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第8話 婚約破棄は、私の意思で
翌朝、アリアは目が覚めた瞬間に、自分の中の何かがひとつ決まっているのを知った。
昨夜は遅くまで眠れなかった。家族へ向かって「先に別の方へ嫁ぎます」と言い切ったあとの静けさが、寝台に入ってからも胸の奥へ残っていて、まぶたを閉じるたびに西の居間の光景が浮かんだ。父の苛立ち、母の驚き、セレフィナの涙。そこへ重なるように、ユリウスの「少しの間だけ、慰めていただけだ」という声も蘇る。何度も思い返した。怒りはもう熱を持たず、代わりに、芯の方から冷えていくような硬さだけが残っていた。
けれど朝になって、窓の向こうの空が思ったより明るく見えた時、胸の内には別のものがあった。
迷いはまだある。痛みもある。
それでも、曖昧なまま待つつもりはない。
そう思った瞬間、もう決めたのだとわかった。
窓を開けると、ひんやりした朝の空気が流れ込んできた。昨夜の月明かりは消え、代わりに薄い春の日差しが庭へ落ちている。雨上がりの匂いはほとんど消え、代わりに湿った土と若葉の青い匂いがしていた。庭師たちが早くから動いているらしく、遠くで剪定ばさみの触れ合う乾いた音がする。白い石の縁に溜まった水が、朝の光を細く返していた。
アリアは手摺に指先を置いた。
金属は冷たい。けれど、その冷たさが今は心地よかった。胸の中の熱のない決意と、同じ温度だったからだ。
朝食の席へは行かなかった。
体調が優れないので部屋でいただくとだけ伝え、ミナに簡単な食事を運んでもらう。家族と顔を合わせれば、昨夜の続きが始まるだろう。父はたぶん、感情的な言葉を撤回させようとする。母は「落ち着いたらもう一度話しましょう」と柔らかく囲い込むはずだ。セレフィナは泣いた顔で視線を伏せるだろう。
その全部が、もう煩わしかった。
今、自分が向き合うべきは家族ではない。
ユリウスだ。
婚約をどうするか。それを誰かに決められる前に、自分の口で彼へ告げる。そうしなければ、家族にとって都合のよい形に丸め込まれて終わる。セレフィナの気持ちも、ユリウスの揺らぎも、自分の痛みも、全部「仕方のないこと」として処理されてしまう。
それは嫌だった。
嫌だと、ようやく自分で認められるようになった。
アリアは朝食のあと、机に向かった。白い便箋を一枚取り出し、いつもより少し濃い目のインクをペン先へ含ませる。紙の上へ最初の一文字を書いた時、指先は意外なほど震えていなかった。
ベルナール侯爵家嫡男ユリウス・ベルナール様
本日、お時間をいただきたく存じます。
婚約に関わる大切な話がございますので、できれば家人を交えず、二人でお話しできれば幸いです。
アリア・ヴァレンシュタイン
文面はそれだけだった。
飾りも、余分な前置きも入れない。差し出す文としてはやや硬い。けれど今の自分に、それ以上やわらかな言葉を選ぶ余裕はなかった。
封をして執事へ託したあと、アリアはようやく背もたれに身体を預けた。部屋の中は静かで、遠くから聞こえてくるのは使用人たちの足音だけだ。西棟の方からはまだ薬草湯の匂いが微かに漂ってくる。セレフィナの具合がどうとか、母がどう動いているとか、そういうことを考えないようにしても、屋敷の空気がそれを知らせてくる。
ミナがそっと尋ねた。
「お嬢様、本当によろしいのですか」
アリアはすぐには答えなかった。窓の外の白い光を少し眺めてから、ようやく言う。
「よろしいのだと思うわ」
それは自信に満ちた返答ではない。けれど嘘でもなかった。
「今さら泣いて、わからないふりをして、待っているのはもう嫌なの。あの人がどこを向いているのか、もう見えてしまったもの」
ミナは小さく目を伏せる。
「お嬢様が決められたのでしたら」
「ええ」
それ以上、侍女は何も言わなかった。反対もしないし、無責任に背を押しもしない。ただ、そこにいてくれる。その静かな存在が、今はありがたかった。
返事は昼前に届いた。
