く。
とにかくその場を取り繕いたくて、フェイバリットはヘラリと引き攣り笑みを浮かべた。
それがいけなかったのだろう。
ぎゅっと眉間に皺が寄り、みるみるうちに可愛い顔が険しくなる。
「――ヤダね!」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
読んでいただき、ありがとうございます。
来週の更新は厳しいので、調整します。
再来週、水曜に更新予定です。
次回更新も頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
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「『ソジ』って男の子に会ったんだよ」
「―――は?」
真ん丸な淡緑の瞳に薄く開かれた口もと――獣ながらに素っ頓狂な顔とはこういうものかと、フェイバリットはまじまじと黒猫の顔を見る。
「え――うん。見た目は子供。大人顔負けに賢くて、漢気に溢れて、義理人情に厚く、今どき珍しい気骨のある男の子、でしょ? …間違ってた?」
「う・いや――間違うて…はないな。『ソジ』はそういう男の中の男や。ちゅうか君、よお全部覚えとったなぁ。――で、そいつに会うたんか?」
褒められたフェイバリットは嬉しそうに頬を緩めながら、小さく頷く。
「うん…――あのね」
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ガチャリ。
皆の視線が一斉にそちらを向いた。扉の握り玉が回される音だ。
それほど大きな音ではない。だが緊張に包まれた部屋に風穴を開けるには十分だった。
皆の意識が扉に一身に集まる中、キイィと甲高い音が室内に長く尾を引く。扉を押し開き、誰かがゆっくりと室内に入ってくる。その相手を見て、チャンジの口から驚いたような声が洩れた。
「――“親指”」
扉の前で静かに佇む男の髪色は、チャンジ達と同じく翠玉色。
左右の耳上の毛束を捻りながら、後頭部でざっくりひとつにまとめただけ。残りの髪はそのまま背中に垂らしている。
頭の上半分だけ髪を結い上げた簡単なまとめ髪だが、素朴だからこそかえって端正な美貌をより際立たせた。
加えてしなやかな筋肉に包まれた体躯。
背丈はチャンジとそう変わらないが、がっしりと逞しい彼に比べると幾分すっきりしている。その姿はチャンジとはまた違った美丈夫と言えた。
だが圧倒的にチャンジと異なるのはその覇気だ。ただそこに佇んでいるだけなのに体から放たれる威圧は凄まじく、空気を伝ってビリビリと肌に痛いほど。
気の弱いフェイバリットなどは、圧に耐えかねてついつい身を縮こめてしまう。
皆の視線に気づいて、オムジと呼ばれた男は無言で頭を軽く下げる。
「あらあら、これは珍しい方のお越しですこと――オムジ兄さん」
「本当に。今日はまたどういうご用向きなのでしょうね」
フェイバリットの両脇からコムジたちが口々に話しだす。
「兄さん」という言葉に、赤い瞳がぱちぱちと忙しなく瞬きをしながら姉妹を交互に見る。姉妹がそうだとばかりに頷き、ちらりと兄二人に視線を投げかける。
「そりゃあ言葉にしなければ分かるはずありませんよね? チャン兄様も――オム兄様も。言葉が足りないとは思いませんか?」
「無口はいつもの事とは言え、オムジ兄様も黙って部屋に入って来るのは止めてくださいな」
姉妹二人に大袈裟に溜め息まで吐かれて、チャンジの顔が苦々しく歪む。
「ここぞとばかり…くそが…あ――お嬢は会うの初めて…だよな。親指は俺たちの一番上の兄だ。普段は里と外界との境界を警護していて、本邸に来ることは滅多になくてな…ともかく見ての通り怪しいモンじゃねえ…」
「あら? 見知らぬ男が無言で女性の部屋に乗り込んできて、それを怪しく思わないとそうおっしゃるのですか?」
「本気でそう思っていらっしゃるなら、チャン兄様も大概ですわね」
姉妹の冷たい視線が気まずいのか、チャンジはちっと短く舌打ちすると、さっとオムジに顔を向けた。
「~~~。で? オムジはなんでここに?」
――どうやら話題を長兄に振って、自分は早々に安全な場所に避難することにしたらしい。
「ああ――お前、客人にそろそろ肉を食わせたいと言ってただろう?」
そう言って、オムジが腰に下げた袋に手をかける。取り出されたのはウサギだった。
「おお、わざわざすまねえな。ありがたく受け取るよ――兄さん」
