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【第20話】戦乱は終わらない
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光陰矢の如し。 かつて私の祖国の学者が好んで使っていたこの言葉は、物理学的な速度論としてではなく、人間の主観的な体感時間を表す言葉として、実に正確な表現だと言えます。
帝都・紫苑(シオン)の中央広場。 そこには今、溢れんばかりの人波と、極彩色の旗が翻っていました。
「……すごい人出ですね」
私は皇宮のバルコニーから、眼下の光景を見下ろして呟きました。 今日は「帝国再生五周年記念祭」。 かつて宰相ザッハークの悪政により破綻寸前だったこの国が、奇跡的な復興を遂げたことを祝う、世紀の祝典です。
「ああ。……これもお前が、休みなしで働いたおかげだ」
隣に立ったハク・エイアン――私の夫であり、帝国の摂政、そして相変わらず「軍神」の威圧感を放ち続けている男――が、優しく私の肩を抱きました。 彼の目尻には、五年前にはなかった笑い皺が刻まれていますが、それがかえって彼に大人の渋みと、統治者としての風格を与えています。
「私の計算だけではありません。……皆が、働いてくれたからです」
私は広場に視線を巡らせました。
市場には、北嶺から運ばれてきた羊毛製品が山積みになり、西方からの岩塩やワインが飛ぶように売れています。 人々が身につけているのは、ソフィアたちが流行らせた「北嶺モード」を進化させた、実用的かつ美しい衣服。 そして何より、行き交う人々の顔色が違います。 かつてのような飢えた目をした者は一人もいません。皆、血色が良く、その表情には明日への希望が満ちています。
「母上! 父上! 見てください!」
バルコニーの下から、元気な声が響きました。 五歳になる長男、カケルです。 彼は私たちがプレゼントした、子供用の小さな軍服(デザインはもちろんソフィア製)を着て、木剣を振り回しています。
「おいカケル! 剣先が下がっているぞ! 脇を締めろと言っただろう!」
エイアンが身を乗り出して叫びました。
「ええーっ、父上うるさい! 僕は剣より算術のほうが好きなんだ! 母上みたいに、計算で敵を倒すんだ!」
カケルが口答えをすると、エイアンは「ぐぬぬ」と唸り、私は思わず吹き出しました。
「……ふふっ。私の勝ちですね、将軍。あの子の才能は、明らかに文系です」
「……いや、まだわからん。剣の筋は悪くないんだ。……誰に似たのか、性格が理屈っぽいだけで」
「私に似たのですよ。……最高の遺伝子でしょう?」
平和な昼下がり。 五年前、雪と氷に閉ざされた北嶺で、生きるために必死に計算していた日々が、まるで遠い昔の物語のように感じられます。
◇
祝典が始まりました。 最初に登壇したのは、一五歳になったレオナルド皇帝陛下です。 かつてはザッハークの影に怯えていた幼い少年は、今や立派な青年に成長していました。
「……朕(ちん)は誓う! この国の繁栄が、一部の特権階級のためではなく、汗を流して働くすべての民のためにあることを!」
よく通る声で演説する陛下の姿に、広場の民衆が歓声を上げます。 その原稿を書いたのは私ですが、その言葉に魂を込めたのは陛下自身です。 彼は毎晩、私が課した「帝王学・応用編(財政学と統計学)」の宿題を泣きながらこなし、今では財務大臣と対等に議論できるほどの知見を身につけていました。
「……立派になられましたね」
演説を終えて戻ってきた陛下に、私がハンカチを渡すと、彼は照れくさそうに笑いました。
「凜姉上のおかげだよ。……昨日の夜も、リハーサルに付き合ってくれたしね」
「準備八割、本番二割。……完璧な仕事でした」
「へへっ。……でも、まだエイアン兄上の迫力には勝てないな」
陛下が視線を向けた先では、エイアンが警備兵たちに指示を出していました。 その姿を見るだけで、暴動など起きようはずもありません。 「歩く抑止力」。 それが、今の彼のあだ名です。
◇
祝賀パーティの会場は、皇宮の大広間――かつて私たちが「戦勝祝賀会」で針のむしろに座らされた場所――でした。 ですが、今日の空気は全く違います。
