白い結婚十年目、ようやく離縁できると思ったのに 〜冷酷公爵は今さら私を手放さない〜

なつめ

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第十三話 遅すぎた気遣い


 白薔薇の花束を断ってから、邸の空気は少しだけ奇妙になった。

 劇的に変わったわけではない。誰かが露骨に何かを噂したり、使用人たちの態度があからさまに揺らいだりしたわけでもない。アルクライド公爵邸はそういう家ではなかった。大きな出来事があればあるほど、口を慎み、顔色を変えず、何事もなかったように朝の支度を整え、昼の給仕をし、夜の灯りを入れる。そうして表面だけは完璧に保たれる。

 だからこそ、そのわずかな変化がかえって目についた。

 ベルンフリートは相変わらず無駄なく書類を運んでくるが、旦那様より、という一言を口にする時だけ、ほんのわずかに間を置くようになった。エウラは、主人の前でセヴェリオンの名を出す前に、一拍置いて呼吸を整える。若い侍従たちは、執務室からの伝言を持ってくるたび、何か不発弾でも抱えているような慎重さで扉を叩く。

 そしてその中心にいるセヴェリオン本人が、もっとも不自然だった。

 イゼルディナは、そう思う。

 今まで十年、彼は冷たい意味でも安定した人だった。何を言うにも短く、必要以上に見ないし、必要以上に訊かない。体調を崩しても侍女を通して薬を寄越すだけ、社交界で疲れていても「早く休め」と一言だけ、食事の席で何かに気づいても給仕へ目をやるだけで本人へは触れない。そういう男だった。

 なのにここへ来て、その一つひとつに妙な揺れが混じり始めた。

 優しい、と表現してしまえば簡単だ。

 だがイゼルディナにとっては、それは優しさそのものよりも、「なぜ今なのか」が先に立つ種類の変化だった。

     *

 その日の朝は、雨こそ降っていないものの、空気がひどく湿っていた。

 雪の残る庭に朝のぬるい靄が薄くかかり、石畳は夜の冷えをまだ抱え込んでいる。春が来る前の王都には時々こういう朝がある。冬の骨はまだ残っているのに、どこかだけ水気を帯び、重たい雲が低く垂れ込めて、呼吸のたびに冷たい湿り気が肺へ入ってくるような朝だ。

 イゼルディナは、窓を半分だけ開けたまま家政室へ向かっていた。

 少しでも部屋の湿気を逃がしたかったのだが、逆にそれが喉に障ったのかもしれない。朝から喉の奥がわずかにざらついていた。熱があるほどではない。寝不足でもない。けれど、飲み込むたびに薄い紙で擦られるような不快さがある。

 家政室での報告はいつも通りに始まった。厨房の仕入れ、北の別邸へ送る荷の一覧、寄付の返礼、義母の茶会の席順の再確認。ペンを走らせ、数字を直し、必要な指示を出していくうち、喉の違和感は一度意識から外れた。

 だが、報告が半ばほど進んだあたりで、ほんの小さく咳が出た。

 押し殺したつもりだった。実際、部屋にいる誰もそれをあからさまには気にしなかった。ベルンフリートも、会計係も、料理長マルタも、誰も顔を上げない。こういう場で「大丈夫ですか」と口を挟むことが、かえって主の進行を乱すと知っているからだ。

