5 / 20
【第5話】将軍との図上演習
しおりを挟む
北嶺(ホクレイ)の冬は、夜が長い。 午後三時には太陽が姿を消し、世界は深い藍色と白銀の静寂に包まれる。
その夜、私はいつものようにエイアン将軍の私室を訪れていた。 手には、私が独自にブレンドしたハーブティーのポットと、夜食の焼き菓子を載せたトレイを持っている。
(……静かですね)
いつもなら、扉を開ければ彼の方から「来たか」と声をかけてくるか、あるいは無言でベッドへ誘ってくるかのどちらかだ。 しかし今夜は、部屋の中央にある巨大な執務机に向かったまま、彼はこちらを振り返りもしない。
暖炉の薪がパチパチとはぜる音だけが響いている。 彼の背中は広く、そしてどこか拒絶的な硬さを帯びていた。
「……夜食をお持ちしました」
私が声をかけると、彼はビクリと肩を震わせ、慌てて手元のものを隠すような仕草をした。
「……ああ、凜か。そこに置いてくれ。今は取り込み中だ」
声に焦燥が滲んでいる。 私はトレイをサイドテーブルに置き、そっと彼に近づいた。 彼が隠そうとしたのは、一枚の巨大な地図だった。 机の上に広げられたその羊皮紙には、無数の赤い矢印と、黒い×印が書き込まれている。
「……作戦計画、ですか?」
「お前には関係ない。下がっていいぞ。今夜は……そういう気分じゃない」
彼はこめかみを指で押し揉みながら、追い払うように手を振った。 顔色が悪い。 目の下のクマは以前より濃くなり、唇は乾燥してひび割れている。 ここ数日、彼はほとんど眠っていないのだ。
(契約違反ですね)
私は心の中で呟いた。 私の役目は、彼に安らぎを与え、精神状態(メンタル)を安定させること。 彼が過労で倒れれば、私の「兵站改革」も後ろ盾を失って頓挫する。それは私の生存戦略において看過できないリスクだ。
「関係なくはありません。貴方が倒れれば、私も路頭に迷いますから」
私は下がらず、逆に彼の手から地図を押さえている文鎮をどかした。
「おい!」
「拝見します」
私は彼の怒声を無視して、地図を覗き込んだ。 それは北嶺周辺の詳細な地形図だった。 北に広がる鬼牙(キガ)族の勢力圏と、南の帝国領を隔てる国境線。 そこに、幾重にも攻撃ルートが描かれている。
「……春の遠征計画ですね」
「……そうだ。雪解けと同時に、奴らは必ず南下してくる。その前にこちらから打って出て、出鼻をくじく」
エイアンは観念したように息を吐き、地図の一点を指差した。
「敵の主力は、この『竜の背』と呼ばれる峡谷に集結しているとの情報が入った。ここを急襲し、敵の機動力を削ぐ。……だが」
「数が合わない、と?」
私が指摘すると、彼は驚いたように私を見た。
「なぜわかった」
「地図上の駒の配置を見れば一目瞭然です。敵の想定戦力およそ五万に対し、こちらが動かせる機動部隊は五千。一〇倍の戦力差です。普通にぶつかれば、すり潰されます」
「だから奇襲なんだ! 夜陰に乗じて峡谷を駆け抜け、敵本陣を突く。俺が先頭に立てば、士気は維持できる」
「精神論ですね。却下です」
私は即座に否定した。 エイアンがムッとして眉を寄せる。
「俺の戦術にケチをつける気か? 俺はこれでも『軍神』と呼ばれているんだぞ」
「軍神だろうと何だろうと、物理法則には逆らえません。……将軍、筆をお借りします」
私は彼の手から赤いインクのついた羽ペンを奪い取った。 そして、彼が引いた「奇襲ルート」の上に、さらさらと数式と線を書き込んでいく。
「なっ、何をする! 貴重な地図に!」
「見てください。貴方が通ろうとしているこのルート。雪解けの時期、ここは泥沼になります」
私は地図上の等高線を指先でなぞった。
「北嶺の雪解け水は、全てこの低地に流れ込みます。馬の脚が泥に取られれば、移動速度は三分の一に低下する。夜明けまでに敵陣に到達できません」
「……だが、馬なら強行突破できるはずだ」
「できません。馬は機械ではないのです。泥の中を走れば、エネルギー消費量は平地の二・五倍に跳ね上がります」
私は地図の余白に計算式を書き殴った。
『馬体重500kg × 移動距離20km × 泥濘係数2.5 = 必要カロリー30,000kcal』
