『処刑された悪女は、今度こそ誰も愛さない』

なつめ

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第一話 処刑台の朝

 首に触れた刃は、思っていたよりもずっと冷たかった。

 冬の朝だった。
 曇った空は低く、重たく垂れこめ、広場に集まった群衆の吐く息は白かった。人の数だけ生まれるざわめきが、濡れた布を裂くように耳の奥で揺れ続けていた。

 セラフィーナ・エーデルベルクは、断頭台の上に立っていた。

 風が吹くたび、銀の髪が頬に貼りつく。鎖で拘束された両手首は擦りむけ、皮膚の薄いところが破れている。鉄の匂いと、自分の血のわずかな生臭さが鼻の奥にこびりついていた。
 首の後ろに立つ処刑人の気配は重い。見なくてもわかる。巨大な影が背後にあるだけで、肩甲骨の間が冷えて、息を吸うたび肺の内側が小さく縮む。

 広場の前方に、彼がいた。

 第一王子にして王太子、レオンハルト・ヴァルツェイン。

 蜂蜜色の金髪は、今日も曇天の下で淡く光っていた。青い瞳は正面を向き、まっすぐにこちらを見ている。その顔は整いすぎていて、どこまでも美しく、どこまでも遠かった。
 その隣には、栗色の髪を揺らす少女がいる。リディア・エヴァンズ。小柄で、愛らしく、誰からも守ってあげたいと思われるような雰囲気をまとう少女。彼女は不安げに唇を噛み、王太子の袖を指先でそっとつまんでいた。

 ああ、とセラフィーナは思った。

 綺麗だ。

 自分が積み上げてきた三年間が、いま目の前で簡単に否定されていく光景は、皮肉なくらいよく整っていた。
 悪女と呼ばれた婚約者。善良な王太子。傷つけられた可憐な少女。毒を盛られたとされる繊細な魔術師。冷酷な振る舞いを目撃した騎士。泣いた侍女たち。噂を愛した貴族たち。
 すべての役者が、最も美しく見える配置に並んでいる。

 その中心に、自分だけが醜い。

「セラフィーナ・エーデルベルク」

 宣告を読み上げる声が、冷たい空気に乗って響く。

「王太子殿下の婚約者でありながら、その立場を悪用し、幾度となくエヴァンズ令嬢に嫌がらせを行い、宮廷魔術師見習いノエル・アシュクロフトに毒を盛り、侍女に対しても苛烈な折檻を加えた罪により、死罪に処す」

 広場が沸いた。
 どよめき。歓声。侮蔑。安堵。
 ひどく遠いところで鳴る波の音みたいに、それらは耳に入っては消えていった。

 毒なんて盛っていない。
 リディアを階段で突き飛ばしてもいない。
 侍女を打ったことなど、一度もない。

 言えなかっただけだ。
 毎回、違うと言うタイミングを逃しただけ。
 説明するより先に話が決まり、助けを求めるより先に自分の表情が誤解され、何か言えば言うほど状況が悪くなる気がして、黙ったまま、ただ背筋だけを伸ばして立っていた。

 黙っていれば、そのうちわかってもらえると思った。
 見ていてくれる人が一人くらいはいると、どこかで甘く考えていた。

 いなかった。

 誰もいなかった。

 レオンハルトが一歩前へ出た。彼の纏う外套の裾が風に揺れる。白い手袋をはめた指が、わずかに強く握られているのが見えた。

「何か、最後に言い残すことはあるか」

 彼の声はひどく静かだった。
 怒っているわけでもない。嘲っているわけでもない。
 ただ、最後の情けとして機会を与えているだけの声音。

 セラフィーナは彼を見た。

 幼いころから知っていた。
 はじめて手を取った日のことも覚えている。白い庭園で、薔薇の棘に触れてしまった自分の指を、彼が眉を寄せて見つめたことも。
 熱を出して寝込んだ夜、見舞いに来た彼が、退屈しのぎにと読み聞かせてくれた物語の結末も覚えている。
 彼は昔から正しい人だった。誰にでも優しく、強く、まっすぐで、だからこそ、その正しさからこぼれ落ちるものにあまりに無自覚だった。

 言い返したい言葉はたくさんあった。

 違います。
 わたくしはしていません。
 どうして一度も聞いてくださらなかったのですか。
 どうして、わたくしが泣かないからといって、傷ついていないと思ったのですか。

