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第4話 母の前では何も言えない人
その夜会は、春の名残を惜しむには少し華やかすぎた。
王都南区にある古い侯爵邸の大広間は、季節ごとに開かれる社交の場としてよく知られている。けれど今夜はいつも以上に人が多かった。壁一面に飾られた白と淡金の花々が灯りを受け、天井から下がる燭台の粒ひとつひとつが、床へ細かな光を散らしている。開け放たれたテラスからは夜風が入り、花の匂いと冷えた石の匂い、酒の甘い香り、人いきれの温度、それらが薄い層になって大広間の空気を満たしていた。
弦の音は軽やかで、笑い声はあちこちに弾み、グラスの触れ合う音は絶えない。誰もが穏やかで、誰もがきちんとしていて、どこを見ても「よい夜会」の輪郭しかない。そういう場だった。
ネフェリナは、今夜もフェルゼン伯爵家の婚約者として、その輪の中にいた。
淡い灰青のドレスは夜の光の下で静かに青みを帯び、裾へ行くほど微かな銀の刺繍が浮かぶ。髪は柔らかくまとめられ、耳元には今日は真珠を選んでいた。前回、母の形見の耳飾りを身につけて行った夜のことを、まだ身体がうまく忘れてくれなかったからだ。箱を開けようとして、結局、閉じた。あの青い石へ触れると、メルゾアの「少し古い趣味ですこと」という声が先に蘇る気がして、手が止まったのだ。
母のものを避けた自分が少し嫌だった。けれどそれでも、今夜を穏やかに終えるためならと、ネフェリナは一番無難な真珠を選んだ。
それはもう、考えるより先にしてしまう選択だった。波風の立たないもの。誰にも余計な言葉を与えないもの。自分の好き嫌いより、場が荒れないことを優先するもの。
大広間の中央近くでは、フェルゼン伯爵夫妻が数人の貴族たちと談笑していた。ローディアスもそこにいる。濃紺の礼装に身を包んだ彼は今夜も見目よく、柔らかな物腰で相手に応じていた。榛色の瞳は灯りを映して少し明るく見え、穏やかな表情は相変わらず人当たりがよい。
その姿だけを遠くから見れば、ネフェリナはときどき、何がそんなに苦しいのか自分でも分からなくなる。
彼は乱暴ではない。意地悪でもない。人前で恥をかかせるような真似もしない。声を荒げることも、無神経な冗談を投げることもない。むしろ多くの場面で、彼は十分に優しい。
なのに、どうしてあんなにも心が冷えるのだろう。
その答えを、ネフェリナはまだ完全には言葉にできずにいた。けれど、耳飾りの夜を境に、何かが見え始めていた。これまでは曇った硝子越しに見ていたものが、少しだけ輪郭を持ってきたような感覚がある。
「ネフェリナ様」
明るい声に呼ばれて振り向くと、顔見知りの伯爵令嬢が微笑んでいた。薄黄色のドレスに金の髪飾り。年の近い娘で、夜会では時折言葉を交わす相手だ。
「今夜もお美しいですわね。フェルゼン伯爵夫人のそばにいらしたので、すぐに見つけられませんでしたわ」
「ありがとうございます。あなたもよくお似合いです」
そう返すと、令嬢は嬉しそうに笑った。すぐ近くでは、別の夫人たちが春の遠出について語り合っている。人の気配が何重にも重なり、けれどそれぞれの会話は不思議と耳へ届きすぎない。その絶妙な雑音の中で、ネフェリナはいつも通り、ほどよい温度の会話を返していった。
こうした場での立ち居振る舞いは、もう身体が覚えている。誰とどの程度親しく話すか。どこで話を切り上げるか。笑いすぎないこと。黙りすぎないこと。自分ばかりが目立たぬよう、しかし存在感が消えすぎぬように立つこと。
その均衡を保つのが、年々うまくなってしまった。
少しして、会話の輪が自然にほどけた。ネフェリナはグラスを受け取り、ひとくちだけ果実酒を含む。冷たく甘い液体が舌の上に広がり、喉を下る頃にはかすかな酸味だけが残った。視線を上げると、会場の奥、フェルゼン伯爵家の輪の近くに、ひときわ華やかな娘がいるのが見えた。
