婚約者の母に疎まれ続けたので、結婚直前ですが先に別の公爵家へ嫁ぎます~今さら惜しまれてももう戻りません~

なつめ

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第29話 伯爵夫人の綻び


 王都の社交界では、大きな失態よりも、小さな違和感のほうが長く残ることがある。

 誰かが声を荒げた。
 誰かが杯を落とした。
 誰かが露骨な侮辱を口にした。
 そういう派手な出来事は、その場では人の耳目を集める。だが同時に、あまりに分かりやすいぶん、翌日には「昨夜の珍事」としてまとめて処理されることも多い。

 けれど、表面は整ったまま、ほんの一瞬だけ微笑みが止まったとか。
 誰かの名前が出た時だけ、空気の温度がわずかに変わったとか。
 招待状の返事が、以前より半日遅れたとか。
 そういう小さな綻びのほうが、むしろ厄介だった。

 メルゾア・フェルゼンは、そのことをよく知っている女だった。
 少なくとも、これまではそう思っていた。

 だからこそ、最初の異変があまりに些細な形で始まった時、彼女はそれを本格的な崩れとは認めなかった。

 ある日の午後、王都西区の伯爵夫人主催の茶会へ向かった時のことだ。

 季節はすでに春の深みに入っていた。薔薇にはまだ早いが、庭の低木は若葉を広げ、温室から移された花々が色を添え始めている。茶会の広間は南向きで、白いレース越しの光が丸卓へやわらかく落ちていた。銀器はよく磨かれ、焼き菓子は控えめに甘く、会話の入り口としては申し分ない整い方をしている。

 メルゾアはいつものように遅すぎず早すぎぬ時刻に姿を見せた。衣装も選び抜いたものだ。深い葡萄色の絹に、光を受けるたびごくわずかに艶を返す細い刺繍。年齢に相応しい落ち着きがあり、それでいて地味ではない。扇も手袋も、真珠の首飾りも、何一つ隙がない。

 だが席へ着いた時、空気の中にほんのわずかな遅れがあった。

 伯爵夫人は笑顔で迎えた。
 迎えたが、その笑顔が口元へ届くまでに一拍ある。
 それは社交に慣れていない女なら気づかぬ程度の遅れだった。
 だがメルゾアは気づく。
 彼女自身、長年そういう一拍で人を値踏みしてきたからだ。

「お招きありがとう存じますわ」

 メルゾアは滑らかに言う。

「こちらこそ。ようこそいらしてくださいました」

 伯爵夫人の返事にも乱れはない。
 だが、そのあとに続く他の夫人たちの目が、以前より少しだけ長くメルゾアへ留まった。

 何か言いたいことがある時の目。
 だが、それを口には出さぬと決めている時の目。

 茶会は穏やかに始まった。流行の布地、最近の音楽会、都の南区に開いた新しい菓子店。どれも当たり障りがない。メルゾアもそれに不足なく応じる。笑うべきところで笑い、相槌も外さず、話題の中心を自分のほうへ寄せすぎることもない。完璧だ。少なくとも表面上は。

 それなのに、会話が一巡したあたりで、一人の侯爵夫人が何気ない声で言った。

「アルスレイン公爵夫人は、王都にもずいぶん馴染まれたようですわね」

 その名が広間へ落ちた瞬間、誰もがあまりに自然な顔をした。
 あまりに自然だからこそ、不自然だった。
 まるで「たまたま思い出した」程度の軽さを装っている。
 だがこの場にいる全員が、たまたまではないことを知っている。

 メルゾアは扇をゆるく閉じた。

「そうなのかしら」

 声は穏やかだった。
 だが扇の骨を持つ指先には、わずかな力が入る。

「ええ。先日の夜会でも拝見いたしましたけれど、北方の公爵家に嫁がれてから、ずいぶん落ち着かれたご様子で」

 別の夫人がそう言う。
 褒めているように聞こえる。
 褒めているのだろう。
 しかしその褒め言葉は同時に、以前はそうではなかった、という含みを隠していない。

 メルゾアは薄く微笑んだ。

「もともと大人しい子でしたもの。落ち着いて見えるのは当然でしょう」

「まあ」

 侯爵夫人は扇の陰で笑った。
「大人しい、では足りないのかもしれませんわね。人は、置かれる場所で変わるものですもの」

 その一言は茶の香りの中へ静かに落ちた。
 誰もあからさまに空気を乱したりはしない。
 だが広間のどこかで、細い糸が一度だけきしんだのを、メルゾアはたしかに聞いた気がした。

 置かれる場所で変わる。

 つまりそれは、フェルゼン家にいた頃のネフェリナがどう見えていたかを、もう周囲が勝手に結論づけ始めているということだ。
 大人しかったのではない。
 萎縮していたのではないか。
 慎ましかったのではない。
 縮こまっていただけではないのか。
 そういう目が、静かに広がっている。

