婚約者の母に疎まれ続けたので、結婚直前ですが先に別の公爵家へ嫁ぎます~今さら惜しまれてももう戻りません~

なつめ

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第24話 北方の小さな花


 雪解けの匂いというものを、ネフェリナは北方へ来て初めて知った。

 それは雨の匂いとも、春の土の匂いとも少し違う。まだ冷えの残る空気の底で、凍っていたものがごく薄くほどけ始める時の匂いだ。水になった雪が石の隙間へしみ込み、日陰の土をゆるめ、風の通り道にだけ湿った気配を残していく。温かいとは言えない。むしろ空気はまだ鋭く冷たく、頬に当たれば冬の名残をはっきり感じる。けれどその冷たさの奥でだけ、季節が静かに向きを変えているのが分かる。

 熱を出して寝込んでからしばらく経ち、ネフェリナはようやく屋敷の中を少しずつ長く歩けるようになっていた。

 ジルヴェナは相変わらず容赦がない。食事の量、朝の外気に触れる時間、暖炉の火から離れる距離、その一つ一つへ静かに制限を引く。少しでも頬の色が薄いと見れば「今日はここまで」と言い切るし、ネフェリナが「もう大丈夫です」と口にしかければ、その前に湯の温度を変え、上掛けの厚みを変え、次の予定を少し短くしてしまう。

 そういう扱いに、ネフェリナはまだ完全には慣れきっていない。
 だが少なくとも、以前のようにそれを申し訳なさだけで受け止めることは少なくなってきた。
 疲れている時は休む。
 寒ければ火の近くへ戻る。
 食べきれぬ時は残す。
 そうした当たり前が、この屋敷では本当に当たり前として扱われるのだと、身体が少しずつ覚え始めている。

 その日も、午前の光が白く差し込む廊下を、ネフェリナはゆっくりと歩いていた。

 行き先は温室だった。
 北方へ来た最初の日、まだ旅の疲れも抜けきらぬまま一度だけ足を踏み入れたが、その後は熱を出したこともあって、しばらく近づけずにいた場所だ。熱が下がってからジルヴェナが「今日は短くなら」と許したのは、屋敷の中でも温室だけだった。外庭はまだ冷えがきつい。石畳の上へ風が通り、日陰には薄い雪も残る。だが温室なら、湿った暖かさがあり、身体を冷やしすぎずに春の気配を感じられる。

 ネフェリナはその提案に、思っていた以上に心が動くのを感じていた。

 王都でも庭は好きだった。けれど王都の庭は、整えられ、美しく咲き、誰かに見られることを前提に磨かれていることが多い。もちろんそれも嫌いではない。白薔薇の時期の庭など、母の好きだった景色も重なって、胸にやわらかなものを残した。

 だが北方の温室には、それとは違う「生き延びるための花」がある。
 雪と寒さを越えるために守られ、土とガラスの内側で季節をつないでいる花々。
 それを、もう一度ちゃんと見たいと思っていた。

 温室へ続く渡り廊下は、朝の光を受けてガラスが白く光っていた。足元の石は冷たいが、扉を開けた瞬間に空気が変わる。外の乾いた冷えから、湿り気を含んだやわらかなぬくもりへ。濡れた土、若い葉、水差しの金具に残る金属の匂い、まだ開ききらぬ蕾の青い香り。そういうものが一度に胸へ入ってきて、ネフェリナは小さく息をついた。

「少しだけなら、お一人でも」

 ジルヴェナは入口でそう言った。
「奥へ行きすぎる前に、疲れを感じたら戻ってください」

「ええ」

「無理はなさらないこと」

「……はい」

 この頃になると、ネフェリナももう、その言葉へ素直に頷けるようになっていた。大丈夫だと言って押し切るより、まずは自分の身体のほうを聞くほうがよいと、熱のあとでようやく少し分かったからだ。

 温室の中は静かだった。時おり、どこかで雫の落ちる音がする。高いガラス屋根へ雲の影が流れるたび、光の濃さだけがゆっくりと変わる。白い花、薄紫の花、葉の濃い鉢、まだ土だけの浅い箱。それらが規則正しく並んでいるのに、不思議と冷たくは見えない。管理されているが、息は深い。ここでは「美しさ」より先に「生きていること」が感じられるのだ。

