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第26話 王都の夜会
王都へ戻る馬車の中で、ネフェリナはずっと窓の外を見ていた。
北方の冬を越えたあとの空気は、王都の春の終わりとはまるで質が違う。冷たさの芯が違い、風の匂いも違い、光の落ち方まで違う。アルスレイン領を発つ朝、屋敷の石壁に触れていた白い光は、どこか硬く澄んでいた。それが南へ下るにつれ、少しずつ湿りを帯び、やがて王都の近くへ入る頃には、空気そのものが柔らかくゆるんでいくのが分かった。
王都は春だった。
もう雪の名残などどこにもない。街道沿いの木々はやわらかな緑を広げ、花壇には早咲きの花がいくつも色を重ね、往来する人の衣も北方ほど重くない。窓の外を流れる景色は、ネフェリナにとって見慣れたはずのものだった。幼い頃から知っている屋根の色、石畳の響き、空の高さ。けれど今、それらは「帰ってきた場所」というより、「もう一度向き合わねばならない場所」として目に映っていた。
今回の王都行きは、婚姻後初めての公式な帰都だった。
理由はいくつかある。婚礼の後に必要な挨拶回り。王都に拠点を持つ商会との確認。北方へ移る前から決まっていた公爵家としての出席義務。そして、その中でも外せないひとつが、王都の有力貴族たちが集う夜会への出席だった。
断ることも出来なくはない。だが断れば断ったで、かえって余計な憶測を呼ぶ。アルスレイン公爵が新しい妻を王都へ出せないのではないか。北方の花嫁は社交に耐えないのではないか。フェルゼン家との件が尾を引いているのではないか。そうしたいらぬ噂を立たせないためにも、一度きちんと姿を見せる必要があると、セヴェリオは静かに判断した。
ネフェリナも、その理屈はよく分かった。
分かっている。分かっているのに、王都へ近づくほど、胸の奥のどこかが薄く強張るのは止められなかった。
夜会にフェルゼン家が来る可能性は高い。
いや、高いどころか、ほぼ確実だろう。家格を考えれば、あの手の夜会にメルゾアが顔を出さぬ理由はない。ローディアスもまた、婚約解消のあと初めて、こうした社交の場で公に顔を見せるかもしれない。ネフェリナはそのことを分かったうえで、この馬車に乗っていた。
逃げるつもりはなかった。
もう以前のように、会わぬよう願って震えるだけの自分ではない、と分かっている。だが、分かっていることと、身体が昔の緊張を思い出さないことは、別だった。
かつて何度も向かった王都の夜会。磨かれた床。眩しいシャンデリア。笑い声の高さ。扇の開く音。あの中で、常に「足りない側」にいるよう感じていた自分。服の色、立つ位置、微笑みの形、誰へいつ目を向けるか、その一つ一つに気を張り続けていた夜。そうした記憶は、もう終わったものだと頭では整理出来ている。それでも王都の空気を吸い込めば、身体の奥のどこかが古い癖をゆっくりと目覚めさせる。
「冷えますか」
向かいではなく隣から、低い声が落ちた。
ネフェリナは少しだけ肩を揺らし、顔を上げた。セヴェリオは窓の外ではなく、ネフェリナの手元を見ていた。膝の上に重ねた指先へ、ほんのわずかに力が入っていることに、彼は気づいているのだろう。
「いいえ」
そう答えかけて、ネフェリナは少しだけ息を止めた。以前ならそこで、迷いなく「大丈夫です」と言っていただろう。だが今は、その言い方を一度胸の中でほどいてから、言葉を選ぶ。
「……少しだけ、緊張しています」
声は小さかったが、偽りはなかった。
