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第1話「帰還の任命状」
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かつて私が背を向けて去った王宮の門は、三年という月日を経てもなお、威圧的な冷たさを湛えてそびえ立っていた。
冬の終わりの乾いた風が、頬を撫でる。 石造りの巨大なアーチを見上げると、頂点に刻まれたリュナレイア王国の国章――三日月と剣のレリーフが、午後の斜光を浴びて鈍く光っていた。
私は一つ、小さく息を吸い込む。 肺の奥に冷気が満ちると同時に、胸の奥底に沈殿していた記憶の澱が、ふわりと舞い上がるのを感じた。
「……変わらないわね」
口をついて出た言葉は、白い息となってすぐに消えた。 三年前、私はこの場所から追放された。 濡れ衣を着せられ、家名を汚した罪人として。 社交界の華やかな舞台から泥濘のような底辺へと突き落とされたあの日、姉のセシリアは涙ながらに私を見送った。
『ごめんなさい、リリア。私がもっとしっかりしていれば……』
美しい涙だった。 誰もが彼女の慈悲深さに胸を打たれ、罪深き妹を憐れんだ。 けれど、私は知っていた。 あの涙の裏側で、彼女が微かに口角を上げ、勝利の笑みを浮かべていたことを。
「リリア様、到着いたしました」
御者が恭しく声をかけてくる。 私は思考の淵から意識を引き上げ、ゆっくりと頷いた。 着ているのは、華美なドレスではない。濃紺の生地に銀の縁取りを施した、実務的だが仕立ての良い監査官の制服だ。かつての子爵家令嬢としての私はもういない。 今の私は、王妃陛下直属の『臨時監査官』。
馬車の扉が開き、石畳の上に革靴の音を響かせて降り立つ。 門を守る衛兵たちが、訝しげな視線をこちらに向けてきた。 彼らの記憶にある「リリア・アルヴェイン」は、姉の影に隠れた地味で気弱な令嬢か、あるいは宝石泥棒の汚名を着た罪人だろう。 だが、今の私に向けられているのは、見知らぬ官吏への警戒心だ。
「止まれ。何用だ」
槍を交差させ、行く手を阻む衛兵の一人が低い声で告げる。 私は動じることなく、背筋を伸ばしたまま彼を見据えた。
「会計院への着任手続きに参りました。通行の許可を」 「会計院? 聞いていないな。それに、今日はセシリア様の慈善事業設立記念の夜会がある。関係者以外の立ち入りは厳しく制限されている」
衛兵の言葉に、棘が含まれる。 「セシリア様」という名が出た瞬間、彼の表情に陶酔にも似た敬意が滲んだのを私は見逃さなかった。 姉の影響力は、末端の兵士にまで及んでいる。 慈愛の聖女。貧しきを救う天使。 その名声が強固であればあるほど、私の胸中で燃える青い炎は、静かに、しかし熱く揺らめく。
「関係者ですわ」 「ふん、身分証も出さずに何を言うかと思えば。どこの商会の使いか知らんが、裏門へ回れ」
手で追い払うような仕草。 侮蔑。 かつての私なら、ここで身を縮こまらせていただろう。 「申し訳ありません」と謝り、すごすごと引き下がっていたかもしれない。 だが、今の私は違う。 私は懐から、一通の封書を取り出した。 最高級の羊皮紙に、王家の紋章が蝋封された重厚な書状。
「商会の使いではありません。……王妃陛下より賜りし、正式な任命状です」
静かに、けれど通る声で告げ、封書を掲げる。 衛兵たちの視線が、蝋封の紋章に吸い寄せられた。 一瞬の沈黙。 彼らの顔に浮かんでいた嘲笑が、驚愕へと塗り替えられていく様は、滑稽ですらあった。
「お、王妃陛下の……直筆署名入りだと……?」
衛兵が震える手で書状を確認しようとした、その時だった。