「やあ、凜! 今日のドレスも最高だぜ!」
弟のレンが、ワイングラス片手に近づいてきました。 彼は今や、帝国の警視総監。 帝都の裏社会を知り尽くした彼の手腕により、犯罪発生率は劇的に低下し、汚職官僚は次々と摘発されています。 黒い制服を着崩した姿は相変わらずですが、その目には自信が宿っていました。
「レン。……飲みすぎないようにね。貴方は警備の責任者なのだから」
「わーってるよ。……それより姉貴、聞いたか? 西方のバルトロメオ枢機卿が失脚したって話」
「ええ、報告書で見ました。……私たちの『借金買収作戦』で聖教国の財政が悪化し、責任を取らされたとか」
「怖いねぇ。……剣も抜かずに一国の宰相をクビにするなんて、うちの姉貴くらいだぜ」
レンが肩をすくめると、その背後から華やかな香水の香りが漂ってきました。
「あら、レン。凜を怖がらせるような言い方は失礼よ。……凜はただ、『正当な取引』をしただけですもの」
現れたのは、ソフィアです。 彼女は今、帝国最大のファッションブランド『月華の涙』の総帥であり、女性実業家のカリスマとして君臨しています。 今日のドレスも、彼女の新作。 北嶺の伝統柄を大胆にアレンジしたデザインは、明日には帝都中の婦人たちが真似をすることでしょう。
「ソフィア様、その節は……」
「いいのよ。……あの日、貴女が私たちに『仕事』と『誇り』をくれなかったら、私は今頃、田舎の修道院で退屈な余生を送っていたわ」
ソフィアはウィンクし、私の隣にいたエイアンの腕をツンとつつきました。
「将軍も、幸せそうね。……あんなに痩せっぽちだった凜を、こんなにふっくらさせちゃって」
「……ふっくら?」
私は思わず自分のお腹を触りました。 確かに、少し……いや、かなり目立ってきています。
「……二人目、順調そうだな」
エイアンが私の腰に手を回し、愛おしそうにお腹を撫でました。 そうです。 カケルの弟か妹が、今、私のお腹の中で育っています。 今回の「生産計画」も、完璧なスケジュール管理のもと、一発で成功しました。
「はい。……予定日は三ヶ月後です。今度の出産費用は、祝典のグッズ売上で賄えますから、国庫への負担はゼロです」
「……お前、まだそんな計算をしているのか」
エイアンが呆れたように笑いました。
「当然です。……私は死ぬまで、貴方の『兵站管理官』ですから」
◇
夜。 宴の喧騒を抜け出し、私たちは二人きりで皇宮の屋上庭園へ向かいました。 そこからは、光の海となった帝都の夜景が一望できます。
「……綺麗だな」
エイアンが手すりにもたれかかり、夜風に髪をなびかせながら言いました。
「ええ。……五年かかりましたね」
「長かったような、あっという間だったような……不思議な感覚だ」
彼はグラスに残ったワインを飲み干し、遠く北の空を見つめました。
「……あの頃、俺は毎日、死ぬことばかり考えていた。月華の後を追って、戦場で散ることだけが俺の望みだった」
「知っています。……貴方の目は、死人の目でしたから」
「だが、お前が現れた。……俺の前に立ちふさがり、『計算が合わない』と言って俺の剣を止めた」
エイアンは私のほうを向き、真剣な眼差しで見つめました。
「凜。……お前は俺の命を救い、俺の心を救い、そして国を救った。……俺は、お前にどれだけの『借り』があるんだろうな」
「計算してみましょうか?」
私は悪戯っぽく微笑み、指を折り始めました。
「まず、命の値段が測定不能(プライスレス)。精神カウンセリング料が五年分。国家予算の再建手数料が金貨一億枚。それに、カケルとこの子(お腹の子)の養育費が……」
「……待て待て、破産する」
エイアンが慌てて私の手を止めました。
「一生かかっても払いきれん。……身体で払うしかないな」
「ええ。……ですから、貴方は長生きしなければなりません。おじいちゃんになっても、杖をつきながら私のために働いてもらいます」
「鬼嫁め。……だが、悪くない」
彼は私の手を引き寄せ、薬指の指輪に口づけをしました。 あの歪なルビーの指輪は、今も私の指で輝いています。 高価な宝石ではありませんが、どんなダイヤモンドよりも価値のある、私たちの戦いの証。
「……凜。戦いは、終わったと思うか?」
