婚約者の母に疎まれ続けたので、結婚直前ですが先に別の公爵家へ嫁ぎます~今さら惜しまれてももう戻りません~

なつめ

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第3話 形見の耳飾り


 その耳飾りを手に取る時だけ、ネフェリナの指先は少し慎重になる。

 普段の装身具と同じように、ただ箱を開き、ただ選び、ただ身につけるという動作では済まない。小さな錠を外し、淡い絹をめくり、そこに収められた銀細工を見つめるまでのわずかな間に、呼吸の速さがひとつ変わる。胸の奥に沈んでいた記憶が、まるで薄い水の底から浮き上がるように、静かに形を取り始めるのだ。

 春の終わりだった。

 朝の光はまだ柔らかく、窓辺の白いカーテンを透かして、部屋の中へ淡い乳色の明るさを流し込んでいた。庭では早咲きの薔薇がいくらか開き始めていて、風が通るたび、青い葉の匂いに混じってごく薄い甘さが室内へ届く。今日は王都の大きな夜会がある。侯爵家の娘として、そしてフェルゼン伯爵家の婚約者として、ネフェリナも出席しなければならない席だった。

 鏡台の前には、今夜のために整えられた品が並んでいる。夜の光を受ければ鈍く青を返す灰銀のドレス。首元へ沿わせる繊細なレース。手袋。小さな靴。整然と並べられたそれらは、どれも上品で、どれも過不足がない。いつものように、控えめで、目立ちすぎず、それでいて見劣りはしない装いだ。

 ネフェリナは鏡の前へ座ったまま、侍女のミレナが用意してくれた耳飾りの盆を見ていた。真珠。薄青の宝石。細い銀の房。今の流行に沿ったものがいくつか。どれを選んでも無難だろう。誰にも何も言わせないためなら、たぶん、その中から選ぶのが正しい。

 けれど、その朝の彼女は、どうしても別の箱のことを忘れられなかった。

「お嬢様?」

 ミレナが髪を梳きながら、鏡越しに呼びかける。櫛が亜麻銀の髪をゆっくりと滑り、さらり、さらりと乾いた音が室内へ落ちる。

「……あの小箱を取ってくださる?」

「小箱、でございますか」

「ええ。母の……装身具を入れている、象牙色の」

 ミレナは一瞬だけ手を止めた。ほんのわずかな間だったが、その沈黙に込められた意味はネフェリナにも分かった。今夜の夜会へ、あれを身につけるのかと、彼女は思ったのだろう。驚きでも反対でもない。ただ、少しだけ、慎重になる気配。

「かしこまりました」

 ミレナは何も言わず、棚の奥から小さな箱を持ってきた。象牙色の蓋には花蔓の細工が施され、角の金具は長年の手触れでわずかに艶を失っている。母が生前使っていたものだ。

 ネフェリナはその箱を膝の上へ置き、指先で錠を外した。

 内側には、今では少なくなってしまった母の遺品が静かに眠っている。指輪。小さなブローチ。古い髪飾り。そして、銀細工に淡い青玉を下げた耳飾り。派手ではない。むしろ控えめで、今の流行からすれば少し昔の意匠かもしれない。細い銀の輪に、露を思わせる薄青の石が一粒揺れ、その上を、花弁のような細工が包み込む。光を正面から浴びれば清楚にきらめき、影に入れば、青が少し灰へ寄る。

 ネフェリナがまだ幼かった頃、母はこの耳飾りを春と初夏の夜会でよく身につけていた。首筋にかかるゆるい巻き髪の間で、石が揺れるたび、薄い水のような光が生まれた。幼いネフェリナはそれを見るのが好きで、抱き上げられたとき、つい指を伸ばしてしまい、母にやさしく手を包まれたことがある。

「これはね、揺れるから綺麗なの」

 母はそう言って笑った。

「でも、強く引いたら壊れてしまうの。綺麗なものほど、少しだけ繊細なのよ」

 その笑顔の記憶は、細いガラスの中に封じられた光みたいに、今でもネフェリナの中に残っている。

 彼女は耳飾りをひとつ持ち上げた。ひんやりとしていた。朝の光を受けた銀は冷たく、石の表面は小さく曇って見える。その冷たさが、かえって確かなもののように思えた。母の手から離れ、今は自分の掌の上にある。失ってしまったもののなかで、いまも触れられる数少ないひとつ。

