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第17話 あなたは役に立つから置くのではない
北の館へ来てから数日が過ぎたころ、セスティアの中には、奇妙な熱が戻り始めていた。
熱といっても、病のそれではない。むしろ逆だ。ようやく身体が少しずつ食事を受け入れ、夜の眠りも一時よりはましになり、朝、目を開けた瞬間に胸を締めつける恐怖がわずかに薄れたことで、空いた場所へ何か別のものが入りこんできたのだ。それは安堵ではなかった。安堵よりももっと実務的で、もっと扱いやすく見えるものだった。
仕事をしたい。
役に立ちたい。
それは、北の館の静かな暮らしの中で、自然に胸へ戻ってきた感情のように見えた。倉庫台帳を見れば補給路の組み直しが思い浮かび、食堂の献立を見れば塩の使い方と保存の都合を考え、女中たちが洗い場で使う湯量を見れば、寒波の日の薪の減り方まで頭の中で繋がる。数字や動線や、誰がどこで何をしているか。そういうものを見て考えることは、セスティアにとって呼吸と同じくらい自然だった。
そして同時に、それは危うかった。
北の館の人々は、誰も彼女へ仕事を強いていない。ラドヴァンも、見たいなら見ればいい、言いたいことがあるなら言え、と必要以上に持ち上げるでもなく、抑えつけるでもなく言っただけだ。役に立つ提案をすれば実務として受け取るが、だからもっとやれと追い立てもしない。その距離がありがたいはずなのに、セスティアの内側では、別の声がいつの間にか育っていた。
今のうちに役に立たなければ。
ここで必要だと思われなければ。
自分は結局、また置き場所を失うのではないか。
そんなふうに考えていると、自分でも気づいていなかった。
最初に異変を言葉にしたのはニネッタだった。
「奥様、少し座ってください」
昼過ぎの客間で、彼女は珍しく強い声音でそう言った。
窓の外では、北の薄い日差しが石畳を白く照らしている。午前中に小河沿いの商隊とのやり取りを終え、戻ってきたばかりだった。セスティアは上着も脱がないまま小卓へ向かい、さっきまで外で確認していた搬入日の修正を、忘れないうちに台帳へ写そうとしていたところだった。
「あと一つだけ」
そう答えながらペンを取ると、ニネッタがそのインク壺をすっと遠ざけた。
「一つでは終わりません」
「終わるわ」
「終わりません」
言い切る口調だった。
セスティアは顔を上げる。ニネッタの頬は少し赤い。怒っているのではなく、必死なのだと分かる。
「奥様、朝から何も口にしていません」
「朝食は食べたでしょう」
「もう昼を過ぎています」
「あとで食べるつもりよ」
「その『あとで』が、いつも遅すぎます」
セスティアは反論しかけて、やめた。
侍女の言うことは正しい。今日は朝、小河の件でラドヴァンと倉庫係と短い打ち合わせをして、そのまま商隊との時間調整に入り、戻ってきたのはもう日がかなり傾きかけたころだった。北の館へ来てから少しずつ取り戻してきた食欲も、何かに集中していると途端に後回しになってしまう。伯爵家にいたころと同じ癖だ。いや、あの頃は仕事に没頭していたというより、仕事を理由に座り込んでいないと落ち着かなかったのかもしれない。
「少しだけ、頭が回っているうちにまとめたいの」
そう言うと、ニネッタは一歩も引かなかった。
「頭が回っているなら、なおさら食べてください。さっき廊下でラドヴァン様が、顔色が悪いと仰っていました」
「……言ったの」
「はい」
その一言に、セスティアの指先がほんの少し止まる。
顔色が悪い。そう見えるほどだろうかと、自分では思う。だが、窓へ映った横顔を見れば、たしかに頬のあたりは少し白い。熱があるわけではない。ただ、朝から動き続けたせいで、身体の熱が中へこもり、皮膚の表面だけが冷えているような感じがした。
「すぐに行きます」
小卓の上の紙へ視線を戻しながら言うと、ニネッタは小さく息を吐いた。