 けれど、扉の外で控えていた侍従は違ったらしい。

 報告が終わり、ベルンフリートが最後の書類を引き取ったところで、若い侍従が小さくノックをして入ってきた。

「旦那様より」

 差し出された銀盆の上には、小瓶が一本と、紙包みがひとつあった。

 エウラが受け取り、中身を確かめる。薄い琥珀色の咳止めの薬と、喉に含むための乾燥果実の砂糖漬けだった。

「……旦那様が?」

 イゼルディナが問うと、侍従は緊張した顔で頷いた。

「家政室の前を通られた折に、奥様のお咳をお聞きになって」

 その一文に、部屋の空気がほんの少しだけずれた。

 誰も何も言わない。だが無言のまま、「聞こえていたのか」と思った気配だけが部屋を薄く通り過ぎる。

 イゼルディナ自身は、すぐには返事ができなかった。

 喉のざらつきより、その「お聞きになって」という事実のほうが、ずっと強く引っかかったのだ。

 セヴェリオンは家政室の前を通った。
 そして、たった一度の咳を聞き留めた。
 聞き留めて、それを侍従に命じて寄越した。

 それだけのことなのに、妙に現実感が薄い。

「……そう」

 ようやくそれだけ返すと、侍従はさらに一礼した。

「旦那様より、無理をなさらぬようにと」

 無理をなさらぬように。

 その言葉が、まるで借り物のように聞こえた。

 昔の自分なら、それだけで一日中胸がざわついたかもしれない。夫が自分の咳を気にした。薬を寄越した。無理をするなと言った。その事実を何度も何度も思い返しては、冷たい結婚生活の中に小さな灯りを見つけたような気になっただろう。

 けれど今は違う。

 今のイゼルディナは、薬瓶の琥珀色を見ながら、ただ思う。

 こんなことをしてくださるなら、どうしてもっと早く何も言わなかったのだろう、と。

「……置いておいて」

 そう言うと、エウラが小瓶と紙包みを机の端へ静かに寄せた。

 侍従はそのまま下がる。

 扉が閉まったあと、料理長マルタが咳払いを一つだけして言った。

「では、奥様。午後の献立ですが」

 それで皆、何事もなかったように報告へ戻った。

 イゼルディナもまた、そうするしかなかった。目の前には修正すべき数字があり、返事を待つ人々がいる。けれど書類の端に置かれた小瓶は、そこにあるだけで妙に視線を引いた。こんな小さなものが、こんなにも場違いに見えることがあるのだと、少し可笑しくもある。

 報告を終えて皆が去ったあと、エウラがそっと瓶を持ち上げた。

「お飲みになりますか」

「……ええ」

 イゼルディナは頷く。

 喉の痛みはまだ軽い。だが無視してよいほどでもない。

 エウラが匙に少し垂らし、水で割る。薬は甘いだけではなく、奥のほうにきつい苦みがあった。飲み下すと喉にじわりと広がり、ざらつきを薄く覆っていく。

「効きそうね」

 イゼルディナが言うと、エウラは複雑そうに微笑んだ。

「そうでございますね」

 その「そうでございますね」には、薬効への意味と、それを寄越した人への意味と、どちらも混じっている気がした。

     *

 昼過ぎ、空はさらに暗くなった。

 雨にはならない。けれど窓の外の光は鈍く、屋敷全体が早い時間から夕方めいた影を引きずり始める。こんな日は、石壁も絨毯も湿気を吸い、暖炉の火があってもどこか冷たい。

 イゼルディナは午後の寄付関係の返書をまとめたあと、一度だけ北側の廊下へ出た。別邸へ送る茶器の箱に、割れ防止の布を追加するよう倉庫へ伝えるためだ。家令へ頼んでもよかったが、どうせ途中で確認したい書類もあったので、自分で動いたほうが早い。

 廊下は静かだった。昼食を終えたあとの邸は、人の気配が少し緩む。窓辺に置かれた大きな鉢植えの葉が、わずかな空気でこすれ合う音が聞こえるほどだ。

 角を曲がったところで、向こうからセヴェリオンが来るのが見えた。

 従者も侍従も連れていない。書類を片手に、一人で歩いている。たぶん執務室と書庫のあいだを移動しているのだろう。こういう時の彼は昔から足が速かった。無駄なく、まっすぐに、目的地へ向かう歩き方をする。

 イゼルディナは立ち止まる。

 廊下は広く、すれ違うには十分な幅がある。昔なら、どちらかが壁際へ寄るだけで済む場面だった。事務的な目礼を交わし、そのまま通り過ぎる。そういう夫婦というより、そういう同居人だった。

