誰かの代わりになれるほど、私の人生は安くないです!!

六角

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【第5話】将軍との図上演習

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北嶺(ホクレイ)の冬は、夜が長い。 午後三時には太陽が姿を消し、世界は深い藍色と白銀の静寂に包まれる。

その夜、私はいつものようにエイアン将軍の私室を訪れていた。 手には、私が独自にブレンドしたハーブティーのポットと、夜食の焼き菓子を載せたトレイを持っている。

(……静かですね)

いつもなら、扉を開ければ彼の方から「来たか」と声をかけてくるか、あるいは無言でベッドへ誘ってくるかのどちらかだ。 しかし今夜は、部屋の中央にある巨大な執務机に向かったまま、彼はこちらを振り返りもしない。

暖炉の薪がパチパチとはぜる音だけが響いている。 彼の背中は広く、そしてどこか拒絶的な硬さを帯びていた。

「……夜食をお持ちしました」

私が声をかけると、彼はビクリと肩を震わせ、慌てて手元のものを隠すような仕草をした。

「……ああ、凜か。そこに置いてくれ。今は取り込み中だ」

声に焦燥が滲んでいる。 私はトレイをサイドテーブルに置き、そっと彼に近づいた。 彼が隠そうとしたのは、一枚の巨大な地図だった。 机の上に広げられたその羊皮紙には、無数の赤い矢印と、黒い×印が書き込まれている。

「……作戦計画、ですか?」

「お前には関係ない。下がっていいぞ。今夜は……そういう気分じゃない」

彼はこめかみを指で押し揉みながら、追い払うように手を振った。 顔色が悪い。 目の下のクマは以前より濃くなり、唇は乾燥してひび割れている。 ここ数日、彼はほとんど眠っていないのだ。

(契約違反ですね)

私は心の中で呟いた。 私の役目は、彼に安らぎを与え、精神状態(メンタル)を安定させること。 彼が過労で倒れれば、私の「兵站改革」も後ろ盾を失って頓挫する。それは私の生存戦略において看過できないリスクだ。

「関係なくはありません。貴方が倒れれば、私も路頭に迷いますから」

私は下がらず、逆に彼の手から地図を押さえている文鎮をどかした。

「おい!」

「拝見します」

私は彼の怒声を無視して、地図を覗き込んだ。 それは北嶺周辺の詳細な地形図だった。 北に広がる鬼牙(キガ)族の勢力圏と、南の帝国領を隔てる国境線。 そこに、幾重にも攻撃ルートが描かれている。

