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第3話 婚約者の視線の先
セレフィナの部屋へ謝りに行った夜のことを、アリアは翌朝になってもまだ身体のどこかに引きずっていた。
謝罪そのものは、ひどく穏やかに終わった。
絹の寝間着に包まれたセレフィナは、枕元に灯したランプのやわらかな光の中で、いっそう儚く見えた。白い頬に落ちる睫毛の影さえ細く、掛布の上に出た手首は驚くほど薄かった。あんなふうに弱々しい姿を見せられると、昼間に感じていた重さが、たちまち別の罪悪感へすり替わっていく。アリアは父に言われた通り、言い方がきつかったことを詫びた。セレフィナは涙ぐんだ目で「わたくしこそごめんなさい」と言い、細い指先で姉の手を握った。
その手はひんやりしていて、少し湿っていた。
昔からそうだ。セレフィナの指は、熱を出している時でもない限り、たいてい冷たい。幼いころ、夜更けに熱にうなされる妹の掌を両手で包み込み、温めようとしたことを、アリアは何度も思い出す。あの時は、本当にただ無事でいてほしかった。可哀想だと思っていたし、守ってやりたいとも思っていた。そこに嘘はない。
だからこそ、何かがこんがらがる。
優しくしたかった気持ちも、今の苦しさも、どちらも確かに自分の中にあるのに、両方を同時に抱えていると、ひどく息苦しい。
その夜、部屋へ戻ったアリアはなかなか眠れなかった。天蓋つきの寝台に横になっても、閉じたまぶたの裏に、父の「余計な波風を立てるな」という低い声や、母の「どうして少し優しくしてあげられないの」という責めるような眼差しが残っている。セレフィナの涙に濡れた頬も、弱々しく震える声も、ひとつずつ思い出される。そのたびに胸の内側で何かがざらりと擦れた。
眠りが浅いまま朝を迎えたせいか、目覚めた時、頭の奥が鈍く重かった。
窓の外は、昨日より少しだけ春めいていた。庭の木々の梢にやわらかな光が滲み、白く残っていた霜の名残もだいぶ消えている。使用人たちが開けた窓から、土と草の湿り気を含んだ空気が入り込む。まだ冷たいが、冬の刃のような冷え方ではなかった。
それなのに、アリアの胸の中だけがまだ固い。
朝食の席では、父は新聞に目を落とし、母は今日の来客について執事に指示を出し、セレフィナはいつもより少しだけ声を落として話した。昨夜の件を露骨に蒸し返す者はいない。こういう時、この家は妙に整っている。揉め事そのものではなく、揉め事の痕跡を表面から消すことに長けているのだ。
アリアも、何事もなかったように振る舞った。
焼いたパンにバターを塗り、半熟の卵を崩し、香りの強い紅茶に口をつける。口の中へ入るものの味はわかるのに、それを楽しむ余裕はなかった。銀のナイフが皿に当たる乾いた音、窓辺のレースが風に揺れる微かな擦れ、セレフィナが咳を抑えた後の小さな息遣い。そういう細部ばかりが、妙に耳へ残った。
「そういえば」
食後、母がティーカップを置きながら言った。
「今日はユリウス様がいらっしゃるそうよ」
その一言で、アリアの指先がほんのわずかに止まった。
婚約者、ユリウス・ベルナール。
その名を聞いた瞬間、胸の中に小さな緊張と、説明しづらい安堵が同時に差し込む。最近は互いに社交の予定が重なり、きちんと顔を合わせる機会が少なかった。婚約者なのだから、離れていても関係が変わるわけではない。そう頭では思っているのに、ここ数日の家の空気のせいか、今日は誰か一人でも、自分をいつも通り扱ってくれる人がいてくれたらと思ってしまった。
その期待に気づいた瞬間、アリアは自分で少し驚く。
ユリウスに対して、胸を焦がすような恋情を抱いているわけではない。幼いころから知っている相手で、家同士の釣り合いもよく、言葉遣いも身のこなしも洗練されている。婚約を結んだ当初、母は「あなたにはちょうどよい方よ」と満足げに言った。アリアも異存はなかった。情熱的ではなくても、穏やかで礼儀正しい結婚になるのだろうと思っていた。
好きかと問われれば、たぶん嫌いではない。むしろ好ましく思っていた。少なくとも、彼は外でアリアを軽んじることはなく、並んで立つ時にはきちんと婚約者として扱ってくれる人だったから。
