病弱な妹に婚約者を譲れと言われ続けたので、私は先に辺境伯に嫁ぎます

なつめ

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第10話 雪の城の辺境伯



 王都を発ってから六日目の朝、馬車の窓の外は、もう見慣れた春の色ではなくなっていた。

 出立したばかりのころは、まだ道の脇に若草がのぞいていた。低い石垣の向こうに麦畑が淡く揺れ、村々の屋根には乾いた藁の匂いがした。けれど北へ向かうにつれて、土の色は少しずつ暗くなり、木々の枝ぶりも痩せ、風の質が目に見えて変わっていった。頬へ触れる空気は日ごとに薄く鋭くなり、窓の隙間から忍び込む冷えは、ただ温度が低いだけではない、骨の内側へ細く入り込んでくるような種類のものになっていく。

 今朝の景色には、もう花の色がほとんどなかった。

 地面のあちこちには、溶け残った雪が白くまだらに残っている。雪というより、削り取られずに取り残された冷たさそのものが、道の脇へ寄せられているように見えた。黒ずんだ土と白い残雪、その間にひょろりと立つ針葉樹。空は高く晴れているのに色が淡く、春の光というより、凍った水を透かしたような明るさだ。

 アリアは膝の上で毛布の端を押さえながら、じっと窓の外を見ていた。

 馬車の中は暖かく保たれている。辺境伯家から迎えに来た馬車は、王都から出る時に使ったものよりずっと大きく、揺れも少なかった。座席は深く、外気を遮るための厚い布が内側へ二重に垂れ、足元には常に湯たんぽが置かれている。毛布も重く、移動の途中で差し入れられる湯入りの小瓶はすぐに手を温めてくれた。道中の宿も、王都側の宿場とは違って、飾り気は少ないが実用に徹していて、寒さへ備えるための工夫が行き届いていた。

 だからこそ逆に、アリアはまだ、この北の厳しさの本当の姿を知らないのだろうとも思う。

 守られた馬車の中から見ている景色は、あくまで硝子越しのものだ。扉を開け、風の中へ立てば、きっと骨まで違う冷えがくるのだろう。

 向かいに座るミナが、そっと湯気の立つ小さなカップを差し出してきた。

「お嬢様、お口を温めておかれますか」

「ありがとう」

 中身は薄く蜂蜜を落とした薬草湯だった。鼻へ近づけると、乾いた葉と柑橘の皮の香りがやわらかく立つ。一口含むと、舌の上へほんの少しの甘さと、あとからほろ苦い清涼感が残った。王都の紅茶とは違う。洒落気はないが、寒さの中で身体を温めるための味がする。

 アリアはカップを両手で包んだまま、また窓へ視線を戻した。

 六日。

 たった六日なのに、自分がずいぶん遠くまで来たように感じる。

 王都を出た日、城門をくぐって振り返った時の白い空。見送る家族の動かない姿。車輪の音に紛れて遠ざかっていった、あの街のざわめき。今でも鮮明に思い出せる。思い出せるのに、もう別の季節の出来事のようにも感じる。

 途中、何度かユリウスのことを考えた。

 何か言ってくるだろうかと、ほんの一瞬だけ思わなかったわけではない。婚約解消をその場で告げ、形式上の手続きは家を通して整えた。だから、今さら何かが届くことはないだろうと頭ではわかっていた。それでも、人はたまに、すでに終わったものから遅れてくる何かを待ってしまう。

 だが結局、何も来なかった。

 その事実が、今ではかえってよかったと思える。未練や言い訳や、遅すぎる取り繕いの言葉が届いていたら、きっともっと嫌なものを胸へ残しただろうから。

 セレフィナのことも考えた。

 泣いていた顔より、最後に広間で「お気をつけて」とだけ言った時の顔が忘れられない。引き留めるでもなく、奪った自覚をはっきり見せるでもなく、ただ、自分が責められたくない人間の顔をしていた。あの時、アリアの中で最後に切れたのは、妹への情そのものではなく、「この子はいつかきっとわかってくれるかもしれない」という曖昧な期待だったのだと思う。

