離縁を望んだ私に、旦那様の執着が始まりました

なつめ

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第21話 指先からやり直す


 冬の終わりは、いつも唐突には来ない。

 ある朝いきなり暖かくなるわけでもなければ、昨日までの寒さがきっぱり嘘になるわけでもない。冷たい日と少しましな日が交互に来て、雪の名残が庭の隅へ細く残ったり、昼だけ土の匂いが戻ったり、また夜にはきりりと凍ったりする。その曖昧さが、今のレヴェティアには妙にしっくりきた。

 何もかもがすぐに変わるわけではない。

 変わったものもある。
 変わらないものもある。
 そして、そのあいだで少しずつ位置を変えていくものがいちばん多い。

 断罪のあと、公爵家の空気はたしかに変わった。東翼へ向けられる視線の温度も、倉庫や書庫での扱いも、以前とはまるで違う。北棟の目録再編は正式にレヴェティアの仕事として通り、補助に回る者たちの態度も、もう露骨な軽視を含まなくなった。

 だが、それで心がすぐにやわらかくなるかといえば、そうではない。

 レヴェティアはまだ、ゼルフェインの言葉を額面通りには受け取れなかった。
 受け取りたいと思ってしまう瞬間があるからこそ、余計に慎重になる。
 信じてしまったあとで、また届かなかったら。
 また何かが噛み合わなかったら。
 その恐れは、そう簡単には消えない。

 だから第十九話から第二十話にかけて、二人のあいだに新しい約束めいたものができていた。

 大きな言葉ではなく、積み重ねること。
 劇的な告白ではなく、逃げずに言葉を重ねること。
 そして、押しつけずに近づくこと。

 それがどれほど難しいか、たぶん二人とも、もう分かっていた。

 その朝、レヴェティアは東翼の私室で髪を整えながら、鏡越しに窓の外を見ていた。

 雪はほとんど消えている。日陰に残る白も、もう硬い氷ではなく、灰色がかったやわらかな名残に近い。空は曇っているが、どこか高いところに明るさがあって、完全な冬の空ではない。風はまだ冷たい。それでも庭師たちは厚手の外套を少し軽いものへ替え始めていた。

 背後でティルザが、控えめな声で言う。

「本日も、小食堂でお取りになりますか」

 レヴェティアは一度だけ目を閉じ、それから頷いた。

「ええ」

 朝食を共にする。

 それは、この数日のあいだに少しずつ定着し始めた習慣だった。
 以前のように形式だけの冷えた食卓ではない。
 かといって、急に親密な夫婦の朝でもない。

 ただ、向かい合って座る。
 食べる。
 最低限の会話では終わらせない。
 そしてどちらかが沈黙しても、そこから逃げない。

 それだけのことが、二人には思っていた以上に難しかった。

 けれど、それだけのことしか今はできないとも分かっていた。

 小食堂へ入ると、暖炉の位置が少し変わっていた。

 いや、暖炉そのものは動かない。正確には、椅子と丸卓の位置が火の熱をより受けやすいように半歩ぶん寄せられていた。以前より窓から遠く、暖炉には近い。見れば分かる程度の小さな違いだ。だが冬の終わりの冷たい朝には、その半歩が案外大きい。

 レヴェティアは扉のところでわずかに足を止めた。

 ゼルフェインがすでに席についている。今日も深緑の上着に余計な装飾はない。彼はレヴェティアが部屋へ入ったのを見ると、すぐに立ち上がった。以前ならそんなことはしなかった。せいぜい視線を上げるだけだった。今は、それが自然になりつつある。

「おはよう」

 低い声が落ちる。

「おはようございます」

 レヴェティアが返す。

 椅子が引かれる。レヴェティアは座ろうとして、その位置が暖炉へ近づいていることをもう一度確かめた。気づかないふりをすることもできた。だがしない。最近は、気づいたことを気づいたまま置いておくほうが、かえって不自然に思えるようになってきたからだ。

「位置を変えたのですね」

 そう言うと、ゼルフェインは一瞬だけ手を止めた。

「朝はまだ冷える」

 それだけの返答。
 けれど、その短さの中に少しだけ緊張があるのが分かる。
 気づかれたことに、彼自身がまだ慣れていないのだろう。

「ありがとうございます」

 レヴェティアは静かに言った。

 礼は言う。
 だがそれ以上の意味を急いで乗せたりはしない。
 今の二人には、そこが大事だった。

 朝食は、温かなポタージュと、薄く焼いたパン、蒸し魚、それに甘みを抑えた果物の煮ものだった。以前の“好みに合わせた朝食”のように、あからさまではない。けれどどこか、レヴェティアが食べやすい方向へ整えられている。塩は強すぎず、香りは穏やかで、朝の胃に負担がない。