だからこそ、今日来ると聞いて、少しだけ気持ちが軽くなったのかもしれない。
「本当ですか」
思わずそう返すと、母は頷いた。
「ええ。午後に少し、お話があるのですって。ちょうどあなたも在宅でよかったわね」
セレフィナがふっと顔を上げる。
「ユリウス様が?」
「そうよ。あなたは無理をしなくていいけれど、体調がよければ少しだけ顔を出してもよいわ。先日の音楽会で会えなかったでしょう」
母のその言葉に、アリアはほんの少しだけ引っかかるものを覚えた。
先日の音楽会。
そういえばあの日も、ユリウスは二度ほどセレフィナのことを口にしていた。体調はどうか、外の冷えは堪えないか、無理をさせていないか。どれも家族ぐるみの付き合いがある以上、不自然な問いではない。婚約者の妹を気にかけるのは、むしろ親切とさえ言える。
その時もアリアはそう思った。
それなのに今、胸のどこかで小さく何かが引っかかる。けれどそれが何なのか、自分でもわからないまま、アリアは黙ってカップを持ち上げた。
午後になって、空は薄曇りに変わった。
西棟の応接間には春先らしい淡い光が満ち、レース越しの日差しが床にぼんやりと模様を落としている。暖炉には控えめに火が入れられ、花瓶には温室で咲かせた白い水仙が挿されていた。青みがかった花弁の匂いは、鼻を近づければかすかに青臭く、部屋の空気を静かに引き締めている。
アリアは今日、昼用のやわらかい青のドレスに着替えていた。昨日の群青より軽い色だ。胸元には真珠を一連、耳元には小さなサファイア。鏡で見た自分はいつも通り整っていたし、表情も崩れてはいない。なのに、心の方がどこか一歩遅れている気がする。
ほどなくして執事が来客を告げ、応接間の扉が開いた。
ユリウスが入ってくる。
陽に透けるような金髪を後ろへ流し、今日は淡い灰青の上着に、白いクラヴァットをすっきりと結んでいた。華やかな顔立ちをしている人だ。細すぎず、けれど重たさのない体つき。動作の一つひとつが滑らかで、貴族の子息として長く視線を浴びてきたことがわかる立ち居振る舞いをしている。碧い瞳は人当たりよくやわらかく見えるが、よく見ると、そこには常に「どう見られるか」を意識する光がある。
「アリア」
彼はアリアを見ると、唇にちょうどよい笑みを乗せた。
近づきざま、手の甲に口づけを落とす。その動作は流れるようで、淀みがない。外から見れば、申し分のない婚約者同士の挨拶だった。
「お会いできて嬉しいよ。少し間が空いてしまったね」
「ええ。お忙しかったのでしょう」
「いくつか用事が重なっていたんだ。埋め合わせをしないといけないな」
そう言う声も軽やかだ。アリアはその響きに、胸のこわばりがほんの少しだけほどけるのを感じた。
いつも通りだ、と。
そう思いたかったのだろう。
だがその直後、ユリウスの視線が、アリアの肩越しへ流れた。
応接間の奥、母に伴われて入ってきたセレフィナへ。
「セレフィナ嬢も。今日は顔色がよさそうで安心した」
あまりにも自然な調子だったので、一瞬、それが引っかかるほどのことなのか自分でも判断がつかなかった。
セレフィナは淡い藤色の昼用ドレスを着ていた。軽やかな色だが、彼女がまとうとどこか儚く見える。髪はいつもよりゆるく編み、頬にはほんのりと血色があった。朝よりも体調はよさそうだ。だが母はすぐに、「ええ、今日は比較的落ち着いているの」と答える。
「それは何よりです」
ユリウスはそう言って、持参した箱を従者から受け取った。
「少し珍しい菓子を見つけたので。ベルナール家の料理長が、身体の弱い方でも口当たりよく食べられるよう工夫したものだそうです」
箱が開かれると、砂糖を薄くまぶした小さな焼き菓子が整然と並んでいた。レモンと蜂蜜の香りが、ふわりと広がる。春先の湿り気を少し含んだ空気の中で、その甘酸っぱい匂いは妙に鮮やかだった。
ユリウスはそれを、アリアではなくセレフィナへ向けて差し出した。
「よければ、あとで召し上がってください。喉にも優しいそうです」
「まあ……ありがとうございます、ユリウス様」
セレフィナは嬉しそうに目を細める。その横で母も「お心遣いが細やかですこと」と満足げに笑う。
アリアはそのやりとりを見ながら、ほんの小さく瞬いた。