 けれど喉は乾ききっていて、舌は上顎に貼りついていた。
 人前で声を震わせることを恥だと教え込まれた身体は、こんな最後の最後まで、上手に壊れてはくれなかった。

 セラフィーナは唇を開いた。
 吐き出した声は、自分でも驚くほど穏やかだった。

「……ありません」

 広場の空気がざわりと揺れた。
 最後まで高慢だ、とでも思われたのだろう。

 レオンハルトの瞳がわずかに揺れた。ほんの一瞬だけ。すぐにそれは消えた。
 彼は何も言わなかった。

 それで終わりだった。

 処刑人が肩に手を置く。分厚い革手袋の感触はひどく硬く、重い。膝をつかせられ、首を台に乗せる。
 木の表面は冷え切っていた。頬に触れたその温度に、セラフィーナはなぜだか幼いころの窓辺を思い出した。冬の朝、凍えたガラスに額を寄せたこと。息を吹きかけると白く曇ったこと。遠くで母が、背筋を伸ばしなさいと静かに叱ったこと。

 ああ、と彼女は思う。

 結局。
 最後まで、誰にも愛されなかった。

 その瞬間だった。

 刃が落ちる音より先に、耳の奥で何かが裂けた。
 視界が白く弾ける。
 冷たさ。痛み。闇。

 そして。

 目を開けたとき、天蓋の内側が見えた。

 白かった。
 繊細な刺繍の蔓草模様。見慣れた寝台の天蓋。薄い朝の光を透かすレースのカーテン。外では小鳥が鳴き、窓の向こうから春先のやわらかな風が流れ込んでくる。花の匂いがした。切りたての水仙と、洗いたてのリネンの匂い。

 セラフィーナは息を止めた。

 喉がある。

 恐る恐る自分の首に触れる。
 皮膚はなめらかで、温かかった。傷も、血も、何もない。ただ、指先の下で脈が速く打っている。

 彼女は勢いよく身を起こした。
 その途端、胃の底から込み上げてきたものに耐えきれず、寝台の縁に手をついて吐いた。胃液の酸っぱい匂いが喉に焼きつき、涙がにじむ。肩が震えた。呼吸がうまくできない。吸っても吸っても空気が薄い。肺の内側が、いまも刃を覚えているみたいだった。

「お嬢様っ」

 扉が開き、ミレイユが飛び込んできた。
 赤みのある茶髪をきっちりと結い上げた侍女は、いつも通り機敏だったが、その琥珀色の目はいま驚きで大きく見開かれている。

「どうなさったのです、顔色が……っ、すぐに水を」

 ミレイユの手が肩に触れる。
 その瞬間、セラフィーナは思わずびくりと身体をこわばらせた。

 前世で、ミレイユはいなかった。
 もっと正確に言えば、いたはずなのに、最期の記憶の中で彼女の姿だけがない。自分を守ろうとしてくれたのか、距離を置いたのか、何もわからない。ただ、断頭台の上から見た景色のどこにも、彼女はいなかった。

 その不在が、ひどく怖かった。

「……お嬢様?」

 ミレイユの手つきがそっと慎重になる。
 セラフィーナは喉を押さえたまま、かすれた声で尋ねた。

「今日、は……」

「三月十二日でございます。王立学園の始業式の日ですわ」

 三月十二日。

 その言葉に、背中がぞくりと冷えた。
 処刑の日から、ちょうど三年前。
 すべてが始まった春だ。

 窓の外では、噴水の水音が涼やかに響いていた。
 あんなに穏やかな朝なのに、セラフィーナの身体は震えが止まらない。

「鏡を」

「はい?」

「鏡を持ってきて」

 ミレイユがすぐに卓上鏡を差し出す。
 映った顔は、十七歳の自分だった。まだ処刑台に連れていかれる前の、若い輪郭。頬は少しだけ丸みを残し、目元には疲労の影もない。薄紫の瞳は大きく、けれどいまはひどく怯えて揺れていた。
 悪女と呼ばれる未来をまだ知らないはずの顔。
 なのにその目の奥にだけ、断頭台の冬が沈んでいる。

 セラフィーナは鏡を伏せた。

 吐き気は少しずつ引いていく。代わりに、冷えきった理性が戻ってきた。
 三年前に戻った。
 そうとしか考えられない。

 ならば、処刑までの道筋もすべて知っている。

 リディアと初めて深く関わるのは学園の歓迎式典。
 ノエルが体調を崩し、「毒を盛られた」と噂が立つのは初夏。
 カイル・ローヴェンが自分を見る目をさらに険しくするのは、侍女の失敗を誤解したあの日。
 レオンハルトが自分から決定的に心を離すのは、真夏の夜会での一件。

