誰かの代わりになれるほど、私の人生は安くないです!!

六角

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【第17話】勝利の決算

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地下水道の空気は、腐敗と湿気の匂いで満ちていた。 頭上を走る馬車の音や、人々の足音が、分厚い石畳を通して重く響いてくる。

「……姉貴、大丈夫か? 顔、真っ黒だぞ」

弟のレンが、汚れた袖で私の頬を拭ってくれた。 彼の顔もススだらけで、まるでタヌキのようになっている。

「ええ、平気よ。……それより、この書類が濡れていないか確認して」

私は懐から、命がけで持ち出した「密約書」を取り出した。 幸い、油紙に包んでいたおかげで無事だった。 これさえあれば、ザッハーク宰相の首を取れる。

「……で、どうするんだ? これを街中に貼り出すか?」

「いいえ。ただ貼り出しても、民衆は信じないわ。『捏造だ』と言われて剥がされるのがオチよ」

私は暗闇の中で、狡猾な笑みを浮かべた。

「情報を『商品』として売るのよ。……それも、誰もが飛びつくような、極上のスキャンダルとしてね」

          ◇

翌朝。 帝都は異様な熱気に包まれていた。

きっかけは、私のブランド『月華の涙』の各店舗で配られた、一枚の「限定チラシ」だった。

『緊急告知! 宰相ザッハーク閣下、北方の蛮族への巨額投資に失敗!? 帝国の国庫、実は空っぽとの噂!』

ゴシップ記事のような扇情的な見出し。 しかし、その下には、私が盗み出した「裏帳簿」の一部と、「密約書」の写しが、信憑性を持たせるために巧みに加工されて掲載されていた。

「ねえ、見た? これ……」 「宰相様が、私たちの税金を泥棒していたって?」 「しかも、あの鬼牙族に領土を売ろうとしていたなんて!」

井戸端会議、市場、そして貴族のサロン。 噂はウイルスのように拡散した。 特に、私のブランドの顧客である上流階級の婦人たちは、自分たちが「時代の最先端の秘密」を知っているという優越感から、こぞってこの情報を夫や愛人にささやいた。

そして、私が仕掛けた本当の爆弾は、その先にあった。

『国庫が空っぽということは……帝国銀行の発行する紙幣は、ただの紙切れになる?』

金融不安。 経済において、最も恐ろしいパニック心理。

「お、おい! 銀行へ行け! 預金を下ろすんだ!」 「紙幣じゃダメだ! 金貨に変えろ! 現物だ!」

正午を過ぎる頃には、帝都の大通りにある中央銀行の前に、群衆が殺到していた。 取り付け騒ぎ(バンクラン)。 誰もが自分の財産を守ろうと必死になり、窓口に詰めかけ、怒号を上げている。

「落ち着いてください! デマです! 帝国の信用は盤石です!」

銀行員が必死に叫ぶが、群衆の耳には届かない。 そこへ、追い打ちをかけるように、私が手配した「サクラ」たちが叫ぶ。

「嘘つけ! 宰相が金庫から金を持ち出すのを見たぞ!」 「もう金貨はないらしいぞ!」

パニックは暴動へと変わった。 銀行の窓ガラスが割られ、人々が雪崩れ込む。 警備兵が駆けつけるが、興奮した民衆の波には抗えない。

私は、路地裏の建物の屋根から、その光景を見下ろしていた。

「……計算通りね」

経済とは、信用で成り立っている砂上の楼閣だ。 その土台である「政府への信頼」を崩せば、一瞬で崩壊する。

「怖えぇな、姉貴。……剣一本使わずに、帝都を火の海にしちまった」

レンが身震いした。

「火の海にするのは、これからよ。……ほら、聞こえてきたでしょう?」

南の方角。 帝都を囲む城壁の外から、地鳴りのような音が響いてくる。 人々の叫び声でも、馬車の音でもない。 もっと整然とした、そして圧倒的な暴力の足音。

          ◇

帝都南門。 そこを守る近衛兵たちは、目の前の光景に足を震わせていた。

「な、なんだあれは……」 「正規軍か? いや、旗が違うぞ……」

地平線の彼方から、黒い軍団が押し寄せてきていた。 先頭を行くのは、巨大な戦斧を担いだ一人の男。 ボロボロの帝国軍の鎧を着ているが、その身体から発せられる覇気は、どんな着飾った将軍よりも輝いて見えた。

ハク・エイアン。

彼の背後には、解放された囚人たち、鬼牙族の傭兵、そして道中で合流した地方の不満分子たちが従っている。 総勢、五〇〇〇名。 装備はバラバラ、隊列も乱れている。 だが、その目は一様に「革命」の炎で燃えていた。

