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第13話 無理に笑わなくていい
その日の午後、ネフェリナは自分の顔を鏡の中に見ながら、ふと、どこからが自分の表情なのか分からなくなる瞬間があることに気づいていた。
鏡台の前に座ると、いつものように髪が整えられていく。亜麻銀の髪は光を受けると柔らかく霞み、今日のような曇りがちな明るさの下では、少しだけ白に近く見えた。ミレナの櫛は丁寧で、毛先を引っかけることなくすっと滑っていく。そのたび、さらり、さらりと乾いた音が、静かな部屋の空気へ落ちる。花の香油は控えめで、今日はほとんど匂いが立たない。窓の外には薄い雲が広がり、庭の白薔薇だけが明るさを失わぬまま咲いていた。
今日もアルスレイン公爵家との話し合いがある。
正式な婚約の可否を詰めるための、二度目の席だ。昨日の「顔合わせ」よりは踏み込んだ話になると、父からは聞かされていた。北方での暮らしの細かなこと、婚姻後の住まい、王都と領地の往来、必要な体裁、双方の考え方。そういうものを一つずつ確認していく場になる、と。
緊張しないはずがない。
だが、それ以上にネフェリナは、昨日のセヴェリオの一言を思い出していた。
白薔薇の話。
あのたった一手で、凍りつきかけていた指先がほどけた。自分が強張っていることにすぐ気づき、その事実を暴くことも、気遣いと称して大袈裟に包むこともなく、ただ負担の少ない場所へ話をずらした。その静かな動きは、いまだに胸のどこかへ残っている。
けれど同時に、それが少し怖くもあった。
見られている、と思ったからだ。
悪意のある視線ではない。値踏みでもない。ただ、小さな変化を見逃さない人の視線。それに慣れていないわけではなかった。むしろネフェリナは、ずっと人から見られる側にいた。だがその多くは、何が足りないかを見つけるための視線だった。姿勢。声。服の色。笑顔の角度。そうしたものを測る目ばかりにさらされてきた。
昨日のセヴェリオの視線は、それとは違った。
違うからこそ、どう受け取ればよいのかまだ少し分からない。
「少し、考え込んでいらっしゃいます」
鏡越しにミレナが言った。
「そうかしら」
「はい。お顔は落ち着いておりますけれど、目だけが」
ネフェリナは鏡の中の自分を見る。たしかに、口元は穏やかに整っているのに、瞳の奥だけがどこか遠い。最近、自分はこういう顔をよくしているのかもしれないと思う。表情だけ先に整えて、中の気配が少し遅れてくる顔。
「……今日は、笑いすぎないようにしようと思って」
ぽつりと漏らすと、ミレナは櫛を止めずに返した。
「笑わなくてはいけない日、でございますか」
「分からないわ」
ネフェリナは小さく息を吐く。
「でも、気がつくとそうしているの。大丈夫ですと言いたい時も、困っていますと言いづらい時も、とりあえず微笑んでしまうのよ」
ミレナは少しだけ目を伏せた。侍女という立場からすれば、それはきっとずっと見てきた主人の癖なのだろう。だが彼女は賢明にも、余計な同意を口にしなかった。
「本日は、昨日より少しだけ肩の力を抜いてお出になってもよろしいかと存じます」
「昨日より?」
「昨日は、初めてでございましたから」
その言い方がやわらかくて、ネフェリナは少しだけ笑った。
笑ってから、その笑いがちゃんと自分のものだったことに気づく。作った形ではなく、自然に出た小さな笑みだった。
今日のドレスは、白にごく近い灰色だった。真っ白ではない。白薔薇の花弁へ薄い影を落としたような、静かな色だ。襟元には細い銀糸の縁取りがあるだけで、装飾らしい装飾はほとんどない。けれど布地が上質だから、近くで見ると光の返り方がとても柔らかい。派手さではなく、落ち着いた清潔さを感じさせる一着だった。
耳元には今日も小さな真珠を選んだ。母の形見の箱には、まだ指が伸びなかった。あれに触れるには、もう少し時間が必要な気がした。
玄関広間へ降りると、父と叔母はすでに揃っていた。今日はアルスレイン家の書記役も同席すると聞いている。つまり、昨日の「顔合わせ」よりさらに一段、現実の話になるのだ。
「よく眠れたか」
ガルディエルが短く問う。
「それなりに」
「それならいい」
父はそこまでしか言わなかった。けれどその一言だけで、十分だった。叔母は「今日は昨日より話が具体的になるでしょうけれど、あなたが答えたくないことまで無理に答える必要はないわ」と言った。その言い方もありがたかった。答えるかどうかを自分で選んでよいという前提が、まだ時々、不思議に思えるほどだった。