「待て」
門の奥から、冷ややかな声が響いた。 石畳を踏む規則正しい足音が近づいてくる。 現れたのは、宰相府の制服を隙なく着こなした、神経質そうな男だった。細い銀縁眼鏡の奥にある瞳が、爬虫類のように冷たく私を品定めしている。 私は彼を知っている。 宰相府の第二秘書官、ガレス。 かつて姉の取り巻きの一人として、私を嘲笑っていた男だ。
「何の騒ぎだ。……おや、見覚えのある顔だと思えば」
ガレスは唇を歪め、わざとらしい驚きの声を上げた。
「追放された元子爵令嬢、リリア・アルヴェインではありませんか。また何か盗みに来たのですか? ここは神聖な王宮です。罪人が足を踏み入れていい場所ではない」
衛兵たちが「やはりそうか」という顔で槍を握り直す。 ガレスの言葉は、毒のように周囲の空気を汚染していく。 明確な悪意。 そして、優越感。 彼は私を、三年前と同じ「無力な少女」だと思っている。 権力という傘の下で、弱者をいたぶることに快楽を見出すタイプの人間だ。
私は怒りで声を荒らげたりはしない。 感情を露わにすることは、相手に付け入る隙を与えるだけだ。 ただ、静かに微笑んだ。 その笑みが、ガレスの予想に反していたのだろう。彼の眉間にかすかな皺が寄る。
「ガレス様、お久しぶりです。相変わらず、お元気そうで何よりです」 「……何がおかしい」 「いえ。ただ、公文書の確認もせずに私人の情で公務を阻害なさるとは、宰相府の教育方針が変わったのかと思いまして」 「なっ……!」
ガレスの顔が朱に染まる。 私は彼が反論する隙を与えず、手に持っていた任命状を突きつけた。
「確認なさいませ。これは王妃陛下が発布された、臨時監査官の任命状です。私の身分は回復され、貴殿と同等、いえ、監査権限においては貴殿の上位にあります」
「監査官だと……? 馬鹿な、そんな話は聞いていない!」
ガレスはひったくるように書状を奪い取ると、乱暴に開いた。 羊皮紙に走る優美な筆跡。 そして、末尾に押された鮮やかな真紅の印章(シジル)。 その印章はただの朱肉ではない。魔力を帯びた「真理インク」で押されており、正当な権限を持つ者が触れれば、淡い光を放って波打つような紋様を浮かび上がらせる。
ガレスの手の中で、印章がぼうっと輝いた。 偽造不可能な、王妃の魔力証明。
「――っ!」
ガレスが息を呑み、後ずさる。 その目は信じられないものを見るように見開かれ、持つ手が微かに震えていた。 あり得ない。そんなはずはない。 彼の心の声が聞こえてくるようだ。 追放された令嬢が、王妃の後ろ盾を得て戻ってくるなど、彼らの描いたシナリオには存在しない展開なのだから。
「正規の手続きを経て発行されたものです。それとも、ガレス様は王妃陛下の決定に異議を申し立てるおつもりですか?」
「ぐ、う……」
「もしそうであれば、その旨をこの場で記録させていただきます。監査官として、公務執行妨害および王家への不敬の疑いで」
私は懐から手帳と万年筆を取り出し、さらさらと記述するふりをした。 ペンの先が紙を走る微かな音が、沈黙した場に響く。 ガレスの顔から血の気が引いていく。 中世的な階級社会において、上位者の権威は絶対だ。 ましてや、王妃の名を出されては、一介の秘書官に抗う術はない。
「……通せ」
絞り出すような声で、ガレスが衛兵に命じた。
「よろしいのですか?」 「聞こえなかったのか! 通せと言っているんだ!」
ガレスは衛兵に八つ当たりをするように怒鳴り散らすと、私を睨みつけた。 その瞳には、恐怖と屈辱、そして殺意に近い憎悪が渦巻いている。