レイシェル・オルディス侯爵令嬢。
王都でも名の知れた家の娘で、明るい金髪に華やかな顔立ち、鮮やかな薔薇色のドレスがよく映える。立っているだけで周囲が少し明るく見えるような、そういう人だった。美しいだけでなく話術も巧みで、笑えば自然と人が集まる。社交界では彼女を好ましく語る者が多い。
ネフェリナも、嫌いではなかった。むしろ気さくで、言葉選びのうまい人だと思っている。ただ、今日に限っては、その存在が妙に目に痛かった。
なぜならメルゾアの視線が、その令嬢へ向くときだけ、いつもよりほんの少し満足そうに細められているのが分かったからだ。
「レイシェル様は本当にお見事ですこと」
近くを通りかかった夫人の言葉が耳へ入る。
「明るくて、受け答えも気持ちがよくて。どこへ出しても恥ずかしくありませんわね」
するとメルゾアが、その言葉を待っていたかのように微笑んだ。
「本当に。ああいうご令嬢こそ、理想の伯爵家の嫁というのでしょうね」
その一言は、あまりに自然だった。
会話の流れの中に、するりと差し込まれた。誰かを名指しで貶める形ではない。褒め言葉の一部として、場にふさわしい声音で置かれたもの。だからこそ、周囲の空気がわずかに硬直した瞬間だけが、かえって鮮明だった。
ネフェリナは、まばたきを忘れた。
理想の伯爵家の嫁。
いま、その言葉がどこへ向けられているかを、この場の誰が分からないというのだろう。フェルゼン伯爵家の婚約者であるネフェリナが、この夜会に同席している。ローディアスもいる。そんな場所で、別の高位令嬢を「理想の嫁」と褒める。その無遠慮さを、誰も露骨には咎められない。咎めればするほど、「褒めただけ」の言葉へ過剰に反応する側になってしまうからだ。
けれど、誰もが一瞬、息を止めたのが分かった。
近くにいた夫人の笑みがほんのわずかに固まり、別の貴族はグラスを持つ手を止めた。レイシェル自身も、さすがに気まずそうに目を伏せ、それでも社交の場らしく穏やかな笑みに留めようとしている。
ローディアスも聞いていたはずだ。
ネフェリナは、反射のように彼を見た。
彼は確かに困った顔をした。眉がほんの少し寄り、口元が微かに迷う。けれど、その迷いは行動になる前に、空気の中へ溶けていった。彼は何も言わなかった。何も言えなかった、のかもしれない。だが、結果としては同じだ。
沈黙だけが落ちる。
ほんの数秒だ。なのに、その数秒が異様に長く感じられた。
ネフェリナは背筋を伸ばしたまま、指先へそっと力を込めた。グラスの表面は冷たく、凝った水滴が薄く指へ触れる。その冷たさのおかげで、表情を崩さずにいられた気がした。
メルゾアは周囲の微妙な空気など何でもないように続ける。
「華やかさがあって、なおかつ家格にも不足がないでしょう。どなたが隣に立っても見栄えがするというのは、大きな美点ですもの」
悪意がないとは、とても思えなかった。けれど悪意があると証明するのも難しい言い方だ。見栄え。家格。華やかさ。すべて社交界では当然に価値とされるものばかりで、それを褒めて何が悪いのかと問われれば、答えに詰まるような。
ネフェリナは呼吸を整えた。吸って、吐く。喉の奥が少し乾いている。果実酒の甘さが急に重く感じられた。
その時、レイシェルが気丈にも笑って言った。
「まあ、恐れ多いことですわ。わたくしなど、まだまだ未熟で」
その返しは見事だった。自身へ向いた不自然な褒め方をやんわりと流し、場を乱さぬよう丁寧に退く。相手の令嬢までこんなふうに気を遣わねばならないことに、ネフェリナは胸が静かに痛んだ。
ローディアスはようやく、その時になって口を開いた。
「母上、レイシェル嬢もお困りだよ」
優しく、やわらかく、しかしあまりにも弱い声だった。
メルゾアは、あら、と笑った。
「まあ、褒めただけではありませんか。あなたは本当に気にしすぎね」
それで終わりだった。