チャンジは礼を言ってウサギを受け取る。
「よお。兎肉、食えんだろ?」
チャンジがウサギの耳を握った手を高く掲げる。すでに息絶えて、ダラリとぶら下がるウサギの体が目に入る。
兎肉は好きだ。食べたのはだいぶ前だが今も舌に味が残っている。思いのほか、食い意地の張っているところが自分にあることを、最近自覚した。
唾を飲み込みこくこく頷くと、その隣に立つ男が釣られてこちらを見る。男と真っ向から目が合って、フェイバリットは小さく息を呑んだ。
整ったその顔の、左の眉毛の付け根から右頬の下までザックリと、斜めに大きく走る痛々しい傷痕が目に入ったからだ。
呆けたように見入ることしばし、フェイバリットは慌てて視線を下げる。じっくり見過ぎてしまった。そんな時だった。
「…オム兄さあ…僕、もう帰っていい?」
小さな声がポツリと場に割って入る。それは子供特有の甲高い声だった。
声の出処をたどって、全員の目がオムジの立つ辺りに集まる。
見上げるほど大きな体の男の影に隠れるように、気配を殺した小さな人影があった。
オムジが大きな一歩で立ち位置を変えると、男の影になっていた人物の姿がよりはっきりと見えた。その背丈は明らかにこの部屋の誰よりも小さい。
オムジにそっと背を押されて、渋々部屋の中に進み出るのは――小さな男の子だった。
「…ホントは部屋から出たくなかったのに、オム兄が一緒に来いなんて言うんだもの」
オムジの隣に並び立つも、噴き出す不満は抑えられないらしい。少年はなおも口の中でブツブツとぼやき続ける。
小さな頭を支える細い首、薄い体から伸びる手足はまだまだ細い。握り締めた拳も小さく、床を踏みしめる足は掌にすっぽりと収まりそうだ。
不機嫌そのものという顔をしたこの少年の見た目は七歳くらいだろうか。
肩の辺りで切り揃えられた白金色の髪は癖もなくまっすぐで、まるで上質な絹糸のようだ。頭を振ればきっとさらさらと音がするに違いない。
「まあそう言うな。久しぶりの客人しかもこんな可愛い女の子だ。一度くらいきちんと顔を見せて挨拶をしても罰は当たるまい」
「何それ。下手な嫌味は止めてくれる? それに僕は女の子になんて、ちっとも興味ないよ」
少年はニコリともせず、つまらなそうにそっぽを向く。取りつく島もない。
頑なな少年の姿に呆れたように小さな溜め息を落とすものの、それ以上は無理強いせず、静かな表情がこちらを見た。
「この子は“小指”。俺たち兄弟の末の弟だ」
(ソジ――?)
瞬間、脳裡に浮かんだのは黒猫の顔だ。
――君が元気になった時は“ソジ”っちゅう男の子が君に会いにくるよって。
(あのソジ…?)
気がつくと、まじまじと相手の顔を眺めていた。そんな視線があまりにも不躾だったのだろう。
視線の先の少年の顔がムッと眉根を寄せる。はっと我に返って、フェイバリットは慌てて顔を伏せた。
「――僕は子供じゃない」
ソジと呼ばれた子供がぶすりと唇を尖らせる。
「あらまあ…これまた輪をかけて珍しいお客様ねぇ」
「誰も来たくて来たわけじゃないさ。ちゃんと話聞いてた? 姉さんたち。いくら年を取ったと言っても、まだ耳が遠くなるほどでもないと思うんだけど?」
少年はすかさず応酬する。
見た目だけならその様子は、まるで子猫が毛を逆立てたような可愛さだ。
だが幼い見目からは想像がつかないくらい、その物言いは辛辣で容赦がない。やられたらやり返す、それも倍返しだ。
ふくれっ面で足もとに目を落とす少年を怒らせないよう、フェイバリットはそっと相手を垣間見る。
実際の年が幾つなのかは知らないが、少なくとも長兄のオムジと随分年が離れているのは間違いないだろう。オムジと並べば二人の身長差は天と地ほどもある。
少年の背丈は男の下腹あたり、頑張れば鳩尾に届くかどうかというところだ。二人が並ぶと、親子と言ってもなんら不思議はない。
その顔は、頬に子供らしい丸みはあるものの、あまりにも整いすぎていて、可愛いというよりまさに綺麗。その言葉が一番しっくりくる。
抜けるように白く、キメ細かい肌。伏した目がまばたきをすると、すうっと伸びた長い睫毛が揺れるのが、少し離れた所からもはっきりと見て取れた。
(わ…あ…っ、睫毛…長~い。それになんて可愛い――ううん…キレイ)
心の中で、思わず感嘆の声が洩れる。それほどまでに完璧に整った顔立ちだ。
室内の面々をちらりと見渡せば、相変わらず暴力的な美貌がそこここに居並ぶ。やはり血というのは争えないものなのだと改めて思った――その時。
(…あれ?)