「……いい気になるなよ、リリア。お前が監査官などと、まやかしに過ぎない。この宮廷で、お前ごときが生き残れると思うな」
捨て台詞を残し、ガレスは踵を返して城内へと消えていった。 私はその後ろ姿を見送り、小さく息を吐いた。 手帳をしまう手が、わずかに震えている。 武者震いだ。 恐怖ではない。これから始まる戦いへの、静かな高揚感。
「通ってよし!」
衛兵が敬礼し、門を開ける。 重厚な蝶番が軋む音と共に、王宮への道が開かれた。 私は顎を引き、一歩を踏み出す。
かつては俯いて去ったこの道を、今は顔を上げて進む。 復讐のためではない。 奪われたものを取り戻し、姉が築き上げた虚構の城を、真実という名のハンマーで粉々に砕くために。
◇
王宮の内部は、記憶にあるよりもずっと華やかで、そしてどこか空虚だった。 磨き上げられた大理石の床。 回廊に飾られた高価な絵画やタペストリー。 すれ違う貴族たちの衣装は煌びやかで、香水の甘い香りが漂っている。 だが、監査官としての目で見れば、そこかしこに綻びが見えた。
使用人たちの制服は上質だが、袖口がわずかに擦り切れている者がいる。 飾られた生花は豪勢だが、花瓶の縁に小さな欠けがある。 国庫が慢性的な赤字であるにも関わらず、表面的な儀礼や装飾にばかり金をかけている証拠だ。 『見栄』と『伝統』という名の呪い。 姉セシリアは、この歪んだ構造の頂点に君臨する「象徴」として、彼らに崇められている。
会計院への通路を歩いていると、前方から数人の騎士を従えた人物が現れた。 その姿を認めた瞬間、周囲の空気がピンと張り詰める。
冷徹な氷の瞳。 一切の無駄を削ぎ落としたような所作。 漆黒の髪を整え、宰相府の高官のみが許される濃紫のコートを纏った青年。 宰相補佐、レオンハルト・グランツ。
「……珍しい客人が来たものだ」
すれ違いざま、彼は足を止めずに呟いた。 独り言のようでいて、明確に私に向けられた言葉。 私は立ち止まり、彼に向かって優雅にカーテシー(礼)を行った。 あくまで礼儀正しく。隙を見せずに。
「お久しぶりでございます、グランツ様」 「王妃陛下が動かれたとは聞いていたが、まさか君を選ぶとはな」
レオンハルトは足を止め、振り返った。 その無表情な顔からは、感情の色が読み取れない。 彼は宰相派の実力者であり、本来ならば姉セシリアを支持する側の人間だ。 だが、彼は極端な合理主義者としても知られている。 派閥の利益よりも、国の利益を優先する「鉄の男」。
「不服でいらっしゃいますか?」 「いや。誰であれ、仕事をするなら構わない。……ただし」
彼は一歩、私に近づいた。 長身の彼に見下ろされると、威圧感に肌が粟立つ。
「無能な者は去れ。ここは遊び場ではない」
「肝に銘じます。……ですが、グランツ様。私は遊びに来たのではありません」
私は彼の氷のような瞳を真っ直ぐに見返した。
「仕事をしに来たのです。溜まりに溜まった『嘘』を、精算するために」
一瞬、レオンハルトの瞳の奥で何かが揺らいだように見えた。 彼はふっと短く息を吐くと、興味を失ったように視線を外した。
「お手並み拝見といこう。……今夜の夜会、楽しみにしている」
それだけ言い残し、彼は再び歩き出した。 従う騎士たちが慌てて彼を追う。 私はその背中を見つめながら、拳を握りしめた。 敵か、味方か。 今の段階では判断できない。 だが、少なくとも彼は私を「排除」しようとはしなかった。 それだけで十分だ。
◇
あてがわれた執務室は、予想通りというべきか、会計院の最も奥まった場所にある物置同然の部屋だった。 窓は小さく、埃っぽい匂いが充満している。 机と椅子はガタつき、インク壺は乾ききっていた。 これが「歓迎」の挨拶代わりということだろう。