 ネフェリナは一歩ずつ、ゆっくりと歩いた。

 葉の形を見る。
 土の湿りを見る。
 温室の隅へ集められた木箱の中に、まだ小さな芽が並んでいるのを見る。
 それだけで、心の中の緊張が少しずつほどけていく。

 以前なら、花を見る時でさえどこかで「どう見えるか」を考えていたかもしれない。好みを口にする時の言葉遣い、触れ方、立ち止まる時間、その全部を誰かの目線で整えようとしていた。だがここでは、少なくとも今のところ、花の前で足を止めたからといって何かを言われる気配がない。そのことが、ひどくやさしい。

 温室の中央を過ぎ、少し奥へ入った時だった。

 ネフェリナは足を止めた。

 大輪の花でも、珍しい蘭でもなかった。
 目立つ色でもない。
 むしろ、うっかりすれば見逃してしまうほど小さな鉢だった。

 低い棚の端に置かれた浅い鉢の中で、掌の爪ほどの小花がいくつも咲いている。花弁は五枚。白にごく薄い青をさしたような色で、中心だけがかすかに淡い金を含んでいた。姿は華奢なのに、茎は意外なほどしなやかで、細い葉の色も薄すぎない。派手さはない。けれど静かな光の中で見ると、花の輪郭がまるで雪の中へ忍ばせた小さな空のかけらのように見えた。

 ネフェリナは自然に膝を折り、鉢の近くへ顔を寄せた。

 香りはほとんどない。近づいてようやく、ごく微かな青い匂いがする程度だ。
 名前を知らない花だった。
 王都でも見たことがない。

「……あなた、ここで咲くのね」

 思わず小さくそう零す。

 北方の温室には、もっと鮮やかな花もある。寒さに耐えるために厚い葉を持つものも、暖かい南方から移されてきた華やかなものもある。その中で、この小花はひどくささやかだった。誰かに見せびらかすためではなく、ただそこで、静かに、でも確かに咲いている。

 ネフェリナはしばらくその花から目を離せなかった。

 どうして気になるのか、自分でも少し考えた。
 色が好きなのだろうか。
 たしかにこの白に近い青は、北方の光によく似合う。
 小さいのに埋もれず、けれど目立とうともしていないところが好きなのだろうか。
 それもあるかもしれない。

 けれどそれ以上に、この花が「寒い場所で、小さく、でもきちんと生きている」ように見えたことが、胸に触れたのだと思った。

 北方では珍しい花なのかしら。
 そう考えながら、ネフェリナは指先だけそっと鉢の縁へ触れた。冷えた陶器の感触が指へ伝わる。花には触れない。ただ、そこにあることだけを確かめるように。

「気になりますか」

 不意に低い声がして、ネフェリナは振り返った。

 セヴェリオだった。

 入口のほうから来たのだろう。足音に全く気づかなかった。彼はいつものように濃色の上衣を着ており、温室の湿った空気の中でも輪郭を崩さない。だがその視線は、いまネフェリナの顔より先に、彼女が見つめていた小さな鉢へ向いていた。

「……ええ」

 ネフェリナは立ち上がりながら答えた。
 少しだけ頬が熱い。
 花を見ていたところを見られたからか、それとも彼が自分の視線の先まできちんと追っていたからか、自分でも分からない。

「お名前は存じませんけれど……珍しいのでしょうか」

 セヴェリオは鉢へ目をやった。

「北方では少ないほうです」

「やはり」

「外では越せない」

 簡潔な説明だった。
 ネフェリナはもう一度花を見る。
 外では越せない。
 だから温室の端で、こうして守られているのか。

「でも、きれいですね」

 口にしてから、少しだけ言い足したくなる。

「派手ではないけれど……ここにあると、よく目に入ります」

 セヴェリオは短く頷いた。
 それだけで、何かを覚えたのかどうかは分からなかった。
 彼はこういう時、余計な反応を足さない。
 気に入ったのか、と問うでもなく、では贈ろうか、とも言わない。
 ただ、その花を見ている自分を静かに見る。