不意に、エイアンが真面目な顔で尋ねてきました。
私は夜景を見下ろしました。 平和な街。笑顔の人々。 もう、剣で殺し合う戦いはありません。 鬼牙族とも良好な関係を築き、西方諸国とも経済的な結びつきを強めました。
でも。
「いいえ。……戦乱は終わりません」
私はきっぱりと答えました。
「形が変わるだけです。……貧困との戦い、疫病との戦い、災害との戦い。そして、人間の欲望との戦い。……これらは永遠になくなりません」
平和とは、何もしないことではありません。 無数の問題を、一つ一つ計算し、解決し、バランスを取り続けること。 それは、剣を振るうよりも遥かに難しく、根気のいる「静かなる戦争」です。
「……そうだな」
エイアンは頷き、剣のタコがある掌を見つめました。
「俺の剣は、もう錆びついているかもしれん。……だが、お前が『戦え』と言うなら、俺はいつだって抜く覚悟がある」
「安心してください。……貴方の剣が必要になる時は、私が合図します。それまでは、その筋肉を『カケルの肩車』と『私のマッサージ』に使ってください」
「……贅沢な使い方だな」
私たちは笑い合い、そして自然と唇を重ねました。 甘く、そして深い口づけ。 五年前の、あの契約の口づけとは違う。 信頼と、尊敬と、そして深い愛情に満ちた、夫婦の口づけ。
その時。 ドォォォォン!! と、夜空に大輪の花火が打ち上がりました。 記念祭のフィナーレを飾る花火です。
「……綺麗」
赤、青、緑。 光の粒子が、私たちの顔を照らします。
「……お前の方が綺麗だ」
エイアンが、歯の浮くようなセリフをサラリと言いました。 昔は照れて言えなかったくせに、最近はずいぶんと口が上手くなりました。 これも、私の教育の成果でしょうか。
「……追加料金、発生しますよ?」
「いくらでも払ってやる」
彼は私を強く抱きしめました。 お腹の中の赤ちゃんが、ポコンと蹴るのを感じました。 まるで、「僕もいるよ!」と主張しているかのように。
「……感じたか?」
「ええ。……元気な子です」
「カケルに続いて、こいつもおてんばになりそうだな」
「誰に似たのでしょうね」
「……お前だろ」 「貴方ですよ」
私たちは顔を見合わせ、また笑いました。
冷たい風が吹いてきましたが、もう寒くはありません。 私の隣には、世界一温かい「熱源」があるのですから。
◇
翌朝。 私はいつものように、夜明けと共に目を覚ましました。 隣で眠るエイアンの寝顔に「おはよう」のキスをして、静かにベッドを抜け出します。 妊婦とはいえ、摂政夫人としての仕事は山積みです。
執務室に向かう途中、廊下でレオナルド陛下とすれ違いました。
「おはよう、凜姉上! ……あ、そうだ。南の地方で、イナゴの被害が出そうだって報告があったよ」
「おはようございます、陛下。……イナゴですか。想定内です」
私は歩きながら、頭の中で瞬時に計算を開始しました。
「備蓄倉庫のBブロックを開放し、被害地域へ輸送。同時に、イナゴを『食料(佃煮)』として加工・販売するキャンペーンを打ちましょう。……ピンチはチャンスです」
「さ、さすが……! 転んでもただでは起きないね」
「当然です。……さあ、急ぎましょう。今日も忙しくなりますよ」
私はカツカツとヒールを鳴らして歩き出しました。 その後ろ姿を、起きてきたエイアンが見守っている気配がしました。
「……行くぞ、相棒」
背後から声が掛かりました。 振り返ると、軍服をだらしなく着たエイアンが、眠そうな目をこすりながら立っていました。
「寝癖がついていますよ、将軍」
私は近づき、彼の手ぐしを直してあげました。
「……今日も、戦場か」
「ええ。……終わらない戦場です」
私たちは顔を見合わせ、不敵な笑みを交わしました。
机の上に積まれた書類の山。 国境からの些細な摩擦の報告。 子供の夜泣きと、明日の献立。
それら全てが、私たちの愛すべき「敵」であり、私たちの生きる意味。
誰かの代わりになれるほど、私の人生は安くありません。 私は私として生き、愛し、そしてこの国を守り抜く。 計算機(あたま)と、この指輪にかけて。
「さあ、始めましょうか! ……世界一、しあわせな国造りを!」
帝都・紫苑(シオン)の中央広場。 そこには今、溢れんばかりの人波と、極彩色の旗が翻っていました。