「……上等ね」
私はハンカチで机の埃を拭い取ると、持参した鞄から自身の道具を取り出した。 愛用の万年筆。 真新しいインク壺。 そして、何よりも重要な「監査官の印章」。
私は椅子に座り、目を閉じる。 まずは、今夜の夜会だ。 姉セシリアが主催する、慈善事業設立記念の夜会。 そこで何が行われているのか。 どのような金が動き、誰が誰と握手をしているのか。 全てをこの目で確かめ、記録しなければならない。
夜の帳が下りる頃、私は再び制服の襟を正した。 ドレスに着替えるつもりはない。 私は華を競いに来たのではなく、監査に来たのだから。
◇
王宮の大広間「白薔薇の間」は、圧倒的な光と音の洪水に包まれていた。 天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、数千のクリスタルを通してまばゆい光を撒き散らしている。 楽団が奏でる優雅なワルツ。 グラスが触れ合う軽やかな音。 貴婦人たちのさざめくような笑い声。 甘い香水の香りと、料理の芳醇な匂いが混じり合い、陶酔感を誘う。
私は会場の隅、柱の陰に身を置き、静かに会場を見渡した。 ここにいるのは、この国の特権階級のすべてだ。 彼らは皆、笑顔を浮かべている。 だが、その笑顔の下にあるのは、欲望と計算、そして欺瞞だ。
「皆様、ごきげんよう」
不意に、会場の空気が変わった。 楽団の演奏が止み、静寂が広がる。 大階段の上に、一人の女性が姿を現した。
純白のドレスに身を包み、黄金の髪をふわりと広げた絶世の美女。 透き通るような白い肌に、慈愛に満ちた青い瞳。 背中には、天使の羽を模した薄いレースの装飾があしらわれている。
私の姉、セシリア・アルヴェイン。
「本日は、わたくしのささやかな願い……『恵まれない子供たちへの救済』に賛同し、お集まりいただきありがとうございます」
鈴を転がすような、可憐で甘やかな声。 彼女が微笑むだけで、会場中の人々が溜息を漏らす。 男性たちはその美しさに目を奪われ、女性たちはその清らかさに涙ぐむ。
「わたくしには、力がありません。ただ祈ることしかできません。ですが、皆様の温かいお心があれば、きっと多くの命が救われるはずです」
セシリアが胸の前で手を組むと、会場から割れんばかりの拍手が巻き起こった。 「聖女様万歳!」 「アルヴェイン家の誇りだ!」 「我らも協力しよう!」
拍手の嵐。 称賛の言葉の洪水。 誰もが彼女を称え、彼女に金を出すことを名誉だと信じている。
私はその光景を、冷めた目で見つめていた。 拍手の一回一回が、私の肌を粟立たせる。 その拍手は、誰の犠牲の上に成り立っているのか。 その寄付金は、本当に子供たちのために使われるのか。
私は知っている。 彼女のドレスの裾が、かつて私が刺繍したものであることを。 彼女が語る「孤児院での奉仕」のエピソードが、私が雨の中で泥だらけになって行ったものであることを。 そして、三年前のあの日。 『宝飾品がなくなったの。……まさか、リリアが?』 そう言って私を指差した彼女の指が、微かに震えていたのは恐怖からではなく、笑いを堪えていたからだということを。
「……見つけた」
私は小さく呟く。 光の中央で微笑む姉。 その隣で、恭しく彼女をエスコートする教会関係者らしき男。 そして、彼女を取り巻く貴族たちの顔ぶれ。
私の視線に気づいたのか、ふとセシリアがこちらを向いた。 大勢の人ごみの向こう。 柱の陰に立つ、地味な紺色の制服姿の私。
姉の目が、大きく見開かれた。 慈愛の聖女の仮面が、一瞬だけ剥がれ落ちる。 驚愕。 そして、焦燥。