やがてアルスレイン家の馬車が到着した。
今日、セヴェリオは昨日と同じく無駄のない礼装だったが、外套を脱いだその姿には、昨日よりも少しだけ室内に馴染んだ印象があった。気のせいかもしれない。だが少なくとも、ネフェリナのほうが、昨日ほど「噂の人物」を見る目ではなくなっていたのだろう。黒髪、銀青の瞳、削り出したような輪郭。近寄りがたさは変わらない。けれど、それをただ冷たいとだけは思わなくなっている自分に気づく。
挨拶を交わし、応接室へ移る。
今日は昨日の東向きの部屋ではなく、書簡や記録を広げやすいよう少し広めの会談室が用意されていた。窓は高く、光は白く落ちている。壁際には大きな本棚、中央には長い卓。花は一輪挿しがひとつあるだけで、飾りは最小限だった。実務のための部屋らしい静けさがある。
席に着くと、アルスレイン家から来た書記役の年配の男が、落ち着いた手つきで紙と筆記具を整えた。その様子を見ただけで、今日の話し合いが「場の空気」だけで流れるものではないと分かる。
父が最初に口を開き、話は整然と進んでいった。
婚姻後の居住。
王都と北方のどちらを主とするか。
侯爵家の娘として持たせる人員。
季節ごとの帰省の可否。
領地での役割と、社交の頻度。
冬の移動の危険性。
北方での衣食住の備え。
どれも現実的で、夢のない話だ。だがネフェリナは、その夢のなさをむしろありがたく感じていた。ふわりとした理想を語るより、日常がどう形を取るのかを知るほうが、自分にはずっと安心できる。
セヴェリオは相変わらず多弁ではなかった。だが問われたことには過不足なく答え、曖昧に笑って流すことがない。北方の冬についても「厳しい」とはっきり言う。移動は危険が伴うこと、屋敷の暖房は整っているが、慣れるまで疲れやすいこと、社交が少ない代わりに一度の集まりの意味は重いこと。耳触りのよい言葉へ無理に整えない。それはやさしさとは少し違うが、誠実さに近い。
話の流れで、オルネッタが尋ねた。
「ネフェリナの役割について、アルスレイン公爵家としてはどのようにお考えですか」
その問いに、セヴェリオはすぐには答えず、ほんのわずかだけネフェリナのほうを見た。それから言う。
「まずは、家と土地に慣れていただくことを優先したい」
ネフェリナはその答えに少し驚いた。
「最初から対外の役目を多く負わせるつもりはありません。必要なものは段階的に覚えていただければ十分です」
ガルディエルが「ほう」と低く言う。
「花嫁教育のようなものは」
「必要なら整えます」
セヴェリオは答える。
「ただし、出来ないことを責めるためのものにはしません」
その一文が、ネフェリナの胸の中へ落ちた。
出来ないことを責めるためのものにはしません。
ごく当然のようでいて、自分にはあまりにも新しい言葉だった。学ぶこと、慣れること、身につけること。そのどれも、これまでのネフェリナにとっては「足りなさを指摘されるため」の入口と隣り合わせだった。だから「責めるためではない」と先に言われるだけで、心のどこかがわずかに揺れる。
「ありがとうございます」
気づけばそう言っていた。
セヴェリオは頷くだけで、礼を受けたことをわざわざ強調しない。
話し合いは続く。
北方の屋敷には温室があること。
王都のような賑やかな夜会は少ないが、その代わり領民や家臣との距離は近いこと。
使用人の入れ替えが少なく、屋敷内の仕事は長く勤める者が多いこと。
雪の季節には外へ出られぬ日もあること。
知らない景色ばかりだ。けれど聞いているうち、不思議と頭の中で形を持ち始める。白い世界、静かな屋敷、温室の湿った空気、短い夏。自分がそこで暮らす姿はまだ上手く想像できない。だが、全く想像が出来ないわけでもないことに気づく。
やがて、話題は婚約の確認そのものへ移った。
時期、形式、会談後の段取り、社交界への告知の順序。そういう話になると、どうしても視線がネフェリナ自身へ集まる瞬間が増える。彼女の意思。覚悟。納得。そういうものを、きちんと確かめる必要があるからだ。
父が言った。
「形式として確認しておきたい。ネフェリナ、おまえ自身に、現時点でこの縁談に異論はないか」
問われると分かっていた。
分かっていたのに、その問いが来た瞬間、ネフェリナの身体は小さく硬くなった。
異論はないか。
簡単に答えればよいはずだ。
怖さはある。だが、会ってみて、昨日より今日、さらに相手の輪郭が見えた。いまの時点で、この縁談を退けたいとは思っていない。そう答えればいい。
それなのに、胸の奥がわずかに詰まる。
