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第二話 やさしくしないで
その夜、夢の中でも刃は冷たかった。
冬の広場は白く濁っていた。空も、石畳も、人の吐く息も、すべてが薄く凍りついたような色をしている。群衆のざわめきは遠いのに、耳のすぐそばで誰かが囁くようでもあって、逃げ場がなかった。
悪女。
冷酷。
高慢。
毒殺未遂。
婚約者に執着した愚かな女。
聞き慣れたはずの言葉が、夢の中ではひとつひとつ鉛みたいな重さを持って、胸の上に落ちてきた。呼吸が苦しい。喉の奥が詰まる。膝をつかされる。首を押さえつけられる。頬に触れる処刑台の木は湿っていて、冬の水気を吸った木肌の冷たさが骨まで染みた。
見上げた先に、レオンハルトがいた。
その隣で、リディアが怯えたようにこちらを見ている。ノエルは青ざめた顔で目を伏せ、カイルは冷たい灰色の目を向けている。誰も怒鳴っていない。誰も石を投げていない。ただ、もう終わった人間を見る顔をしていた。
それがいちばん残酷だった。
セラフィーナは夢の中で、必死に唇を動かした。
違う。
わたくしはしていない。
どうして、誰も聞いてくれないの。
けれど声は出ない。喉が動かない。口の中に鉄の味だけが広がって、舌先まで冷え切っていた。
刃が落ちる。
「お嬢様」
そこで、現実の声が夢を引き裂いた。
セラフィーナは息を呑んで目を開けた。胸が激しく上下している。薄闇の天蓋の向こうに、寝台脇の燭台がゆらゆら揺れていた。夜半を過ぎたらしい。窓の外はすっかり暗く、雨でも降るのか、風が低く硝子を鳴らしている。
額も、首筋も、寝間着の背も、じっとりと汗で濡れていた。
「……また」
掠れた自分の声が耳に痛い。
寝台脇に立っていたミレイユは、あらかじめ用意していたらしい水差しからグラスへ水を注いだ。硝子の中で水が揺れ、小さな音を立てる。
「お飲みください」
差し出されたグラスを受け取る。指先が震えて、かすかに縁が鳴った。冷えた水が喉を通ると、ようやく肺の奥まで空気が届く気がした。
ミレイユは何も問わなかった。ただ、汗で張りついた前髪をそっと払うように、タオルを差し出す。
セラフィーナはそれを受け取り、額を押さえた。布には洗いたての石鹸の匂いが残っている。真新しい清潔さの匂い。断頭台の木の湿った匂いとは、まるで違う。
「うなされていらっしゃいました」
静かな声だった。
「驚かせたわね」
「驚いたのはこちらより、お嬢様のほうでしょう」
タオル越しに視線を上げると、ミレイユの琥珀色の瞳がまっすぐにこちらを見ていた。普段なら遠慮のないその瞳が、今夜は妙に慎重だった。主に触れると壊してしまう硝子でも扱うみたいな慎重さ。
その気遣いが、少しだけ苦しい。
セラフィーナはタオルを膝に落とした。寝台の上に起き上がると、寝間着の袖が擦れて乾いた音を立てる。腕の火傷は、夜になって鈍い熱を増していた。包帯の下がじくじくする。
「火傷、見せてください」
「平気よ」
「平気な方は、眠ったまま歯を食いしばっていらっしゃいません」
ぴしゃりと言われて、セラフィーナは目を伏せた。否定できない。夢から覚めた瞬間、無意識に火傷した腕を抱き込んでいたのを自分でも覚えている。
ミレイユはそっと寝台脇に腰を下ろした。燭台の灯りが、きっちりまとめられた髪の輪郭を柔らかく縁取る。
「今夜は私が薬を塗り直します」
「医師からいただいたもので足りるわ」
「足りません。あれは効きますが、刺激が強いのです」
セラフィーナは一瞬だけ迷って、昼にノエルからもらった軟膏の小瓶を寝台脇の引き出しから取り出した。
「なら、これを」
ミレイユは受け取った瞬間、目を瞬いた。
「……学園で?」
「アシュクロフトがくれたの」
「まあ」
それだけで、彼女は何か言いたそうな顔になった。けれど余計なことは言わない。蓋を開けると、薬草とミントの涼やかな匂いが夜気に混じった。