目が合った。 三年ぶりの視線の交錯。
私は彼女に向かって、音もなく唇を動かした。
『逃がさない』
姉の顔色が蒼白になるのと同時に、私は手帳を開き、最初の「嘘」を記録した。 拍手は鳴り止まない。 だが、その音は私にとって、戦いの開始を告げる銅鑼の音に他ならなかった。
冬の終わりの乾いた風が、頬を撫でる。 石造りの巨大なアーチを見上げると、頂点に刻まれたリュナレイア王国の国章――三日月と剣のレリーフが、午後の斜光を浴びて鈍く光っていた。
私は一つ、小さく息を吸い込む。 肺の奥に冷気が満ちると同時に、胸の奥底に沈殿していた記憶の澱が、ふわりと舞い上がるのを感じた。
「……変わらないわね」
口をついて出た言葉は、白い息となってすぐに消えた。 三年前、私はこの場所から追放された。 濡れ衣を着せられ、家名を汚した罪人として。 社交界の華やかな舞台から泥濘のような底辺へと突き落とされたあの日、姉のセシリアは涙ながらに私を見送った。
『ごめんなさい、リリア。私がもっとしっかりしていれば……』
美しい涙だった。 誰もが彼女の慈悲深さに胸を打たれ、罪深き妹を憐れんだ。 けれど、私は知っていた。 あの涙の裏側で、彼女が微かに口角を上げ、勝利の笑みを浮かべていたことを。
「リリア様、到着いたしました」
御者が恭しく声をかけてくる。 私は思考の淵から意識を引き上げ、ゆっくりと頷いた。 着ているのは、華美なドレスではない。濃紺の生地に銀の縁取りを施した、実務的だが仕立ての良い監査官の制服だ。かつての子爵家令嬢としての私はもういない。 今の私は、王妃陛下直属の『臨時監査官』。
馬車の扉が開き、石畳の上に革靴の音を響かせて降り立つ。 門を守る衛兵たちが、訝しげな視線をこちらに向けてきた。 彼らの記憶にある「リリア・アルヴェイン」は、姉の影に隠れた地味で気弱な令嬢か、あるいは宝石泥棒の汚名を着た罪人だろう。 だが、今の私に向けられているのは、見知らぬ官吏への警戒心だ。
「止まれ。何用だ」
槍を交差させ、行く手を阻む衛兵の一人が低い声で告げる。 私は動じることなく、背筋を伸ばしたまま彼を見据えた。
「会計院への着任手続きに参りました。通行の許可を」 「会計院? 聞いていないな。それに、今日はセシリア様の慈善事業設立記念の夜会がある。関係者以外の立ち入りは厳しく制限されている」
衛兵の言葉に、棘が含まれる。 「セシリア様」という名が出た瞬間、彼の表情に陶酔にも似た敬意が滲んだのを私は見逃さなかった。 姉の影響力は、末端の兵士にまで及んでいる。 慈愛の聖女。貧しきを救う天使。 その名声が強固であればあるほど、私の胸中で燃える青い炎は、静かに、しかし熱く揺らめく。
「関係者ですわ」 「ふん、身分証も出さずに何を言うかと思えば。どこの商会の使いか知らんが、裏門へ回れ」
手で追い払うような仕草。 侮蔑。 かつての私なら、ここで身を縮こまらせていただろう。 「申し訳ありません」と謝り、すごすごと引き下がっていたかもしれない。 だが、今の私は違う。 私は懐から、一通の封書を取り出した。 最高級の羊皮紙に、王家の紋章が蝋封された重厚な書状。
「商会の使いではありません。……王妃陛下より賜りし、正式な任命状です」
静かに、けれど通る声で告げ、封書を掲げる。 衛兵たちの視線が、蝋封の紋章に吸い寄せられた。 一瞬の沈黙。 彼らの顔に浮かんでいた嘲笑が、驚愕へと塗り替えられていく様は、滑稽ですらあった。
「お、王妃陛下の……直筆署名入りだと……?」
衛兵が震える手で書状を確認しようとした、その時だった。
「待て」
