13 / 20
第12話 辺境伯夫人の最初の仕事
熱が下がった翌朝、アリアは目を覚ました瞬間に、身体の軽さにまず驚いた。
もちろん、完全に元通りというわけではない。関節の奥にはまだ少しだけ鈍い重さが残っているし、長く眠ったあとのようなだるさもある。けれど昨夜までの、身体の芯へ冷えた鉛を流し込まれたような感覚は、きれいに消えていた。額へ手を当てても熱っぽさはなく、喉の奥も乾いていない。寝台の中にこもった自分の呼吸の温度が、ようやくきちんと自分のものへ戻ってきた気がした。
窓の外は、朝の薄い光で白く霞んでいた。
カーテンの隙間から見える空は高く、雲は少ない。だが王都の晴れた朝のようにやわらかい色ではなく、透き通った水へ灰をひと匙落としたような、ひどく冷たい明るさだ。窓辺の石の縁には、夜のあいだについたのか、細かな霜が残っている。城の中は暖炉で十分温かいはずなのに、視界の中にあるその白さだけで、ここが王都とはまったく違う場所なのだと思い知らされる。
アリアは毛布の端を少し押しのけ、ゆっくりと上半身を起こした。
寝台の周囲には昨夜の名残が残っている。枕元に置かれた薬湯の器。額へ乗せていた冷たい布を替えるための小鉢。椅子の背に丁寧に掛けられた厚手の上着。そして寝台の横では、ミナが浅い眠りから目を覚ましたところだった。どうやら夜のあいだ、椅子で付き添っていたらしい。肩へ掛けていた毛布が膝から落ちかけていて、頬には椅子の縁に押された薄い跡がある。
「お嬢様」
目が合うと、ミナはすぐに立ち上がった。その動きにはまだ眠気が残っているのに、声音はきちんとしている。
「ご気分はいかがでございますか」
「だいぶ楽よ」
そう答えてみると、本当に声も昨日より軽い。
ミナの顔が目に見えてゆるんだ。
「ようございました。夜半を過ぎたあたりから熱が下がりましたので、このまま朝には落ち着かれるかと」
「あなたも休めばよかったのに」
「休みました」
「その顔で?」
アリアが少しだけ笑うと、ミナは困ったように口元を押さえた。
「では、少しだけ正直に申し上げますと、心配であまり深くは眠れませんでした」
「ごめんなさい」
「謝らないでくださいまし。お嬢様がお元気なら、それで十分です」
その言葉に、胸の内がほんの少し温かくなる。
王都の屋敷でもミナはいつもこうだった。騒がず、恩を着せず、けれど必要なところでちゃんと寄り添ってくれる。その変わらなさが、知らない城の中で今は何よりありがたかった。
ほどなくしてハンナが部屋へ来た。
今日のハンナも相変わらず無駄がない。深い緑の実務服の上に厚手のエプロンを重ね、髪をきっちり結い上げている。目元にだけ少しだけ温かさがあるが、声や仕草は簡潔だ。
「お加減はいかがですか」
「もうほとんど大丈夫です」
「そうですか。それは何より」
言いながら、彼女はアリアの顔色を一度確かめ、暖炉の火加減を見、窓辺の結露まで手早く拭っていく。その動作に迷いがなく、部屋の中の空気まで整っていくようだった。
「辺境伯様より、今日は終日、どうぞご無理のないようにとのことです」
アリアはその言葉を聞いて、反射的に「でも」と言いかけた。
昨日、強い口調で休めと言われたことは覚えている。だが一晩眠って熱も下がった今、ただ部屋で過ごしているのは落ち着かなかった。そもそもアリアには「何もしない」という過ごし方が苦手だ。王都の屋敷でも、体調が悪い時でさえ、できる範囲の書類整理や刺繍や本の整理をして気を紛らわせていた。動けるなら何かしなければならないという感覚が、もう身体に染みついている。
「今日は大事を取って……」
そう言いかけたアリアへ、ハンナは少しだけ首を傾けた。
「寝台へ縛りつけておけ、という意味ではございませんよ」
その言い方があまりにきっぱりしていて、アリアは一瞬きょとんとする。
「熱が下がったのなら、部屋の中で本を読まれても、窓辺へ座られても、少し廊下を歩かれても構いません。ただし、外気に長く当たること、冷えた石床に立ち続けること、人の多い場所で長く気を張ることは避けていただきたいとのことです」
そこまで具体的に言われると、逆に反論の余地がなかった。
アリアはわずかに目を瞬かせる。
「そこまで細かく、お伝えくださったのですか」
「はい」
ハンナは当たり前のように答える。
「旦那様は、言い足りぬ時はたいてい言葉が多くなりますので」
その説明がおかしくて、アリアは小さく笑ってしまった。笑うとまだ喉の奥が少し重い。けれど、昨夜のようなつらさではない。
ハンナが持ってきた朝の食事は、王都の伯爵家のものよりずっと質実だった。麦の粥に、塩気を抑えた白身魚と、煮た林檎。それに温かな乳と、昨日飲んだ薬草湯に近い香りの茶。病み上がりに合わせたのだろう。だが素朴なそれらが、思いのほか身体に心地よかった。匙を口へ運ぶたび、昨日まで凍えていた内側がゆっくりとほどけていく感じがする。
食後、ハンナが何気なくこう言った。
「もし退屈なさるようでしたら、帳場か備蓄庫をご覧になりますか」