 メルゾアはその場ではそれ以上何も言わなかった。
 言えば負けると知っている。
 こういう時は、反応した側が「気にしている」と見なされるだけだ。

 だが帰りの馬車の中で、彼女は珍しく一度だけ扇を膝へ叩きつけた。
 小さな音だった。
 けれど、それほどに自制を崩したのは久しぶりのことだった。

「……なんて下品な言い方」

 口にしたのはその程度だ。
 だが本当に腹立たしかったのは、相手の言い方より、自分がその言葉の意味を理解してしまったことだった。

 王都の社交界は、もう気づいている。
 ネフェリナがフェルゼン家を離れ、アルスレイン家で公爵夫人として扱われるようになってからの変化を。
 扱いの差を。
 立ち方の差を。
 隣に立つ男がどう振る舞うかの差を。

 しかもそれが、「ただ良縁に恵まれた」のひと言で済まされぬほど、くっきりと目についてしまったのだ。

 翌週には、さらに露骨な形で綻びが現れた。

 フェルゼン家と長く付き合いのある刺繍商が、新しい見本帳を持ってきた。以前なら、まずメルゾア本人へではなく、婚約者であったネフェリナを経由して意見を求め、そのあとで「伯爵夫人にご覧いただければ」と広げたものだ。色や図案の趣味が違う母子のあいだで、どこにどう折り合いをつければ機嫌を損ねずに済むかを、ネフェリナはその都度さりげなく整えていた。

 だが今、その橋がない。

 刺繍商の主人は見本帳を広げながら、必要以上に低姿勢だった。
 いつもより言葉が慎重で、やけに「お好みに沿うものがあるかどうか」と繰り返す。

 メルゾアはその慎重さに、最初は優越を覚えかけた。
 だが話しているうちに、違うと分かる。
 この男は機嫌を取っているのではない。
 「以前のように、間へ入ってうまく整えてくれる人がもういない」ことを知っていて、余計な波を立てぬよう、過剰に慎重になっているだけなのだ。

 しかも主人は、見本の一冊を広げた時、ごく自然にこう言った。

「こちらは……アルスレイン公爵夫人にお似合いかと、先日王都で拝見した印象から」

 口にした瞬間、部屋の空気が凍った。

 商人は自分の失言に気づいたらしく、顔色を変えてすぐ頭を下げた。
「失礼いたしました。つい、以前の癖で」

 以前の癖。

 それはまさに真実だった。
 以前は、この家で新しい図案を見る時、ネフェリナの趣味と判断が前提の一部になっていた。
 彼女を通せば、派手すぎるものは控えられ、地味すぎるものは少し和らげられ、メルゾアの機嫌もそこまで損なわれずに済んだ。
 その「当たり前」を、商人の手がまだ覚えている。

「今後はそのようなことのないように」

 メルゾアは静かに言った。
 その声は穏やかだったが、商人の首筋へ冷汗を流させるには十分だった。

「もちろんでございます」

 主人は深く頭を下げた。
 だが、もう遅い。

 口から零れた「以前の癖」は、部屋の隅々にまで残った。
 メルゾア自身が認めたくなくとも、この家の「以前」は、ネフェリナを介して成り立っていた部分がたしかにあるのだと。

 しかも問題は、不便さだけではなかった。

 噂は広がっていた。
 じわじわと。
 けれど確実に。

 長年婚約者を軽んじていたこと。
 侍女や使用人のあいだで、その様子が小さな違和感として積み重なっていたこと。
 去られてから初めて不便を知り、今になって関係修復を図ろうとしていること。
 それらが、社交界では驚くほど早く、しかも驚くほど丁寧な形で共有され始めていた。

 誰かがはっきり「伯爵夫人が嫁を追い払った」と言うわけではない。
 そんな下品な言い方を、表で口にする女たちは少ない。
 代わりに、もっと上品で、もっと残酷な形を取る。

「アルスレイン公爵夫人は、北方で本当にお健やかそうですわね」

「やはり、人は大切に扱われると表情まで変わりますのね」

「フェルゼン伯爵家も、惜しいことをなさいましたわ」

 惜しいことをした。
 その言い方は、一見するとメルゾアに同情しているように聞こえる。
 だが実際は、十分に針を含んでいる。
 惜しい駒を失った。
 惜しい嫁候補を手放した。
 つまり、「あの家は大事なものを大事に扱えなかった」と言われているのと同じだ。

 メルゾアはそれらの言葉を、最初のうちは一つ一つ軽く受け流していた。
 社交とはそういうものだ。
 少しの噂は流れる。
 次の季節になれば、また別の誰かの不幸や醜聞が人の口を占める。
 そう思おうとした。

 だが、今回ばかりはそうならなかった。

 なぜならこの噂は、単なる好奇心だけで回っているのではないからだ。
 王都の貴婦人たちは、他家の婚約者や花嫁候補がどのように扱われるかを、自分自身の安全のためにも注意深く見ている。
 その家に嫁いだ女が、どう扱われるか。
 婚約中にどれほど尊重されるか。
 夫が母の前でどこまで立つか。
 それらは「余所の話」ではない。
 いつか自分の娘や姪や孫に返ってくるかもしれぬ話だからだ。

