婚約者の母に疎まれ続けたので、結婚直前ですが先に別の公爵家へ嫁ぎます~今さら惜しまれてももう戻りません~

なつめ

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第12話 はじめての対面


 その朝、ネフェリナは目を覚ました瞬間から、自分の手の中にかすかな冷たさを感じていた。

 眠れなかったわけではない。夜半に何度も起きた記憶もない。けれど、目を開けたとたん、胸の奥ではなく、まず指先に緊張があるのが分かった。何かを握る前の手。まだ始まっていないのに、すでに力をこめる準備だけをしている手だった。

 窓の外では、朝の光が静かに庭へ落ちていた。昨夜のうちに空は晴れ、今日はひどく穏やかな日和になるらしい。白薔薇の咲く一角には薄い日が差し、花弁のふちが少しだけ透けて見える。風は弱く、葉もほとんど揺れていない。穏やかな朝だった。こういう日に限って、胸の内側だけが落ち着かないのは、少し不公平に思える。

 今日は、アルスレイン公爵セヴェリオとの正式な顔合わせの日だった。

 会ってみてから決めてよい。
 違うと思ったら断ってよい。
 父も叔母も、何度もそう言ってくれている。

 けれどそれでも、「会う」という事実は重い。書簡の向こうにいた人が、今日初めて、生身の人間として自分の前に立つ。冷徹公爵。若くして家督を継ぎ、容赦なく仕事を捌く人。感情が見えず、厳格で、怖いと噂される人。

 噂は噂だと分かっている。
 けれど、分かっていても怖いものは怖い。

 ネフェリナは寝台の上でゆっくりと息を吸い、吐いた。それから両手を目の前へ上げる。白い指は朝の光を受けて静かだった。震えてはいない。だが、関節のあたりに薄く強張りがあるのを、自分でははっきり感じる。

「……今日は、ちゃんと見よう」

 小さく呟く。
 怖いからといって、噂の中だけで相手を決めつけない。自分の目で確かめる。そのために会うのだと、何度も言い聞かせた。

 支度はいつもより少しだけ時間がかかった。

 鏡台の前には、今日のために整えられたドレスが二着並んでいた。淡い灰青と、やわらかな生成りに銀糸の刺繍が施されたもの。どちらも目立ちすぎず、しかし侯爵家の娘として不足なく見える品だ。オルネッタ叔母と昨日のうちに何度も相談し、最終的に選んだのは灰青のほうだった。控えめな色味だが、曇りのない光の下では布地の質が静かに際立つ。落ち着いて見える。けれど、地味とは違う。その匙加減がいかにも叔母らしかった。

 髪は柔らかくまとめ、耳元には小さな真珠を選んだ。母の耳飾りの箱に、今朝も少しだけ指先が向きかけた。けれど蓋へ触れる前に、ネフェリナは手を引いた。今日は、余計な心の揺れを自分へ足したくなかった。

「お顔色は、悪くありません」

 ミレナが背後からそっと言った。
 慰めではなく、確認するような声だった。

 ネフェリナは鏡越しに小さく笑う。

「強張って見えないかしら」

「少しだけ」

 ミレナは正直に答えた。
「ですが、それは今日のご用向きを思えば当然でございます」

「そうね」

 その当然さが、少しありがたかった。
 緊張していることを否定されるより、当然だと言ってもらえるほうが楽だ。

 支度を終え、階下へ降りると、父のガルディエルはすでに書斎ではなく玄関広間にいた。よほど珍しいことだった。侯爵家の当主が、客を迎える前に自ら玄関近くで待つというのは、相手への礼でもあり、同時に娘の顔色を直前に確認したい父の気持ちでもあるのだろう。

「無理はするな」

 父は短く言った。

「はい」

「相手がどういう人物でも、おまえがその場で答えを決める必要はない」

「分かっています」

「分かっていても、つい“きちんとしなければ”と思うのがおまえだ」

 その一言に、ネフェリナは少しだけ目を伏せた。まったくその通りだった。こういう場こそ、失礼なく、過不足なく、上手くやらねばと身体が先に緊張してしまう。

「今日は、上手くやる必要はない」

 父は続けた。

「ただ見るだけでいい」

 その言葉は、胸の奥のどこかへ静かに落ちた。
 上手くやる必要はない。
 ただ見るだけでいい。

 それだけで、背中の力がほんの少し緩む。

 やがて玄関の外に馬車の到着を告げる気配がした。

 御者の声。門番の応答。車輪が石畳の上で止まる重い音。それらが一つずつ近づくたび、ネフェリナの胸の内でも何かが静かに締まっていく。けれど逃げたいとは思わなかった。怖い、と思いながら、その怖さを抱えたまま立っている自分がいた。