 父と母については、もうあまり考えなくなった。

 その代わり、北の城と、これから会う男のことを考える時間が増えた。

 レオンハルト・グランフェルド。

 王都で聞いた噂はどれも似たり寄ったりだった。若くして家督を継いだ。冷酷だ。人を寄せつけない。敵にも味方にも容赦がない。顔に傷がある。笑わない。戦場帰りの匂いがする。縁談がまとまらない。冷たい土地で冷たい人間に囲まれている。そんな言葉ばかりだった。

 だが、その噂のどれも、本人を知る材料にはならない。

 王都の人間は、遠い土地にいる人間を簡単に物語にする。辺境伯という肩書きも、北という場所も、それだけで勝手に輪郭を濃くしてしまうのだ。

 それでもアリアは、まったく平静ではいられなかった。

 知らない場所へ行くことも怖い。知らない相手のもとへ嫁ぐことも、もちろん怖い。しかもそれは、恋や夢から始まる婚姻ではなく、自分で選んだとはいえ、逃げるように掴んだ縁でもある。

 歓迎されるのか。

 冷たく値踏みされるのか。

 辺境伯本人は、自分のような事情持ちの女をどう見るのか。

 考え始めると、胸の奥に細い緊張が生まれる。

 馬車が大きく一度揺れ、ミナが窓の外をのぞいた。

「もうすぐだそうです」

 その一言で、アリアは無意識に背筋を伸ばした。

 窓の外の景色が、少しずつ変わり始める。なだらかな起伏のある地面の向こうに、岩肌の混じる高台が見えてきた。山というほど険しくはないが、王都の周辺にはない硬い地形だ。その上に、灰白色の城壁が立っているのが見えた。

 城だった。

 遠目にも大きい。だが王都の宮殿のような華美さはない。高く、厚く、必要なものだけで造られた印象の城だ。塔は細く飾られているのではなく、見張りと防衛のためにまっすぐ空へ突き出ている。壁の石は北の空の色を吸ったように淡い灰色で、ところどころに積もった雪が日差しを受けて白く光っていた。

 城の周囲には、城下の建物が寄り添うように集まっている。屋根は急勾配で、雪を落とすためなのだろう。煙突からは白い煙が上がり、外へ干された布は見当たらない。王都の城下のような賑やかな色は少なく、毛皮や厚布に身を包んだ人々が、皆足早に行き交っていた。

 馬車が坂道へ差しかかると、車輪の音が少し変わる。硬い土と石の混じった路面を踏み、蹄の音が乾いて高く響いた。窓の外から流れ込む空気はさらに冷たく、鼻の奥がきゅっと締まる。

 アリアは毛布を膝から外し、外套の前を押さえた。

「お嬢様」

 ミナが小さく声をかける。

「寒うございますから、どうか外へ出られるまでは首元をしっかりと」

「ええ」

 答えながら、アリアは自分の手がほんの少しだけ冷えているのに気づく。寒さのせいだけではない。緊張もあるのだろう。けれど不思議と、足がすくむような怖さではなかった。どちらかといえば、舞台の幕が上がる直前に似た緊張だ。もう後戻りはできない。その代わり、ようやく何かが始まるのだという感覚。

 城門が開く。

 重い木と鉄の扉が動く低い音が、馬車の中にまで響いた。門兵たちの声。護衛の応答。蹄の音。短いやり取りののち、馬車はそのまま城内へ入る。

 中庭は思ったより広かった。

 雪は端へ寄せられているが、石畳の隙間や日陰にはまだ薄く残っている。訓練場らしい広い区画では、数人の兵が木剣を打ち合わせていた。離れた場所では荷車が止まり、薪や樽が下ろされている。城なのに奇妙に生活の匂いが濃い。人がちゃんと働き、物がちゃんと動き、寒さに対抗するための手が休まず動いている場所なのだとわかる。