 避ければいい。
 最初から全部、避ければいい。

 誰とも深く関わらない。
 誰にも期待しない。
 誰も愛さない。
 もう二度と、理解されることを願わない。

 その決意は、ひどく乾いていた。
 絶望の残り火を、薄い氷で静かに覆うみたいな決意だった。

「……ミレイユ」

「はい」

「支度を。学園へ行くわ」

 侍女はほっとしたように息を吐いた。
 だがその顔にはまだ不安が残っている。

「本当に大丈夫でございますか。少しお休みになったほうが」

「いいえ」

 セラフィーナはもう一度、自分の喉に触れた。
 温かい。生きている。ならば、立たなくてはならない。

「今日は、休んではいけない日よ」

 学園への馬車は、いつもより妙に静かに感じられた。

 車輪が石畳を刻む振動が、座席越しに細かく伝わってくる。窓の外には春の王都が流れていた。花売りの少女、朝のパンを運ぶ少年、店先で果物を並べる商人。焼きたてのパンの甘い香りが、通りすがりにふっと車内へ入り込んでくる。
 前世でも見ていたはずの景色なのに、今日のセラフィーナには、どれも遠かった。ガラス一枚ではなく、深い水の底から眺めているように現実味がない。

「お嬢様、顔色が戻りませんね」

 向かいに座るミレイユが、膝の上で手を組みながら小さく言う。

「学園に着くころには整えるわ」

「整える、で済ませていいお顔ではありません」

 その言葉に、セラフィーナはかすかに目を上げた。
 ミレイユは昔から遠慮がない。そこがありがたくもあり、時に痛い。けれど、その率直さを鬱陶しいと思ったことは一度もなかった。むしろ、言葉を飲み込み続ける自分には眩しいくらいだ。

「……少し、悪い夢を見ただけよ」

「では今夜は温かいミルクをお持ちします。夢の内容までは追い出せませんが、眠りは多少ましになります」

 淡々とした声なのに、気遣いがにじむ。
 セラフィーナは返事をしようとして、少しだけ迷った。前世の自分なら「余計な心配をしなくていいわ」と切っていたかもしれない。正確には、そう聞こえる言い方をしてしまったはずだ。
 相手に向ける言葉の角度を、いつも誤る。
 それが自分だ。

 彼女は視線を窓の外へ戻しながら、短く言った。

「……ありがとう」

 ミレイユが目を丸くした気配がした。
 それだけで、胸の奥がひどく痛んだ。

 たった一言で驚かれるのだ。
 前世の自分は、どれほど感謝を口にしてこなかったのだろう。

 王立学園は丘の上に建っていた。
 白亜の校舎は春の光を受けてやわらかく輝き、尖塔の先には王家の紋章旗がはためいている。石造りの大階段を上る生徒たちの靴音、笑い声、ひそひそと噂を交わす声。風に乗って制服の布がこすれる乾いた音があちこちで鳴っていた。

 馬車が止まると、すでに何人もの視線がこちらへ向けられた。

 公爵令嬢、王太子の婚約者、氷の公女。
 自分に向けられる視線の意味を、セラフィーナはよく知っている。

 畏れ。羨望。遠巻きの好奇。
 そして少しの、悪意を待つ期待。

 彼女は馬車を降りた。
 地面に足をつけた瞬間、春の外気がスカートの裾を揺らす。今日の風は温かい。なのに、骨の髄だけがまだ冬に置き去りになっているみたいだった。

 校舎前の広場には、王太子レオンハルトがすでに到着していた。周囲を側近や取り巻きが囲んでいる。青い瞳がこちらをとらえた瞬間、彼は自然な足取りで近づいてきた。

「おはよう、セラフィーナ」

 昔から変わらない、よく通る声。
 彼は微笑んでいた。その笑みは上品で、誰の前でも完璧だ。

 前世の自分は、この笑みにほんの少しだけ救われていた。
 彼が自分に微笑む限り、きっと完全に嫌われてはいないのだと、そう思いたかった。

 けれどその先に待っていたのは断頭台だった。

 セラフィーナは一歩ぶんだけ距離を守り、礼をした。

「おはようございます、殿下」

 それだけ言って、視線を上げずに身を引く。

 空気が、ほんの少しだけ止まった。

 レオンハルトの気配がわずかに揺れる。
 彼にしてみれば不自然だっただろう。これまでのセラフィーナは、王太子の婚約者として一歩引きつつも、常に彼の隣に立つことを当然としていた。近くにいることを、誰よりも自分自身に求めていた。
 それが今日は、自分から離れた。