ローディアスはその先へ進まなかった。いや、進めなかったのだろう。そこで「そういうことではない」と重ねる強さも、「今のは失礼だ」と言い切る覚悟も、彼にはなかった。
ネフェリナはその一連のやりとりを見ながら、自分の中に薄い氷が一枚ずつ積もっていくのを感じていた。
以前なら、こんな夜でも、あとでローディアスが気遣ってくれれば少しは救われたかもしれない。けれど今は違う。彼がその場で止められなかったという事実が、もうすでに胸の深いところへ落ちてしまっている。
会話の輪はどうにか別の話題へ移り、場は表面上の滑らかさを取り戻した。音楽は続く。誰かが笑う。給仕たちは静かに動く。大広間の空気は先ほどと同じようにきらめいている。なのにネフェリナだけが、その光の中でひどくひんやりとした場所へ立たされた気がした。
そこから先の時間は、ひどく長かった。
何人かと挨拶を交わし、当たり障りのない話をし、必要な笑顔を貼る。誰かがドレスの色を褒め、別の誰かが春の訪れについて語る。楽団の演奏が変わり、踊る組が増え、テラスでは夜風に当たる人々の影が行き交う。その一つ一つへ丁寧に応じながら、ネフェリナの意識の底には、ずっと同じ言葉が沈んでいた。
理想の伯爵家の嫁。
それはつまり、あなたではない、ということだ。
あなたは理想ではない。
もっと家格があって、もっと華やかで、もっと見栄えのする娘がふさわしい。
そういう意味を、柔らかな布に包んで、公衆の前へ置く。
ネフェリナは自分が怒っているのか、悲しいのか、すぐには判別できなかった。ただ、立っているだけで足元の感覚が少し薄くなるような、不安定な冷たさがあった。何かを言えば、きっとその冷たさは怒りへ変わるのだろう。けれど言えない。言った瞬間に、この場を乱す責任が自分へ乗ってしまうことを知っているからだ。
「お疲れではありませんか」
気づけば、近くにいた老夫人が声をかけてくれていた。
「少しお顔色が」
「いいえ、大丈夫でございます」
ネフェリナは微笑んだ。驚くほど滑らかに言葉が出る。こういう時ほど、身体はよく動くのだと自分でも思う。壊れそうなほど張り詰めている時に限って、礼儀だけが完璧になる。
しばらくして夜会は終わりの気配を見せ始めた。帰り支度をする人々が増え、玄関ホールへ向かう流れができる。フェルゼン伯爵家も辞去の準備をし、ネフェリナはローディアスとともに侯爵家の馬車へ乗り込んだ。今夜は帰り道の途中まで同乗することになっていた。よくあることだ。婚約者同士として会話の時間を持たせる、その程度の配慮。
扉が閉まり、車輪が動き出す。
馬車の中は思ったより暗かった。小さなランプが壁に吊るされ、金具が揺れに合わせて微かな音を立てる。窓の外には夜の王都が流れ、石畳を打つ車輪の振動が座面を通して伝わってきた。革張りの座席には昼間の熱が少しだけ残っていたが、夜気を含んだ空気は薄く冷たい。
ローディアスは向かいに座っていた。手袋をした両手を膝へ置き、いつになく口を開かない。ネフェリナもまた、すぐには何も言えなかった。
沈黙だけが、馬車の中で小さく揺れる。
外では誰かの呼ぶ声が一瞬聞こえ、すぐに遠ざかる。蹄の音が規則正しく続く。その単調なリズムを聞いているうちに、ネフェリナの中で、先ほどから押し留めていたものが、静かに一つの形になり始めた。
聞かなければならない。
もう、曖昧なままにはしておけない。
「ローディアス様」
名を呼ぶと、彼はすぐに顔を上げた。
「……何」
「今夜のことなのだけれど」
そこで一度、息を継ぐ。喉の奥が乾いていた。けれど、今ここで飲み込んだら、きっとまた同じことの繰り返しになる。ネフェリナは膝の上へ置いた手を静かに重ね、視線を逸らさずに言った。
「お義母様が、レイシェル様のことを『理想の伯爵家の嫁』と仰った時」
ローディアスの指先がわずかに動いたのが見えた。
「あの場で、あなたは止められなかったわね」
