白い結婚十年目、ようやく離縁できると思ったのに 〜冷酷公爵は今さら私を手放さない〜

なつめ

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第十四話 噂の女


 ミュリエンヌ・ザルヴァートの名を最初に聞いたのは、朝の茶の席ではなかった。

 もっとずっと雑多で、もっとずっと生々しい場所だった。

 銀器を磨く布の擦れる音。
 廊下の端でカーテンを外す下働きの娘たちの低い囁き。
 厨房から運ばれてきた焼き立ての小さな菓子の甘い匂い。
 そういう、屋敷が朝の仕事へ向かってざわつき始めるあたりで、ひどく小さな声として耳へ届いた。

「ザルヴァート様が戻られたのですって」

 その一言を、イゼルディナは扉の向こうから聞いた。

 まだ家政室へ入る前だった。扉の外で、若い侍女が一人、倉庫係の女へ小さく何かを伝えていた。別段、悪意のある囁き方ではない。ただ新しい知らせに、少しだけ声が浮いていただけだ。だが人は、こういう時ほど本当に重要なことを一番素直な声で言ってしまう。

「本当に?」

「ええ。南方からの船で王都へ入られたとか。今は叔母君のところへ」

「まあ……では、本当にお会いになるのかしら」

「公爵夫人様が、ずいぶん」

 そこで話し声は途切れた。

 イゼルディナの足音に気づいたのだろう。慌てたように布が鳴り、二人が深く頭を下げる気配がした。

「お、おはようございます、奥様」

「おはよう」

 イゼルディナはそれ以上何も言わなかった。

 若い侍女たちの頬は少しだけ赤かった。噂話を聞かれた気まずさと、しかしもう後へは引けない期待とが混じっている顔だった。

 その顔を見た瞬間に、イゼルディナはもう理解した。

 広がるのだ、と。

 ミュリエンヌ・ザルヴァートが戻ってきたというその事実は、今日一日で、あるいは昼前までには、この邸の隅々へ、さらに夕刻までには社交界の半分へ広がるだろう。
 そしてその名には、必ず別の言葉が添えられる。

 ――セヴェリオン・アルクライドが、昔、唯一心を許した女。
 ――かつての恋人。
 ――公爵が本来選びたかった相手。
 ――次の公爵夫人候補。

 そういう、形を持たぬ噂たちが。

 イゼルディナは扉を開き、家政室へ入った。

 窓の外の空は白く曇っている。昨日までよりもわずかに気温が上がったせいか、雪の残る庭から湿った匂いが立っていた。紙の匂いと、インクと、古い木棚の乾いた香り。それらが整然と並ぶ家政室の空気は、噂話の熱とは無縁に静かだ。

 彼女は席へ着き、机の上の書類へ目を落とす。

 北の別邸へ送る荷の一覧。
 温室用の挿し木棚の調整。
 慈善院への返書。
 義母の次の茶会の人数変更。

 いつも通りの紙だ。
 いつも通りの数字だ。
 だが、その「いつも通り」の列の端に、見えない形でミュリエンヌ・ザルヴァートの名が割り込んできた気がした。

 ベルンフリートが入ってくる。いつもと同じ時刻、いつもと同じ足取り、いつもと同じ顔。けれど、彼が差し出した本日の予定表の中に、一つだけ新しい項目があるのを見て、イゼルディナは少しだけ目を細めた。

「義母様の午後のお茶会」

 そこに追加された来客名の最後の一行。

 **ミュリエンヌ・ザルヴァート**。

 あまりにも露骨で、むしろ清々しいほどだった。

「急ですこと」

 イゼルディナが言うと、ベルンフリートは表情を動かさないまま答えた。

「今朝方、追加の指示がございました」

「そう」

 それだけで十分だった。

 義母オルタシアは、もう待つつもりがないのだ。
 離縁の正式な手続きが終わり切る前から、新しい未来の飾り付けを始めている。
 しかもそれを、わざわざ屋敷の中で見せる形で。

 イゼルディナは予定表を見つめながら、怒りではなく、ひどく乾いた納得を覚えた。ああ、そうなのだろう、と。あの人ならそうする。義母の温室で若く丈夫な娘がいいと笑った人だ。昔の噂の女が戻ってきたなら、それをこうして一番見えるところへ置いてみせるだろう。