包帯をほどく。火傷した皮膚が空気に触れた瞬間、熱を帯びた痛みがじんと広がった。白い腕の内側に、まだ赤みが残っている。大きくはないが、見ていて気持ちのいいものではない。
ミレイユの指先は慣れていた。冷たい軟膏が皮膚に触れるたび、じくじくした熱が少しずつ遠ざかっていく。彼女の指は温かく、動きはあくまで丁寧だった。
「……今日、ありがとう」
ぽつりと零れた言葉に、ミレイユの手が止まる。
「礼には及びません」
「そうじゃなくて」
セラフィーナは、塗り薬の冷たさを感じながらゆっくり言った。
「朝も、夜も。あなたがいると、少しだけ現実に戻れる」
言ってしまってから、喉の奥がひどく乾いた。こんな言葉、自分の口から出るとは思わなかった。だが真実だった。誰もいない暗い部屋で一人きりなら、きっと自分はまだ断頭台の夢から上がってこられなかった。
ミレイユは視線を落としたまま、軟膏を塗り広げ続けた。
「……お嬢様」
「なに」
「私は前から、ここにおります」
その声音は穏やかだったが、柔らかいだけではなかった。長いあいだ胸の内に沈めてきた何かが、底のほうで静かに波立っているような声だった。
「前から、お嬢様のおそばにおりました。けれど、お嬢様はあまり私を頼らなかった」
セラフィーナは息を止めた。
責められているわけではない。声色でわかる。
それでも、言葉の一つ一つがまっすぐすぎて痛かった。
「頼り方を、知らなかったの」
小さな言い訳みたいな言葉だった。情けないほど。
「ええ。知っております」
ミレイユはあっさり頷いた。
「お嬢様は昔から、不器用でした。感謝も、謝罪も、心配も、きちんと胸の中にあるのに、出す頃にはいつも遅い。あるいは、言い方が固すぎて、相手に届かない」
セラフィーナは笑えなかった。ただ、胸の内側を薄い刃でなぞられるような感覚だけがあった。
「……酷い言われようね」
「事実ですから」
即答だった。そこに少しだけ、昔通りの調子が戻る。ほんの少しだけ救われる。
ミレイユは薬を塗り終えると、新しい包帯を巻きながら続けた。
「でも、それだけです。冷酷でも、無慈悲でもありません。そう見られやすいだけで」
「そう見られたなら、同じことだわ」
「半分はそうです」
包帯を結ぶ手がきゅ、と最後に整えられる。
「残り半分は、見ようとしなかった人たちの責任です」
その言葉に、セラフィーナは顔を上げた。
ミレイユはまっすぐ彼女を見ていた。侍女としてではなく、一人の人間として。主の機嫌を窺う目ではない、もっと静かな、けれど逃がさない目。
「私は前から、そう思っておりました」
「……あなた」
「ですが、私も弱かった」
彼女は自分の膝の上で手を組んだ。
「お嬢様が黙っていらっしゃるのを、勝手に“そうしたいのだろう”と思ってしまった。言い返したほうがいいと、もっと強く申し上げるべきでした。私が前に出ればよかった場面も、きっといくつもあった」
セラフィーナは何も言えなかった。
前世の最後、広場にミレイユが見えなかった理由を、急に考えてしまった。
守ろうとしてくれたのかもしれない。
遠ざけられたのかもしれない。
あるいは、もうどうにもならないところまで来ていて、何もできなかったのかもしれない。
そのどれもが、胸を重くした。
「ごめんなさい」
気づけば、そう言っていた。
ミレイユが目を丸くする。
「今まで、あなたにばかり我慢をさせた」
「お嬢様」
「わたくし、自分が傷ついていることを認めるのも嫌だったの。認めたら、泣いてしまいそうで。泣いたら終わりだと思っていた」
自分でも驚くほど、言葉はするすると出た。夜の静けさがそうさせたのかもしれない。燭台の火が小さく揺れ、窓の外では風が枝を鳴らしている。誰にも聞かれない時間だけが、弱さを吐き出すことを許してくれる気がした。
「でも、終わらなかったわ」
むしろ、泣かなかったから終わったのかもしれない。
そう思うと喉の奥が痛んだ。
ミレイユは一度だけ、迷うように視線を落とした。それから、侍女としてはひどく無遠慮な動きで、セラフィーナの手を取った。
「今夜だけは、お休みになるまで私がここにおります」