「門を開けろォォォッ!!」

エイアンが吼えた。 その声は、城壁の上にいる兵士たちの鼓膜をビリビリと震わせた。

「俺はハク・エイアン! 腐った宰相の首を獲りに来た! ……俺の邪魔をするなら、帝国の敵とみなして叩き潰す!」

「ひ、怯むな! 撃て! 反逆者を近づけるな!」

守備隊長が命令を下す。 城壁の上から、矢が放たれる。 だが、エイアンは歩みを止めない。 飛んでくる矢を斧で払い落とし、あるいは鎧で弾き返し、悠然と進んでくる。

「ば、化け物か……!」

「……おい、あれを見ろ」

兵士の一人が、指差して叫んだ。 エイアンの軍の後ろから、さらに別の集団が現れたのだ。 それは、武器を持たない農民や商人たちだった。 彼らは荷馬車に食料や水を積み、エイアン軍に付き従っている。

「……民衆が、彼を支持しているのか?」

「俺たちの家族も、重税に苦しんでいるんだぞ……」

守備兵たちの間に、動揺が広がる。 彼らとて、帝国の現状に不満がないわけではない。 給料は遅配し、上層部は贅沢三昧。 そこへ現れた、「救世主」のような英雄。

エイアンは城門の前で立ち止まり、斧を地面に突き刺した。

「聞け! 帝国の兵士たちよ!」

彼は城壁を見上げ、語りかけた。

「俺は、お前たちを殺しに来たのではない! お前たちが守るべきは、腐った宰相か? それとも、故郷で腹を空かせている家族か?」

静寂。 風の音だけが響く。

「俺の妻……凜という女が言っていた。『兵站(メシ)のない軍隊は、ただの被害者だ』とな。……お前たち、最近まともな飯を食っているか?」

兵士たちが顔を見合わせる。 食っていない。 ここ数ヶ月、配給は減る一方で、スープはただのお湯だ。

「俺についてこい! 俺が勝てば、国庫を開放し、全員に未払い分の給料と、腹いっぱいの肉を食わせてやる! これは、ハク・エイアンの名にかけた契約だ!」

肉。給料。 その言葉の魔力は、どんな愛国心よりも強かった。

ガチャン。 一人の兵士が、弓を捨てた。 それを合図に、次々と武器が捨てられる。

「……やってられるかよ! 俺だって、肉が食いたい!」 「宰相なんて知るか! 俺はエイアン将軍についていくぞ!」

「ば、馬鹿者! 反逆罪だぞ!」

守備隊長が叫ぶが、部下たちは彼を取り押さえ、猿ぐつわを噛ませた。

ギギギギギ……。 重厚な南門が、内側からゆっくりと開かれていく。

「……ハッ。交渉成立だな」

エイアンはニヤリと笑い、斧を担ぎ直した。

「行くぞ、野郎ども! 帝都へ雪崩れ込め! ……ただし、略奪はするなよ! 俺の妻に怒られるからな!」

「オオオオオッ!!」

黒い軍団が、歓声を上げて帝都へと入城した。 それは侵略ではなく、凱旋パレードのようだった。 沿道の市民たちも、最初は恐る恐る遠巻きに見ていたが、彼らが略奪をせず、むしろ持っていた食料を分け与えているのを見て、歓声を上げ始めた。

「将軍万歳!」 「ザッハークを倒せ!」

怒れる民衆の波と、エイアンの軍勢が合流し、巨大な奔流となって街の大通りを埋め尽くす。 目指すは、街の中央にそびえる皇帝の居城、「天楼閣」。

          ◇

皇宮、宰相執務室。 そこからは、燃え上がる街と、迫りくる暴徒の群れが一望できた。

「……馬鹿な。ありえん」

ザッハーク宰相は、窓枠を掴んで震えていた。 顔色は死人のように青白く、唇は引きつっている。

「なぜだ……なぜ、奴があんなに早く戻ってこれる? 獄門島までは片道一ヶ月はかかるはずだ!」

「報告によれば……護送部隊が襲撃され、囚人が解放されたそうです。……手引きしたのは、あの『凜』という女の放った密偵だと」

側近が蒼白な顔で答える。

「あの女か……! あの小娘が、私の計画をすべて……!」

ザッハークは机の上の書類を薙ぎ払った。 完璧だったはずだ。 邪魔な将軍を排除し、北の領土を売って私腹を肥やし、傀儡の皇帝を操って栄華を極める。 そのシナリオが、たった二人の「異分子」によって、音を立てて崩れ去っていく。