「……何かあったのか」

 低く落ちた声に、セラフィーナは胸の奥がひやりとするのを感じた。
 この声色も知っている。彼が違和感を覚えたときの声だ。

「いいえ」

「体調が悪いように見える」

「少し寝不足なだけです。始業式には支障ありません」

 言葉は整っていた。
 感情を差し込まない。柔らかさも、縋る気配も混ぜない。
 ただ事務的に、曇りなく。

 レオンハルトは眉を寄せた。
 ほんのわずかな変化だったが、昔から彼を見てきたセラフィーナには、それだけで十分だった。

「送ろう」

「必要ございません」

 思ったよりも早く言葉が出た。
 自分でも驚くほど、はっきりと。

 周囲の生徒たちが息を呑む気配がした。
 王太子の申し出を、婚約者が断る。それだけでも珍しいのだろう。

 レオンハルトの青い瞳に、かすかな困惑が浮かぶ。
 けれどセラフィーナはそれを見ないことにした。

「お気遣いありがとうございます、殿下。ですが、わたくしは一人で大丈夫です」

 礼をして、そのまま歩き出す。
 背中に突き刺さる視線は痛いほど感じた。けれど振り返らない。

 もう期待しない。
 優しさを見せられるたびに心を動かして、最後に捨てられるのは、もう十分だった。

 始業式の会場へ向かう大理石の回廊は、春の光で明るかった。
 高い窓から差し込む光の筋の中で、細かな埃が金色に浮いている。床は磨き抜かれており、歩くたび自分の靴音が涼しく反響した。壁際にはまだ肌寒さを追い払うためか、小さな炭火鉢が置かれ、ほのかに熱と炭の匂いを漂わせている。

 その角を曲がったときだった。

「きゃ……っ」

 細い悲鳴。
 すぐ近く、階段の上からだった。

 セラフィーナは反射的に顔を上げた。
 見えたのは、バランスを崩して身体を傾ける少女の姿。栗色の髪。若葉色の瞳。抱えた書類が宙に散る。

 リディア・エヴァンズ。

 前世では、ここで自分が彼女を突き飛ばしたことになっていた。
 実際には違う。すれ違う寸前、後ろから誰かが彼女の肩にぶつかったのだ。だがタイミングが悪すぎた。階段の下にいた自分の目の前でリディアが倒れ、周囲から見れば、まるで自分が手を出したようにしか見えなかった。

 そのあと、レオンハルトが駆け寄り、リディアを抱き起こし、自分は冷たい視線の中に取り残された。
 それが最初の、決定的なひびだった。

 身体が先に動いた。

 セラフィーナは階段を駆け上がり、倒れ込んでくるリディアの身体を腕の中へ受け止めた。
 勢いのまま二、三段ぶん足を滑らせる。ヒールが石段を鳴らし、強い衝撃が膝を打つ。
 だが少女を落とさないよう、腕に力を込めた。

 リディアは驚くほど軽く、細かった。
 ふわりと花の石鹸の匂いがする。驚きで強ばった身体が、彼女の胸元に小刻みに震えているのがわかった。

「……大丈夫?」

 セラフィーナが低く問いかけると、リディアは目を丸くしたまま、唇を震わせた。

「え、あ……は、はい……っ」

 散らばった書類が、階段にひらひらと落ちている。周囲の生徒たちがざわつき始めた。
 その中に、刺すような視線が一本混じる。

 振り向かなくてもわかった。
 カイル・ローヴェンだ。

 近衛騎士の黒髪の男は、階段下からこちらを見上げていた。灰色の瞳はいつも通り冷静だったが、その奥に明らかな警戒がある。前世の彼は、この場面で完全に自分を敵認定した。