「この消費量を補うには、一頭あたり一日に飼葉(かいば)を二〇キロ食べる必要があります。五千頭で一〇〇トン。……そんな大量の餌を、どうやって奇襲部隊に運ばせるのですか? 輸送隊を連れれば、隠密行動は不可能です」
エイアンは私の書いた数字を凝視し、絶句した。
「……餌が、足りないだと?」
「はい。敵に辿り着く前に、貴方の馬は空腹で動けなくなります。そこを敵に包囲されれば、全滅です。……これは『奇襲』ではありません。『自殺』です」
部屋に重い沈黙が落ちた。 暖炉の薪が崩れる音だけが、やけに大きく響く。
エイアンは椅子に深く沈み込み、天井を仰いだ。
「……クソッ。……またか。また、兵站(もの)が足りないのか」
彼の声には、深い絶望が滲んでいた。 彼は天才的な戦術家だ。 戦場で剣を振るえば無敵、兵を動かせば変幻自在。 けれど、彼はずっと「持たざる者」だった。 中央からの補給を絶たれ、常にギリギリの物資で戦うことを強いられてきた。だからこそ、短期決戦の奇襲に頼らざるを得ない。
「……俺は、兵を死なせたくない。だが、座して待てばジリ貧だ。どうすればいい……」
彼は顔を覆った。 その姿は、迷子になった子供のように頼りなく見えた。
私はため息をつき、淹(い)れたてのハーブティーをカップに注いだ。 湯気とともに、カモミールの甘い香りが漂う。
「……飲みなさい。脳に血が巡っていません」
カップを差し出すと、彼は素直にそれを受け取り、一口すすった。 温かい液体が喉を通り、彼の強張った肩の力が少しだけ抜ける。
「……美味いな」
「毒消しの薬草も入っていますから、胃も楽になるはずです」
私は自分の分の椅子を引き寄せ、彼の隣に座った。 そして、再び地図に向き合った。
「将軍。前提条件を変えましょう」
「え?」
「貴方は『敵を倒すこと』をゴールにしていますが、私たちの目的は『北嶺を守ること』です。敵を全滅させる必要はありません。……撤退させれば、我々の勝ちです」
私はペンの色を「青」に変えた。 そして、彼が引いた攻撃ルートではなく、全く別の場所に線を引いた。
「ここです」
私が指したのは、敵の集結地点である峡谷の入り口付近にある、小さな湖だった。
「水月湖(すいげつこ)。……ここがどうした?」
「春先、鬼牙(キガ)族の馬たちは冬の間の栄養不足で弱っています。彼らはまず、この湖の周りに生える新芽を馬に食べさせ、体力を回復させようとするはずです」
「……確かに、遊牧民の戦い方はそうだ。馬の回復を待ってから攻めてくる」
「ならば、先にそこの『草』を枯らしてしまえばいいのです」
私は冷徹に言った。 エイアンが目を丸くした。
「枯らす? どうやって」
「塩です。……以前、密貿易で手に入れた岩塩の残りがありますね。あれを粉砕して、湖畔の草地に散布します」
「……おい、正気か? そんなことをすれば、今後数年は草が生えなくなるぞ」
「背に腹は代えられません。餌場を失った一〇万頭の馬はどうなると思いますか? さらに南下して略奪に走るか、あるいは共倒れを防ぐために一部が撤退するか」
「……混乱が起きるな。部族間での餌の奪い合いも始まるかもしれん」
「その通りです。敵が混乱し、統率が乱れた瞬間。……そこが、貴方の出番です」
私は青いペンで、敵陣の側面を突くルートを描いた。
「敵が内輪揉めを始めたタイミングで、別働隊が敵の『水場』を押さえます。餌もなく、水も断たれれば、いかに最強の騎馬民族といえど、ただの歩兵以下の集団になります」
エイアンの瞳に、光が戻った。 先ほどまでの曇った色ではない。鋭く、獰猛な肉食獣の光だ。
「……なるほど。正面から殴り合うのではなく、相手の足場を腐らせてから蹴り倒す、か」
「はい。これなら、泥沼を渡る必要もありません。……コストも、塩代だけで済みます。兵の損耗率はほぼゼロです」
エイアンは地図を食い入るように見つめ、やがて低く笑い声を上げた。 ククク、と喉の奥で鳴るような、愉悦の笑い。
「……恐ろしい女だ。お前、本当に公爵令嬢か? 悪魔の参謀か何かの間違いじゃないのか?」