 これみよがしではないことが、かえって胸へ残る。

 ゼルフェインは、今はもう大きなことをしようとしていない。
 「愛している」と言って全部を変えようともしていない。
 代わりにこうして、椅子を半歩寄せる。
 皿の重さを少し軽くする。
 寒い日の火の位置を見直す。
 そういう小さなことを、何も言わずに一つずつ変えている。

 その変化は、押しつけというには静かすぎた。
 そして静かすぎるからこそ、レヴェティアの警戒を直接は刺激しない。
 代わりに、じわじわと心の端へ届いてくる。
 それがいちばん厄介だった。

「午後は北棟へ行くのか」

 ゼルフェインが訊く。

「ええ。昨日、アスヴェルと話した続きで、盟約文の索引を揃えたいの」

 その名前が出ても、以前のようなひりつく沈黙は起きなくなった。
 なくなった、というより、ゼルフェインがそれを飲み込めるようになり始めたのだろう。
 嫉妬が消えたわけではない。
 だが少なくとも、それをそのまま部屋へ撒き散らすことはしなくなった。

「夕刻までか」

「たぶん。台帳の照合も少し残っているから」

「サルヴェナをつける」

 レヴェティアは顔を上げる。

「そこまでしなくても」

「安全のためだ」

 低い返答。
 命令というより、譲らない線を静かに示す声。
 以前なら、その“安全のため”は責務の言葉に聞こえただろう。
 いまは違う。
 責務だけではなく、彼自身の怖れも混じっていると分かる。
 襲撃の夜から、彼はそういう線を隠さなくなった。

「……分かりました」

 レヴェティアは頷く。

 受け入れたのは屈したからではない。
 そこにある本気を、もう見誤らないからだ。
 だが本気があると分かったからといって、すぐ心を預けるわけではない。

 その朝食の間、二人の会話は以前より少し長かった。

 書庫の再編。
 台帳の筆跡照合。
 温室の残った苗の手当て。
 別邸へ移す予定だった本の扱い。

 どれも実務の話だ。
 だが実務の話だからこそ、ゼルフェインが本当に耳を傾けているかどうかはすぐ分かる。

 以前なら、レヴェティアが書庫や倉庫の話を始めると、彼は必要最低限だけを聞いて、あとは「ヴァルメトに任せろ」で終わらせた。今は違う。数字を訊く。どの棚かを訊く。なぜその順番で再編するのかを訊く。分からない箇所は分からないと認め、補助の人員配置を実際に変える。

 聞いている。
 途中で意識を離していない。
 それがはっきり分かる。

 レヴェティアにとって、それは思った以上に大きかった。

 大げさな愛情表現より、こういうことのほうがずっと危ない。
 言葉だけではなく、本当に耳を傾けられてしまうと、心の奥のほうから“信じてもいいのかもしれない”という弱い声が上がってしまうからだ。

 朝食を終えて立ち上がる時、レヴェティアはふいにショールの端を椅子の金具へ引っかけた。

「あ」

 小さな声が漏れる。

 ゼルフェインが手を伸ばす。
 けれど途中で止まった。
 そして彼は、レヴェティアを見る。

「触れてもいいか」

 その一言に、レヴェティアは息を止めた。

 たったそれだけのことなのに、胸が大きく揺れる。
 以前の彼なら、無言で外しただろう。
 あるいは必要な動作として当然のように手を出しただろう。
 今は違う。
 許可を取る。
 こんな些細な接触でさえ。

 レヴェティアは一瞬だけ言葉を失い、それから小さく頷いた。

「……ええ」

 ゼルフェインの指が布へ触れる。
 ほんの短い時間。
 ショールの端を金具から外し、整えて、すぐに離れる。
 それだけ。
 けれどその慎重さが、かえって彼の本気を伝えた。

 押しつけない。
 当然だと思わない。
 近づきたいのに、相手の境界へ土足で入らない。
 その不器用な努力が、こんなところにも現れている。

 レヴェティアは無意識に指先を握りしめる。
 心が揺れる。
 それが嫌で、そして少しだけ嬉しくて、どうしようもなく面倒だった。

 午後、北棟書庫では暖炉こそないものの、移動式の火鉢が持ち込まれていた。

 以前ならあり得ないことだ。
 火の扱いが危険だからではなく、書庫にそこまで気を配る者がいなかったから。
 今は違う。
 北棟の再編は正式な仕事とされ、レヴェティアの手元が冷えすぎないよう、火鉢の位置まで調整されている。
 それもまた、ゼルフェインが動かした結果なのだと分かっていた。