 だからネフェリナも、それ以上何も言わなかった。
 花の話はそこで終わり、二人は温室の別の一角を少しだけ歩いた。冬越しの苗のこと、北方では早春に咲く花が限られること、温室のガラスは風雪で傷みやすく年ごとの手入れが必要なこと。セヴェリオは必要なことだけを話し、ネフェリナもそれへ短く応じた。温室を出る頃には、先ほどの小花のことは会話の上ではもう流れていた。

 だがネフェリナの心には、その花の淡い色が静かに残っていた。

 そして数日後。

 北方の風は相変わらず冷たかったが、日差しだけは少しずつ長くなっていた。昼前の光が石壁へ落ちると、屋敷の南側だけは思いのほか柔らかな明るさに包まれる。ネフェリナはその日、ジルヴェナに言われて温かな外套を羽織り、客室から日向の居間まで一人で歩いていた。

 体調はもうほとんど戻っている。
 長く寝込んだあと特有の足元の頼りなさも薄れ、廊下の冷えにも以前ほど過敏にはならなくなってきた。
 それでもジルヴェナは、外套の襟元を自ら整え、「風の通る側へ長く立たないこと」と一言だけ添えた。
 それがこの屋敷のやり方だ。
 大袈裟に心配を見せず、必要なことを必要な分だけきっちり伝える。

 日向の居間へ入る前、南向きの小さな外廊下を横切る。そこは屋敷の中と外の境目のような場所で、ガラスの扉の向こうに石造りの細いテラスが続き、その先に冬の名残を抱えた庭が見える。晴れた日にはよく光が集まり、雪解けの雫が屋根の端からきらきらと落ちる。ネフェリナはその場所が少し好きになり始めていた。完全な戸外ではない。けれど北方の空気を近く感じるにはちょうどよい。

 その日も、光がきれいだった。

 だから何気なく視線を外へ向けた。
 向けて、足を止めた。

 テラスの石壁沿い、日がよく当たる低い花壇に、小さな花が並んでいた。

 白にごく薄い青。
 五枚の花弁。
 中心だけが淡く金を含み、葉は細く、控えめなのに目を引く。
 温室の奥で見つけた、あの小さな花と同じだった。

 ネフェリナはしばらく、息をするのを忘れたように立っていた。

 温室の片隅にあった時よりも、ここではずっとよく見える。石壁が風を和らげ、午前から昼にかけての光がちょうど差す場所なのだろう。雪解けの水が細く流れるその脇で、小花たちはひどく静かに咲いていた。数は多くない。花壇いっぱいに飾り立てるような量ではなく、あくまで「ここへ目が留まる人には見える」という程度の並び方だ。

 派手ではない。
 だが、そこにある。

 ネフェリナは扉を少しだけ開け、外へ出た。空気はまだ冷たい。けれど日向の明るさがその冷えを少しだけやわらげている。足元の石は冷たく硬く、花壇の土はまだ湿っていた。

 近づいてみると、まちがいなかった。
 温室で見つけたあの花だ。
 鉢ごと持ち出したのではなく、花壇としてきちんと整え直されている。土の高さも、水の流れも、この場所の光に合うよう考えられている。誰かが「ここなら咲ける」と判断して、わざわざそう整えたのだ。

 ネフェリナはその前にしゃがみ込み、花へ手を伸ばしかけて、やめた。
 指先が少し震えている。
 寒さのせいではなかった。

「お気づきになりましたか」

 背後から、落ち着いた声がした。

 振り返ると、ジルヴェナが扉の内側に立っていた。相変わらず寸分違わぬ衣装で、だが今日はごくわずかに目元がやわらいで見えた。彼女が何かを楽しんでいる時の、ごく小さな変化を、ネフェリナは最近ようやく見分けられるようになってきていた。

「これ……」

 ネフェリナは言葉を探した。
「温室の」

「ええ」

 ジルヴェナは頷いた。
「旦那様が庭師へ」

 たったそれだけで、十分だった。

 庭師へ整えさせた。
 つまり、あの日温室でネフェリナが立ち止まり、長く見ていた花を、セヴェリオは覚えていたのだ。
 覚えていて、それをわざわざ「贈ります」と言うでもなく、気づけば毎日通る場所に自然に置かれるよう整えた。