「それになさいますか」

 ミレナが静かに訊ねた。

 ネフェリナは耳飾りを見つめたまま、小さく息を吐いた。

「……ええ」

「今夜の夜会はお顔触れも多うございます。ほかのもののほうが、より流行には沿っておりますが」

 言い方は柔らかかった。止めるのではない。ただ、確認するように。侍女として、主人があとで傷つかぬよう先に道を整える、そういう種類の慎重さだった。

 ネフェリナは少しだけ笑った。

「分かっているわ」

 分かっている。

 メルゾア伯爵夫人がどういう目で見るかも、何か言うかもしれないことも、分かっている。たぶん、オルネッタ叔母も、父も、誰も口にはしなくても同じことを思うだろう。今の流行ではない。今の伯爵家の婚約者としては、やや個人的すぎる選択だと。

 けれどその朝のネフェリナは、どうしても、母のものをつけて行きたかった。

 理由を言葉にするのは難しい。母を思い出したかったのかもしれない。あるいは、最近の自分があまりに相手の家へ合わせすぎていて、どこまでが本当に自分の好みなのか分からなくなっていたからかもしれない。ただ、少なくとも一つくらいは、自分の中に残っているものを連れて行きたいと思った。誰かに選ばれたものではなく、自分が大切だと感じるものを。

 ミレナはそれ以上何も言わず、ネフェリナの耳元へ慎重に耳飾りを留めた。金具が耳朶へ触れる冷たさが、一瞬だけ身を竦ませる。けれど揺れた石が頬のそばで小さく光るのを鏡で見たとき、ネフェリナは胸の奥でほそく張っていた何かが、ほんの少しだけ緩むのを感じた。

「……お母様に、少し似るかしら」

 思わずそう零すと、ミレナは鏡越しに微笑んだ。

「ええ。とてもお似合いでございます」

 ネフェリナは微笑み返した。自分が母に似ているとは、普段あまり考えない。顔立ちよりも、亡くなってしまった人の記憶ばかりが先に浮かぶからだ。けれどこうして耳元へ同じ光を下げてみると、母が夜会の前に鏡の前へ座っていた後ろ姿の輪郭が、ふと自分の身体に重なったような気がした。

 それだけで、今夜は少しだけ耐えられるような気がした。

 夜会の会場は、王城にほど近い古い宮殿風の館だった。

 夕刻を過ぎた空は薄紫から深い青へゆっくり変わり、石造りの外壁には無数の灯りが揺れていた。馬車を降りると、夜気はまだ春のやわらかさを残しつつも、素肌へ触れる先だけ少し冷たい。広い階段を上がるあいだ、ドレスの裾が石段を撫で、靴音が周囲のざわめきにかすかに混ざる。夜会へ集う人々の衣擦れ、笑い声、御者が馬を宥める低い声、近くを通る香水の甘い残り香。すべてが煌びやかに渦を巻き、その中心へ今から自分も入っていくのだと思うと、ネフェリナは自然に背筋を伸ばした。

 会場の大広間は眩しいほど明るかった。高い天井からは幾層にも枝分かれした燭台が吊り下がり、磨き上げられた床へ黄金色の光を落としている。壁には濃色の布と鏡が配され、楽団の奏でる弦の音が絶え間なく空気を満たしていた。酒と花と香の匂いが重なり、熱のある人いきれがゆるやかに広がっている。

 ネフェリナは挨拶を交わしながら会場を進んだ。視線が集まる。侯爵家の娘としても、フェルゼン伯爵家の婚約者としても、それは避けられない。だから歩幅を一定にし、表情をやわらかく保ち、誰に見られても不足のない姿勢を保つ。それはもう、習い性のようなものだった。

 しばらくして、フェルゼン伯爵夫妻とローディアスの姿が見えた。

 メルゾアは深い紫のドレスをまとい、今日も完璧に整っていた。年齢を重ねた美しさとでも言うべきものがある。鋭さを決して表へ出さず、上品さだけで輪郭を作る人。だからこそ余計に厄介なのだと、ネフェリナは知っている。