異論はない。
受け入れる。
進める。
そういう言葉を口にする時、身体のどこかが先に「笑っておいたほうがよい」と動いてしまう。
大丈夫です。
問題ありません。
そういう顔をしておいたほうが、皆が安心する。
そういう癖が、ネフェリナには長く染みついていた。
だから彼女は、その問いを受けた瞬間、無意識に口元へいつもの微笑を置いていた。
自分でも気づかぬくらい、滑らかに。
やわらかく、静かで、場を乱さぬ、機嫌のいい婚約者の顔を。
「はい。私は……」
そこまで言ったところで、
「ここでは無理に笑わなくていい」
低い声が、静かに落ちた。
ネフェリナは息を止めた。
言ったのはセヴェリオだった。彼はネフェリナを見ていた。真っ直ぐに、しかし追いつめるようではない目で。銀青の瞳は冷たい色をしているのに、その時ばかりは、不思議と鋭さより静けさが勝って見えた。
部屋の空気が一瞬だけ変わる。
父も、叔母も、書記役でさえ、言葉を挟まない。
無理に笑わなくていい。
慰めではなかった。
「大丈夫です」と気遣うような甘さもない。
「そんな顔をしないで」と整えようとする圧もない。
ただ、その笑顔が無意識に貼りつけられたものだと見抜いたうえで、ここではそれをしなくてよいと、静かに許可を出している。
許可。
そうだ、とネフェリナは思った。
それは慰めではなく、まさに許可だった。
笑っていなくてもいい。
機嫌のよい顔でこの場を丸く収めようとしなくていい。
そうしても、ここでは話を進められる。
その当たり前のようでいて、自分には一度も与えられたことのない前提が、ひどくまっすぐ胸へ入ってきた。
ネフェリナは、自分の頬の筋肉がどれほど無意識に引き上がっていたのか、その時初めて気づいた。
貼りつけていたのだ。
ずっと。
場を壊さぬように。相手を困らせぬように。自分が傷ついていると悟らせぬように。
いや、違う。もっと根深い。
機嫌のいい婚約者でいなければならないと、身体が先に覚えてしまっていたのだ。
フェルゼン家で。
あの長い十年のあいだ。
少しでも曇れば「気にしすぎ」と見なされる場所で。
少しでも傷つきを表に出せば「感情的」と言われる場所で。
ネフェリナは一瞬、何も言えなかった。
喉の奥が熱いわけではない。泣きたいわけでもない。けれど、ずっと肩へ乗っていた見えない重みの一部を突然下ろされたような感覚があって、その軽さに身体が追いつかなかった。
「……失礼いたしました」
ようやくそう言うと、自分の声が少しだけ掠れていた。
セヴェリオは短く首を振る。
「謝る必要はありません」
それだけだった。
余計な説明もなければ、優しげな表情もない。
けれどその短さが、かえって救いだった。
大事に扱われているのに、哀れまれてはいない。
守られているのに、弱いものとして囲われてはいない。
その距離感が、ネフェリナには初めてのものだった。
オルネッタがそこで、ごく自然に茶へ手を伸ばした。場の空気を緩めるためだろう。父もまた、急かすことなく黙って娘を待っている。誰も「大丈夫か」とは言わない。けれど、その黙り方自体が、今は急がなくていいと言っていた。
ネフェリナは膝の上の手を見た。
指先は少しだけこわばっている。
だが、もう笑ってはいなかった。
それに気づいた瞬間、胸の奥が小さく震えた。
これが、自分の本当の顔なのだろうか。
笑っていないだけで、こんなにも息がしやすいのだろうか。
「私は」
ネフェリナは、今度はゆっくりと言った。
「まだ、不安があります」
その言葉は、驚くほどまっすぐだった。
これまでなら、まず口にしなかった種類の正直さだ。
「北方での暮らしも、家風も、知らないことばかりです。ですから、怖いと思う気持ちはございます」
父も叔母も、ただ聞いている。
セヴェリオもまた、何も挟まない。
「けれど」
ネフェリナは顔を上げた。
今の自分は笑っていない。
それでも誰も困った顔をしない。
その事実が、言葉の続きを静かに支えていた。
「会って、お話を伺って、それでも私はこの縁談を進めたいと思いました」
自分の声が、以前よりも少し低い位置から出ているのが分かった。飾らずに話す声だ。
「不安がなくなったわけではありません。でも、それでも、自分で選んで進みたいと思っています」
言い終えた時、部屋の中の空気は変わらず静かだった。
ただ、その静けさが先ほどまでとは違って感じられる。
試されている沈黙ではなく、受け止めるための静けさだった。
ガルディエルが頷く。
「分かった」
オルネッタも小さく微笑む。