セヴェリオはすぐに答えなかった。責めるでもなく、慰めを急ぐでもなく、ただ一拍置く。その沈黙が、ネフェリナにはありがたかった。何かを打ち消されるより、「そうなのか」と受け止められるまでの短い時間があるほうが、息がしやすい。
「会いますかもしれませんから」
彼はそれだけ言った。
フェルゼン家の名を、わざわざ口にしない。だが誰のことかは十分に分かる。ネフェリナは小さく頷いた。
「はい」
「離れません」
その一言は、あまりに短く、あまりに自然だった。
守ると誓うような芝居がかった強さではない。大丈夫だと甘く包む慰めでもない。ただ事実として、「離れません」と置かれる。だからこそ、その言葉は驚くほど深く胸へ落ちた。
ネフェリナは視線を下げた。自分の左手の薬指には、婚礼の日に嵌められた指輪がある。銀に近い白金の輪は派手ではなく、だが指へなじむほどに確かな重みを持っていた。その小さな重みを意識すると、胸の強張りがほんの少しだけやわらぐ。
王都のアルスレイン公爵家のタウンハウスへ着いてからも、支度は静かに進んだ。
北方本邸とはまた違うが、こちらの屋敷にもセヴェリオの気質はよく表れている。華やかな王都の邸宅でありながら、装飾のための装飾は少ない。深い色の木、よく磨かれた石床、光を受けて静かにきらめく燭台。見せつけるより整っていることを選ぶ家の空気が、そのまま室内の輪郭になっていた。
ネフェリナの部屋には、すでに夜会用の衣装が整えられている。
北方での婚礼衣装ほど静かな色ではなかった。王都の夜会にふさわしい華やぎは必要だ。けれどそれもまた、かつてフェルゼン家へ向かうために選ばされていたような「誰かに気に入られるための華やかさ」ではない。
今夜のドレスは、深い夜を薄く溶かしたような青灰だった。白を含んだ青ではなく、光の中でだけ銀を帯びるような深い色。胸元も袖も決して露出は多くない。だが布の落ち方が美しく、歩けば裾が静かに波打つ。飾りはごく控えめな銀刺繍だけで、その細かな模様の中へ、北方の小花の意匠がひそやかに紛れていた。髪は高く盛り上げず、後ろでまとめて流れを生かし、耳元には母の耳飾りではなく、アルスレイン家から贈られた細い銀と小粒の真珠をつけることにした。過去を否定するためではない。今夜、自分が立つのは「今の自分」としての場所だと思えたからだ。
鏡の前で支度を整えながら、ネフェリナは自分の顔を見つめた。
美しい、とまでは自分では思わない。だが少なくとも、怯えて整えた顔ではなかった。夜会へ出る前、以前ならいつも胸のどこかにあった「何かを間違えないように」という針のような緊張は、今日は別の形に変わっている。まだ緊張している。だがそれは、誰かの前で削られぬように身構える緊張ではない。過去と向き合うために背筋を伸ばす時の緊張だ。
「お嬢様」
ミレナが言った。
「……とてもお綺麗でございます」
その声は少しだけ震えていた。王都へ戻ることが、ネフェリナにとって何を意味するかを、彼女も分かっているのだろう。ネフェリナは鏡越しに小さく笑った。
「ありがとう」
「ご無理だけは」
「ええ」
短く答えながら、ネフェリナは自分でも不思議なほど落ち着いている部分があることに気づいていた。全部が不安なわけではない。怖いのは「再会」そのものであって、夜会のすべてではない。そして、その怖さをもう隠さず持てること自体が、以前とは違っていた。
出発の前、セヴェリオが部屋の前まで迎えに来た。
彼もまた夜会用の正装だった。濃い黒に近い紺の上衣、銀糸のごく細い縁取り、飾りは最小限。華やかな王都の男たちが好むような煌びやかさはない。だが、その分、輪郭の鋭さと落ち着きが際立つ。余計なものがない人は、それだけで場の空気を変えるのだと改めて思う。