「子どもみたいね」
「ええ。悪夢で飛び起きたお嬢様を一人にしておくほど、私は薄情ではありません」
その言い方があまりに彼女らしくて、セラフィーナはようやく少しだけ笑った。喉の奥で掠れるような、小さな笑いだったが、それでも確かに笑った。
夜が明けるころには、雨が降っていた。
細い銀の雨が窓を流れ、王都の朝を薄く煙らせている。空は白く、春らしい柔らかさよりも湿った冷えが勝っていた。庭の薔薇はまだ蕾のままで、濡れた葉先から雫が落ちるたび、小さな音がする。
セラフィーナは鏡の前で髪を結われながら、自分の顔を見ていた。寝不足の影はあるが、昨夜ほど酷くはない。ミレイユに付き添われたぶん、夢の余韻から抜け出しやすかったのだろう。
制服の襟を整え、手袋をはめる。火傷した腕には包帯が巻かれているが、長手袋でほとんど隠れる。
「今日は温室で春の茶会だったかしら」
「ええ。始業式翌日の恒例です」
ミレイユが答えながら、最後に髪飾りの位置を整える。銀の髪に留められた小粒の真珠が、窓から入る曇り空の光を鈍く弾いた。
「欠席したい顔をなさっていますが、無理です」
「顔に出ていた?」
「はっきり」
迷いのない返答に、セラフィーナは小さく息をつく。
温室の春の茶会。前世の記憶では、リディアが令嬢たちに囲まれ、王太子が自然とその中心へ引き寄せられ、自分は婚約者でありながら奇妙に孤立した場だった。ノエルがそこで体調を崩したことも覚えている。もっとも、前世のそれは毒殺未遂という噂と一緒に塗りつぶされているから、細部は曖昧だ。
避けられないなら、せめて先に構えるしかない。
学園へ向かう馬車の中、雨粒が窓を細かく叩いた。石畳を打つ車輪の音はいつもより柔らかく、湿った空気のせいで街の輪郭までも少しぼやけて見える。露店から漂う焼き菓子の甘い匂いも、今日は雨に薄められて遠い。
学園に着くと、回廊には湿った外気が持ち込まれ、石の床からわずかに冷気が立っていた。生徒たちの制服の裾がしっとりと重そうに揺れる。どこか浮き足立った春の気配に、雨が薄い膜をかけているような朝だった。
「セラフィーナ」
その声に、彼女は足を止めた。
大理石の柱のそばに立っていたのは、レオンハルトだった。今日も王太子らしくきちんと整えられているが、昨日より少しだけ人払いをしているらしい。取り巻きも侍従も遠くにいる。
青い瞳が、こちらをまっすぐ見る。
「少し話せるか」
周囲の空気が、すっと細く張ったのを感じた。王太子が婚約者へ声をかけること自体は珍しくない。だが、昨日の朝のあのわずかな不和を見ていた者が多い以上、注目を集めないはずがない。
セラフィーナは礼をした。
「短くでしたら」
言ってから、自分でも少し固いと思う。だが柔らかく言い換える余裕はなかった。
レオンハルトは一瞬だけ眉を寄せ、それでも何も言わず、近くの窓辺へ歩いた。セラフィーナも後を追う。窓の外では雨に濡れた庭木が揺れていた。
「昨日、君の具合が悪そうだったから気になっていた」
彼は低く言った。
「今朝も顔色があまりよくない」
「寝不足なだけです」
「それも昨日聞いた」
「では、今朝も同じ理由ということです」
ぴたりと返した声が、自分でも思っていた以上に乾いていた。レオンハルトの目がわずかに細まる。
「……昨日から、君は私を避けているように見える」
そう言われて、セラフィーナはほんの少しだけ息を詰めた。
見える、ではなく、事実だった。
けれどそれを認めれば、次に続く言葉は何になるのだろう。どうしてですか、と問われたら。前世であなたに捨てられたから、とは言えない。
「気のせいでしょう」
「そうは思えない」
レオンハルトの声が少し低くなる。怒っているのではない。戸惑っているのだ。普段の彼は、ここまで食い下がる前に空気を整える。相手が望まない追及はあまりしない。だが今は、そうできないだけの引っかかりがあるらしい。
セラフィーナは手袋越しに、包帯の巻かれた腕をそっと押さえた。じんわりと鈍い熱が残っている。
「殿下」
「何だ」