たしかにセレフィナは身体が弱い。気遣うのは自然だ。菓子を持ってきてくれたこと自体は、優しさだろう。なのに胸のどこかで、薄い針のような違和感が刺さる。
それは、贈り物の向け先の問題だったのかもしれない。
婚約者として訪れた席で、最初に気遣われるのが妹であること。その構図が、なぜだか少しだけおかしかった。
だがその程度で何かを言うのは、自分があまりにも狭量な人間のようで、アリアは何も口にしなかった。
応接間では紅茶が運ばれ、形式通りの会話が始まった。王都の催し、春の社交予定、ベルナール侯爵家で近く開く小さな夜会のこと。父はまだ合流していなかったが、それでも母は会話を淀ませず、ユリウスもまた気の利いた返答を返す。
アリアもきちんと応じた。
けれど、会話が流れる間、ユリウスの視線が時折セレフィナへ向かうのを、どうしても見てしまう。
露骨ではない。長く見つめるわけでもない。ただ、何かの拍子にふと彼の目がそちらへ吸われるのだ。セレフィナがカップを持ち上げれば、その手元へ。小さく咳き込めば、その横顔へ。母が「今日は少し食欲も戻ってきたのよ」と言えば、穏やかな安堵を浮かべて、彼女の頬色を確かめるみたいに目を細める。
気にしすぎだろうか、とアリアは思う。
婚約者の妹が病弱なら、そのくらいの気遣いは当然かもしれない。そう考えれば、何も不自然ではない。むしろ、冷たく放っておかれるよりずっとましだ。
それなのに。
それなのに、彼がアリアへ向ける視線より、セレフィナへ向ける視線の方が、今はわずかに温度を持っている気がしてしまう。
「アリア、どうしたんだい」
不意に名を呼ばれ、アリアは顔を上げた。
ユリウスが穏やかに笑っている。
「少し疲れているように見える」
「いいえ、大丈夫です」
「先日の茶会のことで忙しかったのかな」
その問いに、一瞬だけ喉が詰まる。
先日の茶会。ドレスの件を、彼はどこまで知っているのだろう。母が何か話した可能性はある。けれど、ここで探るようなことはしたくなかった。
「少し、慌ただしかっただけです」
「そうか。無理はしないでほしい。君はいつも頑張りすぎるところがあるから」
優しい言葉だった。
優しいはずなのに、なぜだか少し遅い気がした。彼は今、アリアの顔色を見てそう言ったのではなく、会話の流れの中で思い出したように口にしただけではないか。そんな意地の悪い考えが頭をよぎってしまう。
そこでセレフィナが、控えめな声で言った。
「お姉さまは昔から、無理をなさるのです。わたくしが弱いせいで、よく負担をかけてしまって」
その言葉に、ユリウスはすぐに首を振った。
「そんなふうに言ってはいけない。君は君の身体を責める必要はないよ」
柔らかな声色。まるで壊れ物へ触れる時みたいな慎重さ。
アリアはカップの縁へ視線を落とす。紅茶の表面には窓辺の光が揺れていた。ほんのりとベルガモットの香りが上がる。その上品な香りが、急に遠く感じられる。
会話はそのまま続いたが、アリアの耳にはところどころしか入らなくなった。
セレフィナが笑う。
ユリウスも笑う。
母が「本当にお優しいのね」と言う。
それに対してユリウスは、少し肩をすくめてみせる。
「困っている人を放っておけないだけですよ」
その一言が、妙に耳に残った。
困っている人。
それは誰のことなのだろう。
もちろん、ここで言うならセレフィナだ。身体が弱く、繊細で、すぐに体調を崩す妹。その像はこの家の中であまりに強固だから、誰も疑わない。
けれどアリアは、なぜだかその言葉を聞いた時、胸の奥で冷たいものが増えるのを感じた。
茶の時間が終わったあと、父がようやく顔を出し、話題は今後の婚礼準備へ移った。
式そのものはまだ先だが、日取りや招待客、夏以降の別邸滞在など、確認しておくべきことは多い。本来なら、婚約者同士であるアリアとユリウスが中心になって話すべき内容だ。
だが父がいくつか具体的な問いを投げかけても、ユリウスの返答はどこか上滑りしていた。
「夏の別邸滞在は予定通りでよろしいかな」
「ええ、侯爵家としては問題ありません」
「セレモニーに伴う衣装は、そろそろ詰めてもいい頃合いだが」
「そうですね。ベルナール家の方でも母と話しておきます」