アリアは匙を置く手を止めた。
「帳場と、備蓄庫ですか」
「ええ。旦那様より、お嬢様は数字や実務にお強いと伺っておりますので」
その一言に、アリアは小さく息を呑んだ。
強い、と。実務に、と。そんな言葉が、誰かの配慮としてここで使われるのはまだ不思議だった。王都では、アリアが帳簿を整えたり、備品の無駄を見つけたり、使用人たちの動線を少し変えるだけで仕事が滑らかになることは、家族にとって「できて当たり前」の領域だった。褒められることではなく、裏でやって当然のこと。そして、いざ表に出る時には、そうした実務の手柄はだいたい母の采配か父の経営判断として語られる。
だから今、「強い」と前提に置かれるだけで、胸の内が妙に落ち着かなかった。
「ご迷惑では」
「迷惑なら最初から申し上げません」
ハンナの返答はあっさりしていた。
「備蓄庫も帳場も、この時期は忙しゅうございますから、手を入れてくださる方があれば助かるでしょう。もっとも、お嬢様がまだお疲れなら無理にとは申しません」
アリアは少し考えた。
もちろん、病み上がりで無理をする気はない。昨日の自分を思えば、ここでまた無茶をするのは愚かだ。それでも、ただ寝台の上で過ごしているより、少し身体を起こし、数字や現場へ触れた方が、かえって息がしやすいような気がした。何より、「役に立てるかもしれない」と思った瞬間、胸の奥にほんの小さく光が差したのだ。
「少しだけ、見せていただいてもいいですか」
そう言うと、ハンナは一つ頷いた。
「では、暖かな上着をお召しください。帳場は暖炉がございますが、備蓄庫は石壁の中ですので少々冷えます」
結局、アリアは午前の遅い時間に、帳場へ案内された。
帳場は食糧庫や物資管理の記録をまとめる部屋で、城の中でもやや奥まった場所にあった。廊下を進むにつれて、生活の音が少しずつ濃くなる。どこかで樽を動かす重たい音。遠くで誰かが戸を閉める音。火かき棒が炉床を引っかく乾いた音。王都の伯爵家のように、人の気配が布でくるまれている感じではない。暮らしと労働が、壁の向こうからむき出しで伝わってくる。
帳場の扉を開けると、最初にインクと乾いた紙の匂いがした。
広さは王都の父の執務室の半分ほど。長机が二つ並び、棚には厚手の台帳と木札が整然と収められている。窓は小さいが暖炉がひとつ焚かれ、部屋の中は思ったより暖かい。年配の男が一人、若い女が一人、机に向かっていたが、ハンナがアリアを連れて入ると、すぐに立ち上がった。
「こちらが帳場を預かるマルクです」
ハンナが紹介する。
年配の男は背筋を伸ばし、深く礼をした。がっしりした肩と節くれだった手は、机仕事だけの人間ではないとわかる。若い女の方も、少し緊張した面持ちで頭を下げた。
「お見苦しいところを」
マルクはそう言ったが、部屋はむしろ整理されていた。少なくともぱっと見には。だが、アリアの目はすぐに細部を拾う。棚の端に積まれたままの記録札。机の隅へ置かれた、まだ整理されていない袋入りの乾燥豆。長机の上に開かれた台帳の欄外に、何度も書き直した痕跡。
「見苦しくはありません」
アリアはゆっくり部屋を見回しながら答えた。
「ただ、少しお忙しそうですね」
マルクが、わずかに苦く笑った。
「春先はどうしても。雪が残るうちは補給が読みにくく、冬越え分の確認と、春の補充の計算が重なるものですから」
その言葉に、アリアはすぐ台帳の方へ近づいた。
紙は王都のものより少し厚く、ざらついている。インクも色がやや薄い。だが数字の並びは十分読み取れた。備蓄している穀類、干し肉、塩、乾燥豆、根菜、酒、薬草、薪。項目は細かく、北での暮らしがどれだけ備蓄に支えられているかがひと目でわかる。
そして、数頁めくったところで、アリアはすぐに違和感に気づいた。
帳尻が合っていないのだ。
大きく狂っているわけではない。数字の差は小さい。けれど、小さいからこそ厄介だった。四日前の塩漬け肉の出庫数と、その翌日の残数。干し豆の袋数と、別冊にある台所引渡し札。薬草束の記録は入庫と使用数が二種類の単位で書かれているせいで、毎回の差引にぶれが出ている。帳簿の形式が揃っていないのだ。
アリアは指先で欄をなぞった。
「こちら、どなたが記入なさっていますか」
マルクが少し身を硬くする。
「主は私ですが、倉庫側でも出入りのたびに仮記録をつけております」
「それが後でここへ移されるのですね」
「はい」
「では、記録の単位は統一されていますか」
その問いに、マルクと若い女が一瞬顔を見合わせた。
「……いえ」
答えたのは若い女の方だった。たぶん補助をしているのだろう。彼女は少し頬をこわばらせながら続ける。
「穀袋や豆袋は袋単位で数えますが、厨房からの依頼は重さで来ることが多くて。薬草も束の大きさが揃わない日がありますし、塩は桶と量りの両方で記録が……」
言っている途中で、自分でも整理しきれていないのがわかったのか、語尾が弱くなる。
アリアは頷いた。
「そうすると、後で差引の時に余白へ書き足すしかなくなりますね」