ユリウスは、今日の午後、ベルナール侯爵家の王都別邸の小サロンで会いたいと書いてきた。本人の筆跡だった。整った文字。やや急ぎ足で書いたらしく、最後の一行だけ少し線が乱れている。
会う気はあるのだ、とアリアは思う。
けれどそれは、話し合う気があるということと同じではない。彼はたぶん、昨夜の家族のやりとりまで把握しているだろう。あるいは一部を聞いている。アリアが「感情的になっている」と思っているかもしれないし、落ち着かせれば元へ戻ると考えているかもしれない。
それでいい、とアリアは思った。
そう思っていてくれた方が、かえって都合がいい。
午後、アリアは淡い灰青のドレスを選んだ。
華やかすぎず、沈みすぎない色。銀糸の細い刺繍が裾にだけ入っていて、動くと光を拾う。髪はいつも通り半分だけ結い上げ、飾りは小さな真珠にとどめる。婚約者へ会いに行く装いとしては控えめかもしれない。だが今日は、着飾って見せる必要も、哀れに見せる必要もなかった。
鏡の前で最後に自分を見る。
白い肌、青灰色の瞳、きつくも優しくもない顔。泣いた痕はない。眠れなかった夜の名残は、薄く化粧を重ねれば隠せる程度だ。
ミナが後ろからそっと言った。
「お綺麗です」
アリアは鏡の中でほんの少しだけ微笑んだ。
「今日は、その言葉が妙に助かるわ」
馬車へ乗り込む時、空は薄い雲に覆われていた。晴れとも曇りともつかない色だ。陽はあるのに熱がない。春先の王都にはそういう日が多い。石畳を踏む車輪の振動が足元から伝わり、窓の外では店先の布が風に揺れている。市場のざわめき、パンを焼く匂い、通りを横切る子どもの笑い声。街はいつも通り生きていた。誰かの婚約が終わりかけていることなど、何一つ知らないまま。
その当たり前が、少しだけ救いだった。
ベルナール侯爵家の王都別邸は、伯爵家の屋敷よりさらに都心に近い場所にある。重厚な門扉、整えられた前庭、浅い石段、そして客人を迎え入れるための広い玄関広間。すべてが洗練されていて、王都育ちの名門らしい整い方をしていた。かつてアリアは、その整い方を好ましいと思っていた。雑なところが少なく、会話も所作も洗練されているこの家に嫁げば、きっと穏やかな日々が来るのだろうと。
今は、その美しさがどこか表面だけのものに見える。
案内された小サロンは、午後の光がやわらかく差し込む、明るい部屋だった。南向きの窓には薄いレースがかかり、壁には花を描いた小さな油絵がいくつか飾られている。テーブルの上には白い薔薇が活けられていた。甘すぎない、清潔な香り。部屋の空気には、磨かれた木と古い香水の残り香がほんの少し混ざっている。
ユリウスはすでにそこにいた。
窓辺に立ち、アリアが入ってくる音で振り向く。今日は黒に近い濃紺の上着を着ている。淡い金髪は光を受けてやわらかく見え、碧い瞳には、例の穏やかな笑みがまだ残っていた。
「来てくれてありがとう、アリア」
その言い方があまりにいつも通りで、アリアはかえって安堵した。変に神妙な顔をされるより、よほどこちらの気持ちが固まる。
「急なお手紙で失礼いたしました」
「構わないよ。昨日から少し心配していたんだ」
心配。
その言葉に、アリアの心はほとんど動かなかった。以前なら、少しは救われたかもしれない。だが今は、それが「自分の起こしたことの余波がどう転ぶか」という種類の心配にしか聞こえない。
ユリウスは椅子を引こうとしたが、アリアは軽く手で制した。
「立ったままで結構です」
その一言で、彼の表情がわずかに止まる。
「そうか」
短くそう答えた声には、わずかな戸惑いが混じっていた。アリアが形式を崩さず、それでいて距離を置いていることに、ようやく何かを感じ取ったのだろう。
二人のあいだに、磨かれた小卓が一つある。窓から入る白い光が、その上の花瓶と銀の縁を鈍く照らしていた。レースが風に揺れるたび、床に落ちる模様もゆっくり形を変える。
アリアは先に口を開いた。
「今日は、確認ではなく、お伝えするために参りました」
ユリウスが少しだけ眉を寄せる。
「お伝えする?」
「ええ」