返事はすぐには来なかった。馬車が石畳の継ぎ目を越え、小さく揺れる。ランプの灯りが彼の横顔へ細く揺らめき、榛色の瞳の中の影を少し深くした。
「……すまない」
ようやく返ってきたのは、まず謝罪だった。
「母上も、ああいう言い方をするべきじゃなかったとは思う」
「でも、止めなかった」
「場があっただろう」
ローディアスは少し急いだように言った。
「皆がいる前で、あそこで強く言えば、余計に空気が悪くなる」
「空気が悪くなるのは、私が傷つくより困るの?」
その言葉は、自分で思っていたよりもずっと静かに出た。責める声音ではない。ただ、本当に確かめたいことを、真っ直ぐに置いた声。
ローディアスは目を見開いた。
「そういうことじゃない」
「では、どういうこと?」
ネフェリナは彼を見ていた。ずっと知っている顔だ。少年の頃から少しずつ大人になっていった輪郭。優しい目元。怒鳴らない口調。けれど今、そのどれもが少し遠く見えた。
「私は、今夜あの場で一つだけ知りたかったの」
ネフェリナは言う。
「あなたが、私の婚約者として、そこに立ってくれる人なのかどうか」
ローディアスはすぐに答えられなかった。彼の視線が一瞬だけ窓の外へ逃げる。暗い街並みが流れていく。灯りが線のように揺れる。
「ネフェリナ、僕は君のことを大切に思っているよ」
それはもう何度も聞いた言葉だった。
大切に思っている。
優しい時は、必ずそう言う。
ネフェリナは小さく首を振った。
「それを聞きたいのではないの」
ローディアスが黙る。ネフェリナは自分の指先が冷えていくのを感じていた。だが不思議と震えは来なかった。代わりに、胸の中にあるものがひどく澄んでいた。
「私を守れないのか、それとも守る気がないのか」
はっきり言葉にした瞬間、馬車の中の空気が変わった。
あまりに真っ直ぐで、あまりに逃げ場のない問いだったからだろう。ローディアスの表情が、初めて露骨に揺れた。困惑。痛み。戸惑い。そういうものが一気に浮いて、彼は唇を開き、閉じ、また開いた。
「そんな風に考えたことは……」
「今、考えて」
ネフェリナは遮った。声はまだ静かだ。けれど、自分でも分かるほどそこには熱がなかった。冷え切った刃物みたいに、よく研がれた静けさだった。
「あなたは、いつも『悪気はない』と仰るわね」
耳飾りの夜が脳裏をよぎる。
「お義母様の言葉を、いつもそうやって包んでしまう。気まずそうな顔はする。あとで私に謝ってもくださる。でも、あの方の前では、いつも本当には止めない」
「母上は……」
「母上は、何?」
ローディアスの息が詰まるのが見えた。
「家のことを思っているだけだと、また仰るの?」
「それは事実だ」
「では、私は家のためなら傷ついてもいいの?」
「そんなこと、僕は言っていない」
「言っていないだけで、そうしているのよ」
ネフェリナはそう言ったあと、自分の胸の内側で何かが小さく軋むのを感じた。痛かった。けれど、その痛みはもう隠しようのないものだった。
ローディアスは両手を組み直した。手袋越しでも分かるほど、指に力が入っている。
「君だって分かっているだろう」
彼は低く言った。
「母上は昔からああいう人なんだ。今さら急に変わるわけじゃない。だから僕は、出来るだけ角を立てない形で……」
「角を立てない形で?」
ネフェリナは反復した。
「それは誰のための形なの?」
「皆のためだよ」
「皆、には私も入っているの?」
また沈黙が落ちた。
車輪の音がやけに大きく聞こえる。窓の外では夜の石畳が濡れたように鈍く光り、通りの灯りがときおり馬車の中へ薄い影を落とした。その明滅の中で、ローディアスの顔が少しずつ苦しく歪んでいく。
ネフェリナはその顔を見て、ああ、と思った。
彼は答えを持っていないのではない。持っているのに、それを言えないのだ。
母を選んでいる。
いつもそうだ。
けれどそれを口にしてしまえば、自分がどれほど彼女を傷つけてきたか、はっきり認めることになる。だから彼は曖昧な言葉の中へ隠れ続ける。