 セラフィーナは、腕の中のリディアをゆっくり立たせた。
 リディアはまだ手が震えている。書類を拾おうとして、指先がうまく動かない。

「拾わなくていいわ。後で整えればいい」

「あ、でも……」

「手が震えているでしょう」

 自分でも驚くほど、声は静かだった。
 リディアの若葉色の瞳が、まっすぐこちらを見上げる。怖がっているというより、困惑している顔だった。

 そりゃそうだ、とセラフィーナは思う。
 前世ではこの時点で、彼女はすでに自分を“怖い婚約者様”として認識していたのだから。

「どこか痛めた?」

「いえ、その……少し、驚いて……」

「ならよかった」

 セラフィーナは彼女の肩越しに周囲を見た。
 生徒たちはざわついているが、先ほどのような決めつけの空気はまだない。
 ならば、先に手を打つ。

「いま、後ろから押されたのを見たわ。あなたのせいではない。あとで教員に伝えなさい」

 その言葉に、何人かの顔色が変わった。
 リディア自身もはっとして振り返る。
 犯人はもう見えない。だが、前世と同じなら、偶然を装った誰かの悪意だ。

「わたくしも証言します」

 さらに言葉を重ねたとき、階段の下から靴音が近づいてきた。
 レオンハルトとカイルだった。

「リディア、怪我は」

 王太子の声に、リディアがびくりと肩を揺らす。
 セラフィーナは一歩引いた。前世の自分は、この瞬間に言い訳ひとつできず、ただ睨まれるまま立ち尽くしていた。

 だが今日は違う。

「殿下」

 レオンハルトが顔を上げる。

「エヴァンズ令嬢が足を滑らせたのではありません。誰かが後ろからぶつかったのです。わたくしが見ました」

 沈黙が落ちた。

 カイルの眉がぴくりと動く。
 レオンハルトは驚いたように瞬きし、それからリディアへ視線を向けた。

「本当か」

「……はい。私、うしろから少し、強く……」

 リディアはそう言ってから、はっとしたようにセラフィーナを見た。
 その視線の意味はわかった。
 どうしてあなたが、わたしを庇うのですか。
 そう問いたげな目だった。

 セラフィーナは答えない。
 答えるつもりもない。

「とにかく、医務室へ」

 レオンハルトがリディアに手を差し伸べる。
 リディアは小さく頷き、その手を取った。

 その光景を見た瞬間、胸の奥に鋭い何かが走った。
 前世の記憶が勝手に反応したのだろう。
 けれどそれを表に出すことはなかった。
 歯を食いしばることも、指先を強く握ることもせず、ただまっすぐ立つ。

 愛さない。
 期待しない。
 そのたび、自分に言い聞かせる。

 レオンハルトは一度だけセラフィーナを見た。
 言いたいことがあるような、何を言うべきかわからないような、ひどく曖昧な目だった。

「……ありがとう、セラフィーナ」

 その一言に、セラフィーナはほとんど反射で答えた。

「当然のことをしただけです」

 それから礼をし、踵を返した。
 背中に落ちる三人分の視線は、どれも前世とは違う重さを持っていた。

 始業式のあと、セラフィーナは頭痛に耐えながら自室へ戻った。
 教室に満ちる話し声、椅子のきしみ、紙をめくる音、教師の抑揚のある声。そうしたすべてが今日はやけに大きく響き、処刑台のざわめきと混ざって時折耳の奥を刺した。

 けれど午後の茶会授業までは休めない。
 前世の事件の一つが、そこで起きるからだ。

 学園の茶会室は、南棟の陽だまりにあった。
 磨かれた長机の上には、白いクロス、銀のティーセット、焼き菓子の載った皿。窓辺には鉢植えのミントが置かれ、葉を揺らすたび爽やかな香りが立つ。
 女子生徒たちの笑い声は上澄みだけが甘く、底にはいつでも比べ合いが沈んでいる。

 セラフィーナが席につくと、周囲の空気が少し張った。
 彼女の隣にいたのは、緊張で肩を強ばらせた下級侍女見習いの少女だった。茶会授業では身分の高い令嬢につく侍女役を、生徒同士で補助する決まりがある。
 彼女の名前を、セラフィーナは覚えていた。エマ。前世で“セラフィーナに熱い紅茶をかけられて泣かされた侍女”という噂の中心にいた子だ。

 実際には逆だった。
 彼女が緊張で手を滑らせ、セラフィーナのドレスと腕に熱い紅茶をこぼした。自分は彼女が怯えて泣き出すのを恐れて咄嗟に「騒がないで」とだけ言った。
 その言葉が、高慢な恫喝として広まった。

 いま思えば、最悪の言い方だ。
 自分はいつもそうだった。

 エマの指先はすでに震えていた。ポットを持つ手に力が入りすぎ、白い指が取っ手に食い込んでいる。

「落ち着いて」

 セラフィーナは小さく言った。

 少女がびくりとする。

「ゆっくりでいいわ」

「は、はい……っ」

 けれど震えは収まらない。
 熱湯の入ったポットが傾く。次の瞬間、琥珀色の茶が弧を描き、セラフィーナの腕と膝に一気に降りかかった。

 鋭い熱だった。

 薄い手袋越しでもわかる。
 皮膚が瞬時に焼けるような感覚。
 白いドレスに茶色い染みが広がり、湯気がふわりと立つ。エマの顔から血の気が引き、ポットが床に落ちて甲高い音を立てた。