「……春の遠征計画ですね」

「……そうだ。雪解けと同時に、奴らは必ず南下してくる。その前にこちらから打って出て、出鼻をくじく」

エイアンは観念したように息を吐き、地図の一点を指差した。

「敵の主力は、この『竜の背』と呼ばれる峡谷に集結しているとの情報が入った。ここを急襲し、敵の機動力を削ぐ。……だが」

「数が合わない、と?」

私が指摘すると、彼は驚いたように私を見た。

「なぜわかった」

「地図上の駒の配置を見れば一目瞭然です。敵の想定戦力およそ五万に対し、こちらが動かせる機動部隊は五千。一〇倍の戦力差です。普通にぶつかれば、すり潰されます」

「だから奇襲なんだ! 夜陰に乗じて峡谷を駆け抜け、敵本陣を突く。俺が先頭に立てば、士気は維持できる」

「精神論ですね。却下です」

私は即座に否定した。 エイアンがムッとして眉を寄せる。

「俺の戦術にケチをつける気か? 俺はこれでも『軍神』と呼ばれているんだぞ」

「軍神だろうと何だろうと、物理法則には逆らえません。……将軍、筆をお借りします」

私は彼の手から赤いインクのついた羽ペンを奪い取った。 そして、彼が引いた「奇襲ルート」の上に、さらさらと数式と線を書き込んでいく。

「なっ、何をする! 貴重な地図に!」

「見てください。貴方が通ろうとしているこのルート。雪解けの時期、ここは泥沼になります」

私は地図上の等高線を指先でなぞった。

「北嶺の雪解け水は、全てこの低地に流れ込みます。馬の脚が泥に取られれば、移動速度は三分の一に低下する。夜明けまでに敵陣に到達できません」

「……だが、馬なら強行突破できるはずだ」

「できません。馬は機械ではないのです。泥の中を走れば、エネルギー消費量は平地の二・五倍に跳ね上がります」

私は地図の余白に計算式を書き殴った。

『馬体重500kg × 移動距離20km × 泥濘係数2.5 = 必要カロリー30,000kcal』

「この消費量を補うには、一頭あたり一日に飼葉(かいば)を二〇キロ食べる必要があります。五千頭で一〇〇トン。……そんな大量の餌を、どうやって奇襲部隊に運ばせるのですか? 輸送隊を連れれば、隠密行動は不可能です」

エイアンは私の書いた数字を凝視し、絶句した。

「……餌が、足りないだと?」

「はい。敵に辿り着く前に、貴方の馬は空腹で動けなくなります。そこを敵に包囲されれば、全滅です。……これは『奇襲』ではありません。『自殺』です」

部屋に重い沈黙が落ちた。 暖炉の薪が崩れる音だけが、やけに大きく響く。

エイアンは椅子に深く沈み込み、天井を仰いだ。

「……クソッ。……またか。また、兵站(もの)が足りないのか」

彼の声には、深い絶望が滲んでいた。 彼は天才的な戦術家だ。 戦場で剣を振るえば無敵、兵を動かせば変幻自在。 けれど、彼はずっと「持たざる者」だった。 中央からの補給を絶たれ、常にギリギリの物資で戦うことを強いられてきた。だからこそ、短期決戦の奇襲に頼らざるを得ない。