「ごきげんよう、伯爵夫人」

「ごきげんよう、ネフェリナ様」

 メルゾアは微笑んだ。目元も口元もきちんと整っている。その視線がネフェリナの顔から首元へ、そこから耳元へ滑るまで、ほんの一瞬だった。

 その一瞬で、ネフェリナは喉の奥が細くなるのを感じた。

 気づかれた。

 当然だ。気づかれないはずがない。あの人は細部を見る。見て、見たことを決して逃さない。

「今夜もお綺麗ね」

 メルゾアが言う。

「そのお色、とてもよくお似合いですわ。落ち着いていて、控えめで。あなたの持ち味には、そういう色が本当によく合うこと」

 褒め言葉に聞こえる。実際、周囲にいた何人かは穏やかな微笑で頷いていた。けれどネフェリナにはもう、その言葉の裏側が分かる。華やかではない、目を引くわけではない、けれどあなたにはその程度がちょうどよい。そういう含みを、この人はいつもやわらかな布で包んで差し出す。

「ありがとうございます」

 ネフェリナは礼を述べた。

 メルゾアの視線が、再び耳元へ落ちる。

「まあ」

 その一語は、ほとんど吐息のように軽かった。

「耳飾り、少し古い趣味ですこと」

 空気が、ごくわずかに止まった。

 ほんの一瞬だ。楽団は演奏をやめないし、周囲の談笑も消えない。大広間の光も熱も香りも、そのままそこにある。けれどネフェリナにとっては、その一言だけがやけに鮮明に響いた。銀の縁へ爪を立てたような細い音で、真っ直ぐ胸の奥へ入ってくる。

 少し古い趣味。

 ただそれだけだ。露骨な悪意はない。誰かが聞けば、流行についての軽い感想にも取れる。だがネフェリナには、あれがただの耳飾りについての言葉ではないと分かった。

 これは母のものだ。

 母が好んで身につけたものだ。

 幼い自分が憧れた光だ。

 その全部をひとまとめにして、古い、と。いまに合わない、と。そう言われたのだ。

 ネフェリナは瞬きひとつせずに微笑を保った。そうしなければならないと身体が先に知っていた。ここで表情を崩せば、気にしすぎだと思われる。否定すれば、場を悪くするのは自分の側になる。だから口元へやわらかな線を残したまま、息だけを浅く整える。

「亡き母の遺したものなのです」

 そう答えた声は、自分でも驚くほど静かだった。

 メルゾアは、あら、という顔をした。わざとらしくはない。だがちょうどよく、相手が言葉に困る程度には整った驚き方だった。

「そうでしたの。まあ、それは失礼いたしましたわ」

 謝罪の形をとりながら、その声には少しも後悔の濁りがない。

「思い出のお品でしたのね。ただ、そうですわね……思い出は大切ですけれど、若い方には若い方らしい華やぎもございますでしょう。身につけるものは、今のご自分を最も引き立てるものを選んだほうが、よりお美しく見えることもございますもの」

 周囲の誰かが曖昧に笑った。会話はそこで終わったように見えた。別の話題が差し込まれ、別の名前が呼ばれ、場はそのまま滑るように流れていく。

 けれどネフェリナの中では、その言葉は終わらなかった。

 耳元の青い石が、急に重く感じる。ほんの小さな装身具のはずなのに、まるでそこだけが熱を失っていくようだった。母の面影を抱きたくて選んだものが、この場では「いまの自分にはふさわしくない古さ」として扱われる。しかも、それを言った相手は、そのことを何とも思っていない。

 ネフェリナはひとつ息を吸った。肺へ入る空気に、花の匂いと人いきれと蝋の匂いが混じる。甘い。温かい。なのに喉の内側だけが冷たかった。

「ネフェリナ」

 ローディアスがそっと名を呼ぶ。

 いつの間にか、彼は少し近くへ来ていた。榛色の瞳に、わずかな戸惑いがある。母の言葉を聞いていたのだろう。聞いて、何かまずいと感じたのだろう。けれど、その「まずさ」が何から来ているのかを、たぶん彼はまだ正確には掴めていない。