「お褒めにあずかり光栄です。……私の国では、商売仇を潰すのも戦争と同じでしたから」
「ふっ、違いない」
エイアンは楽しそうに笑い、そして不意に私の方を向いた。 距離が近い。 彼の吐息がかかるほどの距離だ。
「……凜」
彼は私の名前を呼んだ。 甘く、低い声で。
「お前とこうして地図を見ていると、不思議な気分になる」
「……どういう意味でしょう?」
「月華とは、こんな話はできなかった。彼女は戦嫌いだったからな。俺が軍の話をすると、いつも耳を塞いで震えていた」
彼の瞳が、懐かしむように、そして少しだけ寂しそうに揺れた。
「俺は、彼女を守りたかった。穢(けが)れのない、美しい花を、血塗られた俺の手で囲って……」
「……それは、美しい思い出ですね」
胸の奥が、チクリと痛んだ。 彼にとって、月華は永遠の聖女。 私は、その聖女の顔をした、薄汚い策士。
「ですが、私は花ではありません。……どちらかと言えば、土です」
「土?」
「はい。花を咲かせるための、泥臭い土壌です。美しくもありませんし、良い香りもしません。……ですが」
私は彼を真っ直ぐに見つめ返した。
「土がなければ、花は咲きません。貴方が『軍神』という花であり続けるためには、私のような泥臭い裏方が必要なのです」
卑下(ひげ)しているつもりはなかった。 これは私の誇りだ。 誰に守られることもなく、自分の知恵と計算だけで生き抜いてきた女の矜持(きょうじ)。
エイアンはしばらく無言で私を見つめていた。 その瞳の奥で、何かが静かに熱を帯びていくのを感じた。
彼はゆっくりと手を伸ばし、私の頬に触れた。 いつもの、幻影を追うような手つきではない。 確かな実体を確かめるような、力強い指先。
「……ああ。そうだな」
彼は呟いた。
「花は枯れる。だが、大地は揺るがない。……俺が求めていたのは、安らぎなんかじゃなかったのかもしれない」
「え?」
「俺の背中を預けられる、共犯者だ」
彼はそう言うと、私の首筋に手を回し、引き寄せた。 唇が触れ合う寸前で止まる。
「……計算してみろ、軍師殿」
彼は挑発するように囁いた。
「今、ここで俺がお前に口づけをする。……そのコストとベネフィットは?」
心臓が跳ね上がる。 こんな至近距離で、そんな色気のある声を出されるのは反則だ。 私は必死に理性を総動員した。
「……コストは、貴方の睡眠時間の減少。および、明日の業務への支障。……ベネフィットは、精神的ストレスの緩和と、男性ホルモンの分泌による闘争心の向上……」
「採算は?」
「……黒字(プラス)、かと」
私が答えると同時に、彼は私の唇を塞いだ。
それは、今までのような一方的な略奪ではなかった。 互いの存在を確かめ合い、熱を分かち合うような、濃厚で知的な口づけ。
地図の上で、私たちの影が重なる。 インクの匂いと、彼の男らしい香り。 そして、微かに残るハーブティーの甘さが混じり合う。
(……誤算です)
私は彼の背中に腕を回しながら、朦朧(もうろう)とする意識の中で計算しようとした。
(この口づけの価値は、予算書には計上できません。……プライスレス、です)
その夜、私たちはベッドではなく、地図の上で眠りに落ちた。 春の戦略を語り合い、互いの知略に酔いしれながら。 それは肉体を重ねるよりも深く、魂が共鳴するような一夜だった。
◇
翌朝。
私は鳥のさえずりで目を覚ました。 顔を上げると、目の前にエイアンの寝顔があった。 彼は机に突っ伏して眠っていたが、私の肩に自分の上着を掛けてくれていたようだ。
(……よく寝ていますね)
彼の寝顔は、憑き物が落ちたように穏やかだった。 眉間の皺も消え、子供のように安らかだ。
私は音を立てないように立ち上がり、冷え切ったハーブティーのカップを片付けた。 窓の外を見る。 朝日が雪原を照らし、眩しいほどの光が差し込んでいた。
春は近い。 そして、戦いも近い。
「……ん」
背後で衣擦れの音がした。 振り返ると、エイアンが目を覚まし、伸びをしていた。
「……おはよう、凜」
彼は私を見て、自然に微笑んだ。 「月華」ではなく「凜」と呼んだ。 そのことが、何よりも嬉しかった。