 ネフェリナの胸の奥へ、あたたかなものが静かに広がった。
 火に近づいた時のような強い熱ではない。
 もっと深くて、もっと静かで、あとからじわじわと染みてくる温度だった。

「……どうして」

 気づけば、小さくそう零していた。

 ジルヴェナは花壇へ一度目を向ける。

「温室の花は、ただ置いてあるだけでは気づかれぬことも多いものです」

「そういう意味ではなくて」

 ネフェリナは自分で少し恥ずかしくなる。
 だがジルヴェナは困らせるように追及しない。
 少しだけ沈黙したあと、静かに言った。

「旦那様は、そういう方ですから」

 そういう方。

 それだけでは説明になっていないようでいて、ネフェリナにはひどくよく分かった。

 大げさな言葉で好意を示す人ではない。
 見て、覚えて、必要だと思えば整える。
 しかもそれを、相手が受け取りやすい形にして置く。

 花束のように目立つものではない。
 宝石のように形へ残るものでもない。
 ただ、何気なく目を向けた先に、自分が一度足を止めた花が、もう一度、もっと見やすい場所に咲いている。

 そのさりげなさが、かえって胸へ深く沁みた。

 ネフェリナはしばらくその小花を見つめていた。
 風が吹くと、五枚の花弁が小さく震える。
 白に近い青は、北方の光の中で見ると、まるで薄い氷の下へ差し込んだ空の色のようだった。
 こんなふうに咲く場所を作ってもらったのだと思うと、花まで少し大切そうに見える。

「毎朝、この廊下を通るたびに見られます」

 ジルヴェナが言う。
「日が強すぎる時間は少し布をかけるよう、庭師へ申しつけております」

 そこまで、とネフェリナは思う。
 そこまで考えられている。
 花を置くだけでなく、咲き続けるよう整えるところまで。

 静かな溺愛というものは、もしかするとこういう形をしているのかもしれない。
 誰もいないところで、相手が気づいた小さな好みを覚えておいて、数日後、何も言わず形にしておく。
 見返りを求めるでもなく、感動を強いるでもなく。
 ただ「見ていた」という事実だけを、花のようにそっと置く。

 ネフェリナは胸の奥が少しだけ苦しくなるのを感じた。
 苦しいのに、それは痛みではなかった。
 やわらかな熱が、一気に広がる前の、戸惑いに近い締めつけ。

「セヴェリオ様は……」

 言いかけて、やめる。
 どう訊ねればよいのか分からなかった。
 本当に彼が、ただ自分の視線を覚えていただけなのか。
 それとも、もっと別の意味がそこにあるのか。
 けれど、それを言葉で確認したいわけでもなかった。

 ジルヴェナはそんなネフェリナの戸惑いを見て取ったのかもしれない。
 ごくわずかに目を細める。

「お礼を仰りたいのであれば、そのまま仰ればよろしいかと」

 その言い方に、ネフェリナは少し笑った。
 侍女頭はこういう時も余計に甘くならない。

「……そうですね」

「ただ」

 ジルヴェナは続ける。
「旦那様は、あまり大きく受け取られるとお困りになるでしょう」

 その一言に、今度はネフェリナもはっきり笑ってしまった。
 たしかにそうかもしれない。
 セヴェリオは、この花を見て大仰に感激されることを望んで整えたわけではないだろう。
 ただ、あの時ネフェリナが足を止めたことを覚えていて、ここへ置けば見やすいと思ったから、そうしただけだ。

 その「だけ」が、ひどく嬉しい。

 ネフェリナはゆっくり立ち上がった。
 胸の内にはまだ熱のようなものが残っている。
 けれど不思議と落ち着いていた。

「少しだけ、ここにいてもよろしいですか」

 ジルヴェナは頷いた。

「風が強くなればお呼びします」

「ありがとうございます」

 侍女頭が静かに下がり、ネフェリナは一人、花壇の前へ残った。

 雪解けの雫が、屋根の端から細く落ちる。
 低木の葉が風に揺れる。
 遠くで誰かが庭仕事の道具を動かす、鈍い金属音がした。
 その静かな午後の中で、小花だけが薄く光っている。