「少し向こうで休もうか」

 ネフェリナは首を横に振った。

「大丈夫よ」

「でも」

「平気」

 言い切ってから、彼の顔を見る。彼はそれ以上何も言えなかった。困ったように眉を寄せ、それから周囲へ気を配るように視線を逸らす。その姿を見た瞬間、胸の奥で、ごく小さく何かが軋んだ。

 助けてほしい、とまではまだ思っていなかったのかもしれない。

 ただ、せめてその場で、母上、と一言でも言ってほしかった。いまのは違う、と。そういうことを言うべきではない、と。たったそれだけでもあれば、耳元の冷たさは少し違ったはずだった。

 けれど彼は、そうしなかった。

 大広間では楽曲が変わり、弦の音がより華やかな調子へ移っていった。笑い声が重なる。グラスの触れ合う硬質な音があちこちで小さく鳴る。ネフェリナは次々に差し出される挨拶へ応じ、必要な笑顔を作り、聞かれたことへ不足なく答えた。身体はいつものように動いた。相手の目を見て、言葉を選び、間を外さず、失礼のない角度で頭を下げる。何年もかけて身につけた習慣が、こういう時ほど役に立つ。

 けれどその間じゅう、耳元の青い石が微かに揺れるたび、さっきの一言が蘇った。

 少し古い趣味ですこと。

 母が、それほど古い人だったのだろうか。

 あの優しい手も、朝の花を指さす声も、夜会の前に鏡越しで笑った横顔も、ここではただ「今の若い娘を引き立てないもの」に変わってしまうのだろうか。

 思考は何度もそこへ戻る。戻ってはいけないと分かっているのに、心の傷のように、そこだけが触れられるたび痛む。

 しばらくして、ネフェリナは会場の隅にある回廊へ出た。大広間に比べれば人は少なく、夜の空気が少しだけ入り込んでいる。石壁に沿って並ぶ窓は半ば開けられ、外の庭から湿った草の匂いが流れてきた。灯りはあるが本会場より柔らかく、遠くから聞こえる音楽も、ここでは薄い膜を隔てたように響く。

 ネフェリナは窓辺へ立ち、そっと耳元へ触れた。青い石はまだ冷たかった。自分の体温では温まらない種類の冷たさに思える。指先で触れてみると、表面は滑らかで、昔と変わらず細い銀の縁が繊細だった。

「母上も、ああいう言い方をしなくてもいいのに」

 背後からローディアスの声がした。

 ネフェリナは振り返る。彼は少しだけ肩を落として立っていた。会場では人目があるからか、今のほうがまだ本音に近い顔をしている。困っている。気まずい。たぶん、ネフェリナを傷つけたかもしれないことは分かっている。

「驚いたよ。君が、お母上の耳飾りをつけているなんて知らなかったから」

 その言い方に、ネフェリナは一瞬だけ違和感を覚えた。そこなのだろうか、と。傷ついたかどうかではなく、事前に知らなかったことが意外だったというような口ぶり。

「……今夜は、どうしてもつけたかったの」

「そうか」

 ローディアスは頷いた。しばらく何か言おうとして、結局、視線を少し逸らす。

「母も、悪気はないんだ」

 その一言で、回廊の空気が急に冷えた気がした。

 ネフェリナは黙った。遠くで楽器が鳴っている。窓の外で葉が擦れる。誰かが大広間の向こうで笑う。そのすべてが、いまだけ少し遠くなる。

「流行の話のつもりだったんだと思う」

 ローディアスは続ける。

「母上は、そういう言い方をする時があるけれど……でも本当に、君を傷つけようとしているわけじゃない」

 ネフェリナはしばらく返事ができなかった。

 傷つけようとしていない。

 悪気はない。

 だから、何だというのだろう。

 もし本当に悪気がないのだとしても、その言葉で傷ついた事実は消えるのだろうか。母の思い出に触れられた時、胸の奥へ走ったあの痛みは、相手に悪意がなければ存在しないことになるのだろうか。

 そして何より、ローディアスは、いまこの瞬間にも、自分の母の側へ立っている。

 彼はネフェリナを慰めているつもりなのだろう。だが実際には、まず先に母の無害さを保証し、そのあとで婚約者の傷へ薄い布をかけようとしている。順番が違う。あまりにも違う。