 玄関扉が開かれる。

 最初に見えたのは、深い紺の外套だった。次いで、その色に溶け込むような黒髪。長身の影が石段を上がり、朝の光の中から屋敷の内側へ入ってくる。アルスレイン公爵セヴェリオは、噂通り、まず「近寄りがたい」と思わせる人だった。

 若い。だが若さに甘さがない。
 顔立ちは整っているが、その整い方が柔らかさではなく、削り出された石の線を思わせる。髪は夜を含んだような黒で、瞳は銀と青のあわいにある、ひどく冷えた色をしていた。礼装は軍装を思わせるほど無駄がなく、濃色の布地は一分の乱れもない。立っているだけで、周囲の空気が少し張る。威圧しているわけではない。ただ、そこにいるという事実だけで場の輪郭をはっきりさせてしまう人なのだ。

 噂は、少なくとも第一印象に関しては外れていない。
 冷たい、と感じる人がいても不思議はない。
 怖い、と言われるのも、よく分かる。

 ネフェリナはそう思いながら、一礼した。

「本日はお越しいただきありがとうございます、アルスレイン公爵閣下」

 セヴェリオは同じく礼を返した。その動きは簡潔で、しかし雑さは一切なかった。無駄を削ぎ落としているだけで、礼を省く人ではないのだと一目で分かる。

「お招きいただき感謝いたします、ヴァルケイン侯爵」

 声は低かった。抑揚は多くない。けれど不機嫌そうなわけでもない。ただ、言葉を飾らない人の声だった。

 父と短く挨拶を交わし、続いてオルネッタへもきちんと礼が向けられる。誰に対しても、必要な分だけを正確に差し出す。その均一さに、ネフェリナは少し意外さを覚えた。高位の当主の中には、年長の女性や若い娘に対してだけ、妙に軽く振る舞う人もいる。けれどセヴェリオにはそれがない。距離はある。だが見下しもない。

 玄関広間から応接室へ移るあいだも、彼は多くを語らなかった。廊下へ差し込む光が外套の縁を照らし、歩くたびに靴音が規則正しく響く。ネフェリナは半歩後ろからその背を見つめながら、あまりに隙がないと思った。話しかければ応じるだろう。けれどこちらから言葉を探しに行かなければ、その沈黙はずっと続きそうな種類の人だった。

 応接室は東向きの、やや広めの部屋だった。朝からの晴れ間がやわらかく入り、窓辺の白いレースへ薄く影を落としている。磨かれた木の卓、淡い色の長椅子、花瓶に挿された初夏の花。どれも侯爵家らしく整っているが、父は今日、いつもより少しだけ飾りを控えさせていた。華やかな歓迎より、静かな対話を選んだのだろう。

 席に着く。

 父が主座、セヴェリオが向かい、その少し斜めにネフェリナとオルネッタ。茶が運ばれ、菓子が置かれる。銀器の触れ合うかすかな音がして、給仕はすぐに気配を消した。

「まずはご足労に感謝を」

 父が口火を切る。

「北方からこちらまで、道中も簡単ではなかったでしょう」

「問題ありません」

 セヴェリオの返答は短い。だがそこで言葉を終えるのではなく、わずかに続ける。

「この時期は道も安定しております。むしろ王都近辺のほうが、人の流れが多く時間を読みづらい」

 実務的な言い方だった。愛想はない。だが会話を断つための短さではないのだと、そこで少し分かった。

 父もそれを受けて、道や領内の話をひとしきり交わした。北方の春の遅さ、今年の雪解け、交易路の状態。ネフェリナには詳しくない話題も多かったが、聞いていると分かることがある。セヴェリオは噂通り、確かに口数が少ない。必要以上に飾った話もしない。だが、尋ねられたことには適切な情報量で答え、曖昧に濁すこともしない。感情が見えないというより、感情を会話の前へ出さない人なのだろう。