「……すごい人出ですね」
私は皇宮のバルコニーから、眼下の光景を見下ろして呟きました。 今日は「帝国再生五周年記念祭」。 かつて宰相ザッハークの悪政により破綻寸前だったこの国が、奇跡的な復興を遂げたことを祝う、世紀の祝典です。
「ああ。……これもお前が、休みなしで働いたおかげだ」
隣に立ったハク・エイアン――私の夫であり、帝国の摂政、そして相変わらず「軍神」の威圧感を放ち続けている男――が、優しく私の肩を抱きました。 彼の目尻には、五年前にはなかった笑い皺が刻まれていますが、それがかえって彼に大人の渋みと、統治者としての風格を与えています。
「私の計算だけではありません。……皆が、働いてくれたからです」
私は広場に視線を巡らせました。
市場には、北嶺から運ばれてきた羊毛製品が山積みになり、西方からの岩塩やワインが飛ぶように売れています。 人々が身につけているのは、ソフィアたちが流行らせた「北嶺モード」を進化させた、実用的かつ美しい衣服。 そして何より、行き交う人々の顔色が違います。 かつてのような飢えた目をした者は一人もいません。皆、血色が良く、その表情には明日への希望が満ちています。
「母上! 父上! 見てください!」
バルコニーの下から、元気な声が響きました。 五歳になる長男、カケルです。 彼は私たちがプレゼントした、子供用の小さな軍服(デザインはもちろんソフィア製)を着て、木剣を振り回しています。
「おいカケル! 剣先が下がっているぞ! 脇を締めろと言っただろう!」
エイアンが身を乗り出して叫びました。
「ええーっ、父上うるさい! 僕は剣より算術のほうが好きなんだ! 母上みたいに、計算で敵を倒すんだ!」
カケルが口答えをすると、エイアンは「ぐぬぬ」と唸り、私は思わず吹き出しました。
「……ふふっ。私の勝ちですね、将軍。あの子の才能は、明らかに文系です」
「……いや、まだわからん。剣の筋は悪くないんだ。……誰に似たのか、性格が理屈っぽいだけで」
「私に似たのですよ。……最高の遺伝子でしょう?」
平和な昼下がり。 五年前、雪と氷に閉ざされた北嶺で、生きるために必死に計算していた日々が、まるで遠い昔の物語のように感じられます。
◇
祝典が始まりました。 最初に登壇したのは、一五歳になったレオナルド皇帝陛下です。 かつてはザッハークの影に怯えていた幼い少年は、今や立派な青年に成長していました。
「……朕(ちん)は誓う! この国の繁栄が、一部の特権階級のためではなく、汗を流して働くすべての民のためにあることを!」
よく通る声で演説する陛下の姿に、広場の民衆が歓声を上げます。 その原稿を書いたのは私ですが、その言葉に魂を込めたのは陛下自身です。 彼は毎晩、私が課した「帝王学・応用編(財政学と統計学)」の宿題を泣きながらこなし、今では財務大臣と対等に議論できるほどの知見を身につけていました。
「……立派になられましたね」
演説を終えて戻ってきた陛下に、私がハンカチを渡すと、彼は照れくさそうに笑いました。
「凜姉上のおかげだよ。……昨日の夜も、リハーサルに付き合ってくれたしね」
「準備八割、本番二割。……完璧な仕事でした」
「へへっ。……でも、まだエイアン兄上の迫力には勝てないな」
陛下が視線を向けた先では、エイアンが警備兵たちに指示を出していました。 その姿を見るだけで、暴動など起きようはずもありません。 「歩く抑止力」。 それが、今の彼のあだ名です。
◇
祝賀パーティの会場は、皇宮の大広間――かつて私たちが「戦勝祝賀会」で針のむしろに座らされた場所――でした。 ですが、今日の空気は全く違います。
「やあ、凜! 今日のドレスも最高だぜ!」
弟のレンが、ワイングラス片手に近づいてきました。 彼は今や、帝国の警視総監。 帝都の裏社会を知り尽くした彼の手腕により、犯罪発生率は劇的に低下し、汚職官僚は次々と摘発されています。 黒い制服を着崩した姿は相変わらずですが、その目には自信が宿っていました。
「レン。……飲みすぎないようにね。貴方は警備の責任者なのだから」
「わーってるよ。……それより姉貴、聞いたか? 西方のバルトロメオ枢機卿が失脚したって話」
