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第7話 婚約者を譲れと言うのなら
その話は、夕食のあとに切り出された。
昼のあいだは何事もなかったように過ぎた。少なくとも表面上は。父は執務に戻り、母は来客の予定を片づけ、セレフィナは体調を理由にほとんど姿を見せず、アリアもまた自室で書簡の整理や帳簿の確認に手をつけた。紙の匂い、インクの色、数字の並び。そういうものに目を落としていれば、胸の中のざわつきが少しだけ遠のく気がした。
だが実際には、何も遠のいてはいなかった。
朝食の席で届いた辺境伯家からの書状。母と父が見せた、あまりにも露骨な計算。王都から遠い、都合がよい、尾を引かない。その一つひとつがまだ胸の内に沈んでいる。さらにその下には、ユリウスの「少しの間だけ」の裏切りがあり、温室で泣きながら恋を告げたセレフィナの顔がある。
ひどく静かに、けれど確実に、何かが積み重なっていた。
夕方になって空がまた曇った。
雨の気配はなかったが、陽は早く落ち、窓の外の庭は青みを帯びた影の中へ沈んでいく。湿り気を含んだ風が窓枠を鳴らし、石造りの屋敷全体が少しずつ冷えていくのがわかる。大広間の夕食はいつも通り整えられていた。銀器は磨かれ、燭台の火は揺れも少なく、白いクロスの上には春の初めに採れた若い野菜が並ぶ。けれどその整い方が、今日は妙に無機質に見えた。
父も母も、夕食の最中は余計なことを言わなかった。
セレフィナは珍しく席についていたが、食べる量は少なく、スープを二口ほど口にしてからはほとんど匙を動かさなかった。淡い色のドレスの上に薄い肩掛けを羽織り、咳をする時には必ず口元へレースのハンカチを当てる。その仕草は相変わらず可憐で、第三者が見れば、ただ弱々しい妹にしか見えないだろう。
アリアはその様子を見ないようにしていた。
見れば、また胸がざわつくからだ。温室での会話以来、セレフィナの顔を見ると、涙に濡れた頬と「お姉さましかいないもの」という言葉が重なる。幼い頃の妹の面影まで、一緒に揺らぐ。
だからアリアは、銀のナイフで肉を切り、温野菜へ塩を振り、食後の茶へ手を伸ばす、その一つひとつを丁寧にこなすことだけに意識を向けた。
だが、食事が終わりかけたころ、父がナプキンを畳んで皿の横へ置いた瞬間に、空気が変わった。
「食後は西の居間へ来なさい」
低い声だった。
誰に向けた言葉か確認するまでもない。アリアはカップを持つ指先に少しだけ力をこめた。
「今夜のうちに話しておくべきことがある」
母は何も言わなかった。ただ、目を伏せたまま茶を飲み、セレフィナは小さく肩を揺らした。その反応だけで十分だった。ああ、もう話は整えられているのだとわかる。自分に伝えられていないだけで、父と母と、そしてたぶんセレフィナの中では、今日の午後のうちに何かが決められている。
西の居間は、家族だけの夜の談話に使う小さめの部屋だった。
大広間ほどの重厚さはないが、その分だけ私的な空気が濃い。深い緑の壁紙、濃茶の家具、暖炉の上に飾られた先祖の小さな肖像画。今日はすでに火が入っていて、薪の燃える匂いが部屋の空気を乾かしている。外は冷えてきているはずなのに、この部屋の中だけは妙に息苦しかった。
父は暖炉の前に立ち、母は長椅子へ座っていた。セレフィナはその隣、やや浅く腰掛けている。部屋へ入ったアリアは扉の近くで一度立ち止まり、それからゆっくり三人の向かい側の椅子へ腰を下ろした。
緑色の布張りの椅子は座面が柔らかいのに、今は少しも楽に感じられない。
「アリア」
父が先に口を開いた。
「今日は辺境伯家からの書状について、お前にも伝えたな」
「はい」
「そのうえで、今後について話したい」
今後。
その言葉がひどく曖昧なのに、意味だけははっきりしている。