 ネフェリナはカップへそっと指を添えた。紅茶はよく温まっており、持ち上げると磁器の表面からちょうどよい熱が掌へ伝わる。香りは穏やかで、少しだけ柑橘が混ぜられていた。家の応接室で飲むいつもの茶だ。知っている香り。知っている温度。なのに、向かいに座る人が違うだけで、身体はひどく正直に緊張している。

 カップの取っ手にかけた指先へ、少しずつ力が入るのが分かった。
 強張っている。
 自分でも分かるほどに。

 父が話題を一度切り、今度はネフェリナのほうを見た。

「ネフェリナ、おまえからも何か」

 その言葉に、胸の中がわずかに跳ねた。

 何か。
 もちろん、そう来るだろうと思っていた。顔合わせなのだから当たり前だ。何かを問われること自体に問題はない。けれど、その一瞬だけ、頭の中が白くなる。噂。冷徹。厳格。感情が見えない。そういう言葉が、ひどく無意味な速さで頭を横切った。

 何を聞くべきだろう。
 家風のことか。北方での暮らしのことか。
 それとも、自分のような経緯のある娘をどう見るのか。
 いや、それを初対面で問うのはおかしい。
 何か、失礼のない、けれど自分をごまかしすぎない問いを。

 そう考えた瞬間、指先へさらに力が入った。カップの縁がほんのわずかに鳴る。自分にしか分からない程度の小さな音だったのに、ネフェリナはその音がひどく大きく響いた気がした。

 まずい、と思う。
 緊張が顔に出ていないだろうか。
 変に間を空けていないだろうか。

 その時だった。

「侯爵家の白薔薇は、今の時期に咲くのですね」

 不意に、セヴェリオが言った。

 ネフェリナは一瞬、意味を取り損ねた。
 父も、叔母も、わずかに目を向ける。

 セヴェリオの視線は、ネフェリナの手元ではなく、窓の外の庭へ向いていた。窓辺の向こう、白薔薇の咲く一角が、ちょうど日を受けて淡く光っている。

「先ほど案内いただいた時、門から見えました。香りが強すぎず、よい花だ」

 その言い方は、いかにも唐突な雑談ではなかった。話題を変えるために無理やり差し込んだ軽薄さはなく、あくまで本当に目に入ったものを言葉にしたような自然さがある。けれど、タイミングだけがあまりにも正確だった。

 ネフェリナは、そこでようやく気づいた。

 この人は、自分の強張りに気づいたのだ。

 カップを持つ指。返答の前の一拍。父に促されて、息が少し詰まったこと。それを見て、婚姻や立場に関わる話へ進む前に、負担の少ない場所へ話題をずらした。

 「見ている」のだ。

 その事実が、驚きとともに胸へ落ちた。

 父がすぐに応じる。

「ええ。亡き妻が好んで植えた品種でして」

 ネフェリナはその言葉に、少しだけ胸を打たれた。母のことを、ここではこんなふうに自然に言ってよいのだと、改めて気づく。隠すべき話題でも、痛点として避けるべき名前でもなく、ただ家の庭を説明する一部として。

「毎年、春の終わりが近づくと咲くのです」

 今度はネフェリナ自身が口を開いた。気づけば、先ほどよりずっと自然な声が出ていた。

「雨が続くと傷みやすいのですが、今年は咲き始めてから一度だけ大きく降っただけでしたので」

 セヴェリオが視線を向ける。近くで見ると、その瞳の色は本当に冷たい鉱石のようだった。だが、いまこちらを見る目に突き放すような冷たさはない。ただ、静かに焦点が合っている。

「では、今年は当たり年か」

「そうかもしれません」

 ネフェリナは小さく頷く。
 自分でも意外なほど、呼吸が戻っていた。

 オルネッタがそこで、さりげなく会話へ入る。

「北方では、白い花はあまり咲きませんの?」

「咲きます」

 セヴェリオは答える。
「ただ、こちらほど種類は多くありません。寒さに強いものへ限られます」

 そのまま話は自然に、北方の庭や気候へ移っていった。春が遅く、雪解けのあと一気に色が増すこと。温室を持つ家は多いが、王都のように外庭で長く花を楽しむ習慣は少し違うこと。ネフェリナはその話を聞きながら、知らない土地の景色を想像した。長い冬。遅い春。冷たい風。咲く花の色も、きっと王都とは違うのだろう。