「ええ、報告書で見ました。……私たちの『借金買収作戦』で聖教国の財政が悪化し、責任を取らされたとか」
「怖いねぇ。……剣も抜かずに一国の宰相をクビにするなんて、うちの姉貴くらいだぜ」
レンが肩をすくめると、その背後から華やかな香水の香りが漂ってきました。
「あら、レン。凜を怖がらせるような言い方は失礼よ。……凜はただ、『正当な取引』をしただけですもの」
現れたのは、ソフィアです。 彼女は今、帝国最大のファッションブランド『月華の涙』の総帥であり、女性実業家のカリスマとして君臨しています。 今日のドレスも、彼女の新作。 北嶺の伝統柄を大胆にアレンジしたデザインは、明日には帝都中の婦人たちが真似をすることでしょう。
「ソフィア様、その節は……」
「いいのよ。……あの日、貴女が私たちに『仕事』と『誇り』をくれなかったら、私は今頃、田舎の修道院で退屈な余生を送っていたわ」
ソフィアはウィンクし、私の隣にいたエイアンの腕をツンとつつきました。
「将軍も、幸せそうね。……あんなに痩せっぽちだった凜を、こんなにふっくらさせちゃって」
「……ふっくら?」
私は思わず自分のお腹を触りました。 確かに、少し……いや、かなり目立ってきています。
「……二人目、順調そうだな」
エイアンが私の腰に手を回し、愛おしそうにお腹を撫でました。 そうです。 カケルの弟か妹が、今、私のお腹の中で育っています。 今回の「生産計画」も、完璧なスケジュール管理のもと、一発で成功しました。
「はい。……予定日は三ヶ月後です。今度の出産費用は、祝典のグッズ売上で賄えますから、国庫への負担はゼロです」
「……お前、まだそんな計算をしているのか」
エイアンが呆れたように笑いました。
「当然です。……私は死ぬまで、貴方の『兵站管理官』ですから」
◇
夜。 宴の喧騒を抜け出し、私たちは二人きりで皇宮の屋上庭園へ向かいました。 そこからは、光の海となった帝都の夜景が一望できます。
「……綺麗だな」
エイアンが手すりにもたれかかり、夜風に髪をなびかせながら言いました。
「ええ。……五年かかりましたね」
「長かったような、あっという間だったような……不思議な感覚だ」
彼はグラスに残ったワインを飲み干し、遠く北の空を見つめました。
「……あの頃、俺は毎日、死ぬことばかり考えていた。月華の後を追って、戦場で散ることだけが俺の望みだった」
「知っています。……貴方の目は、死人の目でしたから」
「だが、お前が現れた。……俺の前に立ちふさがり、『計算が合わない』と言って俺の剣を止めた」
エイアンは私のほうを向き、真剣な眼差しで見つめました。
「凜。……お前は俺の命を救い、俺の心を救い、そして国を救った。……俺は、お前にどれだけの『借り』があるんだろうな」
「計算してみましょうか?」
私は悪戯っぽく微笑み、指を折り始めました。
「まず、命の値段が測定不能(プライスレス)。精神カウンセリング料が五年分。国家予算の再建手数料が金貨一億枚。それに、カケルとこの子(お腹の子)の養育費が……」
「……待て待て、破産する」
エイアンが慌てて私の手を止めました。
「一生かかっても払いきれん。……身体で払うしかないな」
「ええ。……ですから、貴方は長生きしなければなりません。おじいちゃんになっても、杖をつきながら私のために働いてもらいます」
「鬼嫁め。……だが、悪くない」
彼は私の手を引き寄せ、薬指の指輪に口づけをしました。 あの歪なルビーの指輪は、今も私の指で輝いています。 高価な宝石ではありませんが、どんなダイヤモンドよりも価値のある、私たちの戦いの証。
「……凜。戦いは、終わったと思うか?」
不意に、エイアンが真面目な顔で尋ねてきました。
私は夜景を見下ろしました。 平和な街。笑顔の人々。 もう、剣で殺し合う戦いはありません。 鬼牙族とも良好な関係を築き、西方諸国とも経済的な結びつきを強めました。
でも。
「いいえ。……戦乱は終わりません」
私はきっぱりと答えました。
「形が変わるだけです。……貧困との戦い、疫病との戦い、災害との戦い。そして、人間の欲望との戦い。……これらは永遠になくなりません」