 華やかさではなく、機能のある城。

 その印象は、アリアにほんの少しだけ安心を与えた。

 馬車が玄関前に止まる。

 扉の向こうで足音が集まり、誰かが短く指示を飛ばす声がした。男の声だ。低く、よく通るが、怒鳴ってはいない。必要なことだけを告げる声だった。

 アリアの心臓がひとつ強く打つ。

 扉が開いた途端、北の空気が一気に流れ込んできた。

 冷たい、というより、薄い刃の束みたいだった。頬も喉も一度に撫でられ、息を吸うと胸の奥までひんやりする。王都の春の冷えとはまるで違う。水気のない、乾いた冷たさだ。思わず肩に力が入る。

 外へ降りると、靴の裏へ石畳の硬さが直に伝わる。吐いた息が白くなった。朝から日差しはあったはずなのに、体感は王都の真冬の朝に近い。

 アリアは外套の襟を押さえ、顔を上げた。

 そこに立っていた男を見た瞬間、まず思ったのは、噂の印象よりずっと静かな人だ、ということだった。

 長身だった。広い肩と引き締まった体つきは、遠目にもよくわかる。濃紺の軍服風の上着に黒い毛皮の外套を重ねていて、その装いだけで冷たい土地の人間だとわかる。髪は噂通り黒に近い。だが単なる黒ではなく、光の加減で青みが差す、深い色だった。短く整えられているが、前髪だけが少し額へ落ちている。その下にある目は鋼色。氷のように冷たいというより、よく研がれた刃物が光を受けている時のような色だ。

 そして左の眉からこめかみにかけて、たしかに薄い傷があった。

 だがその傷は、王都の噂話が好みそうな“恐ろしさ”を彼に与えてはいなかった。むしろ、長く風雪の中に立ってきた人間の輪郭として、その顔に馴染んでいるように見える。

 男は数歩前へ出てきた。

 アリアが名乗るより先に、深くも浅くもないちょうどよい一礼をする。その動きは無駄がなく、けれど荒くもなかった。

「アリア・ヴァレンシュタイン嬢」

 声は低かった。

 響きは落ち着いていて、必要以上に感情を乗せない。けれど投げやりでもない。

「長旅、ご苦労だった。グランフェルド辺境伯、レオンハルトだ」

 その簡潔な名乗りに、アリアはわずかに目を瞬く。

 もっと仰々しい挨拶か、逆に辺境らしい無骨な言い方を想像していたのだ。だが実際には、礼を欠かず、それでいて装飾もない。貴族としての格式と、土地の実務的な空気がちょうどよく混ざった声だった。

 アリアは一歩進み、頭を下げた。

「お迎えありがとうございます。アリア・ヴァレンシュタインでございます」

 顔を上げると、レオンハルトの視線が正面からまっすぐこちらへ向けられていた。

 値踏みするようなねっとりした視線ではない。女として眺める視線でも、事情を知って哀れむ視線でもない。到着した客人を確認する、ひどく正しい視線だ。それが意外で、アリアは一瞬だけ呼吸を忘れそうになる。

「途中、道に問題はなかったか」

「はい。すべて行き届いており、不自由なく参りました」

「それならいい」

 短い言葉。だがそれだけで会話を切らず、レオンハルトはすぐにミナの方へも目を向ける。

「同行の侍女か」

 アリアが答えるより先に、ミナが緊張した面持ちで一礼した。

「ミナと申します。アリア様に仕えております」

「よく来てくれた。君にも部屋を用意してある」

 その言い方にも、余計な恩着せがましさはない。ただ当たり前のことを確認する声音だった。ミナが目を少し見開き、それから深く頭を下げる。

「ありがとうございます」

 周囲には数人の使用人と、護衛の兵たちが控えている。王都の使用人たちより、皆どこか身なりが実務的だ。女性たちのスカート丈は少し短めで、動きやすそうな靴を履いている。男性の外套は厚く、袖口も擦り切れるより前に何度も繕われた跡がある。けれど、アリアを珍しそうに見ても、ひそひそと囁く者はいなかった。迎えるべき人を迎えるという、静かな集中がある。