「閣下! 近衛兵団が崩壊しています! 南門の守備隊が寝返り、暴徒と共にこちらへ向かっています! ここが包囲されるのも時間の問題です!」

「ええい、狼狽えるな!」

ザッハークは叫んだ。

「まだだ……まだ手はある。私には『切り札』があるのだ」

彼は壁に掛けられた剣を手に取り、狂気じみた光を目に宿した。

「皇帝陛下だ。……陛下を人質に取って立てこもる。奴らとて、神聖なる皇帝に剣を向けることはできまい!」

「し、しかし……」

「行け! 陛下を『安全な場所』へ移すのだ! ……最上階の『天上の間』へ!」

          ◇

帝都の大通り。 私はレンと共に、建物の屋根を伝って皇宮へ向かっていた。 眼下では、エイアンの軍勢が破竹の勢いで進んでいる。

「……すごいな。将軍様、本当に帰ってきやがった」

レンが感嘆の声を上げる。

「ええ。約束を守る男だからね」

私は誇らしげに微笑んだ。 遠目に見えるエイアンの姿。 彼は先頭に立ち、邪魔なバリケードを斧で粉砕しながら進んでいる。 その荒々しさは、まさに「破壊神」。 私の緻密な経済攻撃とは対極にある、圧倒的な物理エネルギー。

(……この二つが合わされば、無敵です)

私たちは皇宮の裏手、通用口へと回り込んだ。 正面はエイアンが引き受けてくれている。 警備は手薄になっているはずだ。

「……凜様!」

通用口の陰から、数人の女性が駆け寄ってきた。 ソフィアたちだ。 彼女たちも、私の指示で帝都へ潜入し、情報収集と扇動を行っていたのだ。

「無事だったのね、ソフィア!」

「当たり前よ! ……見て、この混乱。私の流した『宰相のヅラ疑惑』も、かなり効いたみたいよ」

ソフィアが悪戯っぽく笑う。 そんなデマまで流していたのか。

「状況は?」

「ザッハークは天楼閣に逃げ込んだわ。……皇帝陛下を連れて」

「やはり……人質作戦ね」

私は天楼閣を見上げた。 高さ一〇〇メートルを超える巨塔。 あそこの最上階に立てこもられたら、手出しができない。 下から攻めれば、皇帝を突き落とすぞと脅されるだろう。

「……エイアンと合流するわ。正面から圧力をかけて、その隙に私たちが裏から侵入する」

「了解。……でも、どうやってあんな高い塔に登るの?」

「エレベーターはないけど……『リフト』ならあるわ」

私は塔の側面に設置された、建設用の滑車を指差した。 本来は資材を運ぶためのものだが、レンがいれば動かせるはずだ。

「……マジかよ姉貴。高所恐怖症にはキツいぜ」

「文句を言わない。……追加ボーナスを出すわよ」

          ◇

皇宮前広場。 そこは今、数万の民衆と兵士たちで埋め尽くされていた。 その中心に、エイアンが立っている。

「ザッハーク! 出てこい! 鼠のように隠れていないで、姿を見せろ!」

エイアンの大音声が、塔の上まで響く。

塔のバルコニーに、人影が現れた。 ザッハークだ。 彼は、幼い少年――皇帝陛下を羽交い締めにし、その首元に短剣を突きつけていた。

「……愚か者どもが! これが見えんか!」

ザッハークが叫ぶ。 広場が静まり返る。 皇帝陛下。国の象徴。神の代理人。 彼に傷をつけることは、世界への反逆を意味する。

「近寄るな! 一歩でも近づけば、このガキの首を掻き切るぞ!」

「……卑怯な!」

エイアンが歯噛みする。 彼は強いが、人質を取られた状況では手が出せない。 特に、相手が皇帝となれば、部下たちも動揺して動けないだろう。

「ハッハッハ! どうした、軍神! 手も足も出まい! ……さあ、武器を捨てろ! そして全員、その場に平伏せ!」

ザッハークが勝ち誇る。

膠着状態。 誰もが絶望した、その時だった。

ザッハークの背後の窓ガラスが、ガシャン!と音を立てて割れた。

「……なっ!?」

ザッハークが振り返る。 そこから飛び込んできたのは、ロープにぶら下がった私とレンだった。

「お待たせしました、宰相閣下! ……追加の請求書をお持ちしました!」

私は叫びながら、手に持っていた「小麦粉の袋」を、ザッハークの顔面に投げつけた。

バフッ!!