門の奥から、冷ややかな声が響いた。 石畳を踏む規則正しい足音が近づいてくる。 現れたのは、宰相府の制服を隙なく着こなした、神経質そうな男だった。細い銀縁眼鏡の奥にある瞳が、爬虫類のように冷たく私を品定めしている。 私は彼を知っている。 宰相府の第二秘書官、ガレス。 かつて姉の取り巻きの一人として、私を嘲笑っていた男だ。
「何の騒ぎだ。……おや、見覚えのある顔だと思えば」
ガレスは唇を歪め、わざとらしい驚きの声を上げた。
「追放された元子爵令嬢、リリア・アルヴェインではありませんか。また何か盗みに来たのですか? ここは神聖な王宮です。罪人が足を踏み入れていい場所ではない」
衛兵たちが「やはりそうか」という顔で槍を握り直す。 ガレスの言葉は、毒のように周囲の空気を汚染していく。 明確な悪意。 そして、優越感。 彼は私を、三年前と同じ「無力な少女」だと思っている。 権力という傘の下で、弱者をいたぶることに快楽を見出すタイプの人間だ。
私は怒りで声を荒らげたりはしない。 感情を露わにすることは、相手に付け入る隙を与えるだけだ。 ただ、静かに微笑んだ。 その笑みが、ガレスの予想に反していたのだろう。彼の眉間にかすかな皺が寄る。
「ガレス様、お久しぶりです。相変わらず、お元気そうで何よりです」 「……何がおかしい」 「いえ。ただ、公文書の確認もせずに私人の情で公務を阻害なさるとは、宰相府の教育方針が変わったのかと思いまして」 「なっ……!」
ガレスの顔が朱に染まる。 私は彼が反論する隙を与えず、手に持っていた任命状を突きつけた。
「確認なさいませ。これは王妃陛下が発布された、臨時監査官の任命状です。私の身分は回復され、貴殿と同等、いえ、監査権限においては貴殿の上位にあります」
「監査官だと……? 馬鹿な、そんな話は聞いていない!」
ガレスはひったくるように書状を奪い取ると、乱暴に開いた。 羊皮紙に走る優美な筆跡。 そして、末尾に押された鮮やかな真紅の印章(シジル)。 その印章はただの朱肉ではない。魔力を帯びた「真理インク」で押されており、正当な権限を持つ者が触れれば、淡い光を放って波打つような紋様を浮かび上がらせる。
ガレスの手の中で、印章がぼうっと輝いた。 偽造不可能な、王妃の魔力証明。
「――っ!」
ガレスが息を呑み、後ずさる。 その目は信じられないものを見るように見開かれ、持つ手が微かに震えていた。 あり得ない。そんなはずはない。 彼の心の声が聞こえてくるようだ。 追放された令嬢が、王妃の後ろ盾を得て戻ってくるなど、彼らの描いたシナリオには存在しない展開なのだから。
「正規の手続きを経て発行されたものです。それとも、ガレス様は王妃陛下の決定に異議を申し立てるおつもりですか?」
「ぐ、う……」
「もしそうであれば、その旨をこの場で記録させていただきます。監査官として、公務執行妨害および王家への不敬の疑いで」
私は懐から手帳と万年筆を取り出し、さらさらと記述するふりをした。 ペンの先が紙を走る微かな音が、沈黙した場に響く。 ガレスの顔から血の気が引いていく。 中世的な階級社会において、上位者の権威は絶対だ。 ましてや、王妃の名を出されては、一介の秘書官に抗う術はない。
「……通せ」
絞り出すような声で、ガレスが衛兵に命じた。
「よろしいのですか?」 「聞こえなかったのか! 通せと言っているんだ!」
ガレスは衛兵に八つ当たりをするように怒鳴り散らすと、私を睨みつけた。 その瞳には、恐怖と屈辱、そして殺意に近い憎悪が渦巻いている。
「……いい気になるなよ、リリア。お前が監査官などと、まやかしに過ぎない。この宮廷で、お前ごときが生き残れると思うな」
