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第9話 遅すぎる引き留め
婚約解消の話し合いが終わった翌日、空はひどく澄んでいた。
昨日まで庭を濡らしていた雨は跡形もなく上がり、朝の陽が若葉の先へ細かな光を残している。侯爵家の庭を横切る小道にはまだ水気が薄く残り、白い砂利のあいだにところどころ darker な色が沈んでいた。けれど風は爽やかで、花壇の土から立ちのぼる湿り気も、今朝は重さより清新さに近い匂いをしていた。
そういう朝だった。
世界だけがきれいに洗われて、何もかもが少し軽くなったように見える朝。
けれどネフェリナの胸の中は、まだ昨日の応接室の空気を引きずっていた。静かに並べた言葉、メルゾアの硬い微笑、ローディアスがようやく自分の沈黙を「加害」と知った瞬間の顔。それらは一晩眠ったくらいで薄れるものではなく、むしろ朝の明るさの中で、輪郭だけを残して胸の奥へ沈んでいた。
起きた時、涙の跡はなかった。顔色も、鏡で見ればいつもとそう変わらない。朝食も少しは口に入った。父と叔母は必要以上に何も言わず、ただいつもより柔らかい目でこちらを見ただけだった。その静かな配慮がありがたかった一方で、何かを失ったあとの身体の鈍さだけは、どうしても消えなかった。
疲れているのだ、とネフェリナは思った。
怒りや悲しみは、時に人を強くする。けれど、長いあいだ続いたものがようやく切れたあとに来る疲れは、もっと静かで、もっと身体の深いところへ溜まる。今日はまさにそんな疲れの朝だった。
昼を少し回った頃、ネフェリナは南の小さな居間にいた。
来客を正式に通す大広間ではなく、家族や親しい相手だけが使うこぢんまりした部屋だ。三方に窓があり、柔らかな光が入りやすい。壁紙は薄い生成りで、そこへ淡い草花の模様が散っている。窓辺には低い花台があり、昨日庭から摘まれた白い薔薇がいくつか、水の張られた細首の花瓶へ挿されていた。香りは強くない。近づけば、清潔で少し青い匂いがする程度だ。
ネフェリナはそこに一人で座り、開いた本の上へ視線を落としていた。だが文字は少しも頭へ入らなかった。ページをめくる手だけが機械的に動いている。内容を追うよりも、紙の手触りと、静かな部屋の空気だけを感じているような時間だった。
窓の外で、小鳥が一声鳴いた。
その直後、廊下を早足に来る気配がある。ノックは控えめだったが、いつもより少しだけ間が短い。急ぎすぎぬよう気を配りながら、それでも主へすぐ伝えたいことがある時の叩き方だ。
「お嬢様」
ミレナの声だった。
「……ローディアス様がお見えです」
ネフェリナは本の上へ置いていた指先を、少しだけ止めた。
やはり来たのだ、と思った。
婚約解消の場が設けられた以上、来ないはずがないとも思っていた。何かしら言いたいことがあるだろう。謝罪か、弁明か、あるいはまだ諦めきれぬ引き留めか。どれであっても不思議ではない。けれど実際にその名を聞くと、胸の奥で何かが薄く強張るのは止めようがなかった。
「お父様は」
「ただいま外出中でいらっしゃいます。叔母様はご在室ですが、いかがなさいますかと」
ネフェリナは膝の上へ本を閉じた。表紙の革がやわらかな音を立てる。
叔母に同席してもらうことも出来る。そうしたほうが安全かもしれない。父がいない今、まだ家同士の手続きが完全に整っていない以上、娘一人で元婚約者と話すべきではないと考える人もいるだろう。
だがネフェリナには、ここで一度、自分の言葉で終わらせておきたい気持ちがあった。昨日の席では、両家の前で事実と結論を置いた。それは必要な手順だった。けれど、ローディアス個人へ向けて、まだ言えていないことがある。優しさはあったけれど、それでは足りなかったということ。終わらせたのは怒りではなく、あなたの欠落だったということ。それは、最後に一度だけ、自分で伝えたかった。
「……私がお会いするわ」
ミレナが一瞬、沈黙する。
「叔母様は」
「念のため、お近くにいていただいて」
「かしこまりました」