「今日は温室の茶会に、エヴァンズ令嬢もいらっしゃるでしょう」
「……ああ」
「昨日はあの方も驚いていらしたから、お側にいて差し上げてください」
言い終えた瞬間、レオンハルトの瞳に見えたのは、はっきりした驚きだった。自分からリディアの名を出す。それだけでも前世のセラフィーナからすれば異常なのだろう。
「君は」
彼は言葉を切った。
「君は、気にしないのか」
「何をですか」
「私が、彼女の側にいることを」
そこまで言われて、ようやくセラフィーナは悟った。
前世の自分なら、確かに気にした。表に出さないつもりでも、視線や呼吸の乱れにそれが滲んでいたのだろう。だからこそ、彼の中ではその質問が成立する。
けれど今のセラフィーナにとって、いちばん恐ろしいのは嫉妬ではない。誰かに執着していると思われることだ。好きだから怒るのだと、好きだから傷つくのだと、そんなふうに見抜かれることのほうが怖い。
「殿下がどなたのお側にいるかは、殿下がお決めになることです」
穏やかに言ったつもりだった。
しかしその穏やかさが、余計に遠い響きになってしまった気がした。
レオンハルトは、しばらく何も言わなかった。雨の音だけが窓の向こうで細く続く。回廊の遠くを歩く生徒たちの足音が、湿った石に吸われて鈍く反響していた。
「……わかった」
ようやく落ちた声は、静かだった。
「だが、君の具合が悪いことは気にする。無理はするな」
それだけ言って、彼は一歩引いた。いつもの完璧な微笑みは戻っていない。青い瞳の奥に、整理できないものが少しだけ残っている。
セラフィーナは礼をした。
「ありがとうございます」
そのやり取りを終えて歩き出したとき、ふいに背後から別の視線を感じた。振り向くと、柱の影に黒い騎士服の影がある。カイル・ローヴェンだった。
彼はすぐに目を逸らさなかった。灰色の瞳は相変わらず冷静だが、昨日までの「悪女を見る目」一色ではなくなっている。疑いの中に、観察と、少しのためらいが混じっていた。
それがかえって落ち着かない。
温室は南棟の奥にあった。分厚い硝子と白い鉄骨で組まれた大きな空間で、雨の日でも中は春の匂いに満ちている。扉をくぐった瞬間、湿った土と若葉、咲き始めた花々の甘さが一斉に鼻先へ押し寄せた。外のひんやりした空気とは違う、柔らかなぬくもりが頬を撫でる。
硝子天井を打つ雨音が、遠い拍手みたいに全体へ響いていた。
白いテーブルクロスをかけた丸卓がいくつも並べられ、焼き菓子や小さなサンドイッチ、果実を煮詰めたジャムが銀皿に美しく盛られている。薔薇色のマカロン、薄く焼いたパイ、蜂蜜を塗った小さなタルト。色とりどりの菓子は春そのものみたいに可憐だが、セラフィーナにとっては噂と視線の温床でもあった。
令嬢たちの笑い声が、花に集まる小鳥みたいにあちこちで弾む。だがその羽音の下には、誰が誰の隣に座るか、誰が誰と親しいか、誰が王太子の視線を多く受けるかを量る静かな計算が常にある。
セラフィーナが入ると、いくつもの視線が集まって、すぐにそれぞれの表情の裏へ引っ込んだ。
「セラフィーナ様」
最初に声をかけてきたのは、艶やかな栗色の巻き髪を揺らす伯爵令嬢、マルグリット・ハーゼンだった。彼女は社交界でも評判のよい愛らしい笑みを浮かべ、扇を口元へ軽く添えている。
「昨日は大変でしたわね。エヴァンズ様を助けられたとか」
柔らかな口調だ。だが、“とか”の部分にわずかな曖昧さがある。目撃していたはずなのに、確信を持たせない言い方。噂へ変わる余地を残す話し方だ。
前世でも、こういう人がいた。
はっきり悪意を見せない。
ただ、相手の立場がゆっくり崩れるように、曖昧な言葉を置いていく。
「大したことではありません」
セラフィーナは淡々と返した。
「まあ。では、火傷も“大したことではない”のでしょうか」
マルグリットの視線が、手袋越しの腕へ落ちる。周囲の空気が少しだけ揺れた。誰かがもう見ていたのだ。昨日の茶会の一件は、すでに小さな話題になっているらしい。
セラフィーナは表情を変えなかった。
「ええ。騒ぐほどでは」