ネフェリナが部屋から出てくると、セヴェリオはほんの一瞬だけ目を止めた。視線は胸元から裾へ、そして顔へと静かに流れる。値踏みではない。確認と、受け止めるための目だ。
「苦しくはありませんか」
最初の言葉はそれだった。
ネフェリナは少しだけ驚いてから、首を振る。
「大丈夫です」
するとセヴェリオは、その言葉だけでは終わらせなかった。半歩近づき、ドレスの腰のあたりへほんの一瞬だけ目をやる。
「階段はゆっくりで」
たったそれだけ。だがその一言で、今夜もまた「見られている」のだと分かる。飾りや美しさだけでなく、衣装の重さや動きにくさまで含めて。
屋敷の馬車で夜会の会場へ向かうあいだ、王都の街はすでに夜の光を灯し始めていた。石畳は昼間より黒く沈み、窓々から漏れる灯りが通りへ長く流れている。夜会のある貴族街へ近づくほど、同じ方向へ向かう馬車が増える。紋章入りの車体、磨かれた車輪、御者たちの短い掛け声。どの馬車の中にも、それぞれの家の思惑と見栄と期待が乗っているのだろう。ネフェリナは窓の外を見ながら、指先へごく薄い冷えが戻ってくるのを感じた。
会場は王都中心部の侯爵家の大広間だった。
階段を上がり、石造りの玄関ホールへ入ると、すぐにあの王都特有の空気が流れ込んでくる。灯りの多さ。香の甘さ。絹の擦れる音。遠くで鳴る弦楽器。笑い声を抑えた高い声。扇の開閉。磨き上げられた床へ反射する光。すべてがよく知っている夜会の気配なのに、今のネフェリナには少し遠い国の音のようにも聞こえた。
広間の扉が開かれた瞬間、視線が集まる。
アルスレイン公爵と、その新しい妻。
それだけで十分に人の目を引く。ましてネフェリナは、つい数か月前までフェルゼン家の婚約者として王都の社交界に出ていたのだ。誰もが事情を知っているわけではなくとも、少なくとも多くの者が「何がどう変わったのか」を見ようとする目を向けてくる。
ネフェリナはその視線の圧を感じた瞬間、身体のどこかが古い癖を思い出しかけるのを感じた。
笑って。
姿勢を正して。
隙を見せずに。
誰の前でも取り乱さずに。
だがその癖が完全に身体を支配する前に、左手へかかるわずかな重みが意識を引き戻した。
セヴェリオの手だった。
腕を組んでいるわけではない。支配的に引き寄せてもいない。ただエスコートとして添えられた手が、決して急がず、決して置いていかず、ネフェリナの歩幅と呼吸にきっちり合わせてくる。それだけで、王都の煌びやかな広間の中に一つ、北方の静かな軸が通る気がした。
会場へ入ってしばらくは、挨拶が続いた。
侯爵夫人たちが近づき、祝いの言葉を述べ、セヴェリオへ形式的な挨拶をし、ネフェリナへ視線を向ける。その目の中に好奇もないわけではない。だが彼女たちは皆、驚くほど丁寧だった。
「アルスレイン公爵夫人、お噂以上にお似合いですこと」
「北方はまだ寒うございましょうに、ようこそ」
「ご無理なく、王都での数日をお過ごしくださいませ」
公爵夫人。
その呼び名が、夜会のあちこちで繰り返される。
ネフェリナはそのたび、胸の奥が少しずつ落ち着いていくのを感じた。それは身分の高さに安堵しているのではない。誰かの婚約者候補ではなく、すでに「夫人」として確定した立場で呼ばれることの揺るぎなさが、いまの自分を支えていた。
そして何より、セヴェリオが誰かに話しかけられるたび、当然のようにネフェリナを会話の中へ含めることが大きかった。相手が彼にだけ視線を向ければ、彼はごく自然に「妻もそう申しておりました」あるいは「夫人へもご挨拶を」と返す。自分の背後へ置くことも、必要な時だけ前へ出すこともない。ただ最初から隣にいる人間として扱う。その扱いの自然さが、周囲の目にもはっきり見えていた。