「おはようございます、将軍閣下。……昨夜の『演習』の成果は、いかがでしたか?」
私が尋ねると、彼はニヤリと笑った。
「最高だった。……おかげで、勝てる気がしてきた」
彼は立ち上がり、窓辺の私の隣に並んだ。
「行くぞ、凜。春が来る前に、準備することが山ほどある」
「ええ。まずは塩の確保と、風向きの計算ですね。追加予算が必要になりますが?」
「好きにしろ。……俺の全てを、お前に預ける」
その言葉は、どんな愛の告白よりも重く、そして甘美だった。 私たちは並んで朝日を見つめた。 その光の先にある、激動の未来を予感しながら。
しかし、私たちはまだ知らなかった。 この春の戦いが、単なる防衛戦では終わらないことを。 北嶺での勝利が、帝都の皇帝を刺激し、やがて国全体を巻き込む巨大な渦となっていくことを。
「……報告! 伝令です!」
突然、廊下から慌ただしい足音が響き、扉が激しく叩かれた。 エイアンの表情が一瞬で「将軍」のものに戻る。
「入れ!」
飛び込んできたのは、顔面蒼白の若い兵士だった。
「ほ、報告します! 北の国境線にて、鬼牙族の斥候部隊と接触! ……数が、数が違います!」
「何だと?」
「斥候だけで一〇〇〇騎以上! 本隊の規模は、想定を遥かに上回る一五万との情報です!」
一五万。 私とエイアンは顔を見合わせた。
「……話が違うな」 「……ええ。想定の三倍です」
私の計算が、初めて狂った。 いや、前提条件が覆されたのだ。 これは単なる略奪ではない。 「侵略」だ。
エイアンが腰の剣を掴んだ。 私もまた、手元の帳簿を握りしめた。
「……計算のし直しですね」
「ああ。……忙しくなるぞ、相棒」
彼が私を「相棒」と呼んだ瞬間、腹の底から熱いものがこみ上げてきた。
上等だ。 一五万だろうが二〇万だろうが、私の計算と、彼の武力でねじ伏せてやる。 私の人生を安く買い叩こうとした世界に、特大の請求書を突きつけてやるのだ。
その夜、私はいつものようにエイアン将軍の私室を訪れていた。 手には、私が独自にブレンドしたハーブティーのポットと、夜食の焼き菓子を載せたトレイを持っている。
(……静かですね)
いつもなら、扉を開ければ彼の方から「来たか」と声をかけてくるか、あるいは無言でベッドへ誘ってくるかのどちらかだ。 しかし今夜は、部屋の中央にある巨大な執務机に向かったまま、彼はこちらを振り返りもしない。
暖炉の薪がパチパチとはぜる音だけが響いている。 彼の背中は広く、そしてどこか拒絶的な硬さを帯びていた。
「……夜食をお持ちしました」
私が声をかけると、彼はビクリと肩を震わせ、慌てて手元のものを隠すような仕草をした。
「……ああ、凜か。そこに置いてくれ。今は取り込み中だ」
声に焦燥が滲んでいる。 私はトレイをサイドテーブルに置き、そっと彼に近づいた。 彼が隠そうとしたのは、一枚の巨大な地図だった。 机の上に広げられたその羊皮紙には、無数の赤い矢印と、黒い×印が書き込まれている。
「……作戦計画、ですか?」
「お前には関係ない。下がっていいぞ。今夜は……そういう気分じゃない」
彼はこめかみを指で押し揉みながら、追い払うように手を振った。 顔色が悪い。 目の下のクマは以前より濃くなり、唇は乾燥してひび割れている。 ここ数日、彼はほとんど眠っていないのだ。
(契約違反ですね)
私は心の中で呟いた。 私の役目は、彼に安らぎを与え、精神状態(メンタル)を安定させること。 彼が過労で倒れれば、私の「兵站改革」も後ろ盾を失って頓挫する。それは私の生存戦略において看過できないリスクだ。
「関係なくはありません。貴方が倒れれば、私も路頭に迷いますから」
私は下がらず、逆に彼の手から地図を押さえている文鎮をどかした。
「おい!」
「拝見します」
私は彼の怒声を無視して、地図を覗き込んだ。 それは北嶺周辺の詳細な地形図だった。 北に広がる鬼牙(キガ)族の勢力圏と、南の帝国領を隔てる国境線。 そこに、幾重にも攻撃ルートが描かれている。
「……春の遠征計画ですね」
「……そうだ。雪解けと同時に、奴らは必ず南下してくる。その前にこちらから打って出て、出鼻をくじく」