捨て台詞を残し、ガレスは踵を返して城内へと消えていった。 私はその後ろ姿を見送り、小さく息を吐いた。 手帳をしまう手が、わずかに震えている。 武者震いだ。 恐怖ではない。これから始まる戦いへの、静かな高揚感。
「通ってよし!」
衛兵が敬礼し、門を開ける。 重厚な蝶番が軋む音と共に、王宮への道が開かれた。 私は顎を引き、一歩を踏み出す。
かつては俯いて去ったこの道を、今は顔を上げて進む。 復讐のためではない。 奪われたものを取り戻し、姉が築き上げた虚構の城を、真実という名のハンマーで粉々に砕くために。
◇
王宮の内部は、記憶にあるよりもずっと華やかで、そしてどこか空虚だった。 磨き上げられた大理石の床。 回廊に飾られた高価な絵画やタペストリー。 すれ違う貴族たちの衣装は煌びやかで、香水の甘い香りが漂っている。 だが、監査官としての目で見れば、そこかしこに綻びが見えた。
使用人たちの制服は上質だが、袖口がわずかに擦り切れている者がいる。 飾られた生花は豪勢だが、花瓶の縁に小さな欠けがある。 国庫が慢性的な赤字であるにも関わらず、表面的な儀礼や装飾にばかり金をかけている証拠だ。 『見栄』と『伝統』という名の呪い。 姉セシリアは、この歪んだ構造の頂点に君臨する「象徴」として、彼らに崇められている。
会計院への通路を歩いていると、前方から数人の騎士を従えた人物が現れた。 その姿を認めた瞬間、周囲の空気がピンと張り詰める。
冷徹な氷の瞳。 一切の無駄を削ぎ落としたような所作。 漆黒の髪を整え、宰相府の高官のみが許される濃紫のコートを纏った青年。 宰相補佐、レオンハルト・グランツ。
「……珍しい客人が来たものだ」
すれ違いざま、彼は足を止めずに呟いた。 独り言のようでいて、明確に私に向けられた言葉。 私は立ち止まり、彼に向かって優雅にカーテシー(礼)を行った。 あくまで礼儀正しく。隙を見せずに。
「お久しぶりでございます、グランツ様」 「王妃陛下が動かれたとは聞いていたが、まさか君を選ぶとはな」
レオンハルトは足を止め、振り返った。 その無表情な顔からは、感情の色が読み取れない。 彼は宰相派の実力者であり、本来ならば姉セシリアを支持する側の人間だ。 だが、彼は極端な合理主義者としても知られている。 派閥の利益よりも、国の利益を優先する「鉄の男」。
「不服でいらっしゃいますか?」 「いや。誰であれ、仕事をするなら構わない。……ただし」
彼は一歩、私に近づいた。 長身の彼に見下ろされると、威圧感に肌が粟立つ。
「無能な者は去れ。ここは遊び場ではない」
「肝に銘じます。……ですが、グランツ様。私は遊びに来たのではありません」
私は彼の氷のような瞳を真っ直ぐに見返した。
「仕事をしに来たのです。溜まりに溜まった『嘘』を、精算するために」
一瞬、レオンハルトの瞳の奥で何かが揺らいだように見えた。 彼はふっと短く息を吐くと、興味を失ったように視線を外した。
「お手並み拝見といこう。……今夜の夜会、楽しみにしている」
それだけ言い残し、彼は再び歩き出した。 従う騎士たちが慌てて彼を追う。 私はその背中を見つめながら、拳を握りしめた。 敵か、味方か。 今の段階では判断できない。 だが、少なくとも彼は私を「排除」しようとはしなかった。 それだけで十分だ。
◇
あてがわれた執務室は、予想通りというべきか、会計院の最も奥まった場所にある物置同然の部屋だった。 窓は小さく、埃っぽい匂いが充満している。 机と椅子はガタつき、インク壺は乾ききっていた。 これが「歓迎」の挨拶代わりということだろう。
「……上等ね」