アリアは自分の声が思った以上に落ち着いていることに気づく。練習したわけでもないのに、言葉はきちんと順番を持って出てきた。
「ユリウス様との婚約を、解消いたします」
その瞬間、レース越しの光まで止まったような気がした。
もちろん実際には止まっていない。風は同じように窓辺を抜けているし、庭では鳥が鳴いている。だが、部屋の中の空気だけが一瞬凍った。
ユリウスはすぐに言葉を返さなかった。
碧い瞳がわずかに見開かれ、口元の笑みが消える。驚く顔を、アリアは初めて見た気がした。これまで彼は、困った時でも、言い訳をする時でも、どこか余裕を残していた。外に見せる顔を崩さない人だった。今、その均整が初めて乱れる。
「……何を言っているんだ」
低い声だった。
「婚約の解消を申し上げております」
「待ってくれ、アリア」
彼は一歩近づいた。
「昨日のことで、感情的になっているのなら」
その言葉で、アリアの中の最後の柔らかいものが、さらに一段冷えた。
やはり、この人はそう考えるのだ。自分の決断を、感情の一時的な昂りだと。
「感情的ではありません」
「ではなぜ、いきなりそんなことを」
「いきなりではありませんわ」
アリアは彼の顔を見た。
「ずっと前から、少しずつ見えていたことです。セレフィナを気にかけるお心も、その理由も」
ユリウスは息を詰めた。
「僕はあれを裏切りとは思っていない」
「そうでしょうね」
あまりに迷いなく返ってきたその肯定に、今度は彼の方が言葉を失う。
「だからこそ、婚約を終えたいのです」
「アリア」
彼の声が、今度は少しだけ低くなる。宥めようとする響きがそこにあった。昔のアリアなら、その声音に揺れただろう。聞き分けのよい婚約者として、せめて最後まで穏やかに終わらせようとしたかもしれない。
けれど今は違う。
「あなたは、困っている方を放っておけないのでしたね」
アリアがそう言うと、ユリウスは目を伏せた。
「それは……」
「ええ。何度も伺いました。少しの間だけ。慰めていただけ。見ていられなかった。どれも、あなたにとっては正しいのでしょう」
白い薔薇の香りが、ふと強く鼻につく。窓の外から入った風が、花弁をかすかに揺らしていた。
「ですが、私には必要ありません」
「必要、ない?」
「婚約者に、妹を少しずつ気にかける優しさを向けられながら、それでも待つような立場は」
その言葉に、ユリウスの表情がはっきり変わる。傷ついたような、だがそれ以上に、想定していた筋書きが崩れた人の顔だった。
「僕は、君を捨てるつもりなどない」
その言い方が、あまりにも彼らしくて、アリアは心の内で小さく息を吐いた。
捨てるつもりはない。
つまり、彼の中ではまだ、二つを同時に持てるつもりなのだ。婚約者としてのアリアも、可哀想なセレフィナへの情も。少なくとも当面は、両方を自分の善意で抱えられると信じている。
「そうでしょうね」
アリアは静かに言う。
「ですが私は、選ばれないまま残される側にはなりたくありません」
ユリウスが息を呑む。
「選ばれないだなんて、誰がそんな」
「あなたです」
その一言は、やけにまっすぐ部屋に響いた。
ユリウスは初めて、はっきりと言葉に詰まった。アリアの方がこんなふうに言い切るとは、思っていなかったのだろう。
「あなたは私を婚約者として手放したくない。けれどセレフィナの気持ちも放っておけない。どちらかを選ぶつもりがないまま、少しの間だけと言って、その場その場をやわらかく繕おうとなさる」
「それは違う」
「何が違うのですか」
「僕は……」
彼はそこまで言って、言葉を失った。
違うと言いたい。だが何がどう違うのかを、自分でも説明できないのだ。アリアにはそれが手に取るように見えた。だからこそ、もう何も期待しなくていいとわかる。
「私は、あなたに責任を取ってほしいのではありません」
アリアは淡々と続けた。
「謝罪も、弁明も、今さら必要ありません。ただ、私の婚約は私の意思で終えます」
「アリア、待ってくれ」
今度は彼の方が、わずかに焦りを含んだ声を出した。
「こんな形で終わらせる必要はないだろう。少し時間を置けば、きっと落ち着いて考えられる」