言葉自体に問題はない。むしろ卒なく整っている。だが、父と話しながらも、ユリウスの目は時々セレフィナの方へ逸れる。部屋の隅で母と共に座っている彼女が、少し姿勢を崩せば、そちらへ意識が引かれるのがわかる。アリアはそのたび、胃のあたりがかすかに冷えるのを感じた。
自分が敏くなりすぎているだけかもしれない。
ここ数日、家の空気に神経を擦られているから、必要以上に小さなことを拾ってしまうのだろう。そう思おうとする。だが、一度気づいてしまうと、もう目がそちらを追ってしまう。
父が席を外したあと、母は侍女を呼んで席替えをさせた。暖炉から少し遠かったセレフィナの場所を、火の近くへ移すためだ。
「冷えは禁物だもの」
母のその言葉に、ユリウスがすぐ立ち上がった。
「では、こちらの椅子を」
彼は手際よく椅子を引き、セレフィナが座りやすいよう支えた。その動作があまりにも自然で、まるで何度も繰り返しているみたいに見えた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。立ちくらみはしないかい」
「少しだけ、平気です」
「無理はしない方がいい」
そのやりとりの最中、アリアはすぐそばにいたのに、二人の間には入り込めない薄い膜のようなものがあった。もちろん、アリアが婚約者として支える場面でもない。セレフィナの体調を気遣って椅子を引くくらい、貴族の青年ならよくあることだ。
なのに、なぜだろう。
その瞬間、アリアは自分がひどく置き去りにされたように感じた。
その後、母がセレフィナの薬の時間を気にして席を立ち、父も執務へ戻ると、応接間にはアリアとユリウス、そしてセレフィナだけが残った。侍女たちは少し離れた位置に控えている。
沈黙を埋めるように、アリアは言った。
「ユリウス様、先日お送りくださった本、ありがとうございました。まだ途中ですが、とても読みやすくて」
「そう、よかった」
返ってきた声は穏やかだったが、彼の視線は一瞬遅れてこちらへ戻ってきた気がした。
「君はああいう歴史物が好きだったね」
「ええ。昔から」
「セレフィナ嬢は、物語の方が好みかな」
その問いかけは、ほとんど反射のようだった。
アリアの言葉を受けて、自然に婚約者同士の会話が続くはずのところで、彼はすぐ妹の方を向いた。
セレフィナは少しはにかんで笑う。
「わたくしは、悲しいお話は苦手ですけれど、最後に救われる物語なら好きです」
「それなら今度、よいものを探してみよう」
「まあ、本当ですか」
その「今度」が、アリアの胸にちくりと刺さる。
婚約者が家族を気遣うこと自体は、間違っていない。頭では何度もそう言い聞かせる。けれど、ほんの少し前までなら、ユリウスがまず気にかけるのはアリアの方だったはずだ。季節が変わるたびに「寒さは苦手ではない?」と尋ねてきたのも、読んだ本の感想を最初に聞いてきたのも。最近、その順番が変わってきているのではないか。
そう考えた瞬間、アリアは自分の発想を恥じた。
まるで、妹に嫉妬しているみたいではないか。
身体の弱い妹を相手に。
その思考はひどく醜く思えて、彼女は小さく爪先へ力を入れる。けれど、その「醜い」と感じることそのものが、もう違和感を確かな形にしていた。
ユリウスが帰る時間になり、玄関まで見送ることになった。
春先の風は少しだけ強く、開いた扉の向こうから冷たい空気が吹き込んでくる。石段の下には侯爵家の紋章をつけた馬車が待っていた。
「今日は来てくださってありがとうございました」
アリアが礼を言うと、ユリウスはいつものように笑った。
「こちらこそ。近いうちにまた顔を出すよ」
その言葉に、母が嬉しそうに頷く。
「ぜひ。セレフィナも今日は久しぶりに楽しそうでしたもの」
その一言に、ユリウスは扉の内側に立つセレフィナを見る。ほんの一瞬。だが、その一瞬の視線には、ただの社交辞令以上の柔らかさがあった気がした。
「それならよかった」
そう答えてから、彼はようやくアリアへ向き直る。
「アリア、今度は二人で外へ出ないか。気候もよくなってきたし」
本来なら喜ぶべき誘いだ。
なのにアリアは、なぜ今それを言うのだろうと考えてしまった。取り繕うためだろうか。今日、自分が婚約者として少しなおざりだったことを、彼自身どこかで感じたからだろうか。そんなふうに勘ぐる自分が嫌になる。