ネフェリナは立ち上がった。椅子の座面から身体を離すだけで、少し足に重さが残っているのが分かる。今日のドレスは家の中で過ごすための淡い灰色で、装飾も少ない。髪も半ばだけまとめ、あとは肩へ落としている。来客用に整えていたわけではない。だが今さら飾り立てる気にもなれなかった。
鏡の前を通り過ぎる時、ちらりと自分の顔が映った。青白い、とまではいかない。けれどどこか、表情の芯が遠い。無理に笑おうとすれば出来るだろう。だが今日はその必要もないと思った。
「応接間ではなく、こちらへ通して」
南の居間を見回しながら言う。大きな部屋より、このくらいのほうが言葉が散りにくい。距離も曖昧にならない。
「かしこまりました」
ミレナが出て行く。
ネフェリナは窓際ではなく、部屋の中央に近いソファへ腰を下ろした。膝へ両手を重ねる。手袋はしていない。素手だった。昨日の話し合い以来、どうしても手袋で感情を隠すことが少し苦しく感じられたからだ。白い指先は、今日も静かだった。震えてはいない。けれど温かくもない。冷たさが内側へ沈んだまま、表面に出ていないだけのような手だと思った。
やがて扉の外で、足音が止まる。
軽いノックのあと、ミレナが扉を開けた。
「ローディアス様でございます」
彼は一歩入ってきて、そこで少しだけ足を止めた。
昨日の席で見た時より、いくらかやつれて見える。礼装ではなく、落ち着いた色の昼の外套に身を包み、栗金の髪はきちんと整えられていたが、その整い方にいつもの余裕がない。榛色の瞳の下に薄い影があり、眠れていないのかもしれないとネフェリナは思った。だがそのことに、以前ほど心は揺れなかった。
「急に来てしまってすまない」
彼はそう言った。声は低く、少し掠れている。
「いいえ」
ネフェリナは答えた。
「お座りください」
ローディアスは向かいの椅子へ腰を下ろした。ミレナが静かに茶を置き、扉を閉めて下がる。閉ざされた室内へ、外の鳥の声と、遠くの庭師の道具が触れ合うかすかな音だけが、薄く届いていた。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
テーブルの上の白い薔薇は、朝より少しだけ花弁を開いている。光の角度が変わり、花瓶の水面に窓の格子が揺れていた。ローディアスは何か言おうとしては飲み込み、それを二度ほど繰り返した。ネフェリナはその様子を見ながら、こうして逡巡するところもこの人らしいと思った。いつもそうだ。決定的な言葉の手前で、一度立ち止まる。立ち止まって、考える。考えたぶんだけ、何かが遅れる。
「……ネフェリナ」
ようやく彼が口を開いた。
「昨日は、あんな形になってしまって」
「ええ」
ネフェリナはそれだけ答えた。続きを促すように。
ローディアスは息を継ぐ。
「一晩、考えたんだ」
ネフェリナは黙っていた。
「父上にも何も言えなかった。母上とも、まだきちんとは話せていない。でも……でも、君の言ったことは全部、本当だったと思う」
その言葉に、ネフェリナの胸はほとんど動かなかった。
本当だったと思う。
そこへ来るまでに、いったいどれだけ時間がかかったのだろう。いや、時間ではない。言葉として口に出すまでに、だ。ネフェリナはもう、それを責めたいわけではない。ただ、やはり遅いのだと思った。
「私は、君があそこまで傷ついていたことを分かっていなかった」
ローディアスは視線を落とす。
「いや……分かろうとしていなかったのかもしれない。君はいつも、きちんとしていたから。泣かないし、怒鳴らないし、場を壊さない。だから、苦しくても耐えられるのだと……勝手に思っていた」
ネフェリナは、その言葉を静かに聞いていた。
昨日、両家の前でも似たことを彼は口にした。けれど今こうして二人だけの場で聞くと、その愚かさよりも先に、むしろ哀れさに近いものがあった。この人は本当に、自分が何を頼っていたのか今ごろになって気づいたのだろう。相手の強さではなく、自分の弱さの逃げ場として、ネフェリナの「きちんと」を使っていたことに。
「今からでも、母上を説得する」
ローディアスが顔を上げる。