「ご、ごめんなさい、ごめんなさいっ」

 少女は真っ青になっていた。
 今にも泣き崩れそうな顔。周囲の令嬢たちがざわめき始める。甘い菓子の匂いに混じって、熱い茶葉の苦い香りが立ちのぼる。

 痛い。
 じくじくと、腕の内側が焼けている。
 けれどここで表情を変えれば、またすべてが同じになる。

 セラフィーナは椅子から立ち上がった。
 椅子の脚が床を擦る低い音が響く。

「……騒がないで」

 前世と同じ言葉を、今度は少しだけ違う息遣いで言う。

 エマの肩が跳ねる。

 セラフィーナは続けた。

「叱っているのではないわ。火傷の手当てを先にするから、泣く前に水を持ってきて」

 少女は呆然と目を見開いた。
 その顔を見て、セラフィーナは胸の奥がわずかに軋むのを感じた。
 この子もまた、自分に怯えていたのだ。前世でも、今も。

「早く」

「は、はいっ」

 エマは転びそうになりながら走っていく。
 周囲はまだ静まりきっていない。熱い視線がいくつも突き刺さる。好奇心、意地悪な期待、そして観察。
 その中に、またあの灰色の目があった。

 扉口に立つカイル・ローヴェン。
 おそらく王太子の迎えか何かで近くを通りかかったのだろう。彼は茶会室の異変に気づき、足を止めていた。

 セラフィーナは一瞬だけ彼と視線を合わせた。
 彼の目には警戒があった。だがそこに、前世とは違うほんの小さなためらいが混じっている。

 見たのだろう。
 自分が怒鳴らなかったことを。
 エマを責めなかったことを。

 その事実だけで十分だった。

 水が運ばれ、冷えた布が腕に当てられる。
 じん、と熱が引く代わり、遅れて鋭い痛みが浮いてくる。セラフィーナは息を浅くした。痛みで呼吸がぶれそうになるのを、どうにか整える。

「申し訳ありません……本当に……」

 泣きながら戻ってきたエマに、セラフィーナは首を横に振った。

「謝罪はあとでいいわ。手順を覚えなさい。こぼしたときはまず火傷の処置。次に床の片づけ。自分の失敗で頭が真っ白になるのはわかるけれど、それでは次も同じことをする」

 声は淡々としていた。
 だが少女の瞳は、ますます涙で濡れた。

「……はい」

「今回はわたくしが受けたからまだよかったの。小さな子どもや高齢の方なら、もっと重い火傷になる。だから、二度と同じことをしないで」

 叱責ではなく、指導。
 それを理解したのか、エマはしゃくりあげながら深く頭を下げた。

「ありがとうございます……」

 その言葉が零れた瞬間、茶会室の空気が少しだけ変わった。

 前世であれば、ここで「やはり公爵令嬢は侍女を泣かせた」と話が広がっていった。
 だが今日は違う。
 見ていた者たちの顔には、少なくとも単純な断罪だけではない色が浮かんでいる。

 セラフィーナはそれ以上何も言わず、痛む腕を押さえたまま席を外した。

 夕方、学園の書庫は静かだった。
 石造りの壁が昼の熱を失い、空気には少しだけ冷えが戻っている。高窓から差し込む西日の残照が、長い本棚の間に斜めの帯を落としていた。革張りの装丁からは乾いた紙と古い糊の匂いが漂い、ページをめくる小さな音だけが遠くに響く。

 火傷の薬をもらった帰り、セラフィーナは無意識にここへ足を向けていた。
 静かな場所が欲しかった。
 誰の視線もなく、誰の善意も悪意も届かない場所が。

 書庫の奥まった一角に、人影があった。

 青みのある銀髪。白い指。薄い横顔。
 ノエル・アシュクロフトが、窓辺の机で本を読んでいた。

 前世で“毒を盛られた被害者”とされた青年。
 実際には、生まれつき身体が弱いだけの、気難しい本好きだ。
 彼は本から視線を上げると、やや警戒するように目を細めた。

「……珍しいですね、公爵令嬢がこんな時間に」

「あなたこそ」

「僕はいつもいます」

 それはそうだろう、とセラフィーナは思った。
 ノエルは社交界より書庫を愛している。
 前世でもそうだった。だからこそ、茶会の席で出された菓子に添えられたソース一つで具合を悪くし、そこに“毒”という噂が重なったのだ。

 セラフィーナは少しだけ逡巡し、それから彼の向かいの席へ静かに腰を下ろした。
 椅子がかすかに鳴る。

 ノエルは本を閉じない。だが完全に無視もしていない。その中途半端な距離が彼らしい。

「腕」

 不意に、彼が言った。

「火傷しましたか」

 セラフィーナは目を瞬いた。
 薬布を巻いた腕をそっと隠すように引く。

「少しだけよ」

「少し、にしては顔色が悪い」

「今日は皆、それを言うのね」

「皆が言うなら本当に悪いんでしょう」

 皮肉とも心配ともつかない口調だった。
 前世のノエルは、こういうとき決して自分へ声をかけなかった。いや、かけられなかったのかもしれない。周囲の空気が、自分を“近づいてはいけない相手”にしていたから。