 レオンハルトが一歩だけ身を引く。

「立ち話をさせるつもりはない。中へ」

 それだけ言って、彼は必要以上に先導しすぎない距離で歩き出した。客を置き去りにするでもなく、肩を並べて親しげに案内するでもなく、ちょうどよく半歩前を行く。雪の残る石畳を踏む足取りは重くない。外套の裾がわずかに揺れ、靴音だけが規則正しく響く。

 アリアはその背を見ながら、中へと続く石段を上った。

 玄関ホールへ入ると、外の冷気が嘘みたいに和らいだ。暖炉がいくつも焚かれているらしく、空気には乾いた木の匂いと、煮込み料理の残り香のような温かな匂いが混じっている。石造りの城なのに、冷え切った感じが少ない。人がきちんと暮らしている場所の熱だ。

 内装は外観と同じく実用的だった。高い天井、広い廊下、壁には狩りの槍や地図が掛けられ、王都の屋敷のように豪奢な装飾は少ない。だが磨くべきところは磨かれ、置くべきものはきちんと置かれている。飾りではなく秩序で整えられた空間。

 アリアがそうした光景を見ている間も、レオンハルトは余計な説明をしなかった。

 ここが何で、あれが何で、と逐一話しかけてくることはない。けれど放り出すわけでもなく、歩く速度をこちらに合わせ、角を曲がる時だけ短く告げる。

「段差がある」

「ここは少し滑る」

「暖炉が近いから、外套は苦しければ外して構わない」

 それらはすべて、配慮だった。

 だがその配慮は、王都の男たちがよく見せる“優しさの演出”とは違っていた。気遣いながらも、そこに自分の評価を求める響きがない。ただ相手が不自由しないようにと考えた結果が、そのまま言葉になっているだけだ。

 アリアはそれを、歩きながら少しずつ理解していった。

 応接間へ通されると、大きな暖炉の火が部屋を満たしていた。厚手の敷物が床へ敷かれ、窓辺には雪除けを兼ねた重いカーテンがかかっている。テーブルの上には湯気の立つポットが置かれ、すでに茶の用意が整っていた。王都の香り高い紅茶とは少し違う、乾いた香草と果実の香りが漂っている。

「まず温まってくれ」

 レオンハルトが言う。

「話はそれからでいい」

 その言葉に、アリアはまた少しだけ意外を覚えた。

 当然のように、到着早々こちらの事情や、婚約に至る経緯や、王都でのもつれについて問われると思っていたのだ。もしくは、形式的な歓迎の言葉の裏で、事情を承知しているからこその探るような視線がくるかと。

 だが彼は、そうしない。

 迎えた客が長旅のあと冷えている。それが今最初に処理すべきことだと決めている。その順序が明確で、余計な詮索がない。

 アリアが椅子に腰を下ろすと、すぐに年配の女性が静かに茶を注いだ。湯気とともに広がったのは、松葉に似た清涼な匂いと、甘く煮た林檎の気配だった。カップを持つと、手のひらへじわりと熱が移る。

「ありがとうございます」

 礼を言うと、その女性はにこりともせず、けれど温かな目で一礼して下がった。ここでは、むやみに愛想を振りまくより、必要な働きをきちんと果たすことの方が尊ばれるのかもしれない。