「ちゃんと話す。今までみたいに曖昧にはしない。母上にも、もうああいう言い方はやめてほしいと伝える。君の母君のことも、君への態度も、全部……」
言葉が少し急いていた。ようやく行き先を見つけた人が、それを逃がすまいとしているような口調。
「だから、もう一度だけ考え直してくれないか」
その言葉を聞いた瞬間、ネフェリナは自分の胸の奥がひどく静かであることを確認した。驚きも、怒りも、ほとんど起きない。ああ、やはりそう言うのだな、と理解するだけの静けさ。
今からでも。
もう一度だけ。
そのどちらも、これまでに何度も可能だったはずのことだった。
「ローディアス様」
ネフェリナは丁寧に名を呼んだ。
「私は、あなたの優しさを疑っていたわけではありません」
ローディアスの表情がわずかに揺れる。希望を見たのかもしれない。けれどネフェリナは、そのまま続けた。
「気遣ってくださる時もありました。あとから謝ってくださることもありました。穏やかに接してくださったことも、たくさん覚えています」
「なら」
「でも」
言葉を重ねる。柔らかく、しかし切れ目なく。
「優しさはあっても、決断がありませんでした」
ローディアスが息を呑む。
「私は、それが足りなかったのだと思います」
窓の外で、また小鳥が鳴いた。高く短い声だった。それが妙に遠く聞こえる。
「今からでも母上を説得すると、あなたは仰いましたね」
「……ああ」
「では、お聞きします。耳飾りの時は、どうしてそうなさらなかったのですか」
ローディアスは答えない。
「夜会で、別のご令嬢を『理想の伯爵家の嫁』と仰った時は」
沈黙。
「最後の茶会で、母の育て方にまで言葉が及んだ時は」
彼の指先が、膝の上で強く組まれる。
「そのたびに機会はありました」
ネフェリナは言う。
「今からでも、ではなく、あの時でもよかったはずです」
ローディアスは苦しそうに眉を寄せた。
「それは……」
「家の中が荒れるのが怖かったからですか」
ネフェリナは静かに問う。
「母上を怒らせるのが嫌だったからですか。それとも、私が耐えてくれると思っていたからですか」
「違う」
反射的な否定だった。だがその声には力がなかった。
「全部、違うとは言えないのでしょう」
ローディアスはそこで、ようやく目を伏せた。否定したい。けれどしきれない。その迷いがそのまま表情に出ていた。
「……君の言う通りだ」
やがて、絞り出すように言う。
「私は、いつも先延ばしにしていた。次はちゃんとしようとか、そのうち母上も落ち着くとか、そんな風に」
ネフェリナは頷きもしなかった。責めるためではなく、確認のための沈黙だった。
「でも、今は違う」
ローディアスは顔を上げる。必死な色が目にある。
「失って初めて分かったんだ。君がどれだけ……」
ネフェリナは、そこでほんの少しだけ目を細めた。
失って初めて分かった。
その言葉は、あまりに正直で、あまりに残酷だった。彼は本当にそうなのだろう。なくしかけて、初めて価値を知った。大切さに気づいた。だが、それは気づかれた側にとって救いになるのだろうか。
「私は、あなたが今になって分かったことを責めているのではありません」
ネフェリナは言う。
「ただ……それでは遅かったのです」
ローディアスの顔が、痛みに歪む。
「遅い、なんて」
「遅いのです」
今度は少しだけ、はっきりと。
「もし一度でも、あなたがその場で私の側に立ってくださっていたら、違ったかもしれません。たった一度でも、母上、それは違うと明確に仰っていたら。私の母のことは言わないでくださいと、あの席で言ってくださっていたら」
ネフェリナはそこで一度言葉を切った。
窓際の白薔薇へ視線をやる。朝より花弁が少し柔らかくなり、陽を受けた縁だけが透けて見える。きれいだと思った。きれいだが、触れれば崩れそうでもある。
「でも、あなたは一度もそうなさらなかった」
ローディアスは何も言えない。
「優しさはありました。でも、決断がなかった。私にとっては、それが終わりでした」
部屋の中の静けさが、そこで一段深くなる。
ローディアスは、しばらく目を閉じた。開いた時、その瞳にははっきりと後悔があった。遅すぎると分かってしまってなお、手放したくない人の後悔だ。