「……その通りでございます」
マルクが低く答える。
ハンナはそのやりとりを黙って聞いていたが、アリアの横顔をじっと見ている気配があった。
アリアはもう一頁めくる。今度は薪の記録。こちらは数量が山単位と束単位で混じっていて、やはり整っていない。さらに先の頁では、冬の終わりに緊急で出した分が別紙へ仮書きされ、そのまま本帳へ反映されていない箇所もある。
忙しさのせいだとすぐにわかった。
怠慢ではない。むしろ、忙しい現場でとにかく回すことを優先した結果だ。人手も足りず、冬を越すための出し入れが頻繁で、誰か一人が美しく整理する余裕がなかったのだろう。
アリアはそこで初めて、胸の内にいつもの感覚が戻ってくるのを感じた。
数字の並びの中から、どこが滞っているか、どこを揃えれば全体が動きやすくなるかが見えてくる感覚だ。王都の伯爵家で何度も覚えたあの感覚が、ここでも同じように働く。土地が違っても、帳簿の呼吸は同じなのだと思うと、不思議と息がしやすくなった。
「よろしければ、少しお手伝いしてもよろしいですか」
アリアがそう言うと、マルクは明らかに面食らった顔をした。
「お嬢様が、ですか」
「ええ。もっとも、無理のない範囲でですが」
マルクの目に、ためらいが浮かぶ。
当たり前だろう。つい昨日着いたばかりの、王都育ちの伯爵令嬢だ。帳場の乱れを一瞥しただけで何か言い出したところで、現場からすれば「口だけの奥方」としか思えないはずだ。
アリアはその空気を感じ取りながらも、引かなかった。
「形式そのものを変える必要はないと思います。ただ、仮記録の札と本帳の単位だけでも揃えれば、差引の二重手間が減るはずです。あと、備蓄庫側からこちらへ札が来る順番を、物資ごとではなく日付ごとにした方が、あとで出入りを追いやすいかと」
言いながら、自分でも頭の中へ筋道が立っていくのがわかる。
「こちら、干し豆は袋単位、厨房引渡しは重さ単位になっていますよね。であれば最初に袋ごとの平均重量を大まかに定めてしまい、途中で袋が減った時だけ備考欄へ実測を足す形にすれば、普段は袋単位で通せます」
若い女の目が少し大きくなる。
「それなら、毎回量り直さなくても」
「ええ。もちろん正確さはやや落ちますが、今のように欄外へ足し書きが増えるよりは、本帳としては見やすくなると思います」
アリアは薪の頁へ指を移した。
「こちらは束と山が混じっていますが、備蓄庫から居住区へ出る時点で一度だけ束換算札を挟めば、帳簿上は束で統一できます。運び手の手間は増えますが、後の確認は格段に楽になるはずです」
マルクがじっと台帳を見つめる。
その視線は、最初の警戒とは少し違っていた。実際に手が届く提案かどうかを、頭の中で測り始めている目だ。
「……できますかな」
ぽつりと彼が言う。
「その運び手の手間というのが、今の時期は」
「札の形を変えれば」
アリアはすぐ棚の端にある木札へ目を向けた。
「今の札は項目名しかありませんね。ここへ日付と単位欄を増やして、同じ色の紐で束ねるようにすれば、後で帳場へ運ぶ側も迷いにくいと思います。色分けを厳密にする必要はありませんが、例えば食糧は麻色、薪は灰色、薬草は緑、という具合にすれば、一目で札の種類がわかります」
若い女が思わず身を乗り出した。
「それなら、朝に山になってもほどく時に楽です」
「ええ」
アリアは小さく頷く。
「あと、備蓄庫側と帳場側で同じ項目名を使っておられますか」
「たぶん……ところどころ違うかと」
それはマルクではなくハンナが答えた。彼女もこの問題を知っていたのだろう。
「厨房では『白豆』、帳場では『乾豆』と書かれることもあります。塩漬け肉も、場所によって『塩肉』だったり『冬肉』だったり」
アリアはそこで、思わず少しだけ笑った。
「それでは探すだけで時間がかかりますね」
ハンナが珍しく、口元を少しだけ緩める。
「まことに、その通りでございます」
その一瞬の笑みに、帳場の空気が少しやわらいだ。
アリアは長机の横へ立ったまま、もう少し台帳をめくる。頭の中では、整えるべき箇所が自然に並んでいく。全部を一度に変える必要はない。まずは単位と項目名の統一。次に札の運用。最後に、帳簿へ転記する順序。
「もしよろしければ」
アリアはマルクを見る。
「今日の午後だけでも、私に一覧を書かせてくださいませんか。項目名と単位の仮の統一表です。実際に使えるかどうかは皆さんで見て決めていただければ」
沈黙が一拍あった。
やがてマルクは、深く息を吐き出す。
「……お願いいたします」
その声音には、まだ全面の信頼はない。だが少なくとも、目の前の令嬢を「口だけの人間」とは見なくなった音があった。
午後、アリアは帳場の机の一角を借りた。
もちろん、無理は禁物だ。暖炉の近い席へ座り、厚手の上着を着たまま、途中で必ず温かな茶を飲み、少しでも冷えや疲れを感じたら休むとハンナとミナの両方から念を押された。以前のアリアならその監視じみた気遣いに息苦しさを覚えたかもしれない。だが今日はもう、無理に平気なふりをする方が面倒だった。