その違和感に気づいたのは、室内にぐるりと視線を這わせた後だ。フェイバリットはおや?と心の中で小首をかしげる。目の前の少年に視線を戻し、そこで違和感の正体にようやくたどり着いた。
目の前の子供の髪色は、他の兄弟たちのものと違うのだ。
「あんた…さっきからジロジロ見過ぎ。礼儀って知ってる?」
苛々とした口調に、ちっと小さな舌打ちが混ざる。
「ご・ごめん、なさい…」
『ええ子やで』
ふわりとあの優しい声が頭の中に響く。
あの時、黒猫は色々と説明してくれたが、あいにく漢気があるということがどういう意味なのか、それどころか気骨という言葉もこの間、初めて耳にしたばかりだ。
だから目の前の少年が、本当に言葉通りの人物なのかどうか、実のところフェイバリットには知る由もない。黒猫の言うことだから、きっとそうなのだろうと鵜呑みにしただけである。
その『いい子』に、当然のように仲良くしてもらえるものと思い込んでいた。自分がどれほど能天気――いや浅慮なのかと我ながら呆れてしまう。
黒猫というかけがえのない友を得て、双子の姉妹からは妹だと言われて、浮かれて調子に乗ったのだと思う。
――仲良くなれるだろうか。
淡い期待と共に不安が脳裡をよぎる。
仲良くなれればいいなと思う反面、怖気づき、すでに後込みしそうになっている自分がいる。
(でも…今日はたまたま特別、虫の居所が悪いのかもしれない)
「あのぅ…は・初めまして――」
フェイバリットは自身を奮い立たせるように顔を上げる。そこにはじとりとこちらを見る、髪色と同じ白金の瞳があった。
「…その目」
「目?」
自分の目が赤い色をしていることを思い出し、はっとする。もしや、この目の色が不快にさせてしまっただろうか。それを見て、ソジがうんざりとしたように鼻に皺を寄せた。
「……瞳の色のことじゃない。泣いた目をしてる。あんた、もしかして泣いた?」
「え…?」
図星を突かれてどきりとする。
咄嗟に返す言葉もなく声を詰まらせると、子供の目にいらりとした色が浮かぶのが見えた。
「ああ。そう言やぁ、子供同士ちょうどいいんじゃねえか?」
そこに突如として声が降ってきた。チャンジだ。
どういう意味?と、ソジが次兄に怪訝な目を向ける。それをフェイバリットは落ち着かない気分で見守った。
何を言うつもりだろう。揉めたくない。面倒ごとはごめんだ。
防衛本能が働いて、祈るような気持ちでフェイバリットもまたチャンジを見る。
「お嬢の歩行訓練――まあ要は、そろそろ娘の床上げをしようと思ってたとこなんだ。コムジたちは甘やかすばかりでいっそのこと俺が相手をしようかと思ったが…まあ色々あってだな。他に頼める相手もいねえしでちょうど困ってたとこだ。子供同士、仲良くなるついでに、ちいとソジが遊んでやってくんねえか?」
予感的中。
放心しながらも、フェイバリットがふるりと首を振ったのは、けして嫌だという意味ではなく、相手を間違っているという意味だ。
それもソジが不満ということではなく、この気難しそうな子供…いや、いかにも繊細そうなソジの相手役が自分に務まるはずがないという意味だ。それ以外に他意はない。
仲良くなるきっかけに子供同士で遊ぶ。いいことだ。だが今、この組み合わせで二人っきりで遊ぶことが果たして正解かと言われれば――どう考えても無理があるだろう。
恐る恐る子供を盗み見ると、ソジもまた唐突なチャンジの提案に固まっている。
オムジは相変わらずの無表情だが、姉妹はいずれも首を振って頭を抱えるのが目に入った。
この微妙な空気を察して欲しいとチャンジを見るも、悲しいかな――我ながらいい考えだと悦に入る男に、ちっぽけな小娘の悲愴な視線など、おそらく一生届くことはなさそうだ。
ポカンとしていたソジの目が再びこちらを向く。
とにかくその場を取り繕いたくて、フェイバリットはヘラリと引き攣り笑みを浮かべた。
それがいけなかったのだろう。
ぎゅっと眉間に皺が寄り、みるみるうちに可愛い顔が険しくなる。
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