「その言い方の時は、行きません」
「そんなことは」
「あります」
セスティアはわずかに眉を寄せた。こういうところだけ、この若い侍女は妙に勘がいい。
「ニネッタ」
「はい」
「そんなに怒らないで」
「怒っています」
「え」
「奥様が倒れたら困るので、怒っています」
その真っ直ぐさに、セスティアは返す言葉を失う。伯爵家では、彼女が倒れかけても、周囲が怒ることはなかった。眉をひそめられることはある。みっともないと呆れられることもある。だが「困るから怒る」と言われたのは初めてだった。
それでも結局、その場では茶と簡単なパンを少し口にしただけで、仕事の手は止めなかった。
午後の残りは倉庫の再配置、夕方前には台所の塩樽の確認、そのあと小河の便を前倒しした場合の宿場の調整。動いているあいだは平気だった。むしろ、次々と考えるべきことが見つかるのが気持ちよかった。自分の見たものがそのまま現実の役に立つ。その感覚が、久しぶりに自分の身体へ熱を戻してくれる気がした。
けれどその熱は、夜になるころには少しずつ別の形へ変わっていった。
食堂へ行く途中、廊下の角で立ち止まったとき、ふっと視界が白く滲んだのだ。
ほんの一瞬だった。厚い絨毯の上に敷かれた光の筋がゆらりと揺れ、壁の燭台の火がにじむ。すぐに呼吸を整えれば戻る程度の揺らぎ。だが、それだけで身体の奥に鈍い警鐘が鳴る。まずい。疲れている。少し座るべきだ。水を飲んで、今夜は早く休んだほうがいい。
頭ではそう分かる。
それでも足はそのまま食堂へ向かった。
ここで「少し休みます」と言って引き返すことが、妙に怖かったのだ。昨日、小河の件で提案を聞いてもらえた。今日も自分の案が実際の調整へ動いている。そんな時に、急に顔色を悪くして引っ込むのは、ひどくみっともないことのように思えた。
役に立っている間だけ、ここにいていい。
誰がそんなことを言ったわけでもないのに、身体の奥にはその考えがもう根を下ろしていた。
食堂の灯りはあたたかかった。石の壁へ反射した火の色が、昼よりもやわらかく部屋を包んでいる。小食堂の丸机には、湯気の立つ煮込みと、切ったばかりの黒パン、厚切りの燻製肉、それから青菜の和えものが並んでいた。いつも通り過不足のない食事。誰も彼女の皿を奪わず、誰も急かさない場所。
けれど今夜のセスティアは、席に着いた瞬間から、自分の身体の輪郭が少し曖昧になっているのを感じていた。
「奥様」
ニネッタが、向かいから不安そうに顔をのぞく。
「本当に大丈夫ですか」
「ええ」
そう答えてスープを口に運ぶ。熱い。味は分かる。だが、胃へ落ちる前に、まず身体の中のどこかがきしむ。食べなければ。食べてしまえば大丈夫。そう思ってパンへ手を伸ばした時、視界の端で椅子が引かれる気配がした。
「そんな顔で平気と言うな」
ラドヴァンの声だった。
セスティアは顔を上げる。いつの間にか、彼が食堂へ入っていたらしい。厚手の上着を脱いだばかりで、肩に少しだけ外気の冷たさを残している。彼は向かいの席ではなく、斜め横の席へ腰を下ろした。その位置が、この館らしかった。真正面から覗き込まず、けれど手が届く距離にはいる。
「そんな顔……」
「白い」
短く言って、ラドヴァンは彼女の皿を見た。
「朝からまともに食ってないだろう」
セスティアは答えかけて、やめた。嘘をついてもたぶん通らない。
「少しだけ、慌ただしくて」
「慌ただしい時ほど食う」
その声は強くはない。だが、反論を受けつけない芯がある。
ニネッタが、助かったと言わんばかりに小さく息をついたのが聞こえた。ああ、この子はきっと昼からずっと、誰かがこう言ってくれるのを待っていたのだろう。
セスティアはパンをちぎった。手元はまだ大丈夫だ。けれどスープをもう一口飲んだ瞬間、胃のあたりがきゅっと縮み、椅子の背へ少しだけ体重を預けたくなる。そんな自分を押し戻そうとした、その時だった。