「……俺は、兵を死なせたくない。だが、座して待てばジリ貧だ。どうすればいい……」

彼は顔を覆った。 その姿は、迷子になった子供のように頼りなく見えた。

私はため息をつき、淹(い)れたてのハーブティーをカップに注いだ。 湯気とともに、カモミールの甘い香りが漂う。

「……飲みなさい。脳に血が巡っていません」

カップを差し出すと、彼は素直にそれを受け取り、一口すすった。 温かい液体が喉を通り、彼の強張った肩の力が少しだけ抜ける。

「……美味いな」

「毒消しの薬草も入っていますから、胃も楽になるはずです」

私は自分の分の椅子を引き寄せ、彼の隣に座った。 そして、再び地図に向き合った。

「将軍。前提条件を変えましょう」

「え?」

「貴方は『敵を倒すこと』をゴールにしていますが、私たちの目的は『北嶺を守ること』です。敵を全滅させる必要はありません。……撤退させれば、我々の勝ちです」

私はペンの色を「青」に変えた。 そして、彼が引いた攻撃ルートではなく、全く別の場所に線を引いた。

「ここです」

私が指したのは、敵の集結地点である峡谷の入り口付近にある、小さな湖だった。

「水月湖(すいげつこ)。……ここがどうした?」

「春先、鬼牙(キガ)族の馬たちは冬の間の栄養不足で弱っています。彼らはまず、この湖の周りに生える新芽を馬に食べさせ、体力を回復させようとするはずです」

「……確かに、遊牧民の戦い方はそうだ。馬の回復を待ってから攻めてくる」

「ならば、先にそこの『草』を枯らしてしまえばいいのです」

私は冷徹に言った。 エイアンが目を丸くした。

「枯らす? どうやって」

「塩です。……以前、密貿易で手に入れた岩塩の残りがありますね。あれを粉砕して、湖畔の草地に散布します」

「……おい、正気か? そんなことをすれば、今後数年は草が生えなくなるぞ」

「背に腹は代えられません。餌場を失った一〇万頭の馬はどうなると思いますか? さらに南下して略奪に走るか、あるいは共倒れを防ぐために一部が撤退するか」

「……混乱が起きるな。部族間での餌の奪い合いも始まるかもしれん」

「その通りです。敵が混乱し、統率が乱れた瞬間。……そこが、貴方の出番です」

私は青いペンで、敵陣の側面を突くルートを描いた。

「敵が内輪揉めを始めたタイミングで、別働隊が敵の『水場』を押さえます。餌もなく、水も断たれれば、いかに最強の騎馬民族といえど、ただの歩兵以下の集団になります」

エイアンの瞳に、光が戻った。 先ほどまでの曇った色ではない。鋭く、獰猛な肉食獣の光だ。

「……なるほど。正面から殴り合うのではなく、相手の足場を腐らせてから蹴り倒す、か」

「はい。これなら、泥沼を渡る必要もありません。……コストも、塩代だけで済みます。兵の損耗率はほぼゼロです」

エイアンは地図を食い入るように見つめ、やがて低く笑い声を上げた。 ククク、と喉の奥で鳴るような、愉悦の笑い。

「……恐ろしい女だ。お前、本当に公爵令嬢か? 悪魔の参謀か何かの間違いじゃないのか?」

「お褒めにあずかり光栄です。……私の国では、商売仇を潰すのも戦争と同じでしたから」

「ふっ、違いない」

エイアンは楽しそうに笑い、そして不意に私の方を向いた。 距離が近い。 彼の吐息がかかるほどの距離だ。

「……凜」

彼は私の名前を呼んだ。 甘く、低い声で。

「お前とこうして地図を見ていると、不思議な気分になる」

「……どういう意味でしょう?」

「月華とは、こんな話はできなかった。彼女は戦嫌いだったからな。俺が軍の話をすると、いつも耳を塞いで震えていた」

彼の瞳が、懐かしむように、そして少しだけ寂しそうに揺れた。

「俺は、彼女を守りたかった。穢(けが)れのない、美しい花を、血塗られた俺の手で囲って……」

「……それは、美しい思い出ですね」

胸の奥が、チクリと痛んだ。 彼にとって、月華は永遠の聖女。 私は、その聖女の顔をした、薄汚い策士。

「ですが、私は花ではありません。……どちらかと言えば、土です」

「土?」

「はい。花を咲かせるための、泥臭い土壌です。美しくもありませんし、良い香りもしません。……ですが」

私は彼を真っ直ぐに見つめ返した。

「土がなければ、花は咲きません。貴方が『軍神』という花であり続けるためには、私のような泥臭い裏方が必要なのです」

卑下(ひげ)しているつもりはなかった。 これは私の誇りだ。 誰に守られることもなく、自分の知恵と計算だけで生き抜いてきた女の矜持(きょうじ)。

エイアンはしばらく無言で私を見つめていた。 その瞳の奥で、何かが静かに熱を帯びていくのを感じた。

彼はゆっくりと手を伸ばし、私の頬に触れた。 いつもの、幻影を追うような手つきではない。 確かな実体を確かめるような、力強い指先。

「……ああ。そうだな」

彼は呟いた。

「花は枯れる。だが、大地は揺るがない。……俺が求めていたのは、安らぎなんかじゃなかったのかもしれない」

「え?」

「俺の背中を預けられる、共犯者だ」

彼はそう言うと、私の首筋に手を回し、引き寄せた。 唇が触れ合う寸前で止まる。

「……計算してみろ、軍師殿」

彼は挑発するように囁いた。

「今、ここで俺がお前に口づけをする。……そのコストとベネフィットは?」

心臓が跳ね上がる。 こんな至近距離で、そんな色気のある声を出されるのは反則だ。 私は必死に理性を総動員した。

「……コストは、貴方の睡眠時間の減少。および、明日の業務への支障。……ベネフィットは、精神的ストレスの緩和と、男性ホルモンの分泌による闘争心の向上……」

「採算は?」

「……黒字(プラス)、かと」

私が答えると同時に、彼は私の唇を塞いだ。

それは、今までのような一方的な略奪ではなかった。 互いの存在を確かめ合い、熱を分かち合うような、濃厚で知的な口づけ。

地図の上で、私たちの影が重なる。 インクの匂いと、彼の男らしい香り。 そして、微かに残るハーブティーの甘さが混じり合う。

(……誤算です)