 そして、その会話のあいだずっと、セヴェリオはこちらを急かさなかった。

 質問責めにもせず、沈黙を埋めようともせず、ただ話が向かうべきところへ向かうのを待っている。その静けさは、最初の印象では「冷たさ」に見えた。だが今は少し違って見える。無理に踏み込まず、相手の呼吸が整う余白を残しているのだと分かると、その寡黙さはむしろ慎重さに近かった。

 しばらくして、父が改めて言う。

「北方での暮らしについて、娘も気にしておりました。差し支えなければ、日常のことを少し」

「もちろんです」

 セヴェリオは頷いた。

「王都と比べれば厳しい面は多い。冬は長い。移動にも備えが要る。だがその分、家の中の整え方や暖の取り方には気を遣う」

 簡潔だ。
 しかし必要なことは落とさない。

「社交は」

 ネフェリナが今度は自分から問うた。
 先ほどよりもずっと自然に、声が出る。

「王都ほど頻繁ではありませんか」

「頻繁ではありません」

 セヴェリオの答えは変わらず短い。だがそれで終わらせずに続ける。

「だが少ないぶん、一つ一つは軽くない。招く理由も、招かれる理由も、こちらのほうが明確です」

 その言い方に、ネフェリナはほんの少しだけ目を細めた。
 軽くない。
 理由が明確。

 それは楽しげな社交界の響きではない。けれど曖昧な機嫌取りで回る場ではないのかもしれないとも思えた。

 セヴェリオはその小さな表情の動きへも気づいたのだろう。彼は少しだけ視線を和らげた。和らいだといっても、微笑むわけでもない。ただ、言葉の次を選び直したようなごくわずかな変化だ。

「王都のように、顔を合わせるたびに空気を読む必要がある場は少ないかもしれません」

 その一言に、ネフェリナの胸が小さく打たれた。

 顔を合わせるたびに空気を読む。
 それはまさに、自分が長く続けてきたことだったからだ。
 服の色。声の高さ。返答の速さ。表情。話題。
 失礼のない範囲で、しかし機嫌を損ねぬように。
 その終わりのない計測を、この人は、少なくとも概念として知っている。

 なぜそう思ったのか、自分でも分からない。
 ただ、その言葉の置き方には、単なる社交界評とは違う観察の匂いがあった。

「……それは、少し楽かもしれません」

 ネフェリナがそう言うと、セヴェリオは短く頷いた。

「そうであればよい」

 たったそれだけの返答なのに、どこか押しつけがましさがなかった。北方の暮らしを美化するでもなく、王都を貶すでもなく、ただ今のネフェリナの言葉だけをそのまま受け取ったような返しだった。

 会談はその後も続いた。
 家のこと。領地のこと。冬の移動。人の出入り。北方の食事。
 どれも華やかな話題ではない。けれど、ネフェリナにとってはむしろありがたかった。夢や理想を語るより、日常の具体を聞けるほうが安心する。曖昧な甘言より、何がどう違うかを知るほうが、自分には合っているのかもしれないと少し思った。

 そして、セヴェリオは終始、必要以上にネフェリナの過去へ触れなかった。婚約解消の件も、社交界の噂も、いまの立場の微妙さも、まるで知らないふりをしているのではなく、「知っていても、こちらからは開かない」と決めているような距離の取り方だった。

 その距離が、思いのほか楽だった。

 会談の終わりが近づき、茶が二度目に注がれた頃には、ネフェリナの指先はもう強張っていなかった。カップを持つ手は静かで、呼吸も無理なく続いている。もちろん、相手が怖くないわけではない。鋭い印象は変わらないし、感情の見えなさもそのままだ。だが少なくとも、「怖い」という噂の内側に、別の手触りがあることだけは分かった。