アリアは返事をせず、ただ父を見た。父の目には、もはや朝のような戸惑いはない。代わりにあるのは、家のために最善を選ぶ当主としての顔だ。その顔が向く先に、娘の心情は最初から含まれていない。
母が静かに言葉を継いだ。
「アリア。わたくしたちも、あなたをむやみに傷つけたいわけではないのよ」
その前置きの時点で、続く言葉が何であるかは半ば決まっている。
「ですが、現実を見なければならない時です。ユリウス様とのご婚約について……少し、見直しが必要かもしれません」
見直し。
なんて滑らかな言い方をするのだろう、とアリアは思う。
婚約が揺らぎ始めていること。妹がその相手へ恋をしたこと。相手の男が可哀想な妹へ情を向け始めていること。そのすべてを「見直し」という淡い語で包んでしまうあたりが、母らしかった。
「見直し、とは」
声は驚くほど落ち着いていた。
自分でも、もう少し震えるかと思っていた。けれど実際には逆だった。温室で凍った怒りも、昨日の応接間で冷えていった失望も、今は胸の奥に硬く沈んでいる。熱がないぶん、むしろ声は安定していた。
父が答える。
「ベルナール家との婚約は、本来、双方に益があるからこそ結ばれたものだ。だが当人たちの意向と家同士の調和が崩れれば、無理に継続することが必ずしも賢明とは言えん」
「つまり、続けるべきではないと」
「可能性の話だ」
父はそう言いながらも、視線をそらさなかった。
「まだ正式に何かが決まったわけではない。だが、セレフィナの件がある以上、今後を慎重に考える必要はある」
セレフィナの件。
その言い方に、アリアの指先が膝の上でわずかに動く。
件、と。まるで処理すべき問題の名のように。けれど、そこに至るまでの過程で、誰がどれだけ自分を傷つけたのかは、誰も口にしない。
母がそっと妹の肩へ手を置いた。
「セレフィナは、本当は何も望んでいないのよ」
その一言で、アリアはほとんど笑いそうになった。笑えなかったが、喉の奥がきしむ。
何も望んでいない。
では、温室でのあの告白は何だったのだろう。自分の婚約者へ、少し優しく見てもらえるよう取りなしてほしいと泣いたのは、何だったのだろう。
「そうなの?」
アリアは視線をセレフィナへ向けた。
突然名指しされて、妹はびくりと肩を揺らす。長い睫毛の下で、瞳が不安げに揺れた。母の手が肩へ置かれたままだから、その弱々しさはいっそう際立つ。
「セレフィナ。あなたは、何も望んでいないの?」
その問いは穏やかだった。だが自分でも、その下にあるものの硬さを感じていた。
セレフィナはすぐには答えなかった。
唇がわずかに震える。白い指がスカートの上で布をつまむ。やがて、かすれるような声で言った。
「……わたくしは、ただ、皆が苦しまなければいいと思って……」
その言葉に、父が頷き、母も「そうなのよ」と口を添える。
だがアリアは目をそらさなかった。
「皆、というのは誰のこと?」
「お姉さま……」
セレフィナの声がさらに細くなる。
「そんなふうに問い詰めないで。わたくし、本当に、奪いたいわけではないの。ただ、こんな気持ちになってしまって、どうしたらいいのか……」
「どうしたらいいかわからないから、私に譲れと言うの?」
部屋の空気がひやりとする。
母がすぐに口を挟んだ。
「アリア、言葉が過ぎるわ」
「過ぎていません」
アリアは母を見た。
「昨日、セレフィナは私にそう言いました。はっきり譲るという言葉ではなくても、意味は同じです」
父の眉間に皺が寄る。
「セレフィナ」
低く名を呼ばれ、妹は肩を震わせた。だが否定はしない。その沈黙だけで十分だった。
母は小さく息を吐く。
「たしかに、セレフィナは未熟な言い方をしたのでしょう。でもそれは、追い詰められていたからです。恋心は理屈ではありませんもの」