私はハンカチで机の埃を拭い取ると、持参した鞄から自身の道具を取り出した。 愛用の万年筆。 真新しいインク壺。 そして、何よりも重要な「監査官の印章」。
私は椅子に座り、目を閉じる。 まずは、今夜の夜会だ。 姉セシリアが主催する、慈善事業設立記念の夜会。 そこで何が行われているのか。 どのような金が動き、誰が誰と握手をしているのか。 全てをこの目で確かめ、記録しなければならない。
夜の帳が下りる頃、私は再び制服の襟を正した。 ドレスに着替えるつもりはない。 私は華を競いに来たのではなく、監査に来たのだから。
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私は会場の隅、柱の陰に身を置き、静かに会場を見渡した。 ここにいるのは、この国の特権階級のすべてだ。 彼らは皆、笑顔を浮かべている。 だが、その笑顔の下にあるのは、欲望と計算、そして欺瞞だ。
「皆様、ごきげんよう」
不意に、会場の空気が変わった。 楽団の演奏が止み、静寂が広がる。 大階段の上に、一人の女性が姿を現した。
純白のドレスに身を包み、黄金の髪をふわりと広げた絶世の美女。 透き通るような白い肌に、慈愛に満ちた青い瞳。 背中には、天使の羽を模した薄いレースの装飾があしらわれている。
私の姉、セシリア・アルヴェイン。
「本日は、わたくしのささやかな願い……『恵まれない子供たちへの救済』に賛同し、お集まりいただきありがとうございます」
鈴を転がすような、可憐で甘やかな声。 彼女が微笑むだけで、会場中の人々が溜息を漏らす。 男性たちはその美しさに目を奪われ、女性たちはその清らかさに涙ぐむ。
「わたくしには、力がありません。ただ祈ることしかできません。ですが、皆様の温かいお心があれば、きっと多くの命が救われるはずです」
セシリアが胸の前で手を組むと、会場から割れんばかりの拍手が巻き起こった。 「聖女様万歳!」 「アルヴェイン家の誇りだ!」 「我らも協力しよう!」
拍手の嵐。 称賛の言葉の洪水。 誰もが彼女を称え、彼女に金を出すことを名誉だと信じている。
私はその光景を、冷めた目で見つめていた。 拍手の一回一回が、私の肌を粟立たせる。 その拍手は、誰の犠牲の上に成り立っているのか。 その寄付金は、本当に子供たちのために使われるのか。
私は知っている。 彼女のドレスの裾が、かつて私が刺繍したものであることを。 彼女が語る「孤児院での奉仕」のエピソードが、私が雨の中で泥だらけになって行ったものであることを。 そして、三年前のあの日。 『宝飾品がなくなったの。……まさか、リリアが?』 そう言って私を指差した彼女の指が、微かに震えていたのは恐怖からではなく、笑いを堪えていたからだということを。
「……見つけた」
私は小さく呟く。 光の中央で微笑む姉。 その隣で、恭しく彼女をエスコートする教会関係者らしき男。 そして、彼女を取り巻く貴族たちの顔ぶれ。
私の視線に気づいたのか、ふとセシリアがこちらを向いた。 大勢の人ごみの向こう。 柱の陰に立つ、地味な紺色の制服姿の私。
姉の目が、大きく見開かれた。 慈愛の聖女の仮面が、一瞬だけ剥がれ落ちる。 驚愕。 そして、焦燥。
目が合った。 三年ぶりの視線の交錯。
私は彼女に向かって、音もなく唇を動かした。
『逃がさない』
姉の顔色が蒼白になるのと同時に、私は手帳を開き、最初の「嘘」を記録した。 拍手は鳴り止まない。 だが、その音は私にとって、戦いの開始を告げる銅鑼の音に他ならなかった。
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