紙とペンを前にすると、頭は自然に働いた。
項目を整理し、呼び名を揃え、単位を脇へ書き出す。白豆は乾燥白豆へ統一。塩漬け肉は塩肉。薪は束換算。薬草は束の大小があるものだけ別記。厨房、備蓄庫、帳場、医務室、それぞれが普段どう呼んでいるかを聞き取りながら、共通の名称を選ぶ。
マルクは最初こそ距離を置いていたが、アリアが実際に書き出し始めると、すぐそばで古い帳簿を開いてくれるようになった。若い女の方も、自分が普段困っている箇所を次々と挙げてくる。途中からハンナまで加わり、台所側での呼び方を補ってくれた。
「この『冬草』は何ですか」
アリアが尋ねると、若い女が少し困った顔になる。
「たぶん、熱の薬に使うあれです」
「たぶんでは困りますね」
アリアがそう言うと、マルクが咳払いした。
「医務室では『冬白草』と呼んでいたかと」
「ではそれに揃えましょう」
そんな小さな確認をいくつも重ねるうち、紙の上へ城の暮らしの輪郭が浮かび上がってくる。どれだけの食糧が必要で、どれだけ薪を使い、どの季節に薬草が減るのか。数字は人の生活そのものだ。王都でもそうだったが、ここではそれがもっと直接的に、命に近いところで動いているのがわかる。
途中、帳場の外から別の使用人たちが顔をのぞかせた。
最初は珍しそうに。次には少し警戒を残したまま。そして夕刻が近づく頃には、「奥方様が帳場へ入っているらしい」という噂が半ば城中へ広がっていたらしく、通りすがるたびに視線が増えた。だがひそひそと笑う者はいない。皆、様子を測っているのだ。新しい辺境伯夫人が、果たしてどんな人間なのかを。
アリアはそれに気づきながら、あえて平常通りに紙へ向かった。
誰かへ見せるための仕事は、すぐに見透かされる。王都でも何度もそうだった。だからいつも通り、実際に役立つ形へ整えることだけに集中する。
日が少し傾いたころ、項目と単位の仮一覧はひとまず形になった。
紙三枚に細かく書き込まれた一覧を前に、マルクがうなるように言う。
「……これだけでも、だいぶ違いますな」
若い女は何度も頷きながら、端から端まで目で追っている。
「札の色分けは今日中にできます。項目名も、書き換えるだけなら」
「一気には変えず、今使うものから順にでいいと思います」
アリアはペン先のインクを整えながら言った。
「全部まとめて変えると、かえって混乱しますから。まず出入りの多いものから揃えましょう」
ハンナが、そこで初めてはっきりと微笑んだ。
「お嬢様は、本当にこういうことがお得意なのですね」
その言葉に、アリアは一瞬だけ返答を失う。
本当に得意なのですね。
ただ事実としてそう言われるだけで、胸の奥が少しだけ熱を持つ。王都では誰かの手柄に紛れるか、「だからこれくらいできるでしょう」と当然の前提にされたことが多かったから、こうして独立した能力として扱われると、まだどこかむず痒い。
「得意、というより……」
アリアは少し考えてから言葉を選ぶ。
「整っていないものを見ると、どうしても気になってしまうだけです」
マルクがそこで、小さく笑った。年齢を重ねた男の、ひどく短い笑いだ。
「それを得意というのですよ、お嬢様」
そして彼は、真正面から深く頭を下げた。
「助かりました」
たったその一言に、アリアは息を呑んだ。
助かりました。
王都でも似たような言葉を使用人たちから向けられたことはある。だが家族の前ではたいてい、それは埋もれた。使用人たちが長女を頼ること自体、どこか当然のこととして処理されていたからだ。
ここでは違う。
人前で、きちんと感謝として返ってくる。
それがあまりにも新しくて、アリアは一瞬、自分がどういう顔をすればいいのかわからなくなった。
「……お役に立てたなら、よかったです」
ようやくそう返すと、声が少しだけやわらいでいた。
帳場を出る頃には、外はすっかり夕方になっていた。
廊下の窓は小さいが、そこから見える空の色が、昼よりもう少し冷たい青へ変わっている。石壁は夜の冷えを先に吸い始めていて、暖炉のある場所とない場所の差が大きくなってきていた。アリアはそこで初めて、自分が思っていたより長く働いてしまったことに気づく。楽しかったのだ。楽しいという言葉は不謹慎かもしれないが、少なくとも息がしやすかった。誰かの感情ではなく、目の前の乱れたものへ手を入れ、少しずつ整えていく時間は、ひどく落ち着いた。
部屋へ戻る途中、角を曲がった先で足音が止まった。
レオンハルトだった。
昼と同じ濃紺の装いの上に、黒い外套を肩へ掛けている。たぶん今から外へ出るか、あるいは戻ったところなのだろう。髪にだけ、わずかに外気の匂いが混じっている気がした。乾いた冷たさと、雪の匂いに似た何か。
「……動いていたか」
第一声がそれだった。
責めるような声音ではない。ただ確認の声。
アリアは少しだけ姿勢を正す。
「帳場を見せていただいておりました。無理はしておりません」
「そうか」