 この人は、見ている。

 そして、見たことを必要以上に言わない。

 それはネフェリナにとって、予想していなかった種類の安心だった。

 応接室を出る頃、父が形式的な別れの言葉を述べ、セヴェリオもきっちりと礼を返した。最後にネフェリナへ向けられた視線は、相変わらず静かで、鋭さも消えていない。けれど、その鋭さのなかに、最初に見たような「近寄りがたい冷たさ」だけではないものが混じっているのを、もうネフェリナは感じ取っていた。

「本日は、お時間をいただきありがとうございました」

 ネフェリナがそう言うと、セヴェリオは短く頷く。

「こちらこそ」

 それから一拍だけ置いて、彼は続けた。

「無理をさせたのであれば、失礼した」

 ネフェリナは思わず目を見開いた。

 無理をさせたのであれば。
 あの最初の一瞬の強張りを、やはりきちんと見ていたのだ。
 しかもそれを恩着せがましく言うのではなく、あくまで別れ際に、最小限の形で返してくる。

「……いいえ」

 ネフェリナは小さく首を振った。
「そのようなことはございません」

 完全な嘘ではなかった。緊張はした。怖さもあった。けれどそれは、この場に来る前の自分が想像していたものとは違って終わっていた。

 セヴェリオはそれ以上何も言わず、再び礼をして去っていった。外套の裾が廊下の角で一度だけ揺れ、その背が見えなくなるまで、ネフェリナは立ったまま見送っていた。

 扉が閉まり、屋敷の中へ静けさが戻る。

 オルネッタがすぐには何も言わなかったのがありがたかった。父もまた、余計な感想を急がない。三人でしばらく同じ空気の中に立っていて、それからようやく叔母が小さく笑った。

「少なくとも、噂だけの人ではなかったわね」

 ネフェリナはその言葉に、ようやく少しだけ息を吐いた。

「はい」

「怖かった?」

 叔母の問いに、ネフェリナは正直に頷く。

「最初は、とても」

「今は?」

 その問いには、少し考えてから答えた。

「……やはり、まだ少し怖いです」

 それは本当だった。
 セヴェリオの鋭さも、寡黙さも、簡単に安心へ置き換えられるものではない。
 けれどネフェリナは、そのあと静かに続けた。

「でも、思っていた怖さとは違いました」

 父がそこで初めて、娘のほうを見た。

「どう違う」

 ネフェリナは応接室の窓のほうを見た。白いレースの向こうで、風が少しだけ木の葉を揺らしている。

「噂では、ただ冷たい方なのだと思っていました。でも……」

 ネフェリナは自分の指先を見た。
 あの一瞬、強張った指。
 そして、そこから白薔薇の話へ切り替わったこと。

「見ていない人の冷たさでは、なかったです」

 その言葉を口にした時、自分の中で何かが静かに定まるのを感じた。

 見ていない人の冷たさ。
 それは、これまでネフェリナが最も深く傷ついてきたものかもしれない。見られているようで見られていない。分かっているようで分かろうとされない。気づいていながら、何も変えない。その冷たさに比べれば、セヴェリオの鋭さは別の種類のものだった。

 父は娘の言葉を聞き、ほんのわずかに頷いた。

「それは重要だな」

 ネフェリナも頷く。
 重要なのだ。
 優しい言葉をたくさんくれることより、まず見ていること。
 そして、その見たことを、相手が息をしやすい形へ変えようとする手つきがあること。

 たった一度の話題の切り替えで、そんなことまで分かるはずがない、と誰かは言うかもしれない。けれどネフェリナには、あの一手がひどく大きかった。白薔薇の話をしたことより、婚姻や過去に触れずに済む場所へさりげなく場をずらした、その感覚そのものが。

 見ている人だ。

 その実感だけで、未知への怖さが少しだけ形を変えた。

 すべてが安心になったわけではない。
 まだ分からないことは多い。
 この先、北方の家風やセヴェリオ本人の考え方に、自分が戸惑うこともきっとあるだろう。

 けれど少なくとも今日、ネフェリナは一つだけ確かめた。
 噂の中の「冷徹公爵」は、目の前に座った現実の男と完全に同じではない。
 彼は鋭い。口数も少ない。簡単には笑わない。
 でも、その冷たさの中に、相手の小さな強張りを見落とさない眼がある。

 それだけで、次に会うことが少しだけ怖くなくなった。

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