 ネフェリナは、窓辺に置いた指先へそっと力を込めた。冷たい石の感触が掌へ返る。その硬さに触れていなければ、今にも自分の輪郭が揺らぎそうだった。

「ねえ、ローディアス様」

 自分の声が驚くほど静かであることに、ネフェリナ自身が一番驚いた。

「もし、私が同じことを言われていない誰かだったとしても、あなたは同じように『悪気はない』と仰るの?」

 ローディアスは目を見開いた。

「それは……」

「母の形見だと知ってからも?」

「ネフェリナ」

 彼は困ったように名を呼んだ。まるで彼女の問いが難しすぎるとでも言うように。だが本当は、難しいことではない。してほしかったのは複雑な弁明でも丁寧な仲裁でもない。たった一つ、いまのは違うと言ってほしかっただけなのだ。

「君を悲しませたなら、僕も嫌だよ」

 その答えは、ひどく曖昧だった。

 嫌だよ。

 だから何をするのか、そこがない。嫌だと思う。気の毒だと思う。少し申し訳なく感じる。けれど行動はしない。母へはっきり言わない。いまの言葉を誤りだと断じない。ただ悲しんでいる婚約者の前で、困った顔をしてみせるだけ。

 その時、ネフェリナの中で何かが初めてはっきりした。

 それは大きな絶望ではなかった。劇的な裏切りでも、急に世界が変わるような衝撃でもない。もっと静かで、もっと冷たい種類の理解だった。

 この人は、私を守ってはくれないのだ。

 優しい時はある。穏やかな言葉をくれる時もある。気遣ってくれることも、きっと本当なのだろう。けれど、肝心なところで、この人は自分の立つ位置を変えない。母と婚約者の間で、あいまいに揺れ、最後には必ず、自分が一番傷つかないほうへ落ちる。

 守ってほしい相手に、守られていない。

 その事実は、耳元の一言よりも、もしかすると深く胸へ刺さった。

 ネフェリナは、そこで初めて、自分がずっと何を期待していたのかを知った。メルゾアに認められたいと努力してきた。けれどその一方で、どこかではずっと、ローディアスが最後には自分の側へ立ってくれるのだと思っていたのだ。だから耐えられたのだ。だから、次こそはと自分を整え続けられたのだ。

 その前提が、いま、音もなく崩れた。

「ネフェリナ?」

 ローディアスが不安そうに覗き込む。ネフェリナはその顔を見た。柔らかい瞳。誠実そうな口元。少し頼りなく下がる眉。知らない人が見れば、十分に優しい青年だと思うだろう。

 だがその優しさは、いまこの瞬間の彼女を支えるには、あまりにも軽かった。

「……もう戻りましょう」

 ネフェリナは言った。

「ここに長くいると、かえって人目を引いてしまうわ」

「でも」

「大丈夫」

 その言葉を口にした時、自分の中の何かがひどく冷めているのが分かった。先ほどまでの痛みとは別の温度だった。熱を持って傷つくのではなく、芯の部分だけが静かに凍っていくような感覚。

 ローディアスはなおも何か言いたそうだったが、結局は言わなかった。彼はいつもそうだ。あと一歩のところで止まる。踏み込まず、断言せず、誰かを本気で選ぶ形を取らない。

 二人で大広間へ戻る途中、ネフェリナはふと、自分の足音が驚くほど規則正しいことに気づいた。ドレスの裾は乱れず、呼吸は安定し、顔の筋肉もきちんと動いている。まだ何ひとつ壊れていない。外から見れば、先ほどまでと何も変わらない婚約者の姿がそこにある。

 なのに内側だけが、どこか少し違う場所へ来てしまったようだった。

 夜会が終わるまで、ネフェリナは完璧に振る舞った。

 笑顔も、受け答えも、仕草も、すべて不足なく。メルゾアと再び顔を合わせた時にも、何事もなかったように礼を尽くした。相手もまた何事もなかった顔で応じた。たったあれだけの会話が、表面上は跡形もなく消えている。そのことがかえって、ネフェリナの胸を白く冷やした。