だからこそ、フェルゼン家が視界の端へ入った時、その差はあまりにも鮮明だった。
広間の中央寄り、やや人の集まりやすい場所にメルゾアがいた。淡い紫のドレス。真珠の首飾り。姿勢は変わらず完璧で、周囲へ向ける微笑みもまた整っている。ローディアスも少し後ろに立っていた。黒に近い礼装姿の彼は、以前よりやつれて見えた。頬が少し削げ、視線の置き方にも落ち着かなさがある。
ネフェリナはその姿を見た瞬間、胸の奥が一度だけ冷たく縮んだ。
やはり、身体は覚えている。
あの食卓。
あの夜会。
母の耳飾り。
沈黙。
帰りの馬車での冷たい隙間。
息が浅くなりかける。
だが、その時、隣のセヴェリオがほんのわずかに歩みを緩めた。言葉はない。視線も向けてこない。ただネフェリナの歩幅と呼吸が乱れたことを感じ取り、広間の流れに飲まれぬ速度へ自然に落としてくれただけだ。
それだけで、ネフェリナは自分の足がまだきちんと床を踏んでいることを思い出した。
逃げなくていい。
急がなくていい。
離れません。
あの馬車の中で言われた短い言葉が、今さらのように胸の内で静かに響く。
メルゾアも、こちらへ気づいたらしい。
目が合う。
その一瞬だけ、彼女の微笑みの端が止まった。驚きか、戸惑いか、それとも計算のし直しか。すぐにまた整え直される。だが一度止まったことを、ネフェリナは見逃さなかった。
ローディアスのほうは、もっと分かりやすかった。
彼はネフェリナの姿を認めた瞬間、表情のどこかがはっきり揺れた。視線はまずネフェリナへ、そのあと彼女の隣に立つセヴェリオへ移り、そして再びネフェリナへ戻る。そこにあるのは未練とも後悔ともつかぬ痛みだ。だが、その痛みは今のネフェリナにはもう、自分を引き戻す力を持たなかった。
広間の空気が、ごくわずかにこちらへ寄る。
人はこういう瞬間を見逃さない。
かつての婚約者一家と、新しい公爵夫妻。
しかもその扱いの差は、隠しようもなくそこにある。
メルゾアが先に近づいてきた。
王都の社交界で生きてきた女の歩き方だった。ためらいを見せず、けれど急ぎすぎず、周囲に「自分は揺らいでいない」と思わせる速度。
「ごきげんよう、アルスレイン公爵閣下」
まずセヴェリオへ。
正しい順番だ。
そして次に、少しだけ間を置いてネフェリナへ視線を向ける。
「……ネフェリナ様」
「様」とつけた。
そのたった一文字に、広間の空気がまた少しだけ揺れる。
以前なら、もっと親しい呼び方をしただろう。あるいは、親しさを装いつつ上から押さえる調子を混ぜたかもしれない。
今は出来ない。
目の前にいるのは、アルスレイン公爵夫人だからだ。
ネフェリナは自分でも驚くほど静かに、一礼した。
「ごきげんよう、フェルゼン伯爵夫人」
声は整っていた。
笑みも、ごく薄く、しかし十分に丁寧だった。
以前のように機嫌を伺って形を整える必要はない。ただ礼を失さず、必要な距離を守ればいい。
ローディアスはその少し後ろで、まるで自分の順番を待たねばならぬ立場のように立っていた。実際そうなのだろう。アルスレイン公爵夫妻へ対し、彼が以前の親しさを前提に話しかけることなど出来ない。彼は少しだけ唇を引き結び、それから形式通りに頭を下げた。
「ご結婚、お祝い申し上げます」
ネフェリナはその言葉を聞きながら、一瞬だけ「ああ、この人は本当にもう遠い」と思った。近くに立っているのに、距離の質がまるで違う。かつては並んで立つことが当たり前だと思っていた相手が、今は礼儀の線の向こう側にいる。
「ありがとうございます」