 ミナも隣でようやく肩の力を抜いたのがわかった。

 レオンハルトは向かいの椅子へ腰を下ろしたが、背を預けすぎず、膝の上に片手を置いている。その姿勢まで、どこか無駄がない。

 しばし、静かな時間が流れた。

 沈黙が気まずくはなかった。暖炉の火の音、茶器の触れ合う小さな音、外の風が窓をかすかに鳴らす音。それらが部屋を満たしていて、会話を急がなくてもよい空気がある。

 アリアは茶をひと口飲んだ。

 思っていたより熱く、喉を通る時に胸の奥まで温かくなった。味は淡い。けれど後口に、乾いた果実のやさしい甘みが残る。北の冷えの中で飲むための味だと思った。

「少しは落ち着いたか」

 レオンハルトがそう尋ねた。

 声は変わらず低く、押しつけがましさがない。

「はい。ありがとうございます」

「王都とこちらでは寒さが違う。城内でも、無理はしない方がいい」

「承知しております」

「君がここへ来るまでの事情については、最低限しか知らない」

 その言葉に、アリアはカップを持つ指先を少しだけ止めた。

「だが、今それを詳しく聞くつもりもない。話したくなれば話せばいいし、話したくなければ無理に話す必要もない」

 アリアは顔を上げる。

 レオンハルトの鋼色の目は、相変わらず正面からこちらを見ていた。だがそこにあるのは、興味本位でも、同情でも、所有欲でもない。線を引いた上で相手を尊重する人間の目だった。

 必要以上に踏み込まない。

 それがどれほどありがたいことか、この数日で嫌というほど思い知ってきた。王都では誰もが「可哀想な妹」か「都合のよい長女」か、どちらかの型へアリアを押し込めて話をした。ユリウスでさえ、自分の善意の中へ彼女の痛みを吸い込もうとした。

 それに比べて、目の前の男は、何も知ろうと急がない。

 知らぬまま敬意を払うことができる。

 アリアはその事実に、喉の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。泣きそうになったわけではない。ただ、緊張で固くしていたものが、ほんのわずかにほどけたのだ。

「……そう言っていただけると、助かります」

 素直にそう答えると、レオンハルトは小さく頷いた。

「長旅のあとだ。今日はまず、部屋で休んでほしい。夕刻にでも、城内の者へ簡単な紹介だけしておく。正式な話は明日で十分だ」

「はい」

「食事の好みや、寒さへの慣れなど、必要なことは侍女を通して伝えればいい。遠慮はいらない」

 遠慮はいらない。

 その言葉もまた、王都でよく聞く“甘やかしの言葉”とは違っていた。言ったからには本当に伝達系統があり、必要なら動くのだろうと思わせる声音だった。

 アリアはカップをソーサーへ戻し、まっすぐレオンハルトを見た。

「辺境伯様」

「レオンハルトで構わない」

 そう言ったあと、彼はほんの一拍置き、言葉を足した。

「まだそう呼ぶのが難しければ、無理をしなくていい」

 その返しに、アリアは少しだけ目を瞬いた。

 押しつけない。けれど相手へ選択肢は示す。その距離感が、やはり王都の男たちとは違う。

「では……レオンハルト様」

「何だ」

「お迎えいただき、ありがとうございます」

 アリアはその言葉を、ただ礼儀としてだけではなく、もう少し別の意味を込めて口にしたつもりだった。

 知らない土地へ来て、知らない城へ入り、知らない男と向かい合っている。怖さが消えたわけではない。けれど少なくとも、この最初の瞬間に、自分は粗雑には扱われなかった。そのことへ対する、正直な礼だった。

 レオンハルトはほんのわずかだけ目を和らげた。

 笑った、と呼ぶにはあまりに小さな変化だったが、鋼色の目の緊張が一瞬だけほどけるのがわかった。

「無事に着いてくれてよかった」

 それだけだった。

 だがその短い一言は、妙に胸へ残った。

 王都では、自分が無事であることより、役に立つかどうかの方が先に問われることが多かった。ここへ来て最初に向けられた言葉が「長旅、ご苦労だった」であり、次が「温まってくれ」であり、今こうして「無事に着いてくれてよかった」なのだと思うと、アリアは自分でも思わぬ場所がじわりと痛むのを感じた。