 帰りの馬車では、窓の外に流れる夜景がひどく遠かった。石畳を打つ車輪の音も、御者の声も、馬の鼻息も、薄い膜を一枚隔てた向こう側で鳴っているように聞こえる。向かいに座るミレナが何度か様子を窺ったが、ネフェリナは「平気」としか答えなかった。

 本当に涙は出なかった。

 怒りで身体が震えることもなかった。

 ただ、耳元へ揺れる青い石が、行きの時よりもずっと重かった。母の思い出を連れて行ったはずなのに、戻る頃には、その思い出の上へ他人の言葉が薄く降り積もっている気がした。古い。今には合わない。若い華やぎを邪魔する。そういう意味の冷たい粉が。

 屋敷へ戻り、自室の鏡の前へ立つ。

 ミレナが後ろへ回り、「外しましょうか」と訊ねた。ネフェリナは少しだけ迷ってから頷いた。

 金具が外れる。耳朶から重みが離れる。その瞬間にようやく、肩の力が抜けるのが分かった。ミレナが耳飾りを掌に載せて差し出す。薄青の石は室内の灯りの下で静かに光っていた。美しいままだ。何ひとつ変わっていない。なのに、自分の中だけが違って見える。

 ネフェリナはそれを受け取った。

 石はまだ少し冷たい。指先で包むと、ようやくほんの少しだけ温度が移る。

「……古くなんてないわ」

 思わず、小さく呟いていた。

 ミレナは何も言わなかった。ただ、主人がその言葉を誰へ向けているのか、きっと分かっていた。

 ネフェリナは耳飾りを見つめた。母がこれをつけていた夜のことを思い出す。笑った顔。香り。抱き上げられた時の腕の温度。あの人は古かったのではない。ただ、もうこの世にいないだけだ。時代が違うのではない。ただ、失われた時間があるだけだ。

 なのに今日、自分はそれを守れなかった気がした。いや、もっと正確に言えば、守ってほしい相手に、守られなかったのだ。

 ローディアスの「母も悪気はない」という声がまた蘇る。

 悪気はない。だから仕方がない。だから気にしすぎるな。だから、こちらが飲み込めば丸く収まる。

 その理屈の中で、ネフェリナだけがいつも少しずつ削られていく。

 鏡の中の自分は静かだった。涙の跡もない。髪も崩れていない。頬の色もひどくは変わらない。けれど目だけが、少し違って見えた。何かを失った目だと、自分で分かる。

 期待だ。

 たぶん、失ったのはそれだ。

 メルゾアに認められる期待ではない。ローディアスが、いざという時には自分を庇ってくれるかもしれないという、細く弱い、それでもずっと持ち続けてきた期待。

 それが今夜、ようやくはっきりと折れた。

 ネフェリナはゆっくりと耳飾りを象牙色の箱へ戻した。絹の上へ置くと、小さく、硬質な音がした。蓋を閉じる。錠を下ろす。そうして箱を両手で包んだまま、しばらく動けなかった。

 胸は痛い。けれど涙はまだ出ない。悲しみは熱を伴わず、代わりに静かな冷たさで身体の中へ広がっていく。その冷たさが教えてくる。

 この先もきっと、同じことが起こるのだろう。

 別の言葉で。

 別の場面で。

 もっと巧妙に、もっと穏やかに。

 そしてそのたび、ローディアスは困ったように眉を下げ、最後には「悪気はない」と言うのだ。

 ネフェリナはようやく、両手を下ろした。箱を棚へ戻し、鏡から目を逸らす。部屋の中には春の夜のやわらかな空気が満ちていた。遠くで時計が鳴る。誰かの足音が廊下を通り過ぎる。屋敷は静かで、温かく、何も変わらない。

 変わったのは、自分の見方だけなのだと、彼女は思った。

 母の耳飾りは何も悪くない。

 母の思い出も、何も古くない。

 古びていたのは、誰かの優しさに期待し続けた自分の考えのほうだったのかもしれない。

 そう思った瞬間、胸の奥が小さく、けれど確かに痛んだ。

 それはまだ、決別ではなかった。

 けれど、守ってほしい相手に守られていないという事実を、一度知ってしまったあとの痛みだった。


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