ラドヴァンの手が、机の向こうから静かに伸びてきて、彼女の持っていたスプーンをそっと皿の端へ戻した。
「もういい」
低い声だった。
「食うのは後だ」
「でも」
「立てるか」
セスティアは返事をしようとして、やっとそこで自分の呼吸が浅くなっているのに気づいた。食卓についたまま、ずっと浅い息でごまかしていたのだ。胸の奥がすうすうする。足先が少し冷たい。
「……大丈夫です」
条件反射のように口から出たその言葉を、ラドヴァンは即座に切った。
「大丈夫な奴はそんな顔しない」
初めて、少しだけ厳しい声だった。
その厳しさに、セスティアは言葉を失う。怒鳴られたわけではない。けれど、甘い逃げ道は与えない厳しさだった。伯爵家で浴びてきた冷たい叱責とは違う。体面や都合のためではなく、今ここで止めなければならないから止める声。
「奥様」
ニネッタが、もう半ば泣きそうな顔でこちらを見ている。
「少し、休みましょう」
「わたくし……」
セスティアはそこまで言って、急に足元から力が抜けるような感覚に襲われた。
椅子から立とうとしたわけでもない。けれど視界がふっと白く曇り、背中の芯が空洞になるように軽くなる。まずい、と思った瞬間には、膝の下の感覚が少し遠かった。
ラドヴァンがすぐに立ち上がる。椅子の脚が絨毯の上を低く鳴った。彼はセスティアの肩へ手を置き、無理に支え上げるのではなく、まず椅子の背へきちんと体重を戻させた。大きな手だった。けれど強くは押さえつけない。支えるための重みだけがある。
「息をしろ」
短い命令のような言葉。
セスティアはそれに従うように、どうにか息を吸った。喉がひりつく。胸の奥が痛い。けれど、誰かが見ている。いや、見張っているのではない。支えがそこにある。そう思うだけで、完全に落ちていく感じはどうにか踏みとどまった。
「客間へ戻る」
ラドヴァンはニネッタへ視線を向ける。
「毛布と水」
「はい」
ニネッタは飛ぶように動いた。食堂の女中もすぐに動き出し、灯りを手にする。誰一人大騒ぎしない。ただ、必要なものが必要な順番で動く。その秩序だけがありがたかった。
ラドヴァンはセスティアへもう一度目を落とす。
「歩けるか」
「……歩きます」
その答えに、彼の眉がわずかに動いた。言い返したい気持ちがあるのではなく、ただ無理をする方向へ意地を張ろうとしていると見抜いた顔だった。
「歩くな」
今度は、はっきりと言う。
そして返事を待たず、彼はセスティアの片腕を自分の腕へ預けるように支えた。抱き上げるわけではない。けれど一人で歩いて体裁を保たせる気もない。その半端さが、かえってありがたかった。完全に弱者扱いされるのも嫌だし、平気なふりを強いられるのはもっと嫌だ。今のセスティアに必要なのは、そういう中途半端で誠実な支え方だった。
客間へ戻るころには、視界の白さは少し引いていた。けれど脚はまだ頼りない。暖炉のある部屋の空気へ入った瞬間、身体の強張りが一度に出たのか、セスティアは長椅子へ座った途端、大きく息を吐いた。
ニネッタが毛布を肩へ掛け、水を差し出す。女中が暖炉へ薪を足し、静かに下がっていく。扉が閉まる。部屋の中にはラドヴァンとニネッタと、荒くはないが少し不安定な自分の呼吸だけが残った。
「……申し訳ありません」
やっと出た言葉は、かすれていた。
「また、それか」
ラドヴァンは暖炉の前に立ったまま言った。
「倒れかけた理由が分かるか」
セスティアは毛布を握りしめた。理由。疲れたから。食べていなかったから。働きすぎたから。いくらでも表面上の答えは出てくる。だが彼が聞いているのはそこではないと分かる。
「少し、無理を……」
「少しじゃない」
きっぱりと切られる。
「お前、仕事をしている間だけ息が楽そうだ」
その言葉に、セスティアは顔を上げた。
灰緑の目がこちらを見ている。静かだが、逃がさない目だった。
「仕事をして、数字を見て、誰かに役立つ形を出している間だけ、自分がここにいていいと思ってる顔をする」