「お茶会は、いつもの南の小温室?」

「はい」

「席は」

「まだ」

「では、あとで私が見ます」

 言った瞬間、ベルンフリートがわずかに視線を上げた。

「奥様が、でございますか」

「ええ。義母様がなさることでも、屋敷の中で行う以上は滞りなく整えなければなりませんもの」

 その言葉に、老執事長は何も返さなかった。返さなかったが、ほんのわずかだけ、その沈黙が重くなった気がした。

 イゼルディナは理解している。

 自分はもう、この家で「未来」を与えられた人間ではない。
 ならば今やっているのは、女主人としての矜持か、あるいは最後まで職務を崩さぬための意地だ。

 どちらでもよかった。

 少なくとも今は、手を止めるよりましだった。

     *

 ミュリエンヌ・ザルヴァート。

 その名を、イゼルディナはもちろん知っていた。

 知らぬふりをして生きるには、社交界というものはあまりにも人の名前を繰り返しすぎる。とりわけその名は、イゼルディナが嫁ぐ前から、ある種の曖昧な色気を帯びた噂とともに語られていた。

 ザルヴァート伯爵家の姪で、血筋のわりに妙に自由で、母方の縁からしばしば国外を行き来し、幼い頃からアルクライド家への出入りがあった女。明るい金髪でも黒髪でもない、少し赤みを含んだ褐色の髪を持ち、笑うと口元にだけ棘のようなものが見える美人だと、誰かが言っていたのを覚えている。

 そして必ず、そのあとに囁かれるのだ。

 ――若い頃のセヴェリオンが唯一、きつく拒まなかった女。
 ――公爵夫人であるオルタシアが本当は望んでいた花嫁。
 ――だが事情があって流れた縁。
 ――あるいは、本当に恋人だったのかもしれない。

 噂はいつも曖昧だった。
 曖昧だからこそ長持ちした。

 イゼルディナは嫁いだ当初、その名を聞くたび胸の奥が少しだけざらついたものだ。夫が自分へ何も与えないぶん、「では誰かには与えたことがあるのか」と考えずにいられなかったからだ。

 だが、そういうざらつきも今はもう薄い。

 薄い、はずだった。

 午前の報告を終え、家政室で席次表へ向かっている間も、ミュリエンヌの名は紙の上で妙に目立った。義母の右手側に座らせるか。あるいは少し離して、わざと「客人」として置くか。どちらにせよ、オルタシアは彼女を引き立てる気でいるのだとわかる。

 花の選び方も少し変えなければならない。義母はたぶん、蘭や温室育ちの色の強い花を置きたがるだろう。ミュリエンヌがそういう華やかさに映える女だと知っているから。

「奥様」

 エウラがそっと声をかける。

「お茶をお持ちいたしましょうか」

「ええ、お願い」

 言いながら、イゼルディナは紙へペン先を置いたまま動かない。

 怒ってはいない。
 少なくとも、自分ではそう思っていた。

 ただ、少しだけ胸が冷えている。

 その冷たさの正体は嫉妬ではなかった。
 もうそれほど単純ではない。

 むしろ、席次表の上で他人の名を配置しながら、自分の退出の時期をさらに具体的に測り始めていることに、自分で少し驚いていた。

 正式な最終書面が整うまで何日か。
 北の別邸へ送る荷の第一便は三日後でも間に合う。
 白薔薇の挿し木の準備は庭師が今週中と言っていた。
 実家へ報せる文面も、もう少し整える必要がある。

 そして、そのどこかへ「ミュリエンヌ・ザルヴァートが屋敷へ出入りする前に」という条件が、静かに足された。

 腹が立つ、とは違う。
 見たくないのだ、とイゼルディナは思う。

 義母があからさまに喜び、周囲が勝手に「次」を作り始める光景の中へ、自分の席だけがまだ形だけ残っている。そういう滑稽さを、これ以上長く眺めていたくない。

 その達観が、胸のどこかをひどく寂しくする。

 昔なら、見たくないでは済まなかったかもしれない。
 もしかすると、泣いて部屋へ閉じこもったかもしれない。
 あるいは夫へ、噂は本当なのかと訊いたかもしれない。

 だが今は、もう訊こうとも思わない。

 真実がどうであれ、自分の結婚が十年空白だったことは変わらないのだから。

     *

 午後、南の小温室はいつも以上に甘かった。

 花の匂いだけではない。
 義母が好む香油。
 薄く焼いた菓子に塗られた蜜。
 室内を必要以上に温めた空気。
 すべてが混じって、春のふりをした冬のような匂いになっている。