平和とは、何もしないことではありません。 無数の問題を、一つ一つ計算し、解決し、バランスを取り続けること。 それは、剣を振るうよりも遥かに難しく、根気のいる「静かなる戦争」です。
「……そうだな」
エイアンは頷き、剣のタコがある掌を見つめました。
「俺の剣は、もう錆びついているかもしれん。……だが、お前が『戦え』と言うなら、俺はいつだって抜く覚悟がある」
「安心してください。……貴方の剣が必要になる時は、私が合図します。それまでは、その筋肉を『カケルの肩車』と『私のマッサージ』に使ってください」
「……贅沢な使い方だな」
私たちは笑い合い、そして自然と唇を重ねました。 甘く、そして深い口づけ。 五年前の、あの契約の口づけとは違う。 信頼と、尊敬と、そして深い愛情に満ちた、夫婦の口づけ。
その時。 ドォォォォン!! と、夜空に大輪の花火が打ち上がりました。 記念祭のフィナーレを飾る花火です。
「……綺麗」
赤、青、緑。 光の粒子が、私たちの顔を照らします。
「……お前の方が綺麗だ」
エイアンが、歯の浮くようなセリフをサラリと言いました。 昔は照れて言えなかったくせに、最近はずいぶんと口が上手くなりました。 これも、私の教育の成果でしょうか。
「……追加料金、発生しますよ?」
「いくらでも払ってやる」
彼は私を強く抱きしめました。 お腹の中の赤ちゃんが、ポコンと蹴るのを感じました。 まるで、「僕もいるよ!」と主張しているかのように。
「……感じたか?」
「ええ。……元気な子です」
「カケルに続いて、こいつもおてんばになりそうだな」
「誰に似たのでしょうね」
「……お前だろ」 「貴方ですよ」
私たちは顔を見合わせ、また笑いました。
冷たい風が吹いてきましたが、もう寒くはありません。 私の隣には、世界一温かい「熱源」があるのですから。
◇
翌朝。 私はいつものように、夜明けと共に目を覚ましました。 隣で眠るエイアンの寝顔に「おはよう」のキスをして、静かにベッドを抜け出します。 妊婦とはいえ、摂政夫人としての仕事は山積みです。
執務室に向かう途中、廊下でレオナルド陛下とすれ違いました。
「おはよう、凜姉上! ……あ、そうだ。南の地方で、イナゴの被害が出そうだって報告があったよ」
「おはようございます、陛下。……イナゴですか。想定内です」
私は歩きながら、頭の中で瞬時に計算を開始しました。
「備蓄倉庫のBブロックを開放し、被害地域へ輸送。同時に、イナゴを『食料(佃煮)』として加工・販売するキャンペーンを打ちましょう。……ピンチはチャンスです」
「さ、さすが……! 転んでもただでは起きないね」
「当然です。……さあ、急ぎましょう。今日も忙しくなりますよ」
私はカツカツとヒールを鳴らして歩き出しました。 その後ろ姿を、起きてきたエイアンが見守っている気配がしました。
「……行くぞ、相棒」
背後から声が掛かりました。 振り返ると、軍服をだらしなく着たエイアンが、眠そうな目をこすりながら立っていました。
「寝癖がついていますよ、将軍」
私は近づき、彼の手ぐしを直してあげました。
「……今日も、戦場か」
「ええ。……終わらない戦場です」
私たちは顔を見合わせ、不敵な笑みを交わしました。
机の上に積まれた書類の山。 国境からの些細な摩擦の報告。 子供の夜泣きと、明日の献立。
それら全てが、私たちの愛すべき「敵」であり、私たちの生きる意味。
誰かの代わりになれるほど、私の人生は安くありません。 私は私として生き、愛し、そしてこの国を守り抜く。 計算機(あたま)と、この指輪にかけて。
「さあ、始めましょうか! ……世界一、しあわせな国造りを!」
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「……ここは?」
か細く漏れた声は、まるで他人のもののようだった。喉が渇いてたまらない。
顔を上げようとすると、ずきりとした痛みが後頭部を襲い、思わず呻く。その拍子に、自分の指先に視線が落ちた。驚くほどきめ細やかで、手入れの行き届いた指。まるで象牙細工のように完璧だが、酷く見覚えがない。
私は一体、誰なのだろう?
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