「君を失いたくない」
ひどくまっすぐな声だった。飾りも逃げもない。だからこそ、少しだけ遅すぎる。
「今さらだと分かっていても、そう思っている」
ネフェリナはその言葉を受け止めた。受け止めて、それでも心が戻らないことを自分で確かめるように、静かに呼吸をした。
「ありがとうございます」
そう答えると、ローディアスはかえって苦しそうな顔をした。礼を言われたいわけではないのだろう。許されたい。戻ってきてほしい。やり直せると聞きたい。そういう願いがその顔に痛いほど出ている。
けれど、ネフェリナにはもう、それを引き受ける力がなかった。
「あなたが私を大切に思ってくださっていたことも、嘘ではないのでしょう」
彼の肩がわずかに震える。
「でも、大切に思うことと、守るために立つことは、違います」
その言葉を、自分はいったい何度胸の中で繰り返してきただろう。
「私は、あなたの優しさだけで結婚生活を続けていけると思えなくなりました」
ローディアスの指が、膝の上で白くなるほど力を帯びる。
「私が変わると言っても?」
「変わるのなら、それはあなたのためになさってください」
ネフェリナは言った。
「私に引き留めてもらうためではなく」
その言葉は、ローディアスの胸を深く刺したらしい。彼は顔を上げかけて、そのまま言葉を失った。
「あなたが今ここで変わると仰っても、私はそれを確かめながら一緒に生きていくことが出来ません」
ネフェリナは自分の声がどこまでも穏やかであることを感じていた。怒鳴らないぶん、逆に揺らがない。
「もう、その段階は過ぎてしまいました」
ローディアスはやがて、低く呟いた。
「……本当に、終わりなのだな」
ネフェリナは少しだけ視線を落とし、それからまた彼を見た。
「はい」
短い返事だった。
けれど、そこへ込めたものは短くなかった。十年分の期待、失望、我慢、飲み込み、見過ごされた痛み、その全部を通った先の「はい」だった。
ローディアスは、その一言でようやく何かを諦めたように見えた。肩から力が抜ける。抜けたのに、身体のどこにも安堵はなかった。残るのはただ、遅すぎた人の空虚だけだ。
「君は……」
彼は少し迷ってから、言った。
「君は、私を恨んでいるか」
その問いに、ネフェリナは少し驚いた。意外な問いだったからだ。
恨み。
そう言われて、自分の胸の中を探る。怒りはあった。悲しみも、疲れもある。だが恨みは、少し違う。
「恨んではおりません」
そう答えると、ローディアスの目がわずかに揺れた。
「ただ」
ネフェリナは続けた。
「もう、信じられないのです」
その一言は、ローディアスにとって謝罪より重かったのだろう。彼は目を伏せ、しばらく何も言わなかった。
信じられない。
それは、愛していないよりも、ずっと修復が難しい言葉だ。愛情は揺らぐことがあっても、信頼は一度深く欠けると元の形には戻らない。ローディアスも、それを理解したようだった。
沈黙のあいだに、ミレナが運んできた茶は少し冷めていた。白磁のカップの縁に細い光が残り、湯気はもうほとんど見えない。誰も手をつけないまま、二つのカップがテーブルの上で静かに冷えていく。その様子が、どこかこの部屋の会話そのものみたいだとネフェリナは思った。遅れて差し出された温度は、もう届く頃には冷めてしまっている。
ローディアスはやがて立ち上がった。
「長く引き留めて、すまなかった」
その声は来た時よりずっと低く、力を失っていた。
「いいえ」
ネフェリナも立ち上がる。立ち上がった瞬間、身体の奥に少しだけ疲れが走った。だが気持ちは不思議なほど静かだ。ここへ来る前よりも、むしろ整っている気さえする。
ローディアスは何かを言いたげに口を開き、結局、閉じた。その躊躇いもまた彼らしかった。最後の最後まで、決定的な一言だけが出てこない。
だからこそ、本当に終わったのだとネフェリナは思った。
「お見送りは」
ネフェリナが言いかけると、ローディアスは首を振った。
「いい」
彼はそう答えた。
「これ以上、君に何かさせたくない」