「そう。わたくしなら泣いてしまいますわ」
くすくすと、彼女はよく通る上品な笑い声を立てた。周囲の令嬢たちも曖昧に微笑む。悪意は露骨でないほど厄介だ。ここで怒れば「やはり怖い人」となる。黙れば「図星だから」と受け取られる。
そのとき。
「昨日は、私を助けてくださいました」
まっすぐな声が、温室のぬるい空気を切った。
振り向くと、リディア・エヴァンズが立っていた。今日は若草色のリボンを髪に結んでいて、雨の日の薄い光の中でもその若葉色の瞳ははっきりと明るい。
彼女は緊張した顔のまま、それでも一歩、セラフィーナのほうへ寄った。
「大したことではないなんて、そんなことありません。私、階段から落ちるところでした」
温室の空気が止まったのを感じた。
マルグリットの笑みがほんの一瞬だけ薄くなる。
「エヴァンズ様」
彼女はすぐに口元へ扇を戻した。
「わたくし、そういう意味で申し上げたわけでは」
「なら、よかったです」
リディアはにこりともせずに言った。
その素直な顔立ちでは珍しい、きっぱりした声だった。
セラフィーナは彼女を見た。
前世のリディアは、こういう場でわざわざ自分を庇ったりしなかった。もちろん、今の彼女は庇っているつもりすらないのかもしれない。ただ事実を言っただけだ。それでも、その事実がどれほど重いかを、セラフィーナは知っている。
「……ありがとうございます、エヴァンズ令嬢」
言うと、リディアは少しだけ目を大きくしてから、頬を染めた。
「い、いえ。お礼を言うのは私のほうです」
会話が成立している。
そんな当たり前のことが、なぜだか少し怖かった。
間もなく、温室の中央近くが騒がしくなった。王太子レオンハルトが入ってきたのだ。周囲の視線が一斉にそちらへ流れ、空気が華やいだように見える。彼は慣れた笑みを浮かべつつ、生徒たちへ平等に声をかけていく。だが、その青い瞳が一瞬だけこちらを捉えたのを、セラフィーナは見逃さなかった。
すぐに彼のそばへ、何人もの令嬢と、それからリディアが呼ばれる。昨日自分がそうしてほしいと言ったせいか、それとも偶然か。どちらでもよかった。
セラフィーナは人の輪から少し外れたテーブルへ移った。温室の奥、蔓薔薇のアーチが見える席だ。雨音はここでも聞こえるが、中央より少しだけ遠い。甘い菓子の匂いも、花の香りも、少しだけ薄まって感じられる。
「隣、よろしいですか」
淡い水色の声に顔を上げる。
ノエル・アシュクロフトだった。
今日も青みのある銀髪はきれいに整えられ、白い指先には薄い本が一冊抱えられている。茶会へ本を持ってくるあたり、彼らしい。
「どうぞ」
セラフィーナが言うと、ノエルは少しだけ意外そうな顔をした。まるで断られると思っていたみたいに。
「……昨日の続きを読みたかっただけで、話をしに来たわけではありません」
「ええ」
「その反応、少し腹が立ちます」
「どちらを期待していたの」
「さあ」
そう言いながら彼は席についた。長い指が椅子の背に触れる音まで静かだ。彼の体温は周囲の華やかさと相性が悪い。だからこそ、セラフィーナにとっては幾分落ち着く。
給仕役の生徒が紅茶を注いでいく。湯気とともに柑橘の皮を少し加えた茶葉の香りが立った。セラフィーナは無意識に、卓上に並ぶ菓子を見た。
小さなタルト。蜂蜜焼きのナッツ。薔薇の砂糖菓子。
そして、薄く透けるような橙色のゼリーを載せた小さな焼き菓子。
そこで、記憶が引っかかった。
前世。
温室。
ノエルの青ざめた顔。
落ちるカップ。
誰かが「毒では」と息を呑む声。
そして、彼の皿に載っていた橙色。
セラフィーナの指先が、わずかに震えた。
「どうかしましたか」
ノエルが気づいて問う。
彼はまだ何も知らない顔をしている。長い睫毛の奥の瞳は静かで、ただ少し疲れて見えた。雨の日は体調が優れないことが多いと、前世のぼんやりした記憶が囁く。
「……そのお菓子」
セラフィーナは言いかけて、言葉を飲んだ。
どうして止めるのか。
どう説明するのか。
未来を知っているから、とは言えない。