恋心。
その言葉が、妙に甘くこの部屋に広がる。
恋。可憐で、痛ましくて、責めにくいものとして扱われる言葉。だがその実、その恋は今こうして婚約の秩序を揺らし、自分に譲歩を迫る道具として使われている。
父が腕を組み、静かに言った。
「アリア、お前に感情の整理が必要なのはわかる。だが、現実として、ユリウスはお前との婚約を続けながら、セレフィナを気にかけている。このまま曖昧なままでは、誰にとってもよくない」
「ですから」
アリアはその言葉を引き取る。
「婚約を、セレフィナへ譲れと」
父は即答しなかった。
しかしその一拍の沈黙こそが答えだった。
暖炉の薪が、ぱち、と乾いた音を立てる。外の風が窓をかすかに鳴らす。部屋の中は暖かいはずなのに、アリアの足先は急速に冷えていく。
母が慎重に言葉を選ぶように口を開く。
「譲る、という言い方をすれば、たしかにそう聞こえるでしょうね。でも、家の中でこれ以上誰かが傷つき続けるより、自然な形へ整えた方がいいのではないかと思うの」
「自然な形」
アリアはその語を繰り返した。
自然だろうか。
婚約者が妹へ情を傾け、家族がそれを見て「では姉が退けばよい」と考えることが。
それが、この家では自然なのだろう。
セレフィナが、ようやく顔を上げた。目には涙が滲んでいる。だが温室のときのように、自分一人で姉へすがる目ではない。今は両親が隣にいる。守られる側の少女として、安心して泣ける顔だ。
「お姉さま、お願い、そんなふうに受け取らないで」
「では、どう受け取ればいいの」
「わたくし、ただ……もし、お姉さまがユリウス様をもうお嫌いになってしまったのなら」
その一言で、アリアの中の何かが、すうっと真っ直ぐに冷えた。
嫌いになってしまったのなら。
つまり、自分が先に離れたという形を与えられているのだ。ユリウスが妹へ情を寄せたからではなく、姉が婚約者を嫌いになったから。そうすれば妹は奪う側ではなく、零れたものを拾う側でいられる。
あまりにも都合がよかった。
そして、その都合のよさを、セレフィナはおそらく半分も自覚していない。そこが何より厄介だった。
「私は、まだそういう話をしていないわ」
アリアが言うと、セレフィナはまた怯えたような顔になる。だがその怯えの裏に、ごくかすかに期待が見える。姉が折れるのを待つ目だ。
父がそこで口を挟んだ。
「いずれにせよ、辺境伯家からの打診はある」
部屋の空気がまた少し変わる。
辺境伯家。その存在が、ここではすでに代替案として卓上に載っている。
「ベルナール家との婚約が整わぬなら、お前には別の道がある。むしろ、格としては悪くない。辺境伯家は侯爵家にも劣らぬ発言力を持つ」
父の言葉は、励ましのようにも聞こえた。だがそれはやはり、娘の未来を慮る声ではなかった。失敗した駒を別の盤へ置き直すような、冷たい実務の声だ。
「お父様は、もう決めていらっしゃるのですね」
アリアは静かに言った。
「私の気持ちではなく、家の形を」
「家の形を整えるのは当主の役目だ」
父は迷いなく答えた。
「お前も貴族の娘なら、その意味はわかるはずだ」
わかる。
わからないわけがない。幼い頃からそれを教えられてきた。婚姻は個人の夢ではなく家の結びつきだと。だがその理屈を、今この場で振りかざされると、胸の奥に残っていた最後の柔らかい部分まで冷えていく。
母が柔らかい声を出した。
「アリア。あなたは昔から、物事をきちんと見られる子でしょう。だからこそ、感情だけで反発するのではなく、少し先を見て考えてほしいの。セレフィナは身体が弱い。いつまでこのまま家の中で苦しませるのかという話でもあるのよ」
その言葉の最後で、セレフィナが小さく顔を伏せる。
可哀想な妹。
その像がまた部屋の中に満ちる。
アリアはしばらく黙っていた。
暖炉の火の音がする。壁掛け時計の針が、かすかに進む音を立てる。父の指が肘掛けを一度だけ叩き、母の香油の匂いが空気へ薄く混じる。セレフィナの呼吸は浅く、時折小さく揺れる。
その全部を、アリアは妙に鮮明に感じていた。
怒鳴りたいわけではない。
泣きたいわけでもない。
ただ、もうこれ以上曖昧な場所へ立たされたくないと思った。
この家の人間は、自分が「聞き分けのいい姉」であることを前提に話している。だから、譲れと言わずに譲らせようとする。傷つけたくないと言いながら傷つける。家のためと言いながら、全部をこちらへ引き受けさせる。
ならば。
ならば、自分の方から形を決めてしまえばいいのではないか。
その考えが胸の中へ落ちた瞬間、不思議なくらい視界が澄んだ。
辺境伯家からの打診を朝聞いたときには、ただの異物だった。遠い北。噂しか知らない男。傷のある辺境伯。けれど今、この家族の会話の中で、それは初めて別の輪郭を持つ。処分先でも、保険でもなく、自分が自分の意思でこの家を出るための具体的な道として。
怖くないわけではない。むしろ怖い。
だが今目の前で行われていることの方が、よほど自分の心を殺すのではないかと、アリアは直感した。
アリアはゆっくりと息を吸った。
肺の奥に冷えた空気が入り、背筋がまっすぐ伸びる。
「そこまでおっしゃるのなら」
父も母も、セレフィナも、一斉にこちらを見る。
アリアは三人の顔を一人ずつ見た。
父の硬い表情。母の整った微笑の影にある計算。セレフィナの涙に濡れた、怯えと期待の混ざった目。そのどれもが、もう自分を「選ぶ側」には置いていない。
ならば、自分で選ぶしかない。
「婚約者を譲れとおっしゃるのなら」
声は静かだった。
静かなのに、自分でも驚くほどはっきりと響いた。
「私は先に、別の方へ嫁ぎます」
その瞬間、部屋の中の音がすべて止まったように感じた。
暖炉の火のはぜる音さえ、遠くなる。
父の目が見開かれ、母の口元から微笑が消える。セレフィナは涙の粒を頬に残したまま、凍りついたようにアリアを見つめていた。
「……何ですって」
最初に声を出したのは母だった。
アリアは視線をそらさない。
「お話をうかがっていて、よくわかりました。お父様とお母様にとって大切なのは、家の形を整えること。セレフィナにとって大切なのは、自分の気持ちにけりをつけること。そしてそのために、私が退くのがいちばん都合がいいのでしょう」
「アリア、そんな言い方は」
「違いますか」
母が息を呑む。
否定できない沈黙が落ちる。
アリアは続けた。
「でしたら、待っていて譲らされるのではなく、私が先に決めます。辺境伯家からの打診が正式なものなら、そちらを受けます」
父がようやく口を開いた。
「軽々しく言うな」
「軽々しくなどありません」
「相手は北の辺境伯だぞ。王都の暮らしとは何もかも違う。噂も聞いているだろう」
「聞いています」
「それでも行くと?」
父の問いは、試すようでもあり、怒りを含んでもいた。まさか娘の方からその札を選ぶとは思っていなかったのだろう。家が差し出す処理先としてならよくても、自分の意思でそこへ向かうと言われると話が変わる。主導権がずれるからだ。
アリアは頷いた。
「ええ。婚約者を妹へ譲ることが、この家にとって自然な形だとおっしゃるのなら、私はその前に別の道へ進みます」
セレフィナがそこで、はっとしたように身を乗り出した。
「待って、お姉さま、それは違うの……!」
その声には、初めてあからさまな焦りが混じっていた。可哀想な妹の顔ではなく、自分の想定と違う方向へ話が転がり始めて慌てる少女の顔だ。
「わたくし、そんなことまでは……!」
「考えていなかったのでしょうね」
アリアは妹を見た。
「私が苦しんで、泣いて、でも最後には折れてくれると思っていたのでしょう。でも私は、もうその役をやめます」
セレフィナの瞳から、涙がまたひとつ落ちた。
「お姉さま、わたくし、そんなつもりじゃ……」
「そうでしょうね」
アリアはひどく穏やかに言った。
「あなたはいつも、そんなつもりではないのでしょう。それでも最後には、私が譲る形になってきた。だから今回もそうなると思っていたのでしょう」
その言葉に、セレフィナは何も返せなかった。
母が立ち上がる。
「アリア、落ち着きなさい。これは意地で決めることではないわ」
「意地ではありません」
「では何だと言うの」
アリアは一度だけ目を閉じ、それから開いた。
「自分で決めるということです」
その言葉は、言ってしまったあとでようやく重みを持った。
自分で決める。
これまで、そんなことを何度考えただろう。いや、考えること自体を避けてきたのかもしれない。どうせ家が決めるのだからと。聞き分けよく従う方が楽だからと。けれど今、その楽さの果てがこの場だ。婚約者を妹へ譲ることを、やわらかく勧められる場。
ここまで来てなお黙っていたら、二度と自分の人生へ口を挟めなくなる気がした。
父の声が低く落ちる。
「アリア。辺境伯家への返答は、家として行うものだ。お前一人で決められる話ではない」
「もちろん存じています」
「ならば」
「ですが、私の意思を問われるのでしたら、今ここで申し上げます」
アリアは父をまっすぐ見た。
「ベルナール家との婚約を妹へ譲るようお考えなら、私はそれを待ちません。辺境伯家へ嫁ぎます」
父の目の奥に、はっきりとした苛立ちが宿る。
母もまた、どう言いくるめるべきかを計りかねている顔をしていた。娘が泣きながら拒むなら、まだ扱いやすいのだろう。なだめることも、説得することもできる。だが今のアリアは泣いていない。感情的に叫んでもいない。ただ、静かに線を引いている。そういう相手は厄介だ。
暖炉の火が小さく揺れ、壁に四人の影が揺らめく。
その時、アリアは不思議なほど落ち着いていた。
怖いはずなのに、胸の芯は静かだ。辺境伯家が実際にどんな場所かも、レオンハルト・グランフェルドがどんな人かも知らない。それでも、自分の人生を家族の都合だけで受け渡される未来よりは、まだましだと思えた。
母がようやく絞り出すように言った。
「あなた、本気なの」
「本気です」
「北よ。王都のような暮らしではないのよ。寒くて、荒れていて、戦の匂いのする土地なのよ」
「それでも、この家で黙って譲らされるよりは、ずっとましです」
自分でも、その言葉の強さに少し驚いた。
けれど、口にした瞬間、胸の奥に小さく熱が灯った気がした。怒りの熱ではない。決めた者だけが持つ、細い芯のような熱だ。
セレフィナが泣きながら首を振る。
「お姉さま、お願い、そんなふうにわたくしのせいで遠くへ行くみたいに……」
「あなたのせいだけではないわ」
アリアはそう言った。
そしてそれは、本心だった。セレフィナの恋心だけが問題なのではない。ユリウスの揺らぎも、両親の計算も、そして何より、ずっと譲り続けてきた自分自身のあり方が、全部ここへ繋がっている。
「これは、私が決めることよ」
最後にそう言った時、セレフィナは何も言えなくなった。
父は長い沈黙のあと、椅子へ深く座りなおした。疲れたように、ではなく、考え直す姿勢で。
「……今夜はここまでにしよう」
その声は抑えられていたが、硬い。
「感情が高ぶったままでは、まともな判断はできん」
父はそう言うが、アリアにはわかった。高ぶっているのは自分ではない。父の方だ。娘が従うと思っていた筋書きを外れたことに、苛立っている。
母もそれ以上は言わなかった。セレフィナは泣いたまま顔を覆っている。誰もこの場をどう締めてよいかわからないのだ。
アリアは静かに立ち上がった。
「失礼します」
礼も最小限だった。優雅さを崩したわけではない。ただ、必要以上の柔らかさをもう乗せなかっただけだ。
扉を開けると、廊下の空気は思っていたより冷たかった。居間の暖炉の熱を背中に感じながら一歩外へ出ると、肌へ触れる空気が薄い刃みたいにすっと通る。その冷たさがかえって心地よかった。さっきまでの部屋の中は、人の言葉と期待と涙で、あまりにも息苦しかったからだ。
扉が閉まる。
向こう側で何か声が上がった気がしたが、アリアは立ち止まらなかった。
長い廊下を歩く。壁にかかった燭台の火が、一定の間隔で床へ金色の光を落としている。窓の外はすでに夜で、硝子には室内の明かりがぼんやり映っていた。自分の姿が映るたび、アリアはその顔が驚くほど静かであることに気づく。
泣いていない。
震えてもいない。
ただ、目だけが少し硬い。
自室へ戻ると、ミナがすぐに振り返った。主人の顔を見た瞬間、何かを察したのだろう。問いかける前に、そっと扉を閉めてくれる。
「お嬢様」
その一言で、張っていた糸が少しだけ緩んだ。
アリアは長椅子へ腰を下ろし、ようやく大きく息を吐く。喉が熱い。胸の奥はまだ早く脈打っている。落ち着いていたつもりでも、身体はちゃんと緊張していたらしい。
「お茶をお持ちします」
ミナが言う。
「……お願い」
答える声は少しかすれていた。
侍女が離れていく気配を背に、アリアは窓の方を見た。夜の庭は暗い。昼間の雨を吸った土の匂いが、わずかに窓の隙間から入り込む。春の手前の夜は、静かで冷えていて、どこか残酷なほど澄んでいる。
自分は今、とんでもないことを言ったのかもしれない。
辺境伯家へ嫁ぐと。まだ相手のことを何も知らないのに。家族への当てつけのようにも聞こえただろう。そう思えば不安もある。
それでも、後悔はなかった。
あの場で黙っていたら、自分はきっとまた譲る側へ押し戻されていた。セレフィナの涙と母の言葉と父の理屈に包まれて、気づけば「そうするのが一番丸い」という形へ流されていたはずだ。
それを、初めて拒んだ。
拒んだだけではない。自分の口で、自分の進む道を言った。
辺境伯家という名前は、まだ遠くて冷たい輪郭しか持たない。けれど、その冷たさの向こうにあるものを、自分の目で見たいと思ったのも本当だった。少なくとも、ここではない場所を。
ミナが戻ってきて、湯気の立つカップを差し出す。花の香りを少しだけつけた茶だった。柔らかな甘さが鼻へ触れ、アリアはようやく肩の力を少し抜く。
「何か、ございましたか」
慎重な問いに、アリアはカップを両手で包みながら、静かに答えた。
「婚約を、譲れと言われたわ」
ミナの表情がわずかに変わる。驚きと、やはりという色が同時に浮かぶ。
「それで」
「それなら私は、先に別の方へ嫁ぐと言ったの」
侍女は息を呑んだ。だが否定も制止もせず、ただアリアを見つめる。そのまっすぐな視線が、今はありがたかった。
アリアはひと口茶を飲む。温かさが喉を落ちて、胸の内へゆっくり広がる。
怖くないわけではない。
けれど、怖さと同じ場所に、かすかな自由があった。
それはまだ小さくて、灯したばかりの火のように不安定だ。少し風が吹けば消えてしまうかもしれない。それでも確かに、自分の中へ生まれている。
婚約者を譲れと言うのなら。
ならば、私は先に別の方へ嫁ぐ。
あの言葉はもう、戻らない。口にした以上、家族も自分も、以前と同じ場所には立てない。
窓の外で、雲の切れ間から月が少しだけ覗いた。濡れた石畳の上に、その白い光が細く落ちる。冷たいのに、妙に澄んだ光だった。
アリアはそれを見ながら、自分の胸の中にも同じような冷たい明るさが差しているのを感じていた。
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