 優しくされたからではない。

 必要以上に優しくされなかったからだ。

 過不足なく迎えられることが、こんなにも人を楽にするとは思わなかった。

 しばらくして、先ほどの年配の女性が再び現れ、部屋の用意が整ったことを告げた。レオンハルトは立ち上がり、アリアたちもそれに倣う。

「案内はハンナに任せる」

 そう言って彼はその女性を示した。

「何かあれば遠慮なく伝えてくれ」

「はい」

 レオンハルトはそれ以上引き留めず、必要以上に部屋まで付き添うこともしなかった。一礼し、こちらが動きやすいだけの距離を残して下がる。その背を見送りながら、アリアは自分の中にあった固い警戒が、ほんの少しだけ別のものへ変わるのを感じていた。

 安心、と言うにはまだ早い。

 信頼などなおさらだ。

 けれど少なくとも、噂話だけで作り上げた「冷たい辺境の男」の像は、今この瞬間、静かに崩れ始めている。

 ハンナと名乗った女性に導かれて部屋へ向かう廊下は、応接間より少し薄暗かった。だが角ごとに暖炉があり、どこも寒すぎることはない。窓は小さく、壁は厚く、外の風を真正面から受けない造りになっているのがわかる。すれ違う使用人たちは皆足を止め、簡潔に礼をする。過剰に好奇の目を向ける者はいない。よそ者を迎えているというより、城に入るべき人が入ってきたから、その分の秩序を整えているという空気だった。

 案内された部屋は、王都の自室ほど広くはない。けれど明るく、暖炉が入り、窓辺には厚いカーテンと低い長椅子が置かれていた。寝台は高く、毛布は何枚も重ねられている。壁際には小ぶりな机と本棚、そして身支度用の鏡。飾りは少ないが、使う人間が寒さに困らないよう必要なものがきちんと揃えられている。

「こちらがアリア様のお部屋になります」

 ハンナが言った。

「湯はすぐに用意いたします。お食事はお部屋にお運びしても、下の食堂へご案内しても、どちらでも構いません」

「ありがとうございます」

「何か足りないものがあれば、遠慮なくお申しつけください」

 その声音にも、余計な詮索はなかった。王都の侍女たちのように、新しい女主人の機嫌を探るような色もない。ただ必要な務めを丁寧に果たす声だ。

 ハンナが下がり、扉が閉まる。

 ようやく二人きりになって、ミナがふう、と小さく息を吐いた。

「思っていたより……」

「ええ」

 アリアも自然と頷いていた。

「思っていたより、ずっと静かね」

 それがいちばん近い感想だった。

 荘厳でも、恐ろしくも、華やかでもない。静かな城。静かな人々。そして静かな辺境伯。

 ミナが外套を脱がせてくれる。厚い布が肩から離れると、旅の疲れがどっと出た。暖炉の火が頬へ温かい。窓の外では、白く残る雪の上を風がさらさらと撫でていた。

 アリアは長椅子へ腰を下ろし、そっと手袋を外した。指先はまだ少し冷たい。けれど胸の中には、王都を出る時から張りつめていた糸の一部が、ようやく緩んだような感じがある。

 まだ、何も始まってはいない。

 この先どんな暮らしが待っているのかも、レオンハルトがどんな人なのかも、本当のところはまだ何もわからない。

 それでも。

 少なくとも最初の一歩は、思っていたより穏やかだった。

 アリアは暖炉の火を見つめながら、胸の奥へ小さく言い聞かせる。

 焦らなくていい。

 ここでは、必要以上に誰かへ合わせて形を作ることを、今すぐ求められてはいない。

 その事実だけで、知らない土地の冷たい空気の中に、かすかな居場所の輪郭が見えた気がした。


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