 だが今は、違う意味で足が止まる。

 向こうもこちらに気づいた。セヴェリオンの歩みが、ごくわずかに遅くなる。

「……具合はどうだ」

 数歩の距離を残したまま、彼はそう言った。

 イゼルディナは少しだけ目を瞬かせる。

 薬を寄越しただけではなく、その後でわざわざ本人にそう訊くのか。

「大したことはありません」

 返すと、セヴェリオンはまだ少しだけこちらを見ていた。視線が頬に留まり、次に喉元へ落ち、そして一瞬だけ薬指のあたりをかすめる。そこには今、薄い手袋があるだけだ。

「咳が出ていた」

「少しだけです」

「少しでも、今の時期はこじらせる」

「承知しております」

 そこで会話は終わるべきだった。

 イゼルディナもそう思った。
 だがセヴェリオンは、なぜかその場を動かなかった。

 彼の持つ書類の角が、ほんの少しだけ指に食い込んでいる。何か言いたいのか、言うべきか迷っているのか。いずれにせよ、いつもの彼らしからぬ間だった。

「……昼は、食べたか」

 その問いに、イゼルディナは一瞬だけ息を止めた。

 またそれだ。
 食事の量。
 ちゃんと食べたか。
 少ないのではないか。
 どうしてそういうことばかり、今さら訊くのだろう。

「ええ」

 答える。

「いつも通りに」

「少なかっただろう」

 決めつけるようなその言い方に、胸の内側がひどく冷えた。

 ああ、見ているのだ。この人は。
 咳も、顔色も、食事の量も。
 見ている。
 見ているのに、今まで何もしなかった。

 その「見ていた」という事実は、優しさよりもずっと深く刺さる。

「旦那様には関係のないことです」

 気づけば、そう言っていた。

 セヴェリオンの眉が動く。
 傷ついたようにも、不意を突かれたようにも見えた。
 だがイゼルディナは引かなかった。

「……関係ない、か」

「ええ」

 喉はまだ少し痛い。薬で薄まっているぶん、かえって声が静かに出た。

「今までそうだったでしょう」

 数秒の沈黙。

 言いすぎた、とは思わなかった。事実だからだ。

 セヴェリオンは何かを言いかけ、結局、口を閉じる。その沈黙そのものが、また腹立たしい。いちばん必要なところで言葉がないのに、今さら体調や食事だけを気にかける。優しさの順番が、何もかもおかしい。

「失礼いたします」

 イゼルディナはそう言って、彼の横を通り過ぎようとした。

 その瞬間、廊下の窓から吹き込んだ冷たい風が、思ったよりも強く肩を打った。

 開いていたわけではない。古い窓枠の隙間から入る、冬の終わりの鋭い風だ。湿気を含んで冷たく、薄いショールの布を簡単に抜けて首筋へ触れる。

 イゼルディナがわずかに身をすくめた、その時だった。

 肩に、重みが落ちる。

 はっとして振り向くと、セヴェリオンが自分の外套を肩へ掛けていた。

 深い紺の、厚地の外套。男物だから当然大きい。肩から背へすとんと落ち、温度を抱えた重みが一気に身体を包む。彼の体温と、革手袋と、わずかな紙とインクの匂いがした。いつもなら絶対に近寄らない距離に、今だけ入ってきたのだと、遅れて身体が理解する。

「冷える」

 セヴェリオンが言う。

 それだけ。

 手はすぐ離れた。肩へかける一瞬だけ触れた布の気配も、すぐに離れる。指先が直接肌へ触れたわけではない。けれど、それでも十分に近かった。

 イゼルディナは外套の重みを肩に感じたまま、彼を見上げた。

 昔なら。

 昔の自分なら、こんな仕草ひとつで簡単に胸が痛んだだろう。
 気遣われたのだと、特別なのだと、そう思ってしまっただろう。

 けれど今の彼女にとって、それは別の意味にしか見えなかった。

 どうしてこれが十年前ではなかったのか。

 どうして初めて寒い冬をこの邸で越した夜、ただ一枚の上着を寄越してはくれなかったのか。
 どうして夜会の帰り道、凍えた指先を見ていたくせに、今のように一度も何もしてくれなかったのか。
 どうして倒れそうなくらい疲れていた日にも、食事が喉を通らなかった日にも、ずっと何も言わなかったのか。