 イゼルディナは開始前の確認のため、少し早めに温室へ入った。使用人たちはすでに卓の配置を終え、茶器の向きを整え、菓子皿へ最後の飾りを置いている。いつも通りの仕事だ。誰もが無言で、自分の役目だけに集中している。だが無言の下に流れているものがいつもと違うことは、空気の厚みでわかる。

 皆、知っているのだ。

 今日ここへ来る女の名を。
 今日ここで義母がどんな顔をするかを。
 そして、その場へ公爵夫人たるイゼルディナが顔を出すということの、居心地の悪さを。

「その花はもう少し低く」

 イゼルディナが指示を出す。

「視線がぶつかる位置に置くのではなく、少し外して。中央が高すぎると会話が遮られるわ」

「かしこまりました」

 若い給仕が慌てて花器を少しずらす。白い蘭の房がゆれて、陽の斜めの光を受ける。

 席は義母の右へミュリエンヌ。左へラヴェル伯爵夫人。その向かいにシェスティ侯爵未亡人と、あとは義母の機嫌を損ねず、かつ噂を大きくしすぎない程度に口の軽い婦人たち。あまりにもわかりやすい配置だった。

 イゼルディナはその卓を見つめ、少しだけ目を細める。

 まるで舞台だ、と思う。

 まだ幕も上がらないうちから、登場人物と役割が決まっている。義母は歓迎する者。ミュリエンヌは待たれていた客。周囲の婦人たちは噂を育てる風。そして自分は、もうすぐそこから外れる予定の、古い椅子だ。

「奥様」

 背後からベルンフリートの声がした。

「ザルヴァート様がお見えになりました」

「……そう」

 振り返るより先に、温室の外の廊下が少しざわめいた気配が伝わる。侍女が一礼し、扉が開き、柔らかな布が擦れる音。女がひとり、香りを連れて入ってくる気配。

 イゼルディナはそこで初めて顔を上げた。

 ミュリエンヌ・ザルヴァートは、噂どおりに美しかった。

 背はイゼルディナより少し高い。髪は濃い栗色に赤みが差していて、冬の光の中では葡萄酒のような色に見える。目元は鋭くなく、むしろやわらかいのに、口元へ近づくほど何か人を試すような影がある。肌は明るく、頬には健康な血色が差し、旅帰りの疲れよりも、よく眠りよく食べている女の輪郭があった。今日の衣装は深い緑を帯びた灰色で、重くなりすぎず、それでいて白い温室の中で妙によく目立つ。

 若い、とは思わなかった。
 少女ではない。
 だが「次の花嫁」を想像させるには十分な年頃と体温を持った女だった。

 そして何より、オルタシアがその姿を見た瞬間の顔がすべてを物語っていた。

「ミュリエンヌ!」

 義母は椅子から半ば立ち上がるようにして笑った。
 その笑顔は、イゼルディナが十年見てきた中でも、かなり露骨な部類だった。

「まあ、本当にあなたなのね。ようやく帰っていらしたの」

「ご無沙汰しております、公爵夫人様」

 ミュリエンヌが一礼する。その仕草は丁寧だが、過剰にへりくだらない。国外を見てきた女の、わずかな自由さがある。

「お元気そうで何よりですわ」

「ええ。海風で少し焼けてしまいましたけれど」

「そんなもの、血色のよさにしか見えないわ」

 その一言に、ラヴェル伯爵夫人がすぐに笑いを添える。

「まあ、公爵夫人様ったら」

 血色のよさ。
 健康。
 若い女の体温。

 義母の口から出るそれらの言葉は、全部、別の意味をまとっていた。

 イゼルディナはその場へ進み、必要な礼をとる。

「ザルヴァート様。ようこそお戻りになりました」

 ミュリエンヌがこちらを見る。

 その視線には、あからさまな勝利も軽蔑もなかった。むしろ、一瞬だけ測るような静けさがある。社交界の女なら当然の目だ。目の前の公爵夫人が、どんな顔をしているのか。自分の帰還がどれほど響くのか。それくらいは見る。