「僕は、争いたくないんだ」
ようやく絞り出すように言ったその言葉は、あまりにも弱かった。
「君と母上がぶつかって、家の中がぎくしゃくして、そんな風になるのは望んでいない」
「だから、私が黙っていればいいのね」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
ネフェリナは訊ね続けた。責めたいからではない。本当に、知りたかったのだ。この人が何を優先しているのかを。これまでずっと曖昧にされてきたものの正体を。
ローディアスは苦しそうに眉を寄せた。
「君は聡い人だから、少しは流してくれてもいいだろう」
その一言が、馬車の中で冷たく響いた。
ネフェリナは瞬きを忘れた。
流してくれてもいいだろう。
つまり彼は、自分が傷つくことを理解した上で、それでもなお、耐える側であってほしいと望んでいるのだ。聡いから。大人だから。分かってくれるはずだから。そういう都合のいい期待を、彼は婚約者へ向けている。
そこまで理解した瞬間、胸の奥がすう、と静かに冷えた。
「……そう」
ネフェリナは呟いた。
「あなたは、守れないのではないのね」
ローディアスが顔を上げる。
「守る気がないわけでも、ないのでしょう」
彼は反射的に頷きかけた。けれどネフェリナは、その先を先に言った。
「ただ、自分が傷つかない形でしか、守る気がないのね」
その言葉は、ローディアスにとって予想外だったのだろう。彼は明らかに息を止めた。言い返そうとして、出来ない。否定したいのに、どこを否定すればよいのか分からない。そんな顔だった。
「違う、と言える?」
ネフェリナが問う。
ローディアスは黙ったままだった。
その沈黙が、何より雄弁だった。
ネフェリナは視線を下ろした。膝の上で重ねた手は、まだ穏やかに見える。爪先まできちんと整えられた、侯爵家の娘の手。けれど内側では、何かがはっきりと終わっていく気配があった。大きな破綻ではない。劇的な断絶でもない。ただ、これまで二人のあいだにあった見えない橋のどこかが、音もなく崩れたのだ。
「ネフェリナ」
ローディアスが名を呼ぶ。先ほどまでとは違って、少し焦りが混じっている。
「そんな風に、言わないでくれ」
「では、どう言えばよいの?」
顔を上げると、彼は本当に困った顔をしていた。悲しませたくない。責められたくない。けれど母も傷つけたくない。その全部を同時に守ろうとして、結局、最初から守られない側だけが黙ることになる。その構図が、あまりにも鮮明だった。
「僕は君を大事に思っている」
「知っているわ」
「なら」
「でも、その大事は、私が苦しい時に立ってくださる大事ではないのね」
言い終えた時、自分の声に少しだけ疲れが滲んだのが分かった。怒鳴っているわけではない。泣いているわけでもない。ただ、長く長く抱えてきた問いの答えを、ようやく自分で口にしてしまった人の声だった。
ローディアスは何か言おうとして、結局俯いた。手袋をはめた手が膝の上で固く組まれている。指先だけが少し動いた。その小さな動きにさえ、彼の迷いが表れていた。
どれくらいそうしていたのか分からない。馬車はなおも夜の街を進み、二人の沈黙を運んでいく。外から聞こえる蹄の音だけが、規則正しく時間を刻んでいた。
やがてローディアスが、ほとんど独り言のように言った。
「君は、強すぎるんだ」
ネフェリナは顔を上げた。
「……何ですって」
「君は、ちゃんとしているから」
彼は目を伏せたまま続けた。
「いつもきちんとしていて、感情的にならなくて、場を壊さないだろう。だから僕も、つい……君なら分かってくれると」
その言葉を聞いた瞬間、ネフェリナは笑いそうになった。笑ってしまえばどれほど楽だっただろう。けれど実際には、笑いは胸の奥で硬く砕けるだけで、少しも外へ出てこなかった。
強いから。
きちんとしているから。
場を壊さないから。