私は彼の背中に腕を回しながら、朦朧(もうろう)とする意識の中で計算しようとした。

(この口づけの価値は、予算書には計上できません。……プライスレス、です)

その夜、私たちはベッドではなく、地図の上で眠りに落ちた。 春の戦略を語り合い、互いの知略に酔いしれながら。 それは肉体を重ねるよりも深く、魂が共鳴するような一夜だった。

          ◇

翌朝。

私は鳥のさえずりで目を覚ました。 顔を上げると、目の前にエイアンの寝顔があった。 彼は机に突っ伏して眠っていたが、私の肩に自分の上着を掛けてくれていたようだ。

(……よく寝ていますね)

彼の寝顔は、憑き物が落ちたように穏やかだった。 眉間の皺も消え、子供のように安らかだ。

私は音を立てないように立ち上がり、冷え切ったハーブティーのカップを片付けた。 窓の外を見る。 朝日が雪原を照らし、眩しいほどの光が差し込んでいた。

春は近い。 そして、戦いも近い。

「……ん」

背後で衣擦れの音がした。 振り返ると、エイアンが目を覚まし、伸びをしていた。

「……おはよう、凜」

彼は私を見て、自然に微笑んだ。 「月華」ではなく「凜」と呼んだ。 そのことが、何よりも嬉しかった。

「おはようございます、将軍閣下。……昨夜の『演習』の成果は、いかがでしたか?」

私が尋ねると、彼はニヤリと笑った。

「最高だった。……おかげで、勝てる気がしてきた」

彼は立ち上がり、窓辺の私の隣に並んだ。

「行くぞ、凜。春が来る前に、準備することが山ほどある」

「ええ。まずは塩の確保と、風向きの計算ですね。追加予算が必要になりますが?」

「好きにしろ。……俺の全てを、お前に預ける」

その言葉は、どんな愛の告白よりも重く、そして甘美だった。 私たちは並んで朝日を見つめた。 その光の先にある、激動の未来を予感しながら。

しかし、私たちはまだ知らなかった。 この春の戦いが、単なる防衛戦では終わらないことを。 北嶺での勝利が、帝都の皇帝を刺激し、やがて国全体を巻き込む巨大な渦となっていくことを。

「……報告! 伝令です!」

突然、廊下から慌ただしい足音が響き、扉が激しく叩かれた。 エイアンの表情が一瞬で「将軍」のものに戻る。

「入れ!」

飛び込んできたのは、顔面蒼白の若い兵士だった。

「ほ、報告します! 北の国境線にて、鬼牙族の斥候部隊と接触! ……数が、数が違います!」

「何だと?」

「斥候だけで一〇〇〇騎以上! 本隊の規模は、想定を遥かに上回る一五万との情報です!」

一五万。 私とエイアンは顔を見合わせた。

「……話が違うな」 「……ええ。想定の三倍です」

私の計算が、初めて狂った。 いや、前提条件が覆されたのだ。 これは単なる略奪ではない。 「侵略」だ。

エイアンが腰の剣を掴んだ。 私もまた、手元の帳簿を握りしめた。

「……計算のし直しですね」

「ああ。……忙しくなるぞ、相棒」

彼が私を「相棒」と呼んだ瞬間、腹の底から熱いものがこみ上げてきた。

上等だ。 一五万だろうが二〇万だろうが、私の計算と、彼の武力でねじ伏せてやる。 私の人生を安く買い叩こうとした世界に、特大の請求書を突きつけてやるのだ。
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