「ごきげんよう、公爵夫人様」

 彼女の声は思ったより低かった。やわらかいが、芯がある。

「お目にかかれて光栄です」

 完全に礼儀正しい。
 だからこそ、周囲の空気のほうが下品に感じられる。

 オルタシアがすぐに口を挟んだ。

「ミュリエンヌはしばらく王都を離れていたものだから、あなたとゆっくり言葉を交わすのは今日が初めてだったわね。でもきっと、仲良くなれるわ。そうでしょう?」

 その「仲良くなれるわ」が、あまりにもわざとらしくて、イゼルディナはかえって少しだけ可笑しくなった。

 仲良く。
 義母は本当に、どこまで人を滑稽に扱えるのだろう。

「ええ、機会がございましたら」

 イゼルディナはそう答えた。
 ミュリエンヌもまた、曖昧に微笑んだだけだった。

 この女も、さすがにそこまで浅くはないらしい。
 今日ここで自分が歓迎されていることの意味を、きちんとわかっている顔だ。

 お茶会が始まると、案の定、周囲の婦人たちの視線は何度もミュリエンヌへ集まった。

 国外の話。
 南方の気候。
 新しい染料。
 船旅。
 風習の違い。
 そういう会話の皮をかぶせながら、実際には誰もが「今度はどうなるのか」を嗅いでいる。

 オルタシアはその中心で、これ以上ないほど機嫌よく微笑んでいた。

「まあ、そんなところまでご覧になっていたの」

「やはり、若いうちに外を見て回るのは大切ねえ」

「あなたは昔から、見る目が違ったもの」

 その持ち上げ方が、ひどくあからさまだった。

 ラヴェル伯爵夫人が、いかにも感心したように言う。

「公爵夫人様も、昔からザルヴァート様を可愛がっていらっしゃいましたものね」

「ええ、もちろん」

 オルタシアは笑う。

「ミュリエンヌのような娘は貴重よ。頭の回転がよくて、しかも丈夫で、育ちも悪くない。どこへ出しても恥ずかしくないわ」

 丈夫。

 またその言葉だ。

 イゼルディナはカップを持つ手を、ほんの少しだけ強くした。
 だがもう腹は立たなかった。
 同じ刃で何度も刺されると、痛みより先に構造が見える。

 義母はもう隠す気がない。
 そして周囲も、それを止める気がない。
 むしろ「次」を望む空気に乗って、言葉を磨こうとしている。

「本当に、社交界の空気が明るくなりますわね」

 誰かがそう言った。

 明るく。

 その表現に、イゼルディナは静かに目を伏せる。

 そうかもしれない。
 義母にとっては。
 噂を育てる婦人たちにとっては。
 「次の公爵夫人候補」という札がついた美しい女が現れれば、たしかに空気は明るくなるのだろう。

 それは自分の席が暗く古びているということでもある。

 だが、その事実にもう傷つききれない自分がいる。
 むしろ、「では私はいつ出ていくのが最も無駄がないか」と考えている。

 それがひどく切ない。

 お茶会の途中、義母がわざとらしく言った。

「ミュリエンヌ、今しばらくは王都にいらっしゃるのでしょう?」

「ええ、その予定です」

「なら、うちにも何度でもいらしてちょうだい。セヴェリオンも、懐かしい顔を見れば少しは肩の力が抜けるでしょうし」

 その一言で、温室の中の空気がさらに少しだけ温度を帯びた。
 誰も口にはしない。
 だが、聞き逃さない。

 セヴェリオン。
 懐かしい顔。
 肩の力が抜ける。

 それはつまり、今までこの家にいた公爵夫人では、そうならなかったという含みですらある。

 イゼルディナは、そこでようやくはっきり悟った。

 自分は、早く出たほうがいい。

 正式な書面の整理を待つにしても、荷は予定より早く出してよい。
 別邸の暖炉の確認も前倒しにする。
 実家への文も、今夜のうちに下書きを整える。
 白薔薇の挿し木が間に合わなければ、あとから送らせればいい。

 ここに残って、義母の温室の中で「次」の空気を何度も吸い込む理由はもうない。

 ミュリエンヌはその間、一度だけイゼルディナへ視線を向けた。
 その目には勝ち誇った色はない。
 ただ、なぜこの公爵夫人がこんなにも静かなのかを測るような、慎重な色がある。