 今さら、外套一枚。

 その善意は本物なのだろう。
 だからこそ、苦い。

「……結構です」

 イゼルディナはそう言って、外套の襟へ手をかけた。

 セヴェリオンの目がわずかに見開かれる。

「イゼルディナ」

「お気遣いは、結構です」

 肩から滑らせ、両手で丁寧にたたんで返す。動作は礼儀正しい。乱暴には扱わない。だからなおさら、拒絶がはっきりする。

「風に当たっただけですから」

 セヴェリオンは外套を受け取ったまま、数秒動かなかった。

「私は」

 言いかける。

 だが、またその先が続かない。

 イゼルディナはその寸前で視線を外した。

 その先を聞いてしまえば、また余計なところへ心が引っ張られる気がした。今はもう、引っ張られたくない。

「失礼いたします」

 今度こそ本当にそう言って、彼の脇をすり抜ける。

 背後で何かを言おうとする気配があった。けれど結局、言葉にはならなかった。

 その沈黙を背中で聞きながら、イゼルディナは思う。

 優しさが本物であることと、受け取れることは別なのだと。

     *

 夕食は、ひどく妙なものになった。

 小食堂へ下りると、卓の上にはいつもより少し温かい献立が並んでいた。根菜のポタージュ、柔らかく煮た鶏、蜂蜜を少しだけ落とした人参のグラッセ、喉に優しい薄いパン。それだけならまだ、厨房の判断かもしれない。

 だがエウラがスープを注ぎながら、少しだけ迷ってから言った。

「……旦那様より、温かいものを、と」

 イゼルディナはスプーンを取る手を一瞬だけ止めた。

「そう」

「それから、柑橘は今夜は控えるように、と」

 喉に障るから。
 言われなくてもわかる。
 わかるのに、その細やかさがまた胸へ苦く落ちる。

 食事の好みを知っていた。
 喉にいいものも知っている。
 食べる量も、温度も、ちゃんと見ている。

 だったら、どうして今まで何一つ口にしなかったのか。

 スプーンですくったポタージュはやさしい味だった。少しだけ塩が薄い。鶏肉も柔らかい。人参は甘い。喉にはいい。体にやさしい献立だとわかる。
 わかるからこそ、余計に苦い。

 イゼルディナは二口ほど食べて、スプーンを置いた。

「奥様?」

 給仕の老僕が、心配を隠しきれぬ声を出す。

「……これで十分です」

「ですが」

「十分よ」

 自分でも、声が少しだけ硬いのがわかった。

 エウラがすぐに老僕へ目配せし、それ以上言わせないようにする。食事を下げさせるには早い。だがイゼルディナはもう食べられなかった。喉が痛むからではない。何を口にしても、「旦那様より」の一言が先に立ってしまって、味が変わってしまうからだ。

 少ししてから、エウラが小さな皿を運んできた。

 喉飴代わりの乾燥果実だった。朝と同じものだ。

「これも、でしょう」

 イゼルディナが言うと、エウラは困ったように微笑んだ。

「……はい」

 イゼルディナは小さく息を吐いた。

「私、こんなふうに何かをしていただきたかったわけではないのに」

 それは独り言に近かった。けれどエウラは聞こえないふりをしなかった。

「はい」

 ただ、それだけ返す。

 その「はい」には、同意も、慰めも、余計な励ましもなかった。ただ、あなたがそう感じるのは当然です、という静かな受け止めだけがあった。

「もっと前なら」

 イゼルディナは乾燥果実をひとつ指先でつまんだ。

「たぶん、嬉しかったのでしょうね」

 言いながら、少しだけ笑う。

 嬉しかった。
 それは本音だ。
 十年前なら、三年前でも、一年前でも、こういう小さな気遣いが一つあるだけで、ずっと違ったのかもしれない。

 夜会のあとに「疲れただろう」と一言。
 寒い朝に一枚の上着。
 咳をした時に薬瓶ひとつ。
 食事が減っているときに「喉にいいものを」と伝えるだけ。

 そんなささやかなことでも、当時の自分には十分すぎるほど嬉しかっただろう。
 愛してくれている、とまで思わなくても。
 せめて気にかけてくれているのだと、そこへ細い光を見出せただろう。