レオンハルトの視線がアリアの顔を一度なぞる。昨日のような熱や危うさがないことを確認したのだろう。次に、その目はアリアが手にしている紙束へ向いた。項目一覧の控えだ。
「それは」
「備蓄と帳場の項目名を、少し揃えた一覧です。まだ仮ですが」
言いながら、アリアは自分が少しだけ弁解めいた口調になっているのに気づく。まるで、勝手に働いたことを説明しなければならないみたいに。
だがレオンハルトは紙束を受け取ろうとはせず、まず静かに言った。
「顔色は悪くないな」
その順番に、アリアはまた少し戸惑う。
「ええ。今日は本当に大丈夫です」
「ならいい」
そこで初めて、彼は紙束へ視線を戻した。
「帳場の乱れに気づいたか」
「はい。大きな問題ではありませんが、単位と呼び名が揃っておりませんでしたので」
レオンハルトはわずかに頷く。驚いた顔もしないし、褒めちぎるわけでもない。ただ、納得したような気配がある。
「マルクが時々、帳尻合わせで夜更けまで机に噛みついている」
「ええ。理由はすぐにわかりました」
「改善できそうか」
「すぐ劇的には変わらないと思います。でも、少なくとも追いやすくはなります」
そのやりとりは短い。だが、その短さがかえって心地よかった。必要なことを必要なだけ問われ、答えたことがそのまま受け取られる。余計な賞賛も、牽制もない。
レオンハルトは少しだけ視線を和らげた。
「よく見ている」
たったそれだけだった。
だがアリアは、その一言で胸の奥がかすかに揺れるのを感じた。大げさに褒められたわけではない。ただ事実として「見ている」と言われただけ。それなのに、今の彼女にはその平坦な肯定が、ひどく深く残った。
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い」
レオンハルトはそう返し、ほんのわずかに口元を動かした。笑みと呼ぶには短すぎるが、冷たくはない表情だった。
「形になるまで見届けろ。その代わり、今夜は早く休め。昨日の今日だ」
最後の一言は、やはり命令に近い。
アリアは思わず小さく笑ってしまう。
「承知しました」
「そうしろ」
それだけ言って、レオンハルトは外套の裾を返し、廊下の向こうへ去っていく。靴音は静かだが迷いがない。曲がり角へ消える背中を見送りながら、アリアは自分でも説明しにくい感覚を胸に抱えていた。
見張られているわけではない。
過保護にされているわけでもない。
けれど、ちゃんと見られている。働きも体調も、どちらも別々に。
それは王都で欲しかったものと少し似ていて、でももっと乾いていて、だからこそ信じやすかった。
部屋へ戻ると、ミナがすぐに上着を受け取りながら言った。
「お顔が少し違いますね」
「違う?」
「ええ。昨日までより、少しだけ」
彼女はそこで考えるように視線を上へやり、それから言う。
「息がしやすそうです」
アリアはその言葉に、少しだけ驚く。
自分ではまだ、そこまで明確に自覚していなかった。けれど、言われてみればたしかにそうなのかもしれない。帳場で紙と数字に向かっているあいだ、胸の奥に詰まっていたものが少しだけほどけていた。誰かに譲るでも、誰かの感情を宥めるでもなく、目の前の乱れたものへ手を入れて、それが役に立つかもしれないと感じるだけで、こんなにも呼吸が違うのだ。
「……そうかもしれないわ」
窓の外では、北の夕暮れがゆっくりと深くなっていた。雪の残る城の屋根が、青い影へ沈んでいく。その冷えた景色の中で、アリアは胸の奥に小さく灯ったものを確かに感じていた。
辺境伯夫人としての最初の仕事は、花嫁らしい微笑や華やかな社交ではなかった。
乱れた帳簿を見つけ、備蓄の呼び名を揃え、現場の流れを少しだけ整えること。
地味で、目立たなくて、王都の貴婦人たちならおそらく退屈だと笑うような仕事だ。
けれどアリアにとっては、それが初めてこの城で自分の足元へ触れた感覚だった。
そして使用人たちの目も、もう昨日までと少し違っている。警戒だけではない。試しに来た奥方ではなく、実際に手を入れる人間として見始めている目だ。
その変化が、冷えた北の城の中で、思いのほか温かかった。
もちろん、完全に元通りというわけではない。関節の奥にはまだ少しだけ鈍い重さが残っているし、長く眠ったあとのようなだるさもある。けれど昨夜までの、身体の芯へ冷えた鉛を流し込まれたような感覚は、きれいに消えていた。額へ手を当てても熱っぽさはなく、喉の奥も乾いていない。寝台の中にこもった自分の呼吸の温度が、ようやくきちんと自分のものへ戻ってきた気がした。
窓の外は、朝の薄い光で白く霞んでいた。
カーテンの隙間から見える空は高く、雲は少ない。だが王都の晴れた朝のようにやわらかい色ではなく、透き通った水へ灰をひと匙落としたような、ひどく冷たい明るさだ。窓辺の石の縁には、夜のあいだについたのか、細かな霜が残っている。城の中は暖炉で十分温かいはずなのに、視界の中にあるその白さだけで、ここが王都とはまったく違う場所なのだと思い知らされる。