 ネフェリナはあの日の温室を思い出した。
 ただ足を止めて、名前も知らぬ花を見ていただけだった。
 それを覚えられていた。
 しかも、こんなふうに毎日見られる場所へ、ひっそりと用意されていた。

 何気ない視線。
 何気なく止まった足。
 何気なく零した「きれいですね」という一言。
 そういうものを覚えていてくれる人がいるのだと知ることは、思っていた以上に胸をあたためる。

 王都では、目を向けることに意味を持たせすぎていたのかもしれない。
 好きだと口にすれば、それがどれほど上品か見られる。
 手を伸ばせば、その仕草の意味まで測られる。
 気に入ったものがあっても、それを「どう映るか」のほうが先へ来る。

 ここでは違う。
 少なくとも、セヴェリオの前では。
 見たものを見たままに覚えられ、それが静かに返ってくる。

 それは、欲しいものを与えられる喜びとは少し違っていた。
 もっと深いところで、「私は見過ごされていない」と伝わってくる温度だ。

 ネフェリナは花へもう一度目を落とした。
 白に近い青。
 小さく、控えめで、それでも確かにそこにある。

「……ありがとう、ございます」

 誰に向けるでもなく、小さくそう言ってみる。

 言葉は風へすぐに溶けた。
 けれど胸の奥では、その言葉がちゃんと届く先を知っているような気がした。

 しばらくして居間へ向かうため扉へ戻ると、廊下の角に人影が見えた。
 セヴェリオだった。

 いつからいたのか分からない。
 だが彼はネフェリナが花壇の前で足を止めている姿を、少なくとも少しは見ていたのだろう。
 近づきすぎず、声をかけもせず、ただこちらが戻るのを待っていたらしい。

「日が出ているので、外でも冷えは弱いようですね」

 彼はそう言った。
 花のことには直接触れない。
 いつも通りの、必要な分だけを言う声音。

 ネフェリナはそのさりげなさに、また少しだけ胸が熱くなる。

「ええ」

 小さく答えてから、一拍置く。

「……あのお花、ありがとうございます」

 セヴェリオの目がわずかに動いた。
 驚いた、というほどではない。
 だが「気づいたのか」と確かめるような、小さな沈黙が落ちる。

「温室で見ていましたから」

 返ってきたのは、それだけだった。

 見ていましたから。

 あまりにも簡潔で、ほとんど説明にもなっていない。
 だが、それで十分だった。
 あなたが見ていたから、覚えていた。
 覚えていたから、整えた。
 その順番が、余計な飾りなくそこにある。

 ネフェリナは笑った。
 今度は照れが混じった、少しだけ困るような笑みだった。

「そういうところが、ずるいです」

 思わず口にしてしまうと、セヴェリオはほんのわずかに眉を上げた。

「ずるい、ですか」

「はい」

 ネフェリナは頷く。
「何も仰らないのに、ちゃんと覚えていらして……」

 そこまで言うと、頬が少しだけ熱い。
 セヴェリオはそれを見ていたが、追及はしなかった。
 ただ、ごく短く言う。

「覚えていたほうが、良いこともあります」

 その一言に、ネフェリナは返事が出来なかった。
 良いこと。
 たぶん本人にとっては、それもまたごく当然の理屈なのだろう。
 だがネフェリナにとっては、その当然が今まであまりにも遠かった。

 二人のあいだに、短い沈黙が落ちる。
 けれど気まずくはなかった。
 窓の外には小花。
 足元には昼の光。
 そしてそのどちらもが、いま妙に鮮やかだった。

 セヴェリオはやがて「中へ」とだけ言い、居間のほうへ視線を向けた。
 ネフェリナも頷く。
 並んで歩き出すと、扉の向こうの暖かい空気が二人を包んだ。

 ネフェリナはその一歩一歩のあいだ、胸の中にあるやわらかな熱を持て余していた。
 大きな贈り物ではない。
 誰の目にも明らかな求愛でもない。
 それでも、この小さな花壇には、彼の静かな溺愛がたしかに形を持っていた。

 見ていた。
 覚えていた。
 そして、気づけばそこにあるよう整えた。

 そういう愛され方を、自分はこれから知っていくのかもしれない。
 そう思うと、胸の奥のどこかが、北方の遅い春のように静かにほどけていく気がした。


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