ネフェリナが答えるより少し早く、セヴェリオが「お心遣い、感謝いたします」と返した。
だがその言い方は、ローディアスの祝辞を横取りするようなものではない。むしろ、ネフェリナの前に不必要な沈黙や負担が落ちぬよう、ごく自然に半歩だけ引き受けたのだと分かる。
そして次の瞬間には、彼の手がネフェリナの肘にごく短く触れた。支配でも保護でもない。ただ「ここにいます」と伝えるための短い接触。
それを、周囲は見ていた。
見てしまう。
フェルゼン家にいた頃のネフェリナは、いつも一人で空気を読んでいた。
いまアルスレイン公爵は、彼女を最初から当然のように隣へ置き、その呼吸の乱れへ先に手を添えている。
あまりに違う。
メルゾアはその差に気づかぬほど鈍くはない。
だが認めたくはないのだろう。
彼女はすぐに微笑みを整え、「王都の春は、北方にはまだ珍しゅうございましょう」といった当たり障りのない話題を選んだ。
以前ならここでネフェリナへ微細な棘を含む言葉の一つも投げただろう。
だが今日は出来ない。
出来る空気ではない。
アルスレイン公爵が隣にいるからだけではない。
周囲がすでに「どう扱われているか」を見てしまっているからだ。
「ええ」
ネフェリナは穏やかに答えた。
「北方はまだ雪が残っておりますので、こうして花の香りが濃いのは新鮮に感じます」
その言葉は自然だった。
自分でも、少しだけ驚くほどに。
以前の自分なら、メルゾアの前でこんなふうに落ち着いた声は出せなかったかもしれない。どこかで相手の機嫌を探り、言葉の角を丸めすぎ、あるいは必要以上に控えたことだろう。
今の自分は違う。
誰かに許可されて話しているのではない。
自分の立場と、自分の声のままで、ここにいる。
ローディアスが一瞬だけ顔を上げた。その視線に、驚きがあった。ネフェリナが以前のように萎縮していないことへの驚きなのか、あるいは自分の知らぬ間に彼女がどこかもっと遠い場所へ行ってしまっていたことへの驚きなのか。たぶん、そのどちらもだった。
そこへ別の侯爵夫人が割って入るように近づき、「アルスレイン公爵夫人、先ほどのお衣装の刺繍が本当に素敵で」と声をかけてきた。もちろん偶然ではない。広間の空気を読んで、あえてそうしたのだろう。フェルゼン家と元婚約者の微妙な場を、しかし公の礼節を崩さぬ形で切り上げるために。
ネフェリナはその夫人へ向き直った。
セヴェリオもまた自然にそちらへ身体を向ける。
フェルゼン家は、それ以上引き留める位置を失う。
メルゾアは一瞬だけ扇を握る指に力を入れた。
ローディアスは何かを言いたげだったが、結局何も言えなかった。
そしてその沈黙のうちに、会話の中心はもう完全に別の方向へ移っていた。
周囲の者たちは、そこで何を見ただろう。
誰かがあからさまに口へ出すことはない。夜会とはそういう場所だ。だが目は語る。
フェルゼン家にいた頃のネフェリナは、いつもほんの少し身を縮めていた。
今の彼女は違う。
隣に立つアルスレイン公爵は、彼女を飾りとしてではなく、最初から「隣にいる者」として扱っている。
その差は、いくら上品な微笑みで覆っても隠せない。
夜会が進むにつれ、ネフェリナの中の緊張は少しずつ形を変えていった。
再会の瞬間に走った冷たい縮みは、もう消えてはいないものの、広間全体を覆うものではなくなった。むしろ「あの家にいた頃の自分」と「いまここにいる自分」が、ひとつの会場の中で並んで見えた気がした。
食前の短い歓談。
音楽が少し大きくなる時刻。
夜気の入らぬよう閉められた窓。
銀器の触れ合う小さな音。
誰もが見て、誰もが口にはしない比較。