アリアは毛布の端を少し押しのけ、ゆっくりと上半身を起こした。
寝台の周囲には昨夜の名残が残っている。枕元に置かれた薬湯の器。額へ乗せていた冷たい布を替えるための小鉢。椅子の背に丁寧に掛けられた厚手の上着。そして寝台の横では、ミナが浅い眠りから目を覚ましたところだった。どうやら夜のあいだ、椅子で付き添っていたらしい。肩へ掛けていた毛布が膝から落ちかけていて、頬には椅子の縁に押された薄い跡がある。
「お嬢様」
目が合うと、ミナはすぐに立ち上がった。その動きにはまだ眠気が残っているのに、声音はきちんとしている。
「ご気分はいかがでございますか」
「だいぶ楽よ」
そう答えてみると、本当に声も昨日より軽い。
ミナの顔が目に見えてゆるんだ。
「ようございました。夜半を過ぎたあたりから熱が下がりましたので、このまま朝には落ち着かれるかと」
「あなたも休めばよかったのに」
「休みました」
「その顔で?」
アリアが少しだけ笑うと、ミナは困ったように口元を押さえた。
「では、少しだけ正直に申し上げますと、心配であまり深くは眠れませんでした」
「ごめんなさい」
「謝らないでくださいまし。お嬢様がお元気なら、それで十分です」
その言葉に、胸の内がほんの少し温かくなる。
王都の屋敷でもミナはいつもこうだった。騒がず、恩を着せず、けれど必要なところでちゃんと寄り添ってくれる。その変わらなさが、知らない城の中で今は何よりありがたかった。
ほどなくしてハンナが部屋へ来た。
今日のハンナも相変わらず無駄がない。深い緑の実務服の上に厚手のエプロンを重ね、髪をきっちり結い上げている。目元にだけ少しだけ温かさがあるが、声や仕草は簡潔だ。
「お加減はいかがですか」
「もうほとんど大丈夫です」
「そうですか。それは何より」
言いながら、彼女はアリアの顔色を一度確かめ、暖炉の火加減を見、窓辺の結露まで手早く拭っていく。その動作に迷いがなく、部屋の中の空気まで整っていくようだった。
「辺境伯様より、今日は終日、どうぞご無理のないようにとのことです」
アリアはその言葉を聞いて、反射的に「でも」と言いかけた。
昨日、強い口調で休めと言われたことは覚えている。だが一晩眠って熱も下がった今、ただ部屋で過ごしているのは落ち着かなかった。そもそもアリアには「何もしない」という過ごし方が苦手だ。王都の屋敷でも、体調が悪い時でさえ、できる範囲の書類整理や刺繍や本の整理をして気を紛らわせていた。動けるなら何かしなければならないという感覚が、もう身体に染みついている。
「今日は大事を取って……」
そう言いかけたアリアへ、ハンナは少しだけ首を傾けた。
「寝台へ縛りつけておけ、という意味ではございませんよ」
その言い方があまりにきっぱりしていて、アリアは一瞬きょとんとする。
「熱が下がったのなら、部屋の中で本を読まれても、窓辺へ座られても、少し廊下を歩かれても構いません。ただし、外気に長く当たること、冷えた石床に立ち続けること、人の多い場所で長く気を張ることは避けていただきたいとのことです」
そこまで具体的に言われると、逆に反論の余地がなかった。
アリアはわずかに目を瞬かせる。
「そこまで細かく、お伝えくださったのですか」
「はい」
ハンナは当たり前のように答える。
「旦那様は、言い足りぬ時はたいてい言葉が多くなりますので」
その説明がおかしくて、アリアは小さく笑ってしまった。笑うとまだ喉の奥が少し重い。けれど、昨夜のようなつらさではない。
ハンナが持ってきた朝の食事は、王都の伯爵家のものよりずっと質実だった。麦の粥に、塩気を抑えた白身魚と、煮た林檎。それに温かな乳と、昨日飲んだ薬草湯に近い香りの茶。病み上がりに合わせたのだろう。だが素朴なそれらが、思いのほか身体に心地よかった。匙を口へ運ぶたび、昨日まで凍えていた内側がゆっくりとほどけていく感じがする。
食後、ハンナが何気なくこう言った。
「もし退屈なさるようでしたら、帳場か備蓄庫をご覧になりますか」
アリアは匙を置く手を止めた。
「帳場と、備蓄庫ですか」
「ええ。旦那様より、お嬢様は数字や実務にお強いと伺っておりますので」
その一言に、アリアは小さく息を呑んだ。
強い、と。実務に、と。そんな言葉が、誰かの配慮としてここで使われるのはまだ不思議だった。王都では、アリアが帳簿を整えたり、備品の無駄を見つけたり、使用人たちの動線を少し変えるだけで仕事が滑らかになることは、家族にとって「できて当たり前」の領域だった。褒められることではなく、裏でやって当然のこと。そして、いざ表に出る時には、そうした実務の手柄はだいたい母の采配か父の経営判断として語られる。
だから今、「強い」と前提に置かれるだけで、胸の内が妙に落ち着かなかった。
「ご迷惑では」
「迷惑なら最初から申し上げません」
ハンナの返答はあっさりしていた。
「備蓄庫も帳場も、この時期は忙しゅうございますから、手を入れてくださる方があれば助かるでしょう。もっとも、お嬢様がまだお疲れなら無理にとは申しません」