胸の奥を、真っすぐ指で押されたような気がした。
そんな顔をしていたのだろうか。自分では気づいていなかった。あるいは、気づかないようにしていたのかもしれない。
「違います」
咄嗟に口から出た否定は、自分でも弱いと分かるものだった。
「違わない」
ラドヴァンは一歩だけ近づいたが、それ以上は詰めない。
「役に立つのはいい。だが」
そこで、声の温度がほんの少しだけ変わる。叱るための厳しさではなく、絶対に間違えるなと言う時の硬さだった。
「ここにいる理由を仕事にするな」
その一言で、セスティアは完全に言葉を失った。
ここにいる理由。
仕事にするな。
意味は分かる。分かるのに、理解が身体へ落ちてくるまでに時間がかかった。これまでずっと、仕事があるから自分は置かれるのだと思ってきた。役に立つから捨てられずに済むのだと思ってきた。伯爵家ではそうだった。正妻という肩書の下で、実務を引き受け、穴を塞ぎ、対外的な体面を整えるからこそ置かれていただけで、そうでなければとっくに席はなくなっていた。
だから、この館でも無意識に同じことをしていたのだ。
役に立たなければいけない。
提案が通るなら、もっと見なければいけない。
気づけるなら、先に動かなければいけない。
そうしていれば、ここにいてもいい理由になると思っていた。
思っていたことを、今ようやく見抜かれた。
「わたくしは……」
喉が詰まり、うまく声にならない。
「お前は、ここに来た時点で理由がある」
ラドヴァンは淡々と言った。
「ルヴェルナの娘で、うちへ来た。俺が中へ入れた。今はそれで足りる」
それで足りる。
その言葉が、セスティアにはほとんど異国の言葉みたいに聞こえた。存在そのものが理由になるという発想に、身体のどこも馴染んでいないからだ。
「でも、何もできなければ」
ようやくこぼれたのは、ほとんど子どものような問いだった。
「何もできなくても、置く」
即答だった。
「働けるから置くんじゃない。役に立つから置くんじゃない」
ラドヴァンの声は低く、揺れない。
「お前が疲れて倒れるほど働くなら、その理屈ごと止める」
セスティアは彼を見上げたまま動けなかった。
そんなことを言われたことがない。役に立つからではなく、ただここにいるから置く。疲れて倒れるなら、理屈ごと止める。伯爵家では考えられない言葉だった。あそこでは、体調を崩した時でさえ、「もっと上手くやれ」「管理が足りない」で終わった。休ませるためではなく、見栄えを損なうから止められたことならあっても、存在そのものを理由に休んでいいとは一度も言われていない。
「……そんなの」
セスティアはかすれた声で言った。
「そんなの、慣れていません」
ラドヴァンの目がほんの少しだけ柔らかくなる。
「だろうな」
たったそれだけの返事が、妙に優しかった。
大丈夫だとも、かわいそうだとも言わない。ただ、慣れていないのだろうと事実を認める。その認め方が、昨夜「怖いんだ」と言われた時と同じように胸へ落ちる。
「だから、覚えろ」
ラドヴァンは続けた。
「食う。休む。寝る。仕事はその後だ」
「……はい」
「返事だけじゃなく、やれ」
少しだけ厳しい声に戻る。けれどその厳しさは、前よりずっと受け取りやすかった。拒絶の厳しさではなく、生きる順番を教える厳しさだと分かるから。
ニネッタが横で、ほとんど泣きそうな顔をしながら何度も頷いているのが見えた。彼女もまた、この話を自分のことのように聞いているのだろう。ずっと言えなかったことを、代わりに言ってもらったような顔だった。
「今日の続きは」
ラドヴァンが問いかけるように言う。
セスティアは条件反射で「後で」と言いかけた。だが、その言葉が喉元で止まる。ここでまた同じことを繰り返したら、本当に意味がない。
「……やりません」
自分でそう言うと、思っていた以上に胸がざわついた。今日、役に立つことをやめる。途中で止める。その選択がこんなに怖いなんて、自分でも驚く。