その微笑みは、ネフェリナが無理に作ったものではなく、自分の言葉で立てたことへの静かな肯定だった。
セヴェリオはその少しあとで、短く言った。
「承知しました」
たったそれだけ。
だが、その響きには妙な軽さがなかった。
了承した、というより、確かに受け取った、という重みがある。
それから話し合いは再び進んだ。
婚約の形式。告知の順序。
王都での最低限の滞在。
北方へ移る時期。
どの段階でネフェリナが領地を見に行くか。
その一つ一つが、先ほどまでとは少し違って聞こえた。
もう「機嫌よく受け入れる婚約者」として相槌を打っているのではなく、自分で進むことを選んだ人間として聞いているからだろう。
それでも、完全に強くなれたわけではない。
会談の終盤で、北方の冬の長さや王都との距離の話になると、やはり少しだけ胸は縮んだ。知らない土地。寒さ。閉ざされた季節。親しい人の少ない屋敷。そうしたものを想像すると、怖さはまだ静かにそこにある。
けれど、先ほどの「無理に笑わなくていい」という一言のあとでは、その怖さを隠すために表情を貼りつける必要がないと思えた。怖いままでも、選べる。迷いながらでも、進める。そういうことを、自分は今まで知らなかったのかもしれない。
会談が終わりに近づいた頃、茶はすっかり冷めていた。
ネフェリナは最後に一口だけ含んだ。ぬるい。けれど、渋みよりも柔らかな香りが残る。白いレースの向こうでは午後の光が少し傾き始め、庭の白薔薇の影が床へ細く落ちていた。
別れの挨拶の前、オルネッタが自然な会話のように言った。
「ネフェリナは、緊張すると笑ってしまう癖があるのです」
叔母の言い方には、娘の弱さを暴くような軽さがなかった。むしろ、場の中へそれを普通のこととして置くやわらかさがあった。
ネフェリナは少しだけ頬が熱くなったが、否定はしなかった。もうその必要もない気がした。
セヴェリオはそれを聞いても表情を大きく変えず、ただ一度だけ視線を向けてきた。
「そのように見えた」
短い返答だった。
しかしその一言には、「だから気づいた」という以上の意味は含まれていなかった。責めも、評価も、珍しがりもしない。ただ事実として見えたことを、そのまま返しただけ。
ネフェリナはその淡白さに、また少し救われる。
顔合わせの日に感じた「見ている人だ」という印象は、今日、さらに深くなった。
見ている。
そして、見たことをこちらが恥じなくて済む形で扱う。
それは、ネフェリナにとって初めての種類の解放だった。
セヴェリオが帰ったあと、応接室の空気は少しだけ緩んだ。
父が書類を閉じ、叔母が「今日は本当にお疲れさま」と言う。
ネフェリナは椅子から立ち上がろうとして、ふと、自分の頬が少し重いことに気づいた。
笑わなかったのに。
いや、笑わなかったからこそかもしれない。
いつも使っていた場所へ、今日は別の力が入っていたのだろう。
その夜、自室へ戻ってから、ネフェリナは鏡の前に立った。
灯りを少し落とした部屋の中で、鏡に映る自分の顔は昼間より柔らかく見えた。疲れてはいる。目の下にはわずかな影がある。けれど口元には、いつものような「整えられた微笑み」がなかった。
ないのに、ひどく穏やかだった。
ネフェリナは自分の頬へそっと触れた。
そこにはまだ、何かを貼りつけていた名残のような感覚がある。
「……私、ずっとあれをしていたのね」
思わず声に出していた。
機嫌のいい婚約者。
場を乱さない娘。
傷ついても大丈夫そうに見える人。
フェルゼン家で過ごした時間の中で、自分は知らず知らず、それを演じることへ慣れすぎていたのだ。違う、と言いたい時も。痛い、と言いたい時も。まず先に微笑んでしまうほどに。
だから今日、「ここでは無理に笑わなくていい」と言われた時、あんなにも身体が止まったのだろう。
それは慰めではなかった。
「可哀想に」と憐れまれるような甘い言葉ではなかった。
ただ、ここではその役をしなくていい、と明け渡された場所だった。
許可。
その言葉が、やはり一番近い。
笑わなくていい。
大丈夫そうに見えなくていい。
困っているなら、困っているままでここにいていい。
そうした許可を、自分は今まで一度も受け取ったことがなかったのかもしれない。
ネフェリナは鏡の中の自分を見つめた。
笑っていない顔。
少し疲れていて、少し不安も残っている顔。
けれど、それでもちゃんと自分のものだと思える顔。
そのことが、ひどく新鮮だった。
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