アリアは少し考えた。
もちろん、病み上がりで無理をする気はない。昨日の自分を思えば、ここでまた無茶をするのは愚かだ。それでも、ただ寝台の上で過ごしているより、少し身体を起こし、数字や現場へ触れた方が、かえって息がしやすいような気がした。何より、「役に立てるかもしれない」と思った瞬間、胸の奥にほんの小さく光が差したのだ。
「少しだけ、見せていただいてもいいですか」
そう言うと、ハンナは一つ頷いた。
「では、暖かな上着をお召しください。帳場は暖炉がございますが、備蓄庫は石壁の中ですので少々冷えます」
結局、アリアは午前の遅い時間に、帳場へ案内された。
帳場は食糧庫や物資管理の記録をまとめる部屋で、城の中でもやや奥まった場所にあった。廊下を進むにつれて、生活の音が少しずつ濃くなる。どこかで樽を動かす重たい音。遠くで誰かが戸を閉める音。火かき棒が炉床を引っかく乾いた音。王都の伯爵家のように、人の気配が布でくるまれている感じではない。暮らしと労働が、壁の向こうからむき出しで伝わってくる。
帳場の扉を開けると、最初にインクと乾いた紙の匂いがした。
広さは王都の父の執務室の半分ほど。長机が二つ並び、棚には厚手の台帳と木札が整然と収められている。窓は小さいが暖炉がひとつ焚かれ、部屋の中は思ったより暖かい。年配の男が一人、若い女が一人、机に向かっていたが、ハンナがアリアを連れて入ると、すぐに立ち上がった。
「こちらが帳場を預かるマルクです」
ハンナが紹介する。
年配の男は背筋を伸ばし、深く礼をした。がっしりした肩と節くれだった手は、机仕事だけの人間ではないとわかる。若い女の方も、少し緊張した面持ちで頭を下げた。
「お見苦しいところを」
マルクはそう言ったが、部屋はむしろ整理されていた。少なくともぱっと見には。だが、アリアの目はすぐに細部を拾う。棚の端に積まれたままの記録札。机の隅へ置かれた、まだ整理されていない袋入りの乾燥豆。長机の上に開かれた台帳の欄外に、何度も書き直した痕跡。
「見苦しくはありません」
アリアはゆっくり部屋を見回しながら答えた。
「ただ、少しお忙しそうですね」
マルクが、わずかに苦く笑った。
「春先はどうしても。雪が残るうちは補給が読みにくく、冬越え分の確認と、春の補充の計算が重なるものですから」
その言葉に、アリアはすぐ台帳の方へ近づいた。
紙は王都のものより少し厚く、ざらついている。インクも色がやや薄い。だが数字の並びは十分読み取れた。備蓄している穀類、干し肉、塩、乾燥豆、根菜、酒、薬草、薪。項目は細かく、北での暮らしがどれだけ備蓄に支えられているかがひと目でわかる。
そして、数頁めくったところで、アリアはすぐに違和感に気づいた。
帳尻が合っていないのだ。
大きく狂っているわけではない。数字の差は小さい。けれど、小さいからこそ厄介だった。四日前の塩漬け肉の出庫数と、その翌日の残数。干し豆の袋数と、別冊にある台所引渡し札。薬草束の記録は入庫と使用数が二種類の単位で書かれているせいで、毎回の差引にぶれが出ている。帳簿の形式が揃っていないのだ。
アリアは指先で欄をなぞった。
「こちら、どなたが記入なさっていますか」
マルクが少し身を硬くする。
「主は私ですが、倉庫側でも出入りのたびに仮記録をつけております」
「それが後でここへ移されるのですね」
「はい」
「では、記録の単位は統一されていますか」
その問いに、マルクと若い女が一瞬顔を見合わせた。
「……いえ」
答えたのは若い女の方だった。たぶん補助をしているのだろう。彼女は少し頬をこわばらせながら続ける。
「穀袋や豆袋は袋単位で数えますが、厨房からの依頼は重さで来ることが多くて。薬草も束の大きさが揃わない日がありますし、塩は桶と量りの両方で記録が……」
言っている途中で、自分でも整理しきれていないのがわかったのか、語尾が弱くなる。
アリアは頷いた。
「そうすると、後で差引の時に余白へ書き足すしかなくなりますね」
「……その通りでございます」
マルクが低く答える。
ハンナはそのやりとりを黙って聞いていたが、アリアの横顔をじっと見ている気配があった。
アリアはもう一頁めくる。今度は薪の記録。こちらは数量が山単位と束単位で混じっていて、やはり整っていない。さらに先の頁では、冬の終わりに緊急で出した分が別紙へ仮書きされ、そのまま本帳へ反映されていない箇所もある。
忙しさのせいだとすぐにわかった。
怠慢ではない。むしろ、忙しい現場でとにかく回すことを優先した結果だ。人手も足りず、冬を越すための出し入れが頻繁で、誰か一人が美しく整理する余裕がなかったのだろう。
アリアはそこで初めて、胸の内にいつもの感覚が戻ってくるのを感じた。
数字の並びの中から、どこが滞っているか、どこを揃えれば全体が動きやすくなるかが見えてくる感覚だ。王都の伯爵家で何度も覚えたあの感覚が、ここでも同じように働く。土地が違っても、帳簿の呼吸は同じなのだと思うと、不思議と息がしやすくなった。