エイアンは観念したように息を吐き、地図の一点を指差した。
「敵の主力は、この『竜の背』と呼ばれる峡谷に集結しているとの情報が入った。ここを急襲し、敵の機動力を削ぐ。……だが」
「数が合わない、と?」
私が指摘すると、彼は驚いたように私を見た。
「なぜわかった」
「地図上の駒の配置を見れば一目瞭然です。敵の想定戦力およそ五万に対し、こちらが動かせる機動部隊は五千。一〇倍の戦力差です。普通にぶつかれば、すり潰されます」
「だから奇襲なんだ! 夜陰に乗じて峡谷を駆け抜け、敵本陣を突く。俺が先頭に立てば、士気は維持できる」
「精神論ですね。却下です」
私は即座に否定した。 エイアンがムッとして眉を寄せる。
「俺の戦術にケチをつける気か? 俺はこれでも『軍神』と呼ばれているんだぞ」
「軍神だろうと何だろうと、物理法則には逆らえません。……将軍、筆をお借りします」
私は彼の手から赤いインクのついた羽ペンを奪い取った。 そして、彼が引いた「奇襲ルート」の上に、さらさらと数式と線を書き込んでいく。
「なっ、何をする! 貴重な地図に!」
「見てください。貴方が通ろうとしているこのルート。雪解けの時期、ここは泥沼になります」
私は地図上の等高線を指先でなぞった。
「北嶺の雪解け水は、全てこの低地に流れ込みます。馬の脚が泥に取られれば、移動速度は三分の一に低下する。夜明けまでに敵陣に到達できません」
「……だが、馬なら強行突破できるはずだ」
「できません。馬は機械ではないのです。泥の中を走れば、エネルギー消費量は平地の二・五倍に跳ね上がります」
私は地図の余白に計算式を書き殴った。
『馬体重500kg × 移動距離20km × 泥濘係数2.5 = 必要カロリー30,000kcal』
「この消費量を補うには、一頭あたり一日に飼葉(かいば)を二〇キロ食べる必要があります。五千頭で一〇〇トン。……そんな大量の餌を、どうやって奇襲部隊に運ばせるのですか? 輸送隊を連れれば、隠密行動は不可能です」
エイアンは私の書いた数字を凝視し、絶句した。
「……餌が、足りないだと?」
「はい。敵に辿り着く前に、貴方の馬は空腹で動けなくなります。そこを敵に包囲されれば、全滅です。……これは『奇襲』ではありません。『自殺』です」
部屋に重い沈黙が落ちた。 暖炉の薪が崩れる音だけが、やけに大きく響く。
エイアンは椅子に深く沈み込み、天井を仰いだ。
「……クソッ。……またか。また、兵站(もの)が足りないのか」
彼の声には、深い絶望が滲んでいた。 彼は天才的な戦術家だ。 戦場で剣を振るえば無敵、兵を動かせば変幻自在。 けれど、彼はずっと「持たざる者」だった。 中央からの補給を絶たれ、常にギリギリの物資で戦うことを強いられてきた。だからこそ、短期決戦の奇襲に頼らざるを得ない。
「……俺は、兵を死なせたくない。だが、座して待てばジリ貧だ。どうすればいい……」
彼は顔を覆った。 その姿は、迷子になった子供のように頼りなく見えた。
私はため息をつき、淹(い)れたてのハーブティーをカップに注いだ。 湯気とともに、カモミールの甘い香りが漂う。
「……飲みなさい。脳に血が巡っていません」
カップを差し出すと、彼は素直にそれを受け取り、一口すすった。 温かい液体が喉を通り、彼の強張った肩の力が少しだけ抜ける。
「……美味いな」
「毒消しの薬草も入っていますから、胃も楽になるはずです」
私は自分の分の椅子を引き寄せ、彼の隣に座った。 そして、再び地図に向き合った。
「将軍。前提条件を変えましょう」
「え?」
「貴方は『敵を倒すこと』をゴールにしていますが、私たちの目的は『北嶺を守ること』です。敵を全滅させる必要はありません。……撤退させれば、我々の勝ちです」
私はペンの色を「青」に変えた。 そして、彼が引いた攻撃ルートではなく、全く別の場所に線を引いた。
「ここです」
私が指したのは、敵の集結地点である峡谷の入り口付近にある、小さな湖だった。
「水月湖(すいげつこ)。……ここがどうした?」