ラドヴァンはその怖さごと見抜いたのか、短く頷いた。
「よし」
その一言で終わる。
褒めるでもなく、大げさに安心させるでもなく、ただ「よし」とだけ言う。その簡潔さが、逆に彼の中でこれが当然の判断なのだと伝えてきた。
「食事を運ばせる」
彼は扉のほうへ向かいながら言う。
「今度は全部食え」
「はい……」
「食ったら寝ろ」
「はい」
「数字は逃げない」
最後のその言葉に、セスティアは思わず目を上げた。
数字は逃げない。
そうだ。自分が少し休んだからといって、帳簿の列が勝手に消えるわけではない。小河の便も、塩樽の数も、明日になったからといって裏切るわけではない。逃げるのはいつも人で、数字ではない。だからこそ、今は自分が先に倒れないことのほうが大事なのだ。
「……はい」
今度の返事は、少しだけ深く言えた。
扉が閉まり、部屋に残るのは暖炉の火とニネッタの泣きそうな鼻息だけだ。しばらくして侍女が堪えきれず、小さく言う。
「本当に、その通りです」
その言い方が少し怒っていて、少し安堵していて、可笑しくなる。セスティアは毛布にくるまりながら、ようやく小さく笑った。
「あなたも、ずっと言いたかったのね」
「はい」
ニネッタは即答した。
「でも、奥様は働いている時だけ、少し楽しそうだったから……止めるのが怖かったんです」
その言葉がまた、胸へ沁みる。
楽しそうだった。そうなのだろう。数字を見ている時、役に立てると分かる時、自分でも少し息がしやすかった。それが嬉しかった。だからこそ止まれなかった。
けれど、それを「ここにいる理由」にしてしまえば、また同じ檻へ戻るだけだ。
セスティアは毛布の端を握った。指先はまだ少し冷えている。だが胸の奥にあるのは、さっきまでの焦りだけではなかった。言葉を失うほど驚いたのに、どこかで少しだけ、救われてもいた。
役に立つから置くのではない。
それはあまりに新しい理屈で、まだ身体のどこにも馴染まない。けれど今、その理屈があることだけは知った。
存在そのものを許される感覚。
そんなものに慣れていない自分を、恥じる必要はないのかもしれない。
しばらくして女中が食事を運んできた。湯気の立つスープと、少し柔らかめに煮た根菜、薄く切った肉、塩を抑えたパン。病人食ではないが、疲れた身体へ負担が少ないよう考えられているのが分かる。女中は何も言わず、ただ小卓へ並べて去った。
セスティアは言われた通り、今度はちゃんと食べた。全部を急いでではない。一口ずつ、自分の身体へ落とすように。途中、胃が少し縮こまりかけたが、そのたびに「数字は逃げない」と心の中で繰り返した。そうすると不思議と、スプーンを置かずに済んだ。
食べ終えた頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。北の夜はやはり早い。けれど今夜の暗さは、昨夜までほど怖くなかった。毛布が肩に重く、暖炉の熱がじわりと足元へまわっている。身体が疲れているのは変わらない。だが、その疲れへ「休んでいい」と名前がついているぶんだけ、少し楽だった。
寝台へ入る前、セスティアは扉の鍵を自分で確かめた。
かちり、と小さく鳴る。
その音を聞きながら、彼女は思う。
ここにいる理由を仕事にするな。
あの言葉は、明日の朝も、明後日も、きっと何度も自分の中で引っかかるだろう。簡単には馴染まない。役に立たなければ、と身体がまた思うたび、あの声を思い出すことになる。
でも、それでいいのかもしれない。
慣れないものは、すぐには慣れない。ただ、言葉としてもらった以上、少しずつ身体へ教えていくしかない。
存在そのものを許される感覚に、まだ慣れない。
けれど今夜のセスティアは、その「まだ」を少しだけ許してもいい気がしていた。
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