「よろしければ、少しお手伝いしてもよろしいですか」
アリアがそう言うと、マルクは明らかに面食らった顔をした。
「お嬢様が、ですか」
「ええ。もっとも、無理のない範囲でですが」
マルクの目に、ためらいが浮かぶ。
当たり前だろう。つい昨日着いたばかりの、王都育ちの伯爵令嬢だ。帳場の乱れを一瞥しただけで何か言い出したところで、現場からすれば「口だけの奥方」としか思えないはずだ。
アリアはその空気を感じ取りながらも、引かなかった。
「形式そのものを変える必要はないと思います。ただ、仮記録の札と本帳の単位だけでも揃えれば、差引の二重手間が減るはずです。あと、備蓄庫側からこちらへ札が来る順番を、物資ごとではなく日付ごとにした方が、あとで出入りを追いやすいかと」
言いながら、自分でも頭の中へ筋道が立っていくのがわかる。
「こちら、干し豆は袋単位、厨房引渡しは重さ単位になっていますよね。であれば最初に袋ごとの平均重量を大まかに定めてしまい、途中で袋が減った時だけ備考欄へ実測を足す形にすれば、普段は袋単位で通せます」
若い女の目が少し大きくなる。
「それなら、毎回量り直さなくても」
「ええ。もちろん正確さはやや落ちますが、今のように欄外へ足し書きが増えるよりは、本帳としては見やすくなると思います」
アリアは薪の頁へ指を移した。
「こちらは束と山が混じっていますが、備蓄庫から居住区へ出る時点で一度だけ束換算札を挟めば、帳簿上は束で統一できます。運び手の手間は増えますが、後の確認は格段に楽になるはずです」
マルクがじっと台帳を見つめる。
その視線は、最初の警戒とは少し違っていた。実際に手が届く提案かどうかを、頭の中で測り始めている目だ。
「……できますかな」
ぽつりと彼が言う。
「その運び手の手間というのが、今の時期は」
「札の形を変えれば」
アリアはすぐ棚の端にある木札へ目を向けた。
「今の札は項目名しかありませんね。ここへ日付と単位欄を増やして、同じ色の紐で束ねるようにすれば、後で帳場へ運ぶ側も迷いにくいと思います。色分けを厳密にする必要はありませんが、例えば食糧は麻色、薪は灰色、薬草は緑、という具合にすれば、一目で札の種類がわかります」
若い女が思わず身を乗り出した。
「それなら、朝に山になってもほどく時に楽です」
「ええ」
アリアは小さく頷く。
「あと、備蓄庫側と帳場側で同じ項目名を使っておられますか」
「たぶん……ところどころ違うかと」
それはマルクではなくハンナが答えた。彼女もこの問題を知っていたのだろう。
「厨房では『白豆』、帳場では『乾豆』と書かれることもあります。塩漬け肉も、場所によって『塩肉』だったり『冬肉』だったり」
アリアはそこで、思わず少しだけ笑った。
「それでは探すだけで時間がかかりますね」
ハンナが珍しく、口元を少しだけ緩める。
「まことに、その通りでございます」
その一瞬の笑みに、帳場の空気が少しやわらいだ。
アリアは長机の横へ立ったまま、もう少し台帳をめくる。頭の中では、整えるべき箇所が自然に並んでいく。全部を一度に変える必要はない。まずは単位と項目名の統一。次に札の運用。最後に、帳簿へ転記する順序。
「もしよろしければ」
アリアはマルクを見る。
「今日の午後だけでも、私に一覧を書かせてくださいませんか。項目名と単位の仮の統一表です。実際に使えるかどうかは皆さんで見て決めていただければ」
沈黙が一拍あった。
やがてマルクは、深く息を吐き出す。
「……お願いいたします」
その声音には、まだ全面の信頼はない。だが少なくとも、目の前の令嬢を「口だけの人間」とは見なくなった音があった。
午後、アリアは帳場の机の一角を借りた。
もちろん、無理は禁物だ。暖炉の近い席へ座り、厚手の上着を着たまま、途中で必ず温かな茶を飲み、少しでも冷えや疲れを感じたら休むとハンナとミナの両方から念を押された。以前のアリアならその監視じみた気遣いに息苦しさを覚えたかもしれない。だが今日はもう、無理に平気なふりをする方が面倒だった。
紙とペンを前にすると、頭は自然に働いた。
項目を整理し、呼び名を揃え、単位を脇へ書き出す。白豆は乾燥白豆へ統一。塩漬け肉は塩肉。薪は束換算。薬草は束の大小があるものだけ別記。厨房、備蓄庫、帳場、医務室、それぞれが普段どう呼んでいるかを聞き取りながら、共通の名称を選ぶ。
マルクは最初こそ距離を置いていたが、アリアが実際に書き出し始めると、すぐそばで古い帳簿を開いてくれるようになった。若い女の方も、自分が普段困っている箇所を次々と挙げてくる。途中からハンナまで加わり、台所側での呼び方を補ってくれた。
「この『冬草』は何ですか」
アリアが尋ねると、若い女が少し困った顔になる。
「たぶん、熱の薬に使うあれです」
「たぶんでは困りますね」
アリアがそう言うと、マルクが咳払いした。
「医務室では『冬白草』と呼んでいたかと」
「ではそれに揃えましょう」
そんな小さな確認をいくつも