「春先、鬼牙(キガ)族の馬たちは冬の間の栄養不足で弱っています。彼らはまず、この湖の周りに生える新芽を馬に食べさせ、体力を回復させようとするはずです」
「……確かに、遊牧民の戦い方はそうだ。馬の回復を待ってから攻めてくる」
「ならば、先にそこの『草』を枯らしてしまえばいいのです」
私は冷徹に言った。 エイアンが目を丸くした。
「枯らす? どうやって」
「塩です。……以前、密貿易で手に入れた岩塩の残りがありますね。あれを粉砕して、湖畔の草地に散布します」
「……おい、正気か? そんなことをすれば、今後数年は草が生えなくなるぞ」
「背に腹は代えられません。餌場を失った一〇万頭の馬はどうなると思いますか? さらに南下して略奪に走るか、あるいは共倒れを防ぐために一部が撤退するか」
「……混乱が起きるな。部族間での餌の奪い合いも始まるかもしれん」
「その通りです。敵が混乱し、統率が乱れた瞬間。……そこが、貴方の出番です」
私は青いペンで、敵陣の側面を突くルートを描いた。
「敵が内輪揉めを始めたタイミングで、別働隊が敵の『水場』を押さえます。餌もなく、水も断たれれば、いかに最強の騎馬民族といえど、ただの歩兵以下の集団になります」
エイアンの瞳に、光が戻った。 先ほどまでの曇った色ではない。鋭く、獰猛な肉食獣の光だ。
「……なるほど。正面から殴り合うのではなく、相手の足場を腐らせてから蹴り倒す、か」
「はい。これなら、泥沼を渡る必要もありません。……コストも、塩代だけで済みます。兵の損耗率はほぼゼロです」
エイアンは地図を食い入るように見つめ、やがて低く笑い声を上げた。 ククク、と喉の奥で鳴るような、愉悦の笑い。
「……恐ろしい女だ。お前、本当に公爵令嬢か? 悪魔の参謀か何かの間違いじゃないのか?」
「お褒めにあずかり光栄です。……私の国では、商売仇を潰すのも戦争と同じでしたから」
「ふっ、違いない」
エイアンは楽しそうに笑い、そして不意に私の方を向いた。 距離が近い。 彼の吐息がかかるほどの距離だ。
「……凜」
彼は私の名前を呼んだ。 甘く、低い声で。
「お前とこうして地図を見ていると、不思議な気分になる」
「……どういう意味でしょう?」
「月華とは、こんな話はできなかった。彼女は戦嫌いだったからな。俺が軍の話をすると、いつも耳を塞いで震えていた」
彼の瞳が、懐かしむように、そして少しだけ寂しそうに揺れた。
「俺は、彼女を守りたかった。穢(けが)れのない、美しい花を、血塗られた俺の手で囲って……」
「……それは、美しい思い出ですね」
胸の奥が、チクリと痛んだ。 彼にとって、月華は永遠の聖女。 私は、その聖女の顔をした、薄汚い策士。
「ですが、私は花ではありません。……どちらかと言えば、土です」
「土?」
「はい。花を咲かせるための、泥臭い土壌です。美しくもありませんし、良い香りもしません。……ですが」
私は彼を真っ直ぐに見つめ返した。
「土がなければ、花は咲きません。貴方が『軍神』という花であり続けるためには、私のような泥臭い裏方が必要なのです」
卑下(ひげ)しているつもりはなかった。 これは私の誇りだ。 誰に守られることもなく、自分の知恵と計算だけで生き抜いてきた女の矜持(きょうじ)。
エイアンはしばらく無言で私を見つめていた。 その瞳の奥で、何かが静かに熱を帯びていくのを感じた。
彼はゆっくりと手を伸ばし、私の頬に触れた。 いつもの、幻影を追うような手つきではない。 確かな実体を確かめるような、力強い指先。
「……ああ。そうだな」
彼は呟いた。
「花は枯れる。だが、大地は揺るがない。……俺が求めていたのは、安らぎなんかじゃなかったのかもしれない」
「え?」
「俺の背中を預けられる、共犯者だ」
彼はそう言うと、私の首筋に手を回し、引き寄せた。 唇が触れ合う寸前で止まる。
「……計算してみろ、軍師殿」
彼は挑発するように囁いた。
「今、ここで俺がお前に口づけをする。……そのコストとベネフィットは?」
心臓が跳ね上がる。 こんな至近距離で、そんな色気のある声を出されるのは反則だ。 私は必死に理性を総動員した。