「時間を置いて、どうなさるのですか」
「それは……」
「セレフィナをもう慰めないと、お約束なさいますか」
ユリウスは答えない。
「私の前でも、彼女の前でも、明確に線を引けますか」
答えない。
「できないのでしたら、同じことです」
アリアはそこで、自分の手袋の中に隠していた小さな箱を取り出した。
深い青の布張りの小箱。婚約の際に交わされた記念の品が入っている。アリアが受け取った、小さなサファイアのブローチだ。ユリウスの家の色と意匠をかたどったそれを、彼女は今日わざわざ身につけずに持ってきていた。
小卓の上へそれを置くと、かすかな音がした。
「こちらをお返しいたします」
ユリウスの視線が箱へ落ちる。顔色が変わる。それは初めて、彼が目に見える形で動揺した瞬間だった。
「本気なのか」
その問いは、今までのどの言葉よりも小さかった。
「本気です」
「アリア」
「婚約解消については、正式な手続きは家を通して進めていただいて構いません。ですが、私の意思としては今ここでお伝えしました」
白い薔薇の香りが、ひどく遠く感じられる。部屋の空気は静かだ。静かなのに、彼の呼吸がわずかに乱れたのがわかる。
ユリウスは一歩、さらに近づいた。
「君は、こんなふうに去る人じゃなかった」
その言葉に、アリアはほんの少しだけ首を傾けた。
「そうでしょうか」
「少なくとも、何も言わずに切り捨てるような」
「切り捨ててはおりません」
アリアは彼を見た。
「きちんとお伝えしています。私の婚約破棄は、私の意思ですと」
その言葉は、思っていた以上に自分を支えた。
私の意思。
ただそれだけのことを、今までどれだけ言えずにきたのだろう。
ユリウスの顔に、困惑と焦りがさらに濃くなる。彼はきっと予想していたのだ。アリアが泣くか、責めるか、あるいは「どうしてですか」と理由を求めてくるか。そのどれかなら、彼はまだやりようがあった。なだめることも、優しい言葉を選ぶことも、自分の善人らしさを保ったまま話を先延ばしにすることもできたはずだ。
だが今のアリアは、理由も結論も、自分の中で先に決めている。
それが彼をいちばん動揺させているのだろう。
「辺境伯家のことか」
不意に、ユリウスがそう言った。
アリアは目を瞬かせる。
「何のことですか」
「今朝、少し耳にした。君に北から縁談が来たと」
やはり、もう伝わっているのだ。
ベルナール家の情報網か、それともヴァレンシュタイン伯爵家の誰かがほのめかしたのか。いずれにせよ、この王都では秘密は長持ちしない。
「それがあるから、こんなに急いでいるのか」
その問いに、アリアは少しだけ息をついた。
やはり、この人はそう考えるのだ。自分が主体的に婚約を終えるのではなく、次の縁談が来たから乗り換えるのだと。
「逆です」
「逆?」
「辺境伯家の打診があったからではありません。あなたが、私との婚約を支えきれないとわかったからです」
その言葉はたしかに彼を傷つけたらしい。表情が目に見えて強張る。
「僕は支えきれないなんて」
「支えていないでしょう」
アリアは静かに言った。
「少なくとも今は」
沈黙が落ちる。
窓の外で、風が少し強まった。レースが膨らみ、また落ちる。光の模様が床の上で揺れる。そういう何でもないものばかりが、やけに鮮明だ。
アリアはもう言うべきことは言ったと感じていた。
これ以上ここにいても、彼はたぶん同じことを繰り返す。少し時間を置こう。そんなつもりではなかった。君を大切に思っている。そういう言葉で、この場を元の曖昧な状態へ戻そうとするだろう。
それを聞き続ける必要はなかった。
「それでは、失礼いたします」
アリアが一礼しようとした時、ユリウスが反射的に手を伸ばした。
「待って」
その手が、アリアの手首に触れかける。
けれど彼女は一歩だけ引いた。大きな動作ではない。だが、その一歩が明確だった。触れさせないという意思がはっきりと見える動きだった。
ユリウスの手が空を切る。
その瞬間、彼の顔に走った色は、これまででいちばん率直な動揺だった。