 セラフィーナは書架の背表紙を見つめながら、小さく息を吐いた。

「……静かな場所にいたかっただけ」

「ここは静かですよ」

「ええ」

「あなたがいると、たいてい静かではなくなりますが」

 棘のある言い方に、セラフィーナはほんの少しだけ口元を緩めた。
 笑うつもりはなかったのに、かすかに、自然に。

 ノエルがその変化を見て、目を見開く。
 薄い水色の瞳が、まるで珍しいものを見るみたいに揺れた。

「……いま、笑いましたか」

「失礼ね。わたくしだって笑うわ」

「初耳です」

「なら今日知ったのでしょう」

 言い返してから、セラフィーナは自分で少し驚いた。
 軽口だ。こんなふうに誰かと言葉を交わしたのは、いつ以来だろう。

 書庫の窓から風が入り、ページの端を揺らした。
 外では夕暮れの鐘が遠く鳴っている。金属質の音が、冷え始めた空気を震わせる。

 ノエルはしばらく彼女を見ていたが、やがて机の端に置いてあった小瓶を滑らせて寄越した。

「火傷に効く軟膏です。薬室で出るものより刺激が少ない。匂いもましです」

 硝子瓶の中には、薄緑色の軟膏が入っていた。蓋を少し開けると、ミントと薬草の涼やかな香りが立つ。

「……ありがとう」

「礼を言われるほどでは。あとで具合が悪くなられても、うるさいですから」

「それは親切の言い方としてずいぶん損をしているわ」

「あなたにだけは言われたくありません」

 その一言に、胸の奥がふっと沈んだ。
 図星だった。

 セラフィーナは瓶を見つめたまま、しばらく黙った。
 愛さないと決めた。関わらないと決めた。なのに今日一日だけで、いくつも予定外のことが起きている。
 リディアを抱き止めた。
 エマを叱らなかった。
 ノエルから軟膏を受け取っている。

 また誰かに期待してしまうのではないか。
 また、少しずつ心を削って差し出して、最後に踏みにじられるのではないか。
 そんな恐れが胸の内側で、じくじくと疼いていた。

 ノエルが本を閉じた。
 静かな音だった。

「公爵令嬢」

「なに」

「あなた、今日……少し変です」

 まっすぐだった。
 飾りのない言い方。

 セラフィーナは窓の外を見た。夕焼けの名残が石畳を薄く染めている。
 変だ。そうだろう。処刑されて戻ってきた人間が、昨日までと同じ顔をしていられるはずがない。

「そうかもしれないわ」

「理由は」

「言ったところで、信じないでしょう」

「内容によります」

「わたくしが一度死んだから、だと言ったら?」

 冗談めかして言ったつもりだった。
 だが声は自分でも驚くほど乾いていた。

 ノエルは笑わなかった。
 ただじっと彼女を見る。人の表情を読むことに慣れていないようでいて、こういうときだけ妙に鋭い。

「……笑えない顔で、そういうことを言わないでください」

 低い声だった。
 それは心配に近かった。

 セラフィーナは目を伏せた。
 瓶を持つ指先に少しだけ力が入る。

「ごめんなさい」

「謝るのですね」

「今日のわたくしは、ずいぶん変でしょう」

「ええ。かなり」

 その断言が、少しだけおかしかった。
 喉の奥で、かすかに息が揺れる。

「でも」

 ノエルは言葉を継いだ。

「前より、話しやすいです」

 その言葉は、刃ではなく布のように落ちてきた。
 やわらかくて、なのにまともに受けると痛い。

 セラフィーナは答えられなかった。
 話しやすい。そんなことを、言われたことがなかったから。

 書庫の外から、生徒たちの帰り支度の音が遠く聞こえてくる。笑い声。廊下を走る足音。扉の開閉。
 生きている人たちの、当たり前の夕暮れの音だ。

 その中で、セラフィーナだけがひどく取り残されている気がした。
 冬の処刑台から、まだ完全には戻れていない。

「……誰も愛さないつもりだったのに」

 気づけば、声が零れていた。
 自分でも驚くほど小さく、掠れた独り言。

 ノエルが目を細める。

「何か言いましたか」

「いいえ」

 すぐに打ち消す。
 これ以上はだめだ。言葉にすれば、決意の薄い膜が破れてしまう。

 セラフィーナは立ち上がった。椅子が静かに鳴る。

「軟膏、借りていくわ」

「返さなくていいです」

「では、今度なにかで返す」

「そういう律儀なところも、今日は変ですね」

「あなた、今日はそればかりね」

「本当に変ですから」

 淡々としたやり取りのはずなのに、そこには前世にはなかった温度があった。
 それが怖い。
 怖いのに、胸のどこかがひどく静かに緩んでしまう。

 書庫を出る前に、セラフィーナは一度だけ振り返った。
 窓辺に座るノエルは、夕暮れの金と青の境目にいた。白い指先で本の角を撫でながら、それでも視線だけは彼女を追っている。