その言葉に、ネフェリナはほんのわずかだけ目を伏せた。最後になって初めて、彼は自分に何も求めない形の優しさを見せたのかもしれない。けれど、それもやはり遅かった。
「どうか、お元気で」
ネフェリナはそう告げた。
ローディアスの喉が動く。返事をするまでに少し時間がかかった。
「……君も」
それだけだった。
扉が開き、閉じる。彼の足音が廊下を遠ざかっていく。最初ははっきり聞こえ、やがて絨毯へ吸われるように薄くなり、最後には何も聞こえなくなった。
部屋に残ったのは、窓から入る昼の光と、冷めた茶の匂いと、白薔薇の淡い香りだけだった。
ネフェリナはしばらく立ったまま、扉のほうを見ていた。追いかける気持ちは少しも起きない。呼び止めたいとも思わない。ただ、長く続いていた何かが、本当に今度こそ終わったのだと、身体の深いところでゆっくり理解していくだけだった。
やがて彼女は再び椅子へ腰を下ろした。テーブルの上のカップへ手を伸ばす。茶はもうぬるくなっている。ひとくち含むと、渋みだけが先に舌へ残った。美味しいとは言えない温度だった。けれど、そのぬるさが妙に現実的で、かえって心を落ち着かせた。
優しさはあった。
それは本当だ。
穏やかな声も、気遣いも、あとから差し出される謝罪も、全部偽物ではなかった。だからこそ長く迷ったし、だからこそ今でも憎まずにいられる。
でも、決断がなかった。
その欠落こそが、自分を終わらせた。
ネフェリナはカップを戻し、窓の外を見た。庭には初夏の光が満ちている。昨日までの雨で洗われた葉は鮮やかで、白い花びらの縁だけが少し透けて見えた。風は弱く、世界は穏やかだった。
なのに胸の中には、ひどく静かな疲れが広がっていく。
泣きたいわけではない。むしろ、泣くような熱はもう残っていない。代わりにあるのは、長く抱えていたものをようやく下ろした腕のだるさによく似た、重く静かな疲労だった。
遅すぎる引き留め。
そう呼ぶのが一番正しいのだろうと、ネフェリナは思った。
もしあの夜会の時に。耳飾りの時に。最後の茶会の時に。たった一度でも違う言葉があれば、違った未来もあったのかもしれない。けれど、未来というものは、その「たった一度」が積み重なって出来ていく。欠けた瞬間が多すぎれば、どれほど後から手を伸ばしても、もう届かない。
ネフェリナはゆっくりと目を閉じた。
今日の会話を思い返しても、もう胸は大きくは痛まない。ただ、冷えた水の底へ小石が沈んでいくように、言葉が一つ一つ、静かに底のほうへ積もっていく。
信じられない。
そう言った自分の声が、まだ耳に残っていた。
たぶんそれが、最後の別れの言葉だったのだろう。
愛していたかどうかよりも、優しかったかどうかよりも、その人のそばで安心して目を閉じられるかどうかのほうが、最後には重かった。ローディアスの隣では、それが出来ない。もう出来ない。だから終わりなのだ。
ミレナが控えめに戻ってきて、「お茶をお下げいたしますか」と訊ねた時、ネフェリナは「お願い」とだけ答えた。ミレナは空になりきっていない二つのカップを見て、何も言わずに片づけた。白薔薇の花瓶の位置を少し整え、静かに一礼して下がる。
一人になった部屋で、ネフェリナはしばらくその白い花を見つめていた。
花弁は朝より大きく開き、中心の柔らかな影が見えている。美しい。けれど開いたぶんだけ、散る日も近づいているのだろうと思った。その儚さを、今日は少しだけ好ましく感じた。綺麗なものが永遠ではないことを、無理に悲しいとは思わなかった。
終わるものは終わる。
そして終わったあとに残る静けさは、案外、残酷なだけではないのかもしれない。
そう思いながら、ネフェリナは背もたれへそっと身体を預けた。窓から入る光が頬に触れる。午後はまだ終わらない。これからのことは、また別に考えなければならない。父と話し、手続きを待ち、次の選択に向き合う日々が来る。
けれど少なくとも、今日一つだけはっきりした。
自分はもう、戻らない。
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