 だからフェルゼン家で起きたことは、ただの噂以上の意味を持ってしまった。

 メルゾアはある日の夜、書き物机の前で一人になった時、初めてその事実へ真正面から触れざるを得なくなった。

 机の上には、返書の束と招待状、それから出席予定の茶会の一覧が置かれている。数自体は減っていない。むしろ形式的な招待は変わらぬくらい届く。だが質が違うのだ。以前なら真っ先に名が載っていた集まりに、今回は「ご都合が合えば」と微妙な曖昧さを含ませた文面が増えている。主催夫人の手書きの一文がなくなり、代わりに家令が書いたような簡素な文だけが添えられているものもある。

 切られてはいない。
 だが、熱は確実に下がっている。

 社交界の冷えは、こういう形で現れる。
 露骨に追い出されはしない。
 その代わり、以前ほど「ぜひ来ていただきたい側」ではなくなる。

 メルゾアは便箋を置き、鏡台のほうを見た。夜の鏡は昼よりも冷たく見える。燭台の火が映り込み、その向こうに自分の顔がある。年齢を重ねても崩れぬ輪郭。丁寧に整えられた髪。上品に保たれた口元。これまでずっと、彼女はこの顔で社交を勝ち抜いてきた。

 家のため。
 そう思ってきた。
 家の格を下げぬために。
 伯爵家の嫁候補として、ふさわしくない点は正すべきだった。
 甘やかせば、外で見苦しい恥をさらすだけだ。
 多少厳しくとも、整えておくのが年長者の務めだ。
 そう信じていたし、今でも完全には否定できない。

 だが、ではなぜ今、家は傷ついているのか。

 彼女が「家のため」と称して行った数々の細かな言葉、指摘、圧、沈黙。
 それらは本当に家を守っていたのか。
 それとも、じわじわと家の中の呼吸を損ない、使用人たちを萎縮させ、息子から決断を奪い、最後には社交界から「大事なものを大事に出来ぬ家」と見なされる原因になっていたのか。

 その問いが、いまはどうしても、机の前に座る自分の胸へ返ってくる。

 認めたくない。
 認めれば、自分の長年のやり方の根そのものへ手を入れねばならなくなる。
 しかもそれは、単なる一度の言い過ぎや、ちょっとした行き違いでは済まない。
 何年もかけて、自分はじわじわと家を傷つけていたのかもしれない、ということになる。

 メルゾアは扇ではなく、机の端を指先で叩いた。
 ごく小さな音がした。
 それだけで、自分の内側にある苛立ちの形が少し見える。

 悪いのは、あの子の弱さでもある。
 そう思う。
 あれほど繊細で、あれほどすぐに傷つくようでは、伯爵家に嫁ぐ資格など最初から十分ではなかったのかもしれない。
 もっと芯が強ければ。
 もっと言い返せる女なら。
 あるいは、こちらの意図を汲んで柔らかく立ち回る器量があれば。

 そういう考えが、反射のように浮かぶ。
 浮かぶこと自体が、自分がまだ何も認めきれていない証なのだと、メルゾア自身もどこかで分かっていた。

 分かっている。
 分かっているが、そこから先へ進めない。

 過ちを認めることは、社交の場では必ずしも弱さではない。むしろ正しく形にすれば、傷を最小限に留められる。メルゾアほどの女がそれを知らぬはずがなかった。
 だが今回の相手は、外の敵ではない。
 自分が長く「家の中で正しい」と信じてきた振る舞いそのものなのだ。
 それを切り捨てることは、いまの自分の輪郭まで一緒に否定することに近い。

 だから彼女は、最後の最後まで、素直には認めきれない。

 その夜遅く、ローディアスが書斎から戻る気配がした。足音だけで分かる。昔より少し重くなった。躊躇いを引きずる人間の足音だ。メルゾアはその音を聞きながら、机の上の招待状を一枚ずつ揃え直した。

 息子もまた、屋敷の軋みを感じている。
 感じているが、何も変えられずにいる。
 それを思うと、苛立ちと同時に、どこかで小さな寒気がした。

 家のため、と言いながら。
 結果として家を一番傷つけたのは誰だったのか。

 その問いはもう、完全には追い払えないところまで来ていた。

 けれどメルゾアは、その夜も結局、鏡の前で髪を整え、表情を整え、明日の茶会で見せるべき笑みの角度を確かめた。
 崩れを認めるより先に、整える。
 それが彼女の生き方だったし、いまなお、そこから外れることは出来なかった。

 だから綻びは、余計に広がっていく。

 外から見れば、彼女はまだ完璧な伯爵夫人だ。
 だが王都の社交界は、もうその縫い目の甘さを見始めている。
 そして彼女自身もまた、鏡の奥でそれを見てしまったのだ。

 見てしまったのに、まだ糸をほどく勇気はない。

 そのことが、何より静かに、メルゾアという女の綻びになっていた。

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