「……コストは、貴方の睡眠時間の減少。および、明日の業務への支障。……ベネフィットは、精神的ストレスの緩和と、男性ホルモンの分泌による闘争心の向上……」
「採算は?」
「……黒字(プラス)、かと」
私が答えると同時に、彼は私の唇を塞いだ。
それは、今までのような一方的な略奪ではなかった。 互いの存在を確かめ合い、熱を分かち合うような、濃厚で知的な口づけ。
地図の上で、私たちの影が重なる。 インクの匂いと、彼の男らしい香り。 そして、微かに残るハーブティーの甘さが混じり合う。
(……誤算です)
私は彼の背中に腕を回しながら、朦朧(もうろう)とする意識の中で計算しようとした。
(この口づけの価値は、予算書には計上できません。……プライスレス、です)
その夜、私たちはベッドではなく、地図の上で眠りに落ちた。 春の戦略を語り合い、互いの知略に酔いしれながら。 それは肉体を重ねるよりも深く、魂が共鳴するような一夜だった。
◇
翌朝。
私は鳥のさえずりで目を覚ました。 顔を上げると、目の前にエイアンの寝顔があった。 彼は机に突っ伏して眠っていたが、私の肩に自分の上着を掛けてくれていたようだ。
(……よく寝ていますね)
彼の寝顔は、憑き物が落ちたように穏やかだった。 眉間の皺も消え、子供のように安らかだ。
私は音を立てないように立ち上がり、冷え切ったハーブティーのカップを片付けた。 窓の外を見る。 朝日が雪原を照らし、眩しいほどの光が差し込んでいた。
春は近い。 そして、戦いも近い。
「……ん」
背後で衣擦れの音がした。 振り返ると、エイアンが目を覚まし、伸びをしていた。
「……おはよう、凜」
彼は私を見て、自然に微笑んだ。 「月華」ではなく「凜」と呼んだ。 そのことが、何よりも嬉しかった。
「おはようございます、将軍閣下。……昨夜の『演習』の成果は、いかがでしたか?」
私が尋ねると、彼はニヤリと笑った。
「最高だった。……おかげで、勝てる気がしてきた」
彼は立ち上がり、窓辺の私の隣に並んだ。
「行くぞ、凜。春が来る前に、準備することが山ほどある」
「ええ。まずは塩の確保と、風向きの計算ですね。追加予算が必要になりますが?」
「好きにしろ。……俺の全てを、お前に預ける」
その言葉は、どんな愛の告白よりも重く、そして甘美だった。 私たちは並んで朝日を見つめた。 その光の先にある、激動の未来を予感しながら。
しかし、私たちはまだ知らなかった。 この春の戦いが、単なる防衛戦では終わらないことを。 北嶺での勝利が、帝都の皇帝を刺激し、やがて国全体を巻き込む巨大な渦となっていくことを。
「……報告! 伝令です!」
突然、廊下から慌ただしい足音が響き、扉が激しく叩かれた。 エイアンの表情が一瞬で「将軍」のものに戻る。
「入れ!」
飛び込んできたのは、顔面蒼白の若い兵士だった。
「ほ、報告します! 北の国境線にて、鬼牙族の斥候部隊と接触! ……数が、数が違います!」
「何だと?」
「斥候だけで一〇〇〇騎以上! 本隊の規模は、想定を遥かに上回る一五万との情報です!」
一五万。 私とエイアンは顔を見合わせた。
「……話が違うな」 「……ええ。想定の三倍です」
私の計算が、初めて狂った。 いや、前提条件が覆されたのだ。 これは単なる略奪ではない。 「侵略」だ。
エイアンが腰の剣を掴んだ。 私もまた、手元の帳簿を握りしめた。
「……計算のし直しですね」
「ああ。……忙しくなるぞ、相棒」
彼が私を「相棒」と呼んだ瞬間、腹の底から熱いものがこみ上げてきた。
上等だ。 一五万だろうが二〇万だろうが、私の計算と、彼の武力でねじ伏せてやる。 私の人生を安く買い叩こうとした世界に、特大の請求書を突きつけてやるのだ。
0
あなたにおすすめの小説
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
婚約破棄された翌日、兄が王太子を廃嫡させました
由香
ファンタジー
婚約破棄の場で「悪役令嬢」と断罪された伯爵令嬢エミリア。
彼女は何も言わずにその場を去った。
――それが、王太子の終わりだった。