だから耐えられるだろうと、彼は思っていたのだ。
それは信頼ではない。
ただの甘えだ。
「私は強いのではないわ」
ネフェリナは静かに言った。
「壊さないようにしてきただけよ。あなたの前でも、お義母様の前でも、ずっと」
ローディアスがようやく顔を上げる。榛色の瞳に、はっきりとした後悔の色が見えた。けれどその後悔は遅い。あまりにも遅い。
「……すまない」
また同じ言葉だった。
ネフェリナは目を閉じたくなった。すまない、と言われるたび、何かが解決したような空気だけが生まれる。そのくせ、何ひとつ変わらない。謝罪が、変わらないことの免罪符のように置かれる。
「もういいわ」
そう答えると、ローディアスはかえって苦しそうな顔をした。
もういい。
その言葉の意味を、彼はきっとまだ半分も理解していない。ただ機嫌を悪くさせたのだと思っているのかもしれない。時間が経てば和らぐと思っているのかもしれない。けれどネフェリナの中ではもう、和らぐとかそういう種類の問題ではなくなっていた。
馬車はやがて、侯爵家へ続く通りへ入った。窓の外に見慣れた鉄柵が流れ、門前の灯りが近づく。その光景を見た時、ネフェリナは胸の奥に薄い安堵を覚えた。同時に、その安堵が「ローディアスと離れられること」から来ているのだと気づき、少しだけ眩暈がした。
扉が開く前、ローディアスが低く言った。
「ネフェリナ、僕は……」
けれどその先は、結局また曖昧な形に崩れた。
「少し、考える」
ネフェリナは彼を見た。
考える。
いつもそうだ。考える。気をつける。努力する。そうやって、はっきりした何かを先延ばしにする。そのあいだに、何度こちらが傷ついたとしても。
「ええ」
彼女は微笑んだ。きっと、外から見ればいつも通りの穏やかな微笑みだった。
「おやすみなさい、ローディアス様」
扉が開き、夜気が差し込む。侯爵家の玄関灯は柔らかい色をしていた。差し出された手へ指を置いて馬車を降りる。石段に靴底が触れた瞬間、ひどく現実的な硬さが足裏へ返ってきた。
背後でローディアスも降りようとした気配があったが、ネフェリナは振り返らなかった。今ここで何か言葉を足されても、もう何も変わらない気がしたからだ。
玄関扉の内側へ入ると、暖かな空気が頬に触れた。使用人がショールを受け取り、いつものように静かに頭を下げる。何も変わらない夜だ。けれどネフェリナの胸の内側には、確かに、ひとつ冷たい隙間が生まれていた。
それはまだ裂け目と呼ぶほど大きくはない。外から見れば気づかれもしないだろう。会話もできる。笑顔も作れる。婚約者として並び立つことも、たぶんまだ出来る。
けれど、その隙間ははっきり存在していた。
私を守れないのか、それとも守る気がないのか。
問いかけた言葉は、返事をもらえなかったまま、彼女の中に残っている。ローディアスは答えを濁し、謝り、考えると言った。だが本当の意味での答えは、もう十分すぎるほど見えていた。
母の前では何も言えない。
それが、この人の本質なのだと。
自室へ戻り、扉が閉まった時、ネフェリナはようやく息を吐いた。胸元の締めつけが少しだけ緩む。鏡の前へ立つと、そこにはきちんと整った自分が映っていた。髪も、ドレスも、表情さえも大きくは乱れていない。
けれど、その目だけが違った。
冷たい、と彼女は思った。
泣きそうなのではない。怒っているのでもない。ただ、今までそこにあったはずの柔らかな期待が失われて、代わりに冬の朝の水面みたいな静かな冷たさが宿っている。
ネフェリナはそっと目を伏せた。
今日の問いは、たぶん、もう引き返せない。
聞いてしまった以上、見なかったことにはできない。答えが曖昧なままでも、曖昧だったという事実そのものが、二人のあいだに線を引いてしまった。
その線は細く、白く、けれど確かにそこにあった。
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