「ええ、都合が合えば」
答えた声は、思ったより滑らかだった。
ユリウスはそれに満足したように頷き、馬車へ乗り込む。扉が閉まり、車輪が動き出す。砂利を踏む音が遠ざかっていくのを、アリアは石段の上で見送った。
風が髪を揺らす。冷えた空気が頬を撫でる。春の匂いの奥に、まだ冬の気配が残っていた。
「ユリウス様、本当にお優しいのね」
隣でセレフィナが、ほうと吐息のように言った。
振り向くと、彼女は頬にわずかな赤みを差し、遠ざかる馬車を見つめていた。その横顔は少女らしくやわらかく、どこか夢見るような色をしている。
アリアは一拍遅れて答える。
「……そうね」
「わたくしのような者にまで、あんなふうに気を配ってくださるなんて」
その言い方にも、何か引っかかる。
わたくしのような者にまで。
慎み深いようでいて、自分が気遣われることを当然のように受け取っている響きが、ほんの少しだけ混じっていた。だがそれを指摘するのは、あまりにも意地悪だ。
「ユリウス様は昔から、困っている方を見ると放っておけないの」
母が満足げにそう言い添える。
アリアはその言葉を聞いて、玄関広間の冷たい石床の上に、自分だけが取り残されているような感覚を覚えた。
困っている方。
可哀想な妹。
聞き分けのいい姉。
その役割分担が、この家の中ではあまりに自然すぎる。だから誰も、そこに疑問を抱かない。ユリウスまで、その構図の中へ滑り込んでしまったのだろうか。
その夜、アリアは自室の机に向かって本を開いた。昼間、ユリウスが話題にしたあの歴史書だ。紙はなめらかで、インクの匂いも心地よい。装丁も上質で、以前ならきっと素直に嬉しかっただろう。
けれど、今日は数行読んでも内容が頭へ入らない。
窓の外では風が木々を揺らし、枝がかすかに窓硝子を掠める音がする。暖炉の火は小さく燃え、赤い明かりが机の上に置いた銀のペーパーナイフを鈍く照らしていた。
アリアはページの上へ視線を落としたまま、昼間のことを何度も思い返す。
ユリウスの目。
セレフィナが咳き込んだ時の、あの素早い視線。
椅子を引く手つき。
「放っておけない」と言った時の声の柔らかさ。
些細なことばかりだ。こうして並べても、決定的な何かがあるわけではない。むしろ、どれも善意として片づけられる程度のものだ。優しい婚約者。身体の弱い義妹候補を気遣う、礼儀正しい青年。そう見れば、それで終わる。
なのに、心は終わらない。
違和感は、明確な棘ではなかった。もっと細い、目に見えない繊維のようなものが、指先にまとわりつく感じだ。振り払えると思っても、気づけばまたそこにある。
自分が神経質になっているだけかもしれない。
家の中で立て続けに嫌な思いをして、敏感になっているせいだ。そう考えるたび、アリアは自分をたしなめる。婚約者の親切を、そんなふうに疑うなんてみっともない、と。
けれど、たしなめても、胸の奥の小さなざわめきは静まらなかった。
アリアは本を閉じ、両手でこめかみを押さえる。紙の匂いと、暖炉で温められた木の匂いが混ざる。耳の奥では、自分の呼吸音が妙に大きかった。
怒っているわけではない。まだ、そこまではいかない。
悲しいのとも少し違う。
ただ、落ち着かない。足元の石畳の一枚が、知らないうちに少しだけずれていたと気づいた時みたいな、不穏で頼りない感覚がある。
婚約者の視線が、以前より妹へ向いている。
その事実を、はっきり言葉にしてしまうのが怖かった。
言葉にすれば、形になってしまうからだ。形になったものは、もう見なかったことにできない。
だからアリアは、まだそれを「気のせいかもしれない違和感」のまま胸の中へ置いておくことにした。
けれど、その夜、眠りへ落ちる直前まで、彼女の脳裏に焼きついていたのは、昼間の応接間でユリウスがセレフィナへ向けた、あのやわらかな眼差しだった。
春はまだ浅い。
凍った土の下で、見えないまま何かが芽を出す季節だ。
アリアの胸の内側にも、まだ名前のない不穏なものが、静かに土を押し上げ始めていた。
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