けれど止めなければ、また彼は具合を悪くする。そしてそこへ、都合のよい噂がかぶさる。
その間にも、ノエルは無造作に橙色の焼き菓子へ手を伸ばした。
「それ、食べないで」
思わず、はっきり言っていた。
ノエルの手が止まる。
周囲のざわめきはまだ遠いが、同席していた令嬢たちがこちらを見た気配がある。
「……理由を聞いても」
「あなた、今朝も星雛草の調整薬を飲んだでしょう」
ノエルの瞳がはっきりと揺れた。
セラフィーナの背中を、冷たいものが走る。踏み込みすぎた。彼の常用薬まで知っている公爵令嬢。事情を知らない者が聞けば不自然だ。
だがもう遅い。
「あれと橙花蜜は相性が悪いわ。動悸がひどくなる」
ノエルは完全に言葉を失っていた。白い指先が皿の上で止まり、薄い唇がわずかに開く。周囲の数人が息を呑んだのがわかった。
「どうして」
掠れた声だった。
「どうして、あなたがそれを知っているんです」
その問いに、セラフィーナは一瞬だけ目を伏せた。
どうして。
前世であなたが倒れたから。あなたの手からカップが落ちて、床に紅茶が散って、そのあとに誰かが毒だと言い出して、わたくしは疑われ、あなた自身も混乱した顔でこちらを見た。
そんなこと、言えるはずがない。
「偶然、聞いたことがあったの」
苦しい言い訳だった。自分でもわかる。
ノエルはなおも彼女を見ている。簡単には信じない顔だ。けれど彼は、自分の身体についての話になると嘘がつけない。皿の上の菓子を見下ろし、それからゆっくりと手を引いた。
「……確かに、飲みました。医師には念のため柑橘と花蜜を避けるよう言われています」
周囲の空気が変わる。
疑いから、驚きへ。
そして少しの、興味へ。
セラフィーナは息をついた。ほんの少しだけ力が抜ける。
止められた。少なくとも、今回は。
そのとき、背後から柔らかな笑い声が落ちてきた。
「まあ、セラフィーナ様はアシュクロフト様の体調にまでお詳しいのですね」
マルグリットだった。扇の向こうの笑みは可憐だが、その目はまったく笑っていない。
「ずいぶん親しいご様子ですこと」
周囲に小さな波紋が走る。
その一言だけで意味が変わる。善意の忠告が、妙な親密さを匂わせる言葉にすり替えられる。そうやって噂は生まれる。
セラフィーナはゆっくり顔を上げた。
「体調管理に気を配ることが“親しい”に入るのなら、あなたもそうなさるといいわ」
温度の低い声だった。
「学園では誰がいつ倒れてもおかしくありませんもの」
それだけ言って、彼女は紅茶へ口をつけた。
ほんの少し冷めている。柑橘の香りの奥に、茶葉の渋みが残る。
マルグリットは一瞬だけ表情を止め、それから上品な笑みを戻した。だが、その目の奥に小さく刺さるものが残ったのを、セラフィーナは見た。
「怖い人」ではなく、「言い返す人」になった。
それだけでも、相手の反応は変わる。
温室の中央では、雨音の向こうから誰かの笑い声が上がった。レオンハルトの声も混ざっている。彼はリディアと何かを話していたが、ふとこちらを見た。その視線が、自分とノエルの卓に一瞬だけ留まる。
面倒だ、とセラフィーナは思った。
誰も愛さず、静かに暮らしたいだけなのに。
なのに一日一日、小石みたいな出来事が次々と波紋を広げていく。
ノエルが低く言った。
「あなた、嘘が下手ですね」
セラフィーナはカップを置いた。
「何のこと」
「“偶然聞いた”のところです」
「失礼ね」
「本当に」
彼は珍しく、ほんの少しだけ口元を緩めた。笑うというほどではない。けれど、昨日の書庫よりは明らかに空気が柔らかい。
「でも、助かりました」
その言い方は不器用だった。
おそらく彼なりにかなり精一杯の礼なのだろう。
セラフィーナは視線を逸らした。
「別に、礼はいらないわ」
「昨日も同じことを言っていました」
「二度も礼を言われると慣れないの」
「では慣れてください。あなた、昨日から人を助けすぎです」
その言葉が思いのほか深く刺さった。
助けたいわけではない。
同じ破滅を避けたいだけ。