「アシュクロフト」

「なんです」

「……今日は、少しだけ静かでいられたわ」

 言ってから、セラフィーナは自分の頬がわずかに熱を持つのを感じた。
 こんな曖昧な礼しか言えない。やはり自分は不器用だ。

 だがノエルは、少し遅れて目を伏せた。

「それは、どうも」

 彼の耳が、わずかに赤かった。

 書庫を出て、長い回廊を歩く。
 窓の外では夕焼けが完全に沈み、春の空に青い夜が落ち始めていた。
 石壁は昼より冷たく、そこを流れる空気はもう夜の匂いを含んでいる。

 今日だけで、すべてが変わったわけではない。
 レオンハルトはまだ自分を理解していない。
 カイルの警戒も完全には解けていない。
 リディアは困惑していた。
 噂も、悪意も、これからまだいくつもやってくる。

 それでも。

 階段で自分を見上げた若葉色の瞳。
 泣きながら礼を言った侍女。
 火傷の軟膏を差し出した白い指。
 そして、朝より少しだけ変わった王太子の視線。

 前世では、どこにもなかったはずの小さな違いが、確かにいま生まれている。

 セラフィーナは立ち止まり、窓に手をついた。
 ガラスはひんやりとしている。あの処刑台の木ほど冷たくはない。
 遠く、中庭の噴水が夜の色を吸いながら音を立てていた。

「……愛さない」

 自分に言い聞かせるように、そっと呟く。

 けれどその声は、朝ほど硬くなかった。

 愛さない。
 期待しない。
 静かに暮らす。
 そう決めたはずなのに、胸の奥のどこかで、冷えきった灰の下に小さな熱が残っている。

 それが希望なのか。
 それともまた自分を焼く火種なのか。
 いまの彼女には、まだわからなかった。

 ただ、春の夜の匂いだけが、静かに肺へ満ちていった。

 そのころ、学園正門へ向かう馬車寄せで、レオンハルトは無言のまま立っていた。
 春の夕風が金髪を揺らし、彼の青い瞳は校舎のほうを見ている。

「殿下」

 背後から声をかけたのは、カイル・ローヴェンだった。
 近衛騎士は一礼し、主の横顔を窺う。レオンハルトは返事の代わりに、低く息を吐いた。

「……今日のセラフィーナをどう思う」

 唐突な問いだった。
 だがカイルは少し考え、慎重に答える。

「今までとは違う印象を受けました」

「違う、か」

「はい」

 灰色の瞳が、夕闇へ沈みかけた校舎を見上げる。

「少なくとも、エヴァンズ令嬢の件も、侍女見習いの件も、噂で聞いていたような振る舞いではありませんでした」

 レオンハルトは沈黙した。
 白い手袋の指先が、ほんの少しだけ強く曲がる。

「……私は、何を見ていたんだろうな」

 それは誰に聞かせるでもない呟きだった。
 だが春の夜気は、その言葉を確かに運んだ。

 そして中庭の別の一角では、リディア・エヴァンズが胸元に手を当てたまま空を見ていた。
 栗色の髪を揺らす風は柔らかい。けれど彼女の心臓は、まだ階段で抱き止められたときのまま落ち着かない。

「怖い人、だと思っていたのに……」

 指先に残るのは、あの公爵令嬢の腕の感触。
 細いのに、驚くほど力強かった。
 香水ではなく、清潔な布と淡い花の匂いがした。
 目の前で見た紫の瞳は冷たくなく、むしろどこか痛そうだった。

 リディアは唇を噛む。

「どうして、あんな顔をしていたの」

 誰に問うでもない声は、夜風にほどけて消えた。

 そのさらに奥、書庫の窓辺では、ノエルが閉じた本の上に指を置いたまま、しばらく動かなかった。
 机の端には、さきほどまでそこにあった小瓶の空いた場所がある。

「前より、話しやすい……か」

 自分で言ったくせに、その言葉を反芻して、彼は目を伏せた。
 あの公爵令嬢は、あんなふうに礼を言う人だっただろうか。
 あんなふうに、壊れそうな目で笑う人だっただろうか。

 わからない。
 今まで、自分もまた噂の向こう側を見ようとはしてこなかったから。

 夜の帳が、静かに学園へ降りていく。

 そしてセラフィーナ・エーデルベルクの二度目の春は、誰にも気づかれないまま、確かに動き始めていた。
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