ネフェリナはその中で、自分が思っていたよりずっと冷静でいられることに、遅れて気づいた。
それは強くなったからだけではない。
隣に立つ人の存在感が、ただそこにあるだけで、自分の呼吸を正しい場所へ戻してくれるからだ。
セヴェリオは何も大きなことをしない。
過剰に庇わない。
誰かへ牽制の言葉を投げることもしない。
ただ、会話の流れの中でネフェリナが一人にならぬよう自然に位置を取る。必要な時には引き受け、必要のない時には前へ出す。
それだけで十分だった。
夜会の後半、広間の隅からワルツが流れ始めた時、セヴェリオがごく短く訊ねた。
「少し休みますか」
ネフェリナはその問いに、少し考えてから答えた。
「いいえ」
それから、自分で驚くほど穏やかな声で続ける。
「……今日は、このままでいたいです」
セヴェリオは頷いた。
理由を問わない。
そのままを受け取る。
ネフェリナは広間の灯りを見た。
昔なら、このままでいたい、などと思わなかっただろう。
早く終わってほしい。
誰にも会わずに済みたい。
そう思ったはずだ。
今は違う。
過去と同じ場所に立ちながら、違う自分でいられることを、最後までちゃんと確かめていたかった。
夜会が終わりに近づく頃、フェルゼン家は先に席を立った。メルゾアは最後まで整った微笑みを崩さなかったが、その背にはわずかな硬さがあった。ローディアスは去り際に一度だけこちらを見たが、ネフェリナはもう視線を追わなかった。
それで十分だった。
王都の夜風は、会場の外へ出るとやわらかかった。
北方のような鋭さはない。
それでも夜の石畳は冷え、吐く息の先が少しだけ白く見えた。
馬車へ乗り込む直前、ネフェリナは一度だけ振り返って夜会の会場を見た。灯りの漏れる窓、行き交う最後の馬車、夜の空気に薄く残る香の匂い。そこはたしかに、自分がかつて息苦しさの中で立っていた王都の夜会のままだった。
なのに今夜、その場所はもう、自分を押し潰すものではなかった。
隣から、セヴェリオの声がした。
「疲れましたか」
ネフェリナは首を振り、それからほんの少しだけ笑った。
「少しだけ」
「それなら上出来です」
短い返答。
けれどネフェリナは、その言い方がたまらなく好きだと思った。
無理をしたとか、よく頑張ったとか、大袈裟な評価ではない。
ただ今夜の自分を、そのまま「上出来」と静かに受け取ってくれる。
馬車が動き出すと、王都の灯りが窓の外をゆっくり流れた。
ネフェリナは膝の上の手をそっとほどく。
指先はもう強張っていない。
薬指の指輪が、車内の灯りの中でごく淡く光っていた。
フェルゼン家と再会した。
かつての自分なら、あの場でまた少しずつ萎縮していっただろう。
だが今夜は違った。
隣に立つ人が、何も大きな言葉を使わずに支えてくれた。
その落ち着いた存在感が、自分の足を地面へきちんと戻してくれた。
そして周囲は、その違いを見てしまった。
フェルゼン家での扱いと、アルスレイン公爵家での扱いの差。
何を言われたかではなく、どう立たされていたかの差。
それはきっと、今夜の王都のどこかで静かに語られるのだろう。
だがネフェリナはもう、それを恐ろしくは思わなかった。
他人がどう語るかより、自分がどう立っていたかのほうが、今はずっと大きかったからだ。
王都の夜はやわらかく流れていく。
窓の外の灯りを見ながら、ネフェリナはようやく一息ついた。
過去と同じ場所に立ち、しかし違う自分でいられた。
そのことが、胸の奥を静かに、深くあたためていた。
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