 アスヴェルはその変化に最初こそ驚いたが、すぐに実務へ戻った。
 サルヴェナは壁際で書類を整理しつつ、時折レヴェティアの手元へ視線をやる。
 部屋の空気は以前よりずっと整っていた。

 それでもレヴェティアは、時々自分の手元よりも、そこへ向けられる視線の質に気づいてしまう。

 尊重されている。
 きちんと見られている。
 必要な人員と時間が与えられている。

 そうした当たり前のことが、今さらになってひどく眩しい。
 眩しいからこそ、まだ少し怖い。

 作業の途中、指先が冷えて、レヴェティアは自然と両手を擦り合わせた。
 すると少し離れた位置で書類を見ていたゼルフェインが、すぐに気づく。

「火鉢を寄せる」

「いえ、そこまでしなくても」

「まだ冷たいだろう」

 それだけ言って、彼は自分で火鉢を持ち上げ、長机の足元へ少し寄せた。
 距離にしてわずか一尺。
 だがその一尺で、熱の届き方は確かに変わる。

 レヴェティアは思わずアスヴェルを見る。
 彼は一瞬だけ口元を緩めたが、何も言わなかった。
 気づいているのだろう。
 そして気づいているからこそ、ここで茶化すほど浅くはない。

 サルヴェナだけが、紙面から目を離さず小さく言う。

「閣下、火鉢は傾けないように」

「分かっている」

 そのやり取りが、妙に日常めいていて、レヴェティアは胸の奥がくすぐったくなるのを止められなかった。
 笑うほどではない。
 だが、前なら絶対になかった空気だ。
 「今さらの溺愛」と呼ぶなら、こういうものなのかもしれない。
 大げさに宝石を贈るでもなく、何かを誓うでもなく、火鉢を少し寄せること。
 寒い日の椅子を暖炉へ近づけること。
 仕事の話を途中で遮らず、最後まで聞くこと。
 その積み重ね。

 夕方になる頃、レヴェティアは資料の束を抱えて立ち上がった。
 長時間座りっぱなしでいたせいか、足が少しだけ痺れる。
 バランスを崩しかけた瞬間、またゼルフェインの手が伸びる。
 だが今度も、触れる直前で止まる。

「支える」

 短く言い、次に。

「いいか」

 許可を取る。

 レヴェティアは一拍遅れて頷いた。

「……お願いします」

 すると彼の手が肘のあたりへ触れた。
 強すぎず、けれど確実な支え。
 必要以上に引き寄せない。
 安定したのを確かめたら、すぐに少し力を抜く。
 その触れ方一つで、彼がどれほど慎重に近づこうとしているかが伝わる。

 レヴェティアは心の中で、小さく息をついた。
 こういうのはずるい、と思う。
 派手な言葉よりずっとずるい。
 慎重さのほうが、誠実さを感じさせるからだ。

 夜、南客間へ戻ると、暖炉の前の卓に小さな封筒が置かれていた。

 差出人も宛名もない。
 だが封はされておらず、中には一枚だけ、簡潔な紙片が入っている。

 ――明日の朝、北棟へ行く前に倉庫移動記録の第三帳を見せたい。疲れていなければ。
 ゼルフェイン

 たったそれだけ。

 誘いではある。
 だが命令でもなければ、一方的な呼びつけでもない。
 “疲れていなければ”と逃げ道までつけてある。
 その慎重さが、文字になってもちゃんと彼らしい。

 レヴェティアは紙片を見つめ、それから小さく笑った。

 やっぱり不器用だ。
 そして、その不器用さのまま、本気でやり直そうとしている。

 まだ信じきれない。
 まだ怖い。
 離れたいという気持ちが消えたわけでもない。

 けれど、こうして積み上がる小さな行動の一つひとつは、無視できない。

 指先からやり直す。
 そういうことなのかもしれないと、レヴェティアは初めて少しだけ思った。
 大きな約束ではなく、触れる前に許可を取ることから。
 椅子を半歩暖炉へ寄せることから。
 仕事の相談を最後まで聞くことから。
 押しつけのない積み重ねから。

 窓の外では、冬の夜の空が澄んでいる。
 寒さはまだある。
 けれどその寒さの中で、少しずつ、ほんの少しずつだけ、何かが変わり始めていた。

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