 でも今は、その光がむしろ、今までどれだけ暗かったかを照らしてしまう。

「ほしかったのは今ではなく、十年前だったのね」

 ぽつりと落ちたその言葉は、部屋の中でひどく静かに響いた。

 エウラが目を伏せる。

「……そうでございますね」

 イゼルディナは、ようやく乾燥果実を口へ入れた。砂糖の甘さの奥に、乾いた果実の酸味がある。喉にはやさしい。やさしいのに、胸には少しもやさしくない。

     *

 夜、自室へ戻る頃には、喉のざらつきは少しだけましになっていた。

 薬が効いたのか、温かい献立のおかげか、それとも一日を通して口数を減らしたせいか。理由はどうでもよかった。ただ、体の不調が薄れるほど、代わりに別の苦さがはっきりしてくる。

 鏡台の前に座り、耳飾りを外す。首元のボタンをゆるめる。窓の外には薄い月が出ていた。雲の向こうにぼんやり滲むだけの月だ。雪の名残を受けて、庭はまだ白い。

 エウラが髪を梳きながら、小さく言った。

「旦那様は、本気でお気遣いなのだと思います」

 その言葉に、イゼルディナは鏡の中の自分を見た。

「ええ。そうでしょうね」

「……でも」

「でも、遅いのよ」

 エウラは何も言わなくなる。

 髪を梳く手だけが静かに動く。

「遅い優しさって、残酷ね」

 イゼルディナは、鏡の中の自分に向けて言うように続けた。

「昔の傷が、ちゃんと傷だったのだと教え直されるみたい」

 もし今もずっと冷たいままだったなら。
 薬も、外套も、食事への配慮もなかったなら。
 もしかすると自分はもっと簡単に終われたのかもしれない。

 冷たさは冷たさのまま、ひとつの形として納得できる。
 けれど今さら優しくされると、その優しさが「あの時もできたはずなのに」と言ってしまう。

 そこが痛い。

 エウラが最後の髪をまとめ終えると、一礼して下がる。扉が閉まり、部屋に一人になる。

 イゼルディナは鏡台の小箱を開けた。
 中には結婚指輪が静かに納まっている。
 その輪は今夜も指へ戻さなかった。
 薬指の白い痕は、昨日よりも少しだけ薄れた気がする。だが、まだ消えない。

 白い痕。
 遅すぎた優しさ。
 十年前にはなかった薬瓶。
 今さら肩にかけられる外套。
 今さら気にされる食事の量。

 そのすべてが、胸の中で一本の線になっていく。

 欲しかったのは今ではなく、十年前だった。

 その事実だけが、今夜は何よりもはっきりしていた。

 イゼルディナは小箱の蓋を閉じ、寝台へ向かった。

 掛け布を引き寄せる。部屋は暖かい。喉の痛みも少しだけ和らいでいる。体は、ちゃんと楽になっている。セヴェリオンの気遣いは、たしかに現実の効果を持った。

 だからこそ、なおさら苦い。

 身体は楽になる。
 けれど心は、楽にならない。

 優しさが嘘ではないぶん、今までの十年の空白だけがいっそう鮮やかになる。
 そこに、今夜の苦さの正体があった。

 イゼルディナは横になり、暗がりの中で左手を胸の上へ置いた。白い痕は見えない。けれどそこにあるとわかる。

 遅すぎた気遣いは、やさしい顔をして傷を撫でる。
 撫でるからこそ、傷の輪郭がはっきりする。

 それがこんなにも痛いのだと、今夜の彼女は静かに知っていた。

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