なのに、人を助けたと受け取られる。そんなふうに見られること自体が、セラフィーナにはまだ恐ろしい。好意の始まりは、いつだって期待と表裏一体だから。
彼女が返す言葉を探していると、リディアがそっと近づいてきた。王太子の輪を抜けてきたらしい。頬にはまだ少しだけ熱が残っていて、けれど表情は昨日より落ち着いている。
「セラフィーナ様」
呼びかけられて、セラフィーナは顔を上げた。
「昨日のお礼を、ちゃんと言えていなかったので」
リディアは両手を前で重ね、小さく頭を下げた。
「助けてくださって、ありがとうございました」
温室の柔らかな空気の中で、その声だけがひどくまっすぐだった。周囲に聞かせるための声ではない。ただ、本人が言いたくて言う礼の声。
セラフィーナは一瞬、何を返していいかわからなかった。
あまりに真正面から来られると、自分の鈍い感情はうまく受け止めきれない。
「……怪我がなくてよかったわ」
やっとそれだけ言う。
リディアはほっとしたように笑った。若葉色の瞳がやわらかく細まり、その笑みには前世で自分へ向けられていた緊張がほとんどない。
「それから」
彼女は少しだけためらってから続けた。
「また、お話してもいいですか」
セラフィーナは息を止めた。
また。
その一言は思っていた以上に重かった。
人と関わらない。深くならない。誰も愛さない。
そう決めた心の薄い膜の上に、小さな指先でそっと触れられたみたいな感覚だった。
断ればいい。
それが正しい。
今の自分に必要なのは静かな孤立だ。人に近づかれれば、そのぶんだけ未来は読めなくなる。
なのに、目の前の少女は、昨日自分を怖がっていた子だ。たった一日でそう簡単に心を許したとは思えない。きっと相手も勇気を出している。その勇気を、今ここで切り捨てるのは。
セラフィーナは、自分の指先が手袋の内側でそっと縮むのを感じた。
「……少しなら」
声は驚くほど小さかった。
けれどリディアにはきちんと届いたらしい。彼女の顔がぱっと明るくなる。春の温室に咲く花より、よほど率直な表情だった。
「はい」
その返事に、胸の奥がかすかに軋む。
こんなふうに喜ばれると、困る。
困るのに、嫌ではなかった。
少し離れた場所で、それを見ていたレオンハルトが静かに目を細めたのを、セラフィーナは視界の端で捉えた。青い瞳は読めない色をしている。昨日までなら、自分とリディアがこんなふうに会話する場面は想像もしなかっただろう。
さらに、そのさらに外側にはカイルがいた。騎士として壁際に控えながらも、灰色の瞳だけはしっかりこちらを見ている。彼の視線の中から、あからさまな断罪が少しずつ剥がれ始めていることを、セラフィーナは認めざるを得なかった。
雨はまだ降っている。硝子天井を打つ音は一定で、温室のぬくもりの中ではどこか子守歌みたいにすら聞こえる。花々の匂いは濃く、紅茶の蒸気は柔らかく立ちのぼり、誰かの笑う声が遠くで弾ける。
その中心に、自分がいる。
正確には、そうなり始めてしまっている。
セラフィーナはカップを持ち上げながら、心の中でそっと繰り返した。
やさしくしないで。
そんなふうに近づかないで。
わたくしは、もう誰も愛さないと決めたのだから。
けれど、そう願う一方で、胸のどこかがすでに昨日より少しだけ温かいことも、彼女は知ってしまっていた。
温室の外では、春の雨が静かに学園を洗っている。
そしてその雨音の下で、処刑された悪女の二度目の人生は、また一つ、小さく予定を狂わせていくのだった。
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長年の裏切りを抱え、離縁状を置いて家を出た――。
待っていたのは、凍てつく絶望。
けれど同時に、それは残酷な運命の扉が開く瞬間でもあった。
「夫は愛人と生きればいい。
今さら縋られても、裏切ったあなたを許す力など残っていない」
それでも私は誓う――
「子どもたちの心だけは、必ず取り戻す」
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