袋が破裂し、白い粉塵が舞う。 視界が遮られる。

「ぐわっ! な、何だ!?」

ザッハークが怯む。 その隙に、レンが滑り込み、皇帝陛下の腕を掴んで引き剥がした。

「こっちだ、坊主!」

「……姉上!」

皇帝陛下――まだ一〇歳にも満たない少年が、私を見て叫んだ。 姉上? そういえば、私は亡国の姫。形式上は、彼の遠い親戚にあたるのかもしれない。 あるいは、単に頼れる大人をそう呼んだのか。

「確保しました!」

レンが皇帝を抱えて距離を取る。

「き、貴様ら……! どこから入った!」

ザッハークが粉まみれの顔で剣を振り回す。

「建設用のリフトよ。……安全基準を満たしていないボロ設備だったけど、役に立ったわ」

私はスカートの埃を払い、優雅に微笑んだ。

「さあ、人質はいなくなりましたよ。……どうします? まだ戦いますか? それとも、破産宣告を受け入れますか?」

「おのれぇぇぇッ! 小娘がァァァッ!」

ザッハークが理性を失い、私に向かって突進してくる。 老人の剣など怖くはないが、腐っても男だ。まともに受ければ怪我をする。

私は動かなかった。 避ける必要がないからだ。

ドゴォォォォン!!

部屋の扉が、蝶番(ちょうつがい)ごと吹き飛んだ。 爆風と共に現れたのは、巨大な斧を構えたエイアンだった。

「……俺の妻に、何をする気だ」

地獄の底から響くような声。 エイアンは一瞬で間合いを詰め、ザッハークの剣を斧の柄で弾き飛ばした。

カラン……。 剣が床に落ちる。

「ひっ……!」

ザッハークが尻餅をつく。 目の前には、怒れる軍神。

「え、エイアン……待て、話せばわかる! 私は、国のために……」

「……問答無用」

エイアンは斧を振り上げた。 殺す気だ。

「待ってください、将軍」

私が止めた。

「……凜。止めるな。こいつは生かしておけん」

「殺すのは簡単です。……でも、それでは安すぎます」

私はザッハークを見下ろした。

「死んで楽になるなんて、許しません。……生きて、罪を償わせるのです。鉱山での強制労働、北嶺の開拓……一生かけて、貴方が盗んだ国富を身体で返してもらいましょう」

「そ、そんな……私は宰相だぞ! 貴族だぞ!」

「いいえ。貴方はただの『破産者』です。……資産も、名誉も、全て差し押さえましたから」

私は懐から、先ほど拾った皇帝陛下の玉璽(ぎょくじ)を取り出した。 そして、即席で書いた「解任命令書」に、ポンと押した。

「……これにて、契約終了です」

ザッハークは崩れ落ちた。 彼の野望も、権力も、全てがこの瞬間、無に帰した。

エイアンは斧を下ろし、大きく息を吐いた。 そして、私の方を向き、呆れたように笑った。

「……お前には敵わんな。美味しいところを全部持っていきやがった」

「当然です。……私がプロデューサーですから」

私は彼に駆け寄り、その胸に飛び込んだ。 汗と泥の匂い。 でも、これが私の求めていた「勝利の匂い」だ。

「……ただいま、エイアン」

「ああ。……おかえり、凜」

私たちは、粉塵の舞う部屋の中で、固く抱き合った。 窓の外からは、民衆の歓声が聞こえてくる。 それは、帝国の新しい夜明けを告げる音だった。

          ◇

数時間後。 天楼閣のバルコニーに、私たち三人が立った。 中央に幼い皇帝陛下。 右にハク・エイアン将軍。 左に私、凜。

「見よ! 悪は去った!」

エイアンが皇帝の手を取り、高々と掲げた。

「これより、帝国は生まれ変わる! 腐敗を一掃し、民のための国を作る! ……俺たちが、それを保証する!」

「ウォーッ!!」 「将軍万歳! 皇帝陛下万歳!」 「凜様万歳!」

広場を埋め尽くす数十万の民衆が、熱狂の渦となる。

私はその光景を見ながら、そっと手元の帳簿を開いた。

【プロジェクト:帝国再建】 【初期投資:完了】 【リターン:国家一つ】 【損益計算書:……超・黒字】

私は満足げに帳簿を閉じ、隣のエイアンを見上げた。 彼も私を見て、優しく微笑んでいた。

「……さて、軍師殿。次の作戦は?」

「そうですね。……まずは結婚式でしょうか。盛大に、そして予算をかけて」

「……お手柔らかに頼むぞ」

私たちは手をつなぎ、新しい時代へと歩き出した。 私の人生は、安く売り叩かれるどころか……世界で一番高い値がついたようだ。 でも、これでもまだ「定価」には届かない。 私たちの価値は、これからもっともっと上がっていくのだから。
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