 イゼルディナは微笑んだ。

 微笑むしかない。
 怒るのでもなく、怯えるのでもなく、ただ礼儀として微笑む。

 その穏やかさが、かえって自分でもひどく空虚に感じられた。

 かつてなら、こんな場で心がざわつき、夜になって一人で指先を噛んでいたかもしれない。
 けれど今は、ただ退出の時期を計っている。
 自分がどれほど遠くまで来てしまったのかを、その静けさで思い知らされる。

     *

 お茶会が終わり、婦人たちが去っていったあと、南の小温室には甘ったるい香りだけが残った。

 蘭。
 蜜菓子。
 義母の香油。
 そしてミュリエンヌが纏っていた、少し乾いた柑橘のような香り。

 使用人たちが静かに後片づけを始める中、イゼルディナも席次表と残った菓子皿の数を確認していた。こういう時、手を動かしているほうが楽だ。ぼんやり立っていると、耳の中にさっきの言葉が残りすぎる。

「奥様」

 エウラがそっと近づいてくる。

「お疲れでございましょう。あとは私どもで」

「ええ、お願い」

 温室を出ると、外の空気は思っていたより冷たかった。

 陽はほとんど落ちていて、庭の白さは青みを帯び始めている。昼間のぬるい湿気は消え、夜へ向かう乾いた冷えが戻ってきていた。イゼルディナは歩きながら、胸の奥が妙に空いているのを感じる。

 怒りではない。
 悲しみでも、嫉妬でもない。

 たぶん、片づいてしまったのだ。

 自分がここで待つべき何かは、もう本当に何も残っていないのだと、あの温室の空気が最後の念押しをした。

「奥様」

 エウラがまた呼ぶ。

「お部屋へ戻られましたら、荷の一覧をもう一度見直しましょうか」

「ええ」

 イゼルディナは頷いた。

「第一便を早めたいの。三日後ではなく、二日後でも出せるように」

 エウラが目を伏せる。

「かしこまりました」

「それから、別邸の寝具。厚手のものを先に送って。まだ夜は冷えるでしょうから」

「はい」

「温室の棚も、挿し木を待たずに一度空けてもらえるか庭師へ伝えて」

「承知いたしました」

 言葉が次々出てくる。

 そうして具体的な準備を口にしていると、胸の空洞が少しだけ埋まる気がした。

 ミュリエンヌ・ザルヴァートが戻ってきた。
 義母は喜んだ。
 周囲も勝手に次の公爵夫人候補のように騒ぎ始めた。

 それでいいのだと思う。
 もう、自分がそこへ立ち尽くす意味はない。

 部屋へ戻ると、窓の外には夜が完全に降りていた。鏡台の上に灯りが入り、荷造り途中のトランクの革が鈍く光る。

 イゼルディナはその前に立ち、蓋へそっと手を置いた。

 ひんやりしている。
 だが、その冷たさは嫌いではなかった。
 これは終わりへ向かう冷たさであり、出ていくための重さだ。

「ミュリエンヌ・ザルヴァート」

 名前を小さく口にしてみる。

 怒りは湧かなかった。
 湧かなかったことが、少しだけつらい。

 まだ夫を失うのが怖い妻なら、もっとわかりやすく傷つけただろう。
 けれど今の自分は、ただ、退出の時期を早めようとしている。

 それは成熟なのか。
 諦めなのか。
 あるいは、愛がもう死んでいる証なのか。

 わからない。

 ただ一つ言えるのは、その静けさがひどく切ないということだけだった。

 イゼルディナはトランクの蓋を開く。
 中には記録帳と茶器と、慎ましい数の衣装しか入っていない。
 その中へ、新しく厚手の手袋を一組足した。

 北の別邸は、王都よりずっと冷えるだろう。
 けれど少なくとも、誰かの「次」の空気に息を詰めることはない。

 窓の外、夜の向こうに見えない別邸を思いながら、イゼルディナは静かに次の荷を選び始めた。

 噂の女が戻ってきた夜、彼女は腹を立てる代わりに、自分の去り際をさらに正確に測り始めていた。
 そのことが、誰よりも彼女自身の胸へ、ひどく細く冷たく刺さっていた。


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