翌日、王国を揺るがす不正が次々と暴かれる。
裏で糸を引いていたのは、エミリアの兄。
王国最強の権力者であり、妹至上主義の男だった。
「妹を泣かせた代償は、すべて払ってもらう」
ざまぁは、静かに、そして確実に進んでいく。
『婚約破棄されましたが、孤児院を作ったら国が変わりました』
ふわふわ
恋愛
了解です。
では、アルファポリス掲載向け・最適化済みの内容紹介を書きます。
(本命タイトル①を前提にしていますが、他タイトルにも流用可能です)
---
内容紹介
婚約破棄を告げられたとき、
ノエリアは怒りもしなければ、悲しみもしなかった。
それは政略結婚。
家同士の都合で決まり、家同士の都合で終わる話。
貴族の娘として当然の義務が、一つ消えただけだった。
――だから、その後の人生は自由に生きることにした。
捨て猫を拾い、
行き倒れの孤児の少女を保護し、
「収容するだけではない」孤児院を作る。
教育を施し、働く力を与え、
やがて孤児たちは領地を支える人材へと育っていく。
しかしその制度は、
貴族社会の“当たり前”を静かに壊していった。
反発、批判、正論という名の圧力。
それでもノエリアは感情を振り回さず、
ただ淡々と線を引き、責任を果たし続ける。
ざまぁは叫ばれない。
断罪も復讐もない。
あるのは、
「選ばれなかった令嬢」が選び続けた生き方と、
彼女がいなくても回り続ける世界。
これは、
恋愛よりも生き方を選んだ一人の令嬢が、
静かに国を変えていく物語。
---
併せておすすめタグ(参考)
婚約破棄
女主人公
貴族令嬢
孤児院
内政
知的ヒロイン
スローざまぁ
日常系
猫
[完結]7回も人生やってたら無双になるって
紅月
恋愛
「またですか」
アリッサは望まないのに7回目の人生の巻き戻りにため息を吐いた。
驚く事に今までの人生で身に付けた技術、知識はそのままだから有能だけど、いつ巻き戻るか分からないから結婚とかはすっかり諦めていた。
だけど今回は違う。
強力な仲間が居る。
アリッサは今度こそ自分の人生をまっとうしようと前を向く事にした。
侯爵家の婚約者
やまだごんた
恋愛
侯爵家の嫡男カインは、自分を見向きもしない母に、なんとか認められようと努力を続ける。
7歳の誕生日を王宮で祝ってもらっていたが、自分以外の子供を可愛がる母の姿をみて、魔力を暴走させる。
その場の全員が死を覚悟したその時、1人の少女ジルダがカインの魔力を吸収して救ってくれた。
カインが魔力を暴走させないよう、王はカインとジルダを婚約させ、定期的な魔力吸収を命じる。
家族から冷たくされていたジルダに、カインは母から愛されない自分の寂しさを重ね、よき婚約者になろうと努力する。
だが、母が死に際に枕元にジルダを呼んだのを知り、ジルダもまた自分を裏切ったのだと絶望する。
17歳になった2人は、翌年の結婚を控えていたが、関係は歪なままだった。
そんな中、カインは仕事中に魔獣に攻撃され、死にかけていたところを救ってくれたイレリアという美しい少女と出会い、心を通わせていく。
全86話+番外編の予定
うっかり結婚を承諾したら……。
翠月るるな
恋愛
「結婚しようよ」
なんて軽い言葉で誘われて、承諾することに。
相手は女避けにちょうどいいみたいだし、私は煩わしいことからの解放される。
白い結婚になるなら、思う存分魔導の勉強ができると喜んだものの……。
実際は思った感じではなくて──?
記憶を無くした、悪役令嬢マリーの奇跡の愛
三色団子
恋愛
豪奢な天蓋付きベッドの中だった。薬品の匂いと、微かに薔薇の香りが混ざり合う、慣れない空間。
「……ここは?」
か細く漏れた声は、まるで他人のもののようだった。喉が渇いてたまらない。
顔を上げようとすると、ずきりとした痛みが後頭部を襲い、思わず呻く。その拍子に、自分の指先に視線が落ちた。驚くほどきめ細やかで、手入れの行き届いた指。まるで象牙細工のように完璧だが、酷く見覚えがない。
私は一体、誰なのだろう?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる