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第一話 処刑台の朝
首に触れた刃は、思っていたよりもずっと冷たかった。
冬の朝だった。
曇った空は低く、重たく垂れこめ、広場に集まった群衆の吐く息は白かった。人の数だけ生まれるざわめきが、濡れた布を裂くように耳の奥で揺れ続けていた。
セラフィーナ・エーデルベルクは、断頭台の上に立っていた。
風が吹くたび、銀の髪が頬に貼りつく。鎖で拘束された両手首は擦りむけ、皮膚の薄いところが破れている。鉄の匂いと、自分の血のわずかな生臭さが鼻の奥にこびりついていた。
首の後ろに立つ処刑人の気配は重い。見なくてもわかる。巨大な影が背後にあるだけで、肩甲骨の間が冷えて、息を吸うたび肺の内側が小さく縮む。
広場の前方に、彼がいた。
第一王子にして王太子、レオンハルト・ヴァルツェイン。
蜂蜜色の金髪は、今日も曇天の下で淡く光っていた。青い瞳は正面を向き、まっすぐにこちらを見ている。その顔は整いすぎていて、どこまでも美しく、どこまでも遠かった。
その隣には、栗色の髪を揺らす少女がいる。リディア・エヴァンズ。小柄で、愛らしく、誰からも守ってあげたいと思われるような雰囲気をまとう少女。彼女は不安げに唇を噛み、王太子の袖を指先でそっとつまんでいた。
ああ、とセラフィーナは思った。
綺麗だ。
自分が積み上げてきた三年間が、いま目の前で簡単に否定されていく光景は、皮肉なくらいよく整っていた。
悪女と呼ばれた婚約者。善良な王太子。傷つけられた可憐な少女。毒を盛られたとされる繊細な魔術師。冷酷な振る舞いを目撃した騎士。泣いた侍女たち。噂を愛した貴族たち。
すべての役者が、最も美しく見える配置に並んでいる。
その中心に、自分だけが醜い。
「セラフィーナ・エーデルベルク」
宣告を読み上げる声が、冷たい空気に乗って響く。
「王太子殿下の婚約者でありながら、その立場を悪用し、幾度となくエヴァンズ令嬢に嫌がらせを行い、宮廷魔術師見習いノエル・アシュクロフトに毒を盛り、侍女に対しても苛烈な折檻を加えた罪により、死罪に処す」
広場が沸いた。
どよめき。歓声。侮蔑。安堵。
ひどく遠いところで鳴る波の音みたいに、それらは耳に入っては消えていった。
毒なんて盛っていない。
リディアを階段で突き飛ばしてもいない。
侍女を打ったことなど、一度もない。
言えなかっただけだ。
毎回、違うと言うタイミングを逃しただけ。
説明するより先に話が決まり、助けを求めるより先に自分の表情が誤解され、何か言えば言うほど状況が悪くなる気がして、黙ったまま、ただ背筋だけを伸ばして立っていた。
黙っていれば、そのうちわかってもらえると思った。
見ていてくれる人が一人くらいはいると、どこかで甘く考えていた。
いなかった。
誰もいなかった。
レオンハルトが一歩前へ出た。彼の纏う外套の裾が風に揺れる。白い手袋をはめた指が、わずかに強く握られているのが見えた。
「何か、最後に言い残すことはあるか」
彼の声はひどく静かだった。
怒っているわけでもない。嘲っているわけでもない。
ただ、最後の情けとして機会を与えているだけの声音。
セラフィーナは彼を見た。
幼いころから知っていた。
はじめて手を取った日のことも覚えている。白い庭園で、薔薇の棘に触れてしまった自分の指を、彼が眉を寄せて見つめたことも。
熱を出して寝込んだ夜、見舞いに来た彼が、退屈しのぎにと読み聞かせてくれた物語の結末も覚えている。
彼は昔から正しい人だった。誰にでも優しく、強く、まっすぐで、だからこそ、その正しさからこぼれ落ちるものにあまりに無自覚だった。
言い返したい言葉はたくさんあった。
違います。
わたくしはしていません。
どうして一度も聞いてくださらなかったのですか。
どうして、わたくしが泣かないからといって、傷ついていないと思ったのですか。
けれど喉は乾ききっていて、舌は上顎に貼りついていた。
人前で声を震わせることを恥だと教え込まれた身体は、こんな最後の最後まで、上手に壊れてはくれなかった。
セラフィーナは唇を開いた。
吐き出した声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
「……ありません」
広場の空気がざわりと揺れた。
最後まで高慢だ、とでも思われたのだろう。
レオンハルトの瞳がわずかに揺れた。ほんの一瞬だけ。すぐにそれは消えた。
彼は何も言わなかった。
それで終わりだった。
処刑人が肩に手を置く。分厚い革手袋の感触はひどく硬く、重い。膝をつかせられ、首を台に乗せる。
木の表面は冷え切っていた。頬に触れたその温度に、セラフィーナはなぜだか幼いころの窓辺を思い出した。冬の朝、凍えたガラスに額を寄せたこと。息を吹きかけると白く曇ったこと。遠くで母が、背筋を伸ばしなさいと静かに叱ったこと。
ああ、と彼女は思う。
結局。
最後まで、誰にも愛されなかった。
その瞬間だった。
刃が落ちる音より先に、耳の奥で何かが裂けた。
視界が白く弾ける。
冷たさ。痛み。闇。
そして。
目を開けたとき、天蓋の内側が見えた。
白かった。
繊細な刺繍の蔓草模様。見慣れた寝台の天蓋。薄い朝の光を透かすレースのカーテン。外では小鳥が鳴き、窓の向こうから春先のやわらかな風が流れ込んでくる。花の匂いがした。切りたての水仙と、洗いたてのリネンの匂い。
セラフィーナは息を止めた。
喉がある。
恐る恐る自分の首に触れる。
皮膚はなめらかで、温かかった。傷も、血も、何もない。ただ、指先の下で脈が速く打っている。
彼女は勢いよく身を起こした。
その途端、胃の底から込み上げてきたものに耐えきれず、寝台の縁に手をついて吐いた。胃液の酸っぱい匂いが喉に焼きつき、涙がにじむ。肩が震えた。呼吸がうまくできない。吸っても吸っても空気が薄い。肺の内側が、いまも刃を覚えているみたいだった。
「お嬢様っ」
扉が開き、ミレイユが飛び込んできた。
赤みのある茶髪をきっちりと結い上げた侍女は、いつも通り機敏だったが、その琥珀色の目はいま驚きで大きく見開かれている。
「どうなさったのです、顔色が……っ、すぐに水を」
ミレイユの手が肩に触れる。
その瞬間、セラフィーナは思わずびくりと身体をこわばらせた。
前世で、ミレイユはいなかった。
もっと正確に言えば、いたはずなのに、最期の記憶の中で彼女の姿だけがない。自分を守ろうとしてくれたのか、距離を置いたのか、何もわからない。ただ、断頭台の上から見た景色のどこにも、彼女はいなかった。
その不在が、ひどく怖かった。
「……お嬢様?」
ミレイユの手つきがそっと慎重になる。
セラフィーナは喉を押さえたまま、かすれた声で尋ねた。
「今日、は……」
「三月十二日でございます。王立学園の始業式の日ですわ」
三月十二日。
その言葉に、背中がぞくりと冷えた。
処刑の日から、ちょうど三年前。
すべてが始まった春だ。
窓の外では、噴水の水音が涼やかに響いていた。
あんなに穏やかな朝なのに、セラフィーナの身体は震えが止まらない。
「鏡を」
「はい?」
「鏡を持ってきて」
ミレイユがすぐに卓上鏡を差し出す。
映った顔は、十七歳の自分だった。まだ処刑台に連れていかれる前の、若い輪郭。頬は少しだけ丸みを残し、目元には疲労の影もない。薄紫の瞳は大きく、けれどいまはひどく怯えて揺れていた。
悪女と呼ばれる未来をまだ知らないはずの顔。
なのにその目の奥にだけ、断頭台の冬が沈んでいる。
セラフィーナは鏡を伏せた。
吐き気は少しずつ引いていく。代わりに、冷えきった理性が戻ってきた。
三年前に戻った。
そうとしか考えられない。
ならば、処刑までの道筋もすべて知っている。
リディアと初めて深く関わるのは学園の歓迎式典。
ノエルが体調を崩し、「毒を盛られた」と噂が立つのは初夏。
カイル・ローヴェンが自分を見る目をさらに険しくするのは、侍女の失敗を誤解したあの日。
レオンハルトが自分から決定的に心を離すのは、真夏の夜会での一件。
避ければいい。
最初から全部、避ければいい。
誰とも深く関わらない。
誰にも期待しない。
誰も愛さない。
もう二度と、理解されることを願わない。
その決意は、ひどく乾いていた。
絶望の残り火を、薄い氷で静かに覆うみたいな決意だった。
「……ミレイユ」
「はい」
「支度を。学園へ行くわ」
侍女はほっとしたように息を吐いた。
だがその顔にはまだ不安が残っている。
「本当に大丈夫でございますか。少しお休みになったほうが」
「いいえ」
セラフィーナはもう一度、自分の喉に触れた。
温かい。生きている。ならば、立たなくてはならない。
「今日は、休んではいけない日よ」
学園への馬車は、いつもより妙に静かに感じられた。
車輪が石畳を刻む振動が、座席越しに細かく伝わってくる。窓の外には春の王都が流れていた。花売りの少女、朝のパンを運ぶ少年、店先で果物を並べる商人。焼きたてのパンの甘い香りが、通りすがりにふっと車内へ入り込んでくる。
前世でも見ていたはずの景色なのに、今日のセラフィーナには、どれも遠かった。ガラス一枚ではなく、深い水の底から眺めているように現実味がない。
「お嬢様、顔色が戻りませんね」
向かいに座るミレイユが、膝の上で手を組みながら小さく言う。
「学園に着くころには整えるわ」
「整える、で済ませていいお顔ではありません」
その言葉に、セラフィーナはかすかに目を上げた。
ミレイユは昔から遠慮がない。そこがありがたくもあり、時に痛い。けれど、その率直さを鬱陶しいと思ったことは一度もなかった。むしろ、言葉を飲み込み続ける自分には眩しいくらいだ。
「……少し、悪い夢を見ただけよ」
「では今夜は温かいミルクをお持ちします。夢の内容までは追い出せませんが、眠りは多少ましになります」
淡々とした声なのに、気遣いがにじむ。
セラフィーナは返事をしようとして、少しだけ迷った。前世の自分なら「余計な心配をしなくていいわ」と切っていたかもしれない。正確には、そう聞こえる言い方をしてしまったはずだ。
相手に向ける言葉の角度を、いつも誤る。
それが自分だ。
彼女は視線を窓の外へ戻しながら、短く言った。
「……ありがとう」
ミレイユが目を丸くした気配がした。
それだけで、胸の奥がひどく痛んだ。
たった一言で驚かれるのだ。
前世の自分は、どれほど感謝を口にしてこなかったのだろう。
王立学園は丘の上に建っていた。
白亜の校舎は春の光を受けてやわらかく輝き、尖塔の先には王家の紋章旗がはためいている。石造りの大階段を上る生徒たちの靴音、笑い声、ひそひそと噂を交わす声。風に乗って制服の布がこすれる乾いた音があちこちで鳴っていた。
馬車が止まると、すでに何人もの視線がこちらへ向けられた。
公爵令嬢、王太子の婚約者、氷の公女。
自分に向けられる視線の意味を、セラフィーナはよく知っている。
畏れ。羨望。遠巻きの好奇。
そして少しの、悪意を待つ期待。
彼女は馬車を降りた。
地面に足をつけた瞬間、春の外気がスカートの裾を揺らす。今日の風は温かい。なのに、骨の髄だけがまだ冬に置き去りになっているみたいだった。
校舎前の広場には、王太子レオンハルトがすでに到着していた。周囲を側近や取り巻きが囲んでいる。青い瞳がこちらをとらえた瞬間、彼は自然な足取りで近づいてきた。
「おはよう、セラフィーナ」
昔から変わらない、よく通る声。
彼は微笑んでいた。その笑みは上品で、誰の前でも完璧だ。
前世の自分は、この笑みにほんの少しだけ救われていた。
彼が自分に微笑む限り、きっと完全に嫌われてはいないのだと、そう思いたかった。
けれどその先に待っていたのは断頭台だった。
セラフィーナは一歩ぶんだけ距離を守り、礼をした。
「おはようございます、殿下」
それだけ言って、視線を上げずに身を引く。
空気が、ほんの少しだけ止まった。
レオンハルトの気配がわずかに揺れる。
彼にしてみれば不自然だっただろう。これまでのセラフィーナは、王太子の婚約者として一歩引きつつも、常に彼の隣に立つことを当然としていた。近くにいることを、誰よりも自分自身に求めていた。
それが今日は、自分から離れた。
「……何かあったのか」
低く落ちた声に、セラフィーナは胸の奥がひやりとするのを感じた。
この声色も知っている。彼が違和感を覚えたときの声だ。
「いいえ」
「体調が悪いように見える」
「少し寝不足なだけです。始業式には支障ありません」
言葉は整っていた。
感情を差し込まない。柔らかさも、縋る気配も混ぜない。
ただ事務的に、曇りなく。
レオンハルトは眉を寄せた。
ほんのわずかな変化だったが、昔から彼を見てきたセラフィーナには、それだけで十分だった。
「送ろう」
「必要ございません」
思ったよりも早く言葉が出た。
自分でも驚くほど、はっきりと。
周囲の生徒たちが息を呑む気配がした。
王太子の申し出を、婚約者が断る。それだけでも珍しいのだろう。
レオンハルトの青い瞳に、かすかな困惑が浮かぶ。
けれどセラフィーナはそれを見ないことにした。
「お気遣いありがとうございます、殿下。ですが、わたくしは一人で大丈夫です」
礼をして、そのまま歩き出す。
背中に突き刺さる視線は痛いほど感じた。けれど振り返らない。
もう期待しない。
優しさを見せられるたびに心を動かして、最後に捨てられるのは、もう十分だった。
始業式の会場へ向かう大理石の回廊は、春の光で明るかった。
高い窓から差し込む光の筋の中で、細かな埃が金色に浮いている。床は磨き抜かれており、歩くたび自分の靴音が涼しく反響した。壁際にはまだ肌寒さを追い払うためか、小さな炭火鉢が置かれ、ほのかに熱と炭の匂いを漂わせている。
その角を曲がったときだった。
「きゃ……っ」
細い悲鳴。
すぐ近く、階段の上からだった。
セラフィーナは反射的に顔を上げた。
見えたのは、バランスを崩して身体を傾ける少女の姿。栗色の髪。若葉色の瞳。抱えた書類が宙に散る。
リディア・エヴァンズ。
前世では、ここで自分が彼女を突き飛ばしたことになっていた。
実際には違う。すれ違う寸前、後ろから誰かが彼女の肩にぶつかったのだ。だがタイミングが悪すぎた。階段の下にいた自分の目の前でリディアが倒れ、周囲から見れば、まるで自分が手を出したようにしか見えなかった。
そのあと、レオンハルトが駆け寄り、リディアを抱き起こし、自分は冷たい視線の中に取り残された。
それが最初の、決定的なひびだった。
身体が先に動いた。
セラフィーナは階段を駆け上がり、倒れ込んでくるリディアの身体を腕の中へ受け止めた。
勢いのまま二、三段ぶん足を滑らせる。ヒールが石段を鳴らし、強い衝撃が膝を打つ。
だが少女を落とさないよう、腕に力を込めた。
リディアは驚くほど軽く、細かった。
ふわりと花の石鹸の匂いがする。驚きで強ばった身体が、彼女の胸元に小刻みに震えているのがわかった。
「……大丈夫?」
セラフィーナが低く問いかけると、リディアは目を丸くしたまま、唇を震わせた。
「え、あ……は、はい……っ」
散らばった書類が、階段にひらひらと落ちている。周囲の生徒たちがざわつき始めた。
その中に、刺すような視線が一本混じる。
振り向かなくてもわかった。
カイル・ローヴェンだ。
近衛騎士の黒髪の男は、階段下からこちらを見上げていた。灰色の瞳はいつも通り冷静だったが、その奥に明らかな警戒がある。前世の彼は、この場面で完全に自分を敵認定した。
セラフィーナは、腕の中のリディアをゆっくり立たせた。
リディアはまだ手が震えている。書類を拾おうとして、指先がうまく動かない。
「拾わなくていいわ。後で整えればいい」
「あ、でも……」
「手が震えているでしょう」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
リディアの若葉色の瞳が、まっすぐこちらを見上げる。怖がっているというより、困惑している顔だった。
そりゃそうだ、とセラフィーナは思う。
前世ではこの時点で、彼女はすでに自分を“怖い婚約者様”として認識していたのだから。
「どこか痛めた?」
「いえ、その……少し、驚いて……」
「ならよかった」
セラフィーナは彼女の肩越しに周囲を見た。
生徒たちはざわついているが、先ほどのような決めつけの空気はまだない。
ならば、先に手を打つ。
「いま、後ろから押されたのを見たわ。あなたのせいではない。あとで教員に伝えなさい」
その言葉に、何人かの顔色が変わった。
リディア自身もはっとして振り返る。
犯人はもう見えない。だが、前世と同じなら、偶然を装った誰かの悪意だ。
「わたくしも証言します」
さらに言葉を重ねたとき、階段の下から靴音が近づいてきた。
レオンハルトとカイルだった。
「リディア、怪我は」
王太子の声に、リディアがびくりと肩を揺らす。
セラフィーナは一歩引いた。前世の自分は、この瞬間に言い訳ひとつできず、ただ睨まれるまま立ち尽くしていた。
だが今日は違う。
「殿下」
レオンハルトが顔を上げる。
「エヴァンズ令嬢が足を滑らせたのではありません。誰かが後ろからぶつかったのです。わたくしが見ました」
沈黙が落ちた。
カイルの眉がぴくりと動く。
レオンハルトは驚いたように瞬きし、それからリディアへ視線を向けた。
「本当か」
「……はい。私、うしろから少し、強く……」
リディアはそう言ってから、はっとしたようにセラフィーナを見た。
その視線の意味はわかった。
どうしてあなたが、わたしを庇うのですか。
そう問いたげな目だった。
セラフィーナは答えない。
答えるつもりもない。
「とにかく、医務室へ」
レオンハルトがリディアに手を差し伸べる。
リディアは小さく頷き、その手を取った。
その光景を見た瞬間、胸の奥に鋭い何かが走った。
前世の記憶が勝手に反応したのだろう。
けれどそれを表に出すことはなかった。
歯を食いしばることも、指先を強く握ることもせず、ただまっすぐ立つ。
愛さない。
期待しない。
そのたび、自分に言い聞かせる。
レオンハルトは一度だけセラフィーナを見た。
言いたいことがあるような、何を言うべきかわからないような、ひどく曖昧な目だった。
「……ありがとう、セラフィーナ」
その一言に、セラフィーナはほとんど反射で答えた。
「当然のことをしただけです」
それから礼をし、踵を返した。
背中に落ちる三人分の視線は、どれも前世とは違う重さを持っていた。
始業式のあと、セラフィーナは頭痛に耐えながら自室へ戻った。
教室に満ちる話し声、椅子のきしみ、紙をめくる音、教師の抑揚のある声。そうしたすべてが今日はやけに大きく響き、処刑台のざわめきと混ざって時折耳の奥を刺した。
けれど午後の茶会授業までは休めない。
前世の事件の一つが、そこで起きるからだ。
学園の茶会室は、南棟の陽だまりにあった。
磨かれた長机の上には、白いクロス、銀のティーセット、焼き菓子の載った皿。窓辺には鉢植えのミントが置かれ、葉を揺らすたび爽やかな香りが立つ。
女子生徒たちの笑い声は上澄みだけが甘く、底にはいつでも比べ合いが沈んでいる。
セラフィーナが席につくと、周囲の空気が少し張った。
彼女の隣にいたのは、緊張で肩を強ばらせた下級侍女見習いの少女だった。茶会授業では身分の高い令嬢につく侍女役を、生徒同士で補助する決まりがある。
彼女の名前を、セラフィーナは覚えていた。エマ。前世で“セラフィーナに熱い紅茶をかけられて泣かされた侍女”という噂の中心にいた子だ。
実際には逆だった。
彼女が緊張で手を滑らせ、セラフィーナのドレスと腕に熱い紅茶をこぼした。自分は彼女が怯えて泣き出すのを恐れて咄嗟に「騒がないで」とだけ言った。
その言葉が、高慢な恫喝として広まった。
いま思えば、最悪の言い方だ。
自分はいつもそうだった。
エマの指先はすでに震えていた。ポットを持つ手に力が入りすぎ、白い指が取っ手に食い込んでいる。
「落ち着いて」
セラフィーナは小さく言った。
少女がびくりとする。
「ゆっくりでいいわ」
「は、はい……っ」
けれど震えは収まらない。
熱湯の入ったポットが傾く。次の瞬間、琥珀色の茶が弧を描き、セラフィーナの腕と膝に一気に降りかかった。
鋭い熱だった。
薄い手袋越しでもわかる。
皮膚が瞬時に焼けるような感覚。
白いドレスに茶色い染みが広がり、湯気がふわりと立つ。エマの顔から血の気が引き、ポットが床に落ちて甲高い音を立てた。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさいっ」
少女は真っ青になっていた。
今にも泣き崩れそうな顔。周囲の令嬢たちがざわめき始める。甘い菓子の匂いに混じって、熱い茶葉の苦い香りが立ちのぼる。
痛い。
じくじくと、腕の内側が焼けている。
けれどここで表情を変えれば、またすべてが同じになる。
セラフィーナは椅子から立ち上がった。
椅子の脚が床を擦る低い音が響く。
「……騒がないで」
前世と同じ言葉を、今度は少しだけ違う息遣いで言う。
エマの肩が跳ねる。
セラフィーナは続けた。
「叱っているのではないわ。火傷の手当てを先にするから、泣く前に水を持ってきて」
少女は呆然と目を見開いた。
その顔を見て、セラフィーナは胸の奥がわずかに軋むのを感じた。
この子もまた、自分に怯えていたのだ。前世でも、今も。
「早く」
「は、はいっ」
エマは転びそうになりながら走っていく。
周囲はまだ静まりきっていない。熱い視線がいくつも突き刺さる。好奇心、意地悪な期待、そして観察。
その中に、またあの灰色の目があった。
扉口に立つカイル・ローヴェン。
おそらく王太子の迎えか何かで近くを通りかかったのだろう。彼は茶会室の異変に気づき、足を止めていた。
セラフィーナは一瞬だけ彼と視線を合わせた。
彼の目には警戒があった。だがそこに、前世とは違うほんの小さなためらいが混じっている。
見たのだろう。
自分が怒鳴らなかったことを。
エマを責めなかったことを。
その事実だけで十分だった。
水が運ばれ、冷えた布が腕に当てられる。
じん、と熱が引く代わり、遅れて鋭い痛みが浮いてくる。セラフィーナは息を浅くした。痛みで呼吸がぶれそうになるのを、どうにか整える。
「申し訳ありません……本当に……」
泣きながら戻ってきたエマに、セラフィーナは首を横に振った。
「謝罪はあとでいいわ。手順を覚えなさい。こぼしたときはまず火傷の処置。次に床の片づけ。自分の失敗で頭が真っ白になるのはわかるけれど、それでは次も同じことをする」
声は淡々としていた。
だが少女の瞳は、ますます涙で濡れた。
「……はい」
「今回はわたくしが受けたからまだよかったの。小さな子どもや高齢の方なら、もっと重い火傷になる。だから、二度と同じことをしないで」
叱責ではなく、指導。
それを理解したのか、エマはしゃくりあげながら深く頭を下げた。
「ありがとうございます……」
その言葉が零れた瞬間、茶会室の空気が少しだけ変わった。
前世であれば、ここで「やはり公爵令嬢は侍女を泣かせた」と話が広がっていった。
だが今日は違う。
見ていた者たちの顔には、少なくとも単純な断罪だけではない色が浮かんでいる。
セラフィーナはそれ以上何も言わず、痛む腕を押さえたまま席を外した。
夕方、学園の書庫は静かだった。
石造りの壁が昼の熱を失い、空気には少しだけ冷えが戻っている。高窓から差し込む西日の残照が、長い本棚の間に斜めの帯を落としていた。革張りの装丁からは乾いた紙と古い糊の匂いが漂い、ページをめくる小さな音だけが遠くに響く。
火傷の薬をもらった帰り、セラフィーナは無意識にここへ足を向けていた。
静かな場所が欲しかった。
誰の視線もなく、誰の善意も悪意も届かない場所が。
書庫の奥まった一角に、人影があった。
青みのある銀髪。白い指。薄い横顔。
ノエル・アシュクロフトが、窓辺の机で本を読んでいた。
前世で“毒を盛られた被害者”とされた青年。
実際には、生まれつき身体が弱いだけの、気難しい本好きだ。
彼は本から視線を上げると、やや警戒するように目を細めた。
「……珍しいですね、公爵令嬢がこんな時間に」
「あなたこそ」
「僕はいつもいます」
それはそうだろう、とセラフィーナは思った。
ノエルは社交界より書庫を愛している。
前世でもそうだった。だからこそ、茶会の席で出された菓子に添えられたソース一つで具合を悪くし、そこに“毒”という噂が重なったのだ。
セラフィーナは少しだけ逡巡し、それから彼の向かいの席へ静かに腰を下ろした。
椅子がかすかに鳴る。
ノエルは本を閉じない。だが完全に無視もしていない。その中途半端な距離が彼らしい。
「腕」
不意に、彼が言った。
「火傷しましたか」
セラフィーナは目を瞬いた。
薬布を巻いた腕をそっと隠すように引く。
「少しだけよ」
「少し、にしては顔色が悪い」
「今日は皆、それを言うのね」
「皆が言うなら本当に悪いんでしょう」
皮肉とも心配ともつかない口調だった。
前世のノエルは、こういうとき決して自分へ声をかけなかった。いや、かけられなかったのかもしれない。周囲の空気が、自分を“近づいてはいけない相手”にしていたから。
セラフィーナは書架の背表紙を見つめながら、小さく息を吐いた。
「……静かな場所にいたかっただけ」
「ここは静かですよ」
「ええ」
「あなたがいると、たいてい静かではなくなりますが」
棘のある言い方に、セラフィーナはほんの少しだけ口元を緩めた。
笑うつもりはなかったのに、かすかに、自然に。
ノエルがその変化を見て、目を見開く。
薄い水色の瞳が、まるで珍しいものを見るみたいに揺れた。
「……いま、笑いましたか」
「失礼ね。わたくしだって笑うわ」
「初耳です」
「なら今日知ったのでしょう」
言い返してから、セラフィーナは自分で少し驚いた。
軽口だ。こんなふうに誰かと言葉を交わしたのは、いつ以来だろう。
書庫の窓から風が入り、ページの端を揺らした。
外では夕暮れの鐘が遠く鳴っている。金属質の音が、冷え始めた空気を震わせる。
ノエルはしばらく彼女を見ていたが、やがて机の端に置いてあった小瓶を滑らせて寄越した。
「火傷に効く軟膏です。薬室で出るものより刺激が少ない。匂いもましです」
硝子瓶の中には、薄緑色の軟膏が入っていた。蓋を少し開けると、ミントと薬草の涼やかな香りが立つ。
「……ありがとう」
「礼を言われるほどでは。あとで具合が悪くなられても、うるさいですから」
「それは親切の言い方としてずいぶん損をしているわ」
「あなたにだけは言われたくありません」
その一言に、胸の奥がふっと沈んだ。
図星だった。
セラフィーナは瓶を見つめたまま、しばらく黙った。
愛さないと決めた。関わらないと決めた。なのに今日一日だけで、いくつも予定外のことが起きている。
リディアを抱き止めた。
エマを叱らなかった。
ノエルから軟膏を受け取っている。
また誰かに期待してしまうのではないか。
また、少しずつ心を削って差し出して、最後に踏みにじられるのではないか。
そんな恐れが胸の内側で、じくじくと疼いていた。
ノエルが本を閉じた。
静かな音だった。
「公爵令嬢」
「なに」
「あなた、今日……少し変です」
まっすぐだった。
飾りのない言い方。
セラフィーナは窓の外を見た。夕焼けの名残が石畳を薄く染めている。
変だ。そうだろう。処刑されて戻ってきた人間が、昨日までと同じ顔をしていられるはずがない。
「そうかもしれないわ」
「理由は」
「言ったところで、信じないでしょう」
「内容によります」
「わたくしが一度死んだから、だと言ったら?」
冗談めかして言ったつもりだった。
だが声は自分でも驚くほど乾いていた。
ノエルは笑わなかった。
ただじっと彼女を見る。人の表情を読むことに慣れていないようでいて、こういうときだけ妙に鋭い。
「……笑えない顔で、そういうことを言わないでください」
低い声だった。
それは心配に近かった。
セラフィーナは目を伏せた。
瓶を持つ指先に少しだけ力が入る。
「ごめんなさい」
「謝るのですね」
「今日のわたくしは、ずいぶん変でしょう」
「ええ。かなり」
その断言が、少しだけおかしかった。
喉の奥で、かすかに息が揺れる。
「でも」
ノエルは言葉を継いだ。
「前より、話しやすいです」
その言葉は、刃ではなく布のように落ちてきた。
やわらかくて、なのにまともに受けると痛い。
セラフィーナは答えられなかった。
話しやすい。そんなことを、言われたことがなかったから。
書庫の外から、生徒たちの帰り支度の音が遠く聞こえてくる。笑い声。廊下を走る足音。扉の開閉。
生きている人たちの、当たり前の夕暮れの音だ。
その中で、セラフィーナだけがひどく取り残されている気がした。
冬の処刑台から、まだ完全には戻れていない。
「……誰も愛さないつもりだったのに」
気づけば、声が零れていた。
自分でも驚くほど小さく、掠れた独り言。
ノエルが目を細める。
「何か言いましたか」
「いいえ」
すぐに打ち消す。
これ以上はだめだ。言葉にすれば、決意の薄い膜が破れてしまう。
セラフィーナは立ち上がった。椅子が静かに鳴る。
「軟膏、借りていくわ」
「返さなくていいです」
「では、今度なにかで返す」
「そういう律儀なところも、今日は変ですね」
「あなた、今日はそればかりね」
「本当に変ですから」
淡々としたやり取りのはずなのに、そこには前世にはなかった温度があった。
それが怖い。
怖いのに、胸のどこかがひどく静かに緩んでしまう。
書庫を出る前に、セラフィーナは一度だけ振り返った。
窓辺に座るノエルは、夕暮れの金と青の境目にいた。白い指先で本の角を撫でながら、それでも視線だけは彼女を追っている。
「アシュクロフト」
「なんです」
「……今日は、少しだけ静かでいられたわ」
言ってから、セラフィーナは自分の頬がわずかに熱を持つのを感じた。
こんな曖昧な礼しか言えない。やはり自分は不器用だ。
だがノエルは、少し遅れて目を伏せた。
「それは、どうも」
彼の耳が、わずかに赤かった。
書庫を出て、長い回廊を歩く。
窓の外では夕焼けが完全に沈み、春の空に青い夜が落ち始めていた。
石壁は昼より冷たく、そこを流れる空気はもう夜の匂いを含んでいる。
今日だけで、すべてが変わったわけではない。
レオンハルトはまだ自分を理解していない。
カイルの警戒も完全には解けていない。
リディアは困惑していた。
噂も、悪意も、これからまだいくつもやってくる。
それでも。
階段で自分を見上げた若葉色の瞳。
泣きながら礼を言った侍女。
火傷の軟膏を差し出した白い指。
そして、朝より少しだけ変わった王太子の視線。
前世では、どこにもなかったはずの小さな違いが、確かにいま生まれている。
セラフィーナは立ち止まり、窓に手をついた。
ガラスはひんやりとしている。あの処刑台の木ほど冷たくはない。
遠く、中庭の噴水が夜の色を吸いながら音を立てていた。
「……愛さない」
自分に言い聞かせるように、そっと呟く。
けれどその声は、朝ほど硬くなかった。
愛さない。
期待しない。
静かに暮らす。
そう決めたはずなのに、胸の奥のどこかで、冷えきった灰の下に小さな熱が残っている。
それが希望なのか。
それともまた自分を焼く火種なのか。
いまの彼女には、まだわからなかった。
ただ、春の夜の匂いだけが、静かに肺へ満ちていった。
そのころ、学園正門へ向かう馬車寄せで、レオンハルトは無言のまま立っていた。
春の夕風が金髪を揺らし、彼の青い瞳は校舎のほうを見ている。
「殿下」
背後から声をかけたのは、カイル・ローヴェンだった。
近衛騎士は一礼し、主の横顔を窺う。レオンハルトは返事の代わりに、低く息を吐いた。
「……今日のセラフィーナをどう思う」
唐突な問いだった。
だがカイルは少し考え、慎重に答える。
「今までとは違う印象を受けました」
「違う、か」
「はい」
灰色の瞳が、夕闇へ沈みかけた校舎を見上げる。
「少なくとも、エヴァンズ令嬢の件も、侍女見習いの件も、噂で聞いていたような振る舞いではありませんでした」
レオンハルトは沈黙した。
白い手袋の指先が、ほんの少しだけ強く曲がる。
「……私は、何を見ていたんだろうな」
それは誰に聞かせるでもない呟きだった。
だが春の夜気は、その言葉を確かに運んだ。
そして中庭の別の一角では、リディア・エヴァンズが胸元に手を当てたまま空を見ていた。
栗色の髪を揺らす風は柔らかい。けれど彼女の心臓は、まだ階段で抱き止められたときのまま落ち着かない。
「怖い人、だと思っていたのに……」
指先に残るのは、あの公爵令嬢の腕の感触。
細いのに、驚くほど力強かった。
香水ではなく、清潔な布と淡い花の匂いがした。
目の前で見た紫の瞳は冷たくなく、むしろどこか痛そうだった。
リディアは唇を噛む。
「どうして、あんな顔をしていたの」
誰に問うでもない声は、夜風にほどけて消えた。
そのさらに奥、書庫の窓辺では、ノエルが閉じた本の上に指を置いたまま、しばらく動かなかった。
机の端には、さきほどまでそこにあった小瓶の空いた場所がある。
「前より、話しやすい……か」
自分で言ったくせに、その言葉を反芻して、彼は目を伏せた。
あの公爵令嬢は、あんなふうに礼を言う人だっただろうか。
あんなふうに、壊れそうな目で笑う人だっただろうか。
わからない。
今まで、自分もまた噂の向こう側を見ようとはしてこなかったから。
夜の帳が、静かに学園へ降りていく。
そしてセラフィーナ・エーデルベルクの二度目の春は、誰にも気づかれないまま、確かに動き始めていた。
冬の朝だった。
曇った空は低く、重たく垂れこめ、広場に集まった群衆の吐く息は白かった。人の数だけ生まれるざわめきが、濡れた布を裂くように耳の奥で揺れ続けていた。
セラフィーナ・エーデルベルクは、断頭台の上に立っていた。
風が吹くたび、銀の髪が頬に貼りつく。鎖で拘束された両手首は擦りむけ、皮膚の薄いところが破れている。鉄の匂いと、自分の血のわずかな生臭さが鼻の奥にこびりついていた。
首の後ろに立つ処刑人の気配は重い。見なくてもわかる。巨大な影が背後にあるだけで、肩甲骨の間が冷えて、息を吸うたび肺の内側が小さく縮む。
広場の前方に、彼がいた。
第一王子にして王太子、レオンハルト・ヴァルツェイン。
蜂蜜色の金髪は、今日も曇天の下で淡く光っていた。青い瞳は正面を向き、まっすぐにこちらを見ている。その顔は整いすぎていて、どこまでも美しく、どこまでも遠かった。
その隣には、栗色の髪を揺らす少女がいる。リディア・エヴァンズ。小柄で、愛らしく、誰からも守ってあげたいと思われるような雰囲気をまとう少女。彼女は不安げに唇を噛み、王太子の袖を指先でそっとつまんでいた。
ああ、とセラフィーナは思った。
綺麗だ。
自分が積み上げてきた三年間が、いま目の前で簡単に否定されていく光景は、皮肉なくらいよく整っていた。
悪女と呼ばれた婚約者。善良な王太子。傷つけられた可憐な少女。毒を盛られたとされる繊細な魔術師。冷酷な振る舞いを目撃した騎士。泣いた侍女たち。噂を愛した貴族たち。
すべての役者が、最も美しく見える配置に並んでいる。
その中心に、自分だけが醜い。
「セラフィーナ・エーデルベルク」
宣告を読み上げる声が、冷たい空気に乗って響く。
「王太子殿下の婚約者でありながら、その立場を悪用し、幾度となくエヴァンズ令嬢に嫌がらせを行い、宮廷魔術師見習いノエル・アシュクロフトに毒を盛り、侍女に対しても苛烈な折檻を加えた罪により、死罪に処す」
広場が沸いた。
どよめき。歓声。侮蔑。安堵。
ひどく遠いところで鳴る波の音みたいに、それらは耳に入っては消えていった。
毒なんて盛っていない。
リディアを階段で突き飛ばしてもいない。
侍女を打ったことなど、一度もない。
言えなかっただけだ。
毎回、違うと言うタイミングを逃しただけ。
説明するより先に話が決まり、助けを求めるより先に自分の表情が誤解され、何か言えば言うほど状況が悪くなる気がして、黙ったまま、ただ背筋だけを伸ばして立っていた。
黙っていれば、そのうちわかってもらえると思った。
見ていてくれる人が一人くらいはいると、どこかで甘く考えていた。
いなかった。
誰もいなかった。
レオンハルトが一歩前へ出た。彼の纏う外套の裾が風に揺れる。白い手袋をはめた指が、わずかに強く握られているのが見えた。
「何か、最後に言い残すことはあるか」
彼の声はひどく静かだった。
怒っているわけでもない。嘲っているわけでもない。
ただ、最後の情けとして機会を与えているだけの声音。
セラフィーナは彼を見た。
幼いころから知っていた。
はじめて手を取った日のことも覚えている。白い庭園で、薔薇の棘に触れてしまった自分の指を、彼が眉を寄せて見つめたことも。
熱を出して寝込んだ夜、見舞いに来た彼が、退屈しのぎにと読み聞かせてくれた物語の結末も覚えている。
彼は昔から正しい人だった。誰にでも優しく、強く、まっすぐで、だからこそ、その正しさからこぼれ落ちるものにあまりに無自覚だった。
言い返したい言葉はたくさんあった。
違います。
わたくしはしていません。
どうして一度も聞いてくださらなかったのですか。
どうして、わたくしが泣かないからといって、傷ついていないと思ったのですか。
けれど喉は乾ききっていて、舌は上顎に貼りついていた。
人前で声を震わせることを恥だと教え込まれた身体は、こんな最後の最後まで、上手に壊れてはくれなかった。
セラフィーナは唇を開いた。
吐き出した声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
「……ありません」
広場の空気がざわりと揺れた。
最後まで高慢だ、とでも思われたのだろう。
レオンハルトの瞳がわずかに揺れた。ほんの一瞬だけ。すぐにそれは消えた。
彼は何も言わなかった。
それで終わりだった。
処刑人が肩に手を置く。分厚い革手袋の感触はひどく硬く、重い。膝をつかせられ、首を台に乗せる。
木の表面は冷え切っていた。頬に触れたその温度に、セラフィーナはなぜだか幼いころの窓辺を思い出した。冬の朝、凍えたガラスに額を寄せたこと。息を吹きかけると白く曇ったこと。遠くで母が、背筋を伸ばしなさいと静かに叱ったこと。
ああ、と彼女は思う。
結局。
最後まで、誰にも愛されなかった。
その瞬間だった。
刃が落ちる音より先に、耳の奥で何かが裂けた。
視界が白く弾ける。
冷たさ。痛み。闇。
そして。
目を開けたとき、天蓋の内側が見えた。
白かった。
繊細な刺繍の蔓草模様。見慣れた寝台の天蓋。薄い朝の光を透かすレースのカーテン。外では小鳥が鳴き、窓の向こうから春先のやわらかな風が流れ込んでくる。花の匂いがした。切りたての水仙と、洗いたてのリネンの匂い。
セラフィーナは息を止めた。
喉がある。
恐る恐る自分の首に触れる。
皮膚はなめらかで、温かかった。傷も、血も、何もない。ただ、指先の下で脈が速く打っている。
彼女は勢いよく身を起こした。
その途端、胃の底から込み上げてきたものに耐えきれず、寝台の縁に手をついて吐いた。胃液の酸っぱい匂いが喉に焼きつき、涙がにじむ。肩が震えた。呼吸がうまくできない。吸っても吸っても空気が薄い。肺の内側が、いまも刃を覚えているみたいだった。
「お嬢様っ」
扉が開き、ミレイユが飛び込んできた。
赤みのある茶髪をきっちりと結い上げた侍女は、いつも通り機敏だったが、その琥珀色の目はいま驚きで大きく見開かれている。
「どうなさったのです、顔色が……っ、すぐに水を」
ミレイユの手が肩に触れる。
その瞬間、セラフィーナは思わずびくりと身体をこわばらせた。
前世で、ミレイユはいなかった。
もっと正確に言えば、いたはずなのに、最期の記憶の中で彼女の姿だけがない。自分を守ろうとしてくれたのか、距離を置いたのか、何もわからない。ただ、断頭台の上から見た景色のどこにも、彼女はいなかった。
その不在が、ひどく怖かった。
「……お嬢様?」
ミレイユの手つきがそっと慎重になる。
セラフィーナは喉を押さえたまま、かすれた声で尋ねた。
「今日、は……」
「三月十二日でございます。王立学園の始業式の日ですわ」
三月十二日。
その言葉に、背中がぞくりと冷えた。
処刑の日から、ちょうど三年前。
すべてが始まった春だ。
窓の外では、噴水の水音が涼やかに響いていた。
あんなに穏やかな朝なのに、セラフィーナの身体は震えが止まらない。
「鏡を」
「はい?」
「鏡を持ってきて」
ミレイユがすぐに卓上鏡を差し出す。
映った顔は、十七歳の自分だった。まだ処刑台に連れていかれる前の、若い輪郭。頬は少しだけ丸みを残し、目元には疲労の影もない。薄紫の瞳は大きく、けれどいまはひどく怯えて揺れていた。
悪女と呼ばれる未来をまだ知らないはずの顔。
なのにその目の奥にだけ、断頭台の冬が沈んでいる。
セラフィーナは鏡を伏せた。
吐き気は少しずつ引いていく。代わりに、冷えきった理性が戻ってきた。
三年前に戻った。
そうとしか考えられない。
ならば、処刑までの道筋もすべて知っている。
リディアと初めて深く関わるのは学園の歓迎式典。
ノエルが体調を崩し、「毒を盛られた」と噂が立つのは初夏。
カイル・ローヴェンが自分を見る目をさらに険しくするのは、侍女の失敗を誤解したあの日。
レオンハルトが自分から決定的に心を離すのは、真夏の夜会での一件。
避ければいい。
最初から全部、避ければいい。
誰とも深く関わらない。
誰にも期待しない。
誰も愛さない。
もう二度と、理解されることを願わない。
その決意は、ひどく乾いていた。
絶望の残り火を、薄い氷で静かに覆うみたいな決意だった。
「……ミレイユ」
「はい」
「支度を。学園へ行くわ」
侍女はほっとしたように息を吐いた。
だがその顔にはまだ不安が残っている。
「本当に大丈夫でございますか。少しお休みになったほうが」
「いいえ」
セラフィーナはもう一度、自分の喉に触れた。
温かい。生きている。ならば、立たなくてはならない。
「今日は、休んではいけない日よ」
学園への馬車は、いつもより妙に静かに感じられた。
車輪が石畳を刻む振動が、座席越しに細かく伝わってくる。窓の外には春の王都が流れていた。花売りの少女、朝のパンを運ぶ少年、店先で果物を並べる商人。焼きたてのパンの甘い香りが、通りすがりにふっと車内へ入り込んでくる。
前世でも見ていたはずの景色なのに、今日のセラフィーナには、どれも遠かった。ガラス一枚ではなく、深い水の底から眺めているように現実味がない。
「お嬢様、顔色が戻りませんね」
向かいに座るミレイユが、膝の上で手を組みながら小さく言う。
「学園に着くころには整えるわ」
「整える、で済ませていいお顔ではありません」
その言葉に、セラフィーナはかすかに目を上げた。
ミレイユは昔から遠慮がない。そこがありがたくもあり、時に痛い。けれど、その率直さを鬱陶しいと思ったことは一度もなかった。むしろ、言葉を飲み込み続ける自分には眩しいくらいだ。
「……少し、悪い夢を見ただけよ」
「では今夜は温かいミルクをお持ちします。夢の内容までは追い出せませんが、眠りは多少ましになります」
淡々とした声なのに、気遣いがにじむ。
セラフィーナは返事をしようとして、少しだけ迷った。前世の自分なら「余計な心配をしなくていいわ」と切っていたかもしれない。正確には、そう聞こえる言い方をしてしまったはずだ。
相手に向ける言葉の角度を、いつも誤る。
それが自分だ。
彼女は視線を窓の外へ戻しながら、短く言った。
「……ありがとう」
ミレイユが目を丸くした気配がした。
それだけで、胸の奥がひどく痛んだ。
たった一言で驚かれるのだ。
前世の自分は、どれほど感謝を口にしてこなかったのだろう。
王立学園は丘の上に建っていた。
白亜の校舎は春の光を受けてやわらかく輝き、尖塔の先には王家の紋章旗がはためいている。石造りの大階段を上る生徒たちの靴音、笑い声、ひそひそと噂を交わす声。風に乗って制服の布がこすれる乾いた音があちこちで鳴っていた。
馬車が止まると、すでに何人もの視線がこちらへ向けられた。
公爵令嬢、王太子の婚約者、氷の公女。
自分に向けられる視線の意味を、セラフィーナはよく知っている。
畏れ。羨望。遠巻きの好奇。
そして少しの、悪意を待つ期待。
彼女は馬車を降りた。
地面に足をつけた瞬間、春の外気がスカートの裾を揺らす。今日の風は温かい。なのに、骨の髄だけがまだ冬に置き去りになっているみたいだった。
校舎前の広場には、王太子レオンハルトがすでに到着していた。周囲を側近や取り巻きが囲んでいる。青い瞳がこちらをとらえた瞬間、彼は自然な足取りで近づいてきた。
「おはよう、セラフィーナ」
昔から変わらない、よく通る声。
彼は微笑んでいた。その笑みは上品で、誰の前でも完璧だ。
前世の自分は、この笑みにほんの少しだけ救われていた。
彼が自分に微笑む限り、きっと完全に嫌われてはいないのだと、そう思いたかった。
けれどその先に待っていたのは断頭台だった。
セラフィーナは一歩ぶんだけ距離を守り、礼をした。
「おはようございます、殿下」
それだけ言って、視線を上げずに身を引く。
空気が、ほんの少しだけ止まった。
レオンハルトの気配がわずかに揺れる。
彼にしてみれば不自然だっただろう。これまでのセラフィーナは、王太子の婚約者として一歩引きつつも、常に彼の隣に立つことを当然としていた。近くにいることを、誰よりも自分自身に求めていた。
それが今日は、自分から離れた。
「……何かあったのか」
低く落ちた声に、セラフィーナは胸の奥がひやりとするのを感じた。
この声色も知っている。彼が違和感を覚えたときの声だ。
「いいえ」
「体調が悪いように見える」
「少し寝不足なだけです。始業式には支障ありません」
言葉は整っていた。
感情を差し込まない。柔らかさも、縋る気配も混ぜない。
ただ事務的に、曇りなく。
レオンハルトは眉を寄せた。
ほんのわずかな変化だったが、昔から彼を見てきたセラフィーナには、それだけで十分だった。
「送ろう」
「必要ございません」
思ったよりも早く言葉が出た。
自分でも驚くほど、はっきりと。
周囲の生徒たちが息を呑む気配がした。
王太子の申し出を、婚約者が断る。それだけでも珍しいのだろう。
レオンハルトの青い瞳に、かすかな困惑が浮かぶ。
けれどセラフィーナはそれを見ないことにした。
「お気遣いありがとうございます、殿下。ですが、わたくしは一人で大丈夫です」
礼をして、そのまま歩き出す。
背中に突き刺さる視線は痛いほど感じた。けれど振り返らない。
もう期待しない。
優しさを見せられるたびに心を動かして、最後に捨てられるのは、もう十分だった。
始業式の会場へ向かう大理石の回廊は、春の光で明るかった。
高い窓から差し込む光の筋の中で、細かな埃が金色に浮いている。床は磨き抜かれており、歩くたび自分の靴音が涼しく反響した。壁際にはまだ肌寒さを追い払うためか、小さな炭火鉢が置かれ、ほのかに熱と炭の匂いを漂わせている。
その角を曲がったときだった。
「きゃ……っ」
細い悲鳴。
すぐ近く、階段の上からだった。
セラフィーナは反射的に顔を上げた。
見えたのは、バランスを崩して身体を傾ける少女の姿。栗色の髪。若葉色の瞳。抱えた書類が宙に散る。
リディア・エヴァンズ。
前世では、ここで自分が彼女を突き飛ばしたことになっていた。
実際には違う。すれ違う寸前、後ろから誰かが彼女の肩にぶつかったのだ。だがタイミングが悪すぎた。階段の下にいた自分の目の前でリディアが倒れ、周囲から見れば、まるで自分が手を出したようにしか見えなかった。
そのあと、レオンハルトが駆け寄り、リディアを抱き起こし、自分は冷たい視線の中に取り残された。
それが最初の、決定的なひびだった。
身体が先に動いた。
セラフィーナは階段を駆け上がり、倒れ込んでくるリディアの身体を腕の中へ受け止めた。
勢いのまま二、三段ぶん足を滑らせる。ヒールが石段を鳴らし、強い衝撃が膝を打つ。
だが少女を落とさないよう、腕に力を込めた。
リディアは驚くほど軽く、細かった。
ふわりと花の石鹸の匂いがする。驚きで強ばった身体が、彼女の胸元に小刻みに震えているのがわかった。
「……大丈夫?」
セラフィーナが低く問いかけると、リディアは目を丸くしたまま、唇を震わせた。
「え、あ……は、はい……っ」
散らばった書類が、階段にひらひらと落ちている。周囲の生徒たちがざわつき始めた。
その中に、刺すような視線が一本混じる。
振り向かなくてもわかった。
カイル・ローヴェンだ。
近衛騎士の黒髪の男は、階段下からこちらを見上げていた。灰色の瞳はいつも通り冷静だったが、その奥に明らかな警戒がある。前世の彼は、この場面で完全に自分を敵認定した。
セラフィーナは、腕の中のリディアをゆっくり立たせた。
リディアはまだ手が震えている。書類を拾おうとして、指先がうまく動かない。
「拾わなくていいわ。後で整えればいい」
「あ、でも……」
「手が震えているでしょう」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
リディアの若葉色の瞳が、まっすぐこちらを見上げる。怖がっているというより、困惑している顔だった。
そりゃそうだ、とセラフィーナは思う。
前世ではこの時点で、彼女はすでに自分を“怖い婚約者様”として認識していたのだから。
「どこか痛めた?」
「いえ、その……少し、驚いて……」
「ならよかった」
セラフィーナは彼女の肩越しに周囲を見た。
生徒たちはざわついているが、先ほどのような決めつけの空気はまだない。
ならば、先に手を打つ。
「いま、後ろから押されたのを見たわ。あなたのせいではない。あとで教員に伝えなさい」
その言葉に、何人かの顔色が変わった。
リディア自身もはっとして振り返る。
犯人はもう見えない。だが、前世と同じなら、偶然を装った誰かの悪意だ。
「わたくしも証言します」
さらに言葉を重ねたとき、階段の下から靴音が近づいてきた。
レオンハルトとカイルだった。
「リディア、怪我は」
王太子の声に、リディアがびくりと肩を揺らす。
セラフィーナは一歩引いた。前世の自分は、この瞬間に言い訳ひとつできず、ただ睨まれるまま立ち尽くしていた。
だが今日は違う。
「殿下」
レオンハルトが顔を上げる。
「エヴァンズ令嬢が足を滑らせたのではありません。誰かが後ろからぶつかったのです。わたくしが見ました」
沈黙が落ちた。
カイルの眉がぴくりと動く。
レオンハルトは驚いたように瞬きし、それからリディアへ視線を向けた。
「本当か」
「……はい。私、うしろから少し、強く……」
リディアはそう言ってから、はっとしたようにセラフィーナを見た。
その視線の意味はわかった。
どうしてあなたが、わたしを庇うのですか。
そう問いたげな目だった。
セラフィーナは答えない。
答えるつもりもない。
「とにかく、医務室へ」
レオンハルトがリディアに手を差し伸べる。
リディアは小さく頷き、その手を取った。
その光景を見た瞬間、胸の奥に鋭い何かが走った。
前世の記憶が勝手に反応したのだろう。
けれどそれを表に出すことはなかった。
歯を食いしばることも、指先を強く握ることもせず、ただまっすぐ立つ。
愛さない。
期待しない。
そのたび、自分に言い聞かせる。
レオンハルトは一度だけセラフィーナを見た。
言いたいことがあるような、何を言うべきかわからないような、ひどく曖昧な目だった。
「……ありがとう、セラフィーナ」
その一言に、セラフィーナはほとんど反射で答えた。
「当然のことをしただけです」
それから礼をし、踵を返した。
背中に落ちる三人分の視線は、どれも前世とは違う重さを持っていた。
始業式のあと、セラフィーナは頭痛に耐えながら自室へ戻った。
教室に満ちる話し声、椅子のきしみ、紙をめくる音、教師の抑揚のある声。そうしたすべてが今日はやけに大きく響き、処刑台のざわめきと混ざって時折耳の奥を刺した。
けれど午後の茶会授業までは休めない。
前世の事件の一つが、そこで起きるからだ。
学園の茶会室は、南棟の陽だまりにあった。
磨かれた長机の上には、白いクロス、銀のティーセット、焼き菓子の載った皿。窓辺には鉢植えのミントが置かれ、葉を揺らすたび爽やかな香りが立つ。
女子生徒たちの笑い声は上澄みだけが甘く、底にはいつでも比べ合いが沈んでいる。
セラフィーナが席につくと、周囲の空気が少し張った。
彼女の隣にいたのは、緊張で肩を強ばらせた下級侍女見習いの少女だった。茶会授業では身分の高い令嬢につく侍女役を、生徒同士で補助する決まりがある。
彼女の名前を、セラフィーナは覚えていた。エマ。前世で“セラフィーナに熱い紅茶をかけられて泣かされた侍女”という噂の中心にいた子だ。
実際には逆だった。
彼女が緊張で手を滑らせ、セラフィーナのドレスと腕に熱い紅茶をこぼした。自分は彼女が怯えて泣き出すのを恐れて咄嗟に「騒がないで」とだけ言った。
その言葉が、高慢な恫喝として広まった。
いま思えば、最悪の言い方だ。
自分はいつもそうだった。
エマの指先はすでに震えていた。ポットを持つ手に力が入りすぎ、白い指が取っ手に食い込んでいる。
「落ち着いて」
セラフィーナは小さく言った。
少女がびくりとする。
「ゆっくりでいいわ」
「は、はい……っ」
けれど震えは収まらない。
熱湯の入ったポットが傾く。次の瞬間、琥珀色の茶が弧を描き、セラフィーナの腕と膝に一気に降りかかった。
鋭い熱だった。
薄い手袋越しでもわかる。
皮膚が瞬時に焼けるような感覚。
白いドレスに茶色い染みが広がり、湯気がふわりと立つ。エマの顔から血の気が引き、ポットが床に落ちて甲高い音を立てた。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさいっ」
少女は真っ青になっていた。
今にも泣き崩れそうな顔。周囲の令嬢たちがざわめき始める。甘い菓子の匂いに混じって、熱い茶葉の苦い香りが立ちのぼる。
痛い。
じくじくと、腕の内側が焼けている。
けれどここで表情を変えれば、またすべてが同じになる。
セラフィーナは椅子から立ち上がった。
椅子の脚が床を擦る低い音が響く。
「……騒がないで」
前世と同じ言葉を、今度は少しだけ違う息遣いで言う。
エマの肩が跳ねる。
セラフィーナは続けた。
「叱っているのではないわ。火傷の手当てを先にするから、泣く前に水を持ってきて」
少女は呆然と目を見開いた。
その顔を見て、セラフィーナは胸の奥がわずかに軋むのを感じた。
この子もまた、自分に怯えていたのだ。前世でも、今も。
「早く」
「は、はいっ」
エマは転びそうになりながら走っていく。
周囲はまだ静まりきっていない。熱い視線がいくつも突き刺さる。好奇心、意地悪な期待、そして観察。
その中に、またあの灰色の目があった。
扉口に立つカイル・ローヴェン。
おそらく王太子の迎えか何かで近くを通りかかったのだろう。彼は茶会室の異変に気づき、足を止めていた。
セラフィーナは一瞬だけ彼と視線を合わせた。
彼の目には警戒があった。だがそこに、前世とは違うほんの小さなためらいが混じっている。
見たのだろう。
自分が怒鳴らなかったことを。
エマを責めなかったことを。
その事実だけで十分だった。
水が運ばれ、冷えた布が腕に当てられる。
じん、と熱が引く代わり、遅れて鋭い痛みが浮いてくる。セラフィーナは息を浅くした。痛みで呼吸がぶれそうになるのを、どうにか整える。
「申し訳ありません……本当に……」
泣きながら戻ってきたエマに、セラフィーナは首を横に振った。
「謝罪はあとでいいわ。手順を覚えなさい。こぼしたときはまず火傷の処置。次に床の片づけ。自分の失敗で頭が真っ白になるのはわかるけれど、それでは次も同じことをする」
声は淡々としていた。
だが少女の瞳は、ますます涙で濡れた。
「……はい」
「今回はわたくしが受けたからまだよかったの。小さな子どもや高齢の方なら、もっと重い火傷になる。だから、二度と同じことをしないで」
叱責ではなく、指導。
それを理解したのか、エマはしゃくりあげながら深く頭を下げた。
「ありがとうございます……」
その言葉が零れた瞬間、茶会室の空気が少しだけ変わった。
前世であれば、ここで「やはり公爵令嬢は侍女を泣かせた」と話が広がっていった。
だが今日は違う。
見ていた者たちの顔には、少なくとも単純な断罪だけではない色が浮かんでいる。
セラフィーナはそれ以上何も言わず、痛む腕を押さえたまま席を外した。
夕方、学園の書庫は静かだった。
石造りの壁が昼の熱を失い、空気には少しだけ冷えが戻っている。高窓から差し込む西日の残照が、長い本棚の間に斜めの帯を落としていた。革張りの装丁からは乾いた紙と古い糊の匂いが漂い、ページをめくる小さな音だけが遠くに響く。
火傷の薬をもらった帰り、セラフィーナは無意識にここへ足を向けていた。
静かな場所が欲しかった。
誰の視線もなく、誰の善意も悪意も届かない場所が。
書庫の奥まった一角に、人影があった。
青みのある銀髪。白い指。薄い横顔。
ノエル・アシュクロフトが、窓辺の机で本を読んでいた。
前世で“毒を盛られた被害者”とされた青年。
実際には、生まれつき身体が弱いだけの、気難しい本好きだ。
彼は本から視線を上げると、やや警戒するように目を細めた。
「……珍しいですね、公爵令嬢がこんな時間に」
「あなたこそ」
「僕はいつもいます」
それはそうだろう、とセラフィーナは思った。
ノエルは社交界より書庫を愛している。
前世でもそうだった。だからこそ、茶会の席で出された菓子に添えられたソース一つで具合を悪くし、そこに“毒”という噂が重なったのだ。
セラフィーナは少しだけ逡巡し、それから彼の向かいの席へ静かに腰を下ろした。
椅子がかすかに鳴る。
ノエルは本を閉じない。だが完全に無視もしていない。その中途半端な距離が彼らしい。
「腕」
不意に、彼が言った。
「火傷しましたか」
セラフィーナは目を瞬いた。
薬布を巻いた腕をそっと隠すように引く。
「少しだけよ」
「少し、にしては顔色が悪い」
「今日は皆、それを言うのね」
「皆が言うなら本当に悪いんでしょう」
皮肉とも心配ともつかない口調だった。
前世のノエルは、こういうとき決して自分へ声をかけなかった。いや、かけられなかったのかもしれない。周囲の空気が、自分を“近づいてはいけない相手”にしていたから。
セラフィーナは書架の背表紙を見つめながら、小さく息を吐いた。
「……静かな場所にいたかっただけ」
「ここは静かですよ」
「ええ」
「あなたがいると、たいてい静かではなくなりますが」
棘のある言い方に、セラフィーナはほんの少しだけ口元を緩めた。
笑うつもりはなかったのに、かすかに、自然に。
ノエルがその変化を見て、目を見開く。
薄い水色の瞳が、まるで珍しいものを見るみたいに揺れた。
「……いま、笑いましたか」
「失礼ね。わたくしだって笑うわ」
「初耳です」
「なら今日知ったのでしょう」
言い返してから、セラフィーナは自分で少し驚いた。
軽口だ。こんなふうに誰かと言葉を交わしたのは、いつ以来だろう。
書庫の窓から風が入り、ページの端を揺らした。
外では夕暮れの鐘が遠く鳴っている。金属質の音が、冷え始めた空気を震わせる。
ノエルはしばらく彼女を見ていたが、やがて机の端に置いてあった小瓶を滑らせて寄越した。
「火傷に効く軟膏です。薬室で出るものより刺激が少ない。匂いもましです」
硝子瓶の中には、薄緑色の軟膏が入っていた。蓋を少し開けると、ミントと薬草の涼やかな香りが立つ。
「……ありがとう」
「礼を言われるほどでは。あとで具合が悪くなられても、うるさいですから」
「それは親切の言い方としてずいぶん損をしているわ」
「あなたにだけは言われたくありません」
その一言に、胸の奥がふっと沈んだ。
図星だった。
セラフィーナは瓶を見つめたまま、しばらく黙った。
愛さないと決めた。関わらないと決めた。なのに今日一日だけで、いくつも予定外のことが起きている。
リディアを抱き止めた。
エマを叱らなかった。
ノエルから軟膏を受け取っている。
また誰かに期待してしまうのではないか。
また、少しずつ心を削って差し出して、最後に踏みにじられるのではないか。
そんな恐れが胸の内側で、じくじくと疼いていた。
ノエルが本を閉じた。
静かな音だった。
「公爵令嬢」
「なに」
「あなた、今日……少し変です」
まっすぐだった。
飾りのない言い方。
セラフィーナは窓の外を見た。夕焼けの名残が石畳を薄く染めている。
変だ。そうだろう。処刑されて戻ってきた人間が、昨日までと同じ顔をしていられるはずがない。
「そうかもしれないわ」
「理由は」
「言ったところで、信じないでしょう」
「内容によります」
「わたくしが一度死んだから、だと言ったら?」
冗談めかして言ったつもりだった。
だが声は自分でも驚くほど乾いていた。
ノエルは笑わなかった。
ただじっと彼女を見る。人の表情を読むことに慣れていないようでいて、こういうときだけ妙に鋭い。
「……笑えない顔で、そういうことを言わないでください」
低い声だった。
それは心配に近かった。
セラフィーナは目を伏せた。
瓶を持つ指先に少しだけ力が入る。
「ごめんなさい」
「謝るのですね」
「今日のわたくしは、ずいぶん変でしょう」
「ええ。かなり」
その断言が、少しだけおかしかった。
喉の奥で、かすかに息が揺れる。
「でも」
ノエルは言葉を継いだ。
「前より、話しやすいです」
その言葉は、刃ではなく布のように落ちてきた。
やわらかくて、なのにまともに受けると痛い。
セラフィーナは答えられなかった。
話しやすい。そんなことを、言われたことがなかったから。
書庫の外から、生徒たちの帰り支度の音が遠く聞こえてくる。笑い声。廊下を走る足音。扉の開閉。
生きている人たちの、当たり前の夕暮れの音だ。
その中で、セラフィーナだけがひどく取り残されている気がした。
冬の処刑台から、まだ完全には戻れていない。
「……誰も愛さないつもりだったのに」
気づけば、声が零れていた。
自分でも驚くほど小さく、掠れた独り言。
ノエルが目を細める。
「何か言いましたか」
「いいえ」
すぐに打ち消す。
これ以上はだめだ。言葉にすれば、決意の薄い膜が破れてしまう。
セラフィーナは立ち上がった。椅子が静かに鳴る。
「軟膏、借りていくわ」
「返さなくていいです」
「では、今度なにかで返す」
「そういう律儀なところも、今日は変ですね」
「あなた、今日はそればかりね」
「本当に変ですから」
淡々としたやり取りのはずなのに、そこには前世にはなかった温度があった。
それが怖い。
怖いのに、胸のどこかがひどく静かに緩んでしまう。
書庫を出る前に、セラフィーナは一度だけ振り返った。
窓辺に座るノエルは、夕暮れの金と青の境目にいた。白い指先で本の角を撫でながら、それでも視線だけは彼女を追っている。
「アシュクロフト」
「なんです」
「……今日は、少しだけ静かでいられたわ」
言ってから、セラフィーナは自分の頬がわずかに熱を持つのを感じた。
こんな曖昧な礼しか言えない。やはり自分は不器用だ。
だがノエルは、少し遅れて目を伏せた。
「それは、どうも」
彼の耳が、わずかに赤かった。
書庫を出て、長い回廊を歩く。
窓の外では夕焼けが完全に沈み、春の空に青い夜が落ち始めていた。
石壁は昼より冷たく、そこを流れる空気はもう夜の匂いを含んでいる。
今日だけで、すべてが変わったわけではない。
レオンハルトはまだ自分を理解していない。
カイルの警戒も完全には解けていない。
リディアは困惑していた。
噂も、悪意も、これからまだいくつもやってくる。
それでも。
階段で自分を見上げた若葉色の瞳。
泣きながら礼を言った侍女。
火傷の軟膏を差し出した白い指。
そして、朝より少しだけ変わった王太子の視線。
前世では、どこにもなかったはずの小さな違いが、確かにいま生まれている。
セラフィーナは立ち止まり、窓に手をついた。
ガラスはひんやりとしている。あの処刑台の木ほど冷たくはない。
遠く、中庭の噴水が夜の色を吸いながら音を立てていた。
「……愛さない」
自分に言い聞かせるように、そっと呟く。
けれどその声は、朝ほど硬くなかった。
愛さない。
期待しない。
静かに暮らす。
そう決めたはずなのに、胸の奥のどこかで、冷えきった灰の下に小さな熱が残っている。
それが希望なのか。
それともまた自分を焼く火種なのか。
いまの彼女には、まだわからなかった。
ただ、春の夜の匂いだけが、静かに肺へ満ちていった。
そのころ、学園正門へ向かう馬車寄せで、レオンハルトは無言のまま立っていた。
春の夕風が金髪を揺らし、彼の青い瞳は校舎のほうを見ている。
「殿下」
背後から声をかけたのは、カイル・ローヴェンだった。
近衛騎士は一礼し、主の横顔を窺う。レオンハルトは返事の代わりに、低く息を吐いた。
「……今日のセラフィーナをどう思う」
唐突な問いだった。
だがカイルは少し考え、慎重に答える。
「今までとは違う印象を受けました」
「違う、か」
「はい」
灰色の瞳が、夕闇へ沈みかけた校舎を見上げる。
「少なくとも、エヴァンズ令嬢の件も、侍女見習いの件も、噂で聞いていたような振る舞いではありませんでした」
レオンハルトは沈黙した。
白い手袋の指先が、ほんの少しだけ強く曲がる。
「……私は、何を見ていたんだろうな」
それは誰に聞かせるでもない呟きだった。
だが春の夜気は、その言葉を確かに運んだ。
そして中庭の別の一角では、リディア・エヴァンズが胸元に手を当てたまま空を見ていた。
栗色の髪を揺らす風は柔らかい。けれど彼女の心臓は、まだ階段で抱き止められたときのまま落ち着かない。
「怖い人、だと思っていたのに……」
指先に残るのは、あの公爵令嬢の腕の感触。
細いのに、驚くほど力強かった。
香水ではなく、清潔な布と淡い花の匂いがした。
目の前で見た紫の瞳は冷たくなく、むしろどこか痛そうだった。
リディアは唇を噛む。
「どうして、あんな顔をしていたの」
誰に問うでもない声は、夜風にほどけて消えた。
そのさらに奥、書庫の窓辺では、ノエルが閉じた本の上に指を置いたまま、しばらく動かなかった。
机の端には、さきほどまでそこにあった小瓶の空いた場所がある。
「前より、話しやすい……か」
自分で言ったくせに、その言葉を反芻して、彼は目を伏せた。
あの公爵令嬢は、あんなふうに礼を言う人だっただろうか。
あんなふうに、壊れそうな目で笑う人だっただろうか。
わからない。
今まで、自分もまた噂の向こう側を見ようとはしてこなかったから。
夜の帳が、静かに学園へ降りていく。
そしてセラフィーナ・エーデルベルクの二度目の春は、誰にも気づかれないまま、確かに動き始めていた。
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