アリアはそれを見て、ようやく本当に終わったのだと思った。
好きだったわけではない。けれど、穏やかに積み上げていくものだと信じていた婚約だった。家同士が選んだ相手であっても、その中で少しずつ育てていける信頼があると思っていた。今、その最後の糸まで、自分の方から手を離したのだ。
痛くないはずがない。
けれど同時に、ひどく静かな解放感があった。
「ご自愛ください、ユリウス様」
それだけ言って、アリアは踵を返した。
泣かなかった。
振り返りもしなかった。
扉を開けると、外の廊下の空気は少し冷えていた。香りの整った小サロンの空気とは違い、こちらには石と木の匂いがある。その無機質さが、今は心地よい。
背後でユリウスが何か言いかけた気配があった。けれど言葉にはならなかったらしい。扉が静かに閉まる音だけがした。
侯爵家の使用人が玄関まで案内しようとしたが、アリアは丁寧に断り、一人で歩いた。
長い廊下。高窓から射す白い光。壁に掛けられた風景画。磨き込まれた床に映る自分の影。どれも見慣れた上流の美しさだ。かつてはその中を歩く自分の未来を想像したこともあった。だが今、その未来はもう遠い。失われたというより、自分で置いてきたもののように感じる。
玄関を出ると、風が頬を撫でた。
冷たい。けれど痛いほどではない。曇り空の下、庭の若葉が淡く揺れている。馬車の前で待っていた御者が慌てて扉を開け、アリアは裾を押さえて乗り込んだ。
扉が閉まり、車輪が動き出す。
初めてそこで、彼女は大きく息を吐いた。
胸の中にたまっていたものが、ようやく少しだけ外へ出る。指先は冷えている。手袋の内側で、自分の指が細く震えているのがわかった。緊張していたのだ。立っているあいだは気づかなかったが、身体はちゃんと、痛みも怖さも感じていたらしい。
窓の外へ視線を向けると、王都の通りがゆっくり後ろへ流れていく。白い石壁、店先の花、行き交う馬車、子どもを連れた乳母。世界は変わらない。たった今、一つの婚約が終わったことなど知らないまま、春へ向かって動いている。
アリアは膝の上で手を組む。
悲しいのだろうか、と自分へ問うてみる。
悲しくないわけではない。長く続くと思っていた未来を自分で断ち切ったのだ。痛みはある。けれど涙にはならなかった。涙になるには、もう心が離れすぎていたのかもしれない。
それよりも強かったのは、ようやく自分の口で決めたという実感だった。
婚約破棄は、誰かに言い渡される前に、自分で選んだ。
可哀想な妹のためでも、家の体面のためでもない。
私の意思で。
そう思うと、胸の奥に細い灯がともる。暖かな火ではない。白く冷たい、それでも確かな光だ。
馬車の窓へ、外の光がちらりと映る。
アリアはそこに映った自分の顔を見つめた。泣いていない。青灰色の瞳は少し硬いままだが、昨日までのような揺れは薄い。痛みを抱えたまま、それでも前を向く人の顔をしているように、自分には見えた。
そして小サロンに取り残されたユリウスの表情を思い出す。
伸ばした手が空を切った時の、あの初めて見る動揺。
彼はたぶん、まだ信じられていないのだろう。アリアが本当に去ったことを。泣いて戻ってくるのではなく、淡々と、自分の方から終わらせたことを。
それでいい、とアリアは思った。
失う側の痛みを、今さら少しは知ればいい。
自分がずっと、選ばれない側へ押しやられそうだったことを、少しは思い知ればいい。
馬車はヴァレンシュタイン伯爵家の方角へ戻っていく。
まだ帰りたくはなかった。だが、帰らないわけにもいかない。この先、家族へ伝え、正式な手続きを進め、そして辺境伯家からの打診とも向き合わなければならない。やるべきことは山ほどある。
それでも、今日ひとつだけ確かなことがある。
もう、自分は待つ側ではない。
窓の外では、雲の切れ間からわずかに光が差していた。春の浅い日差しはまだ弱い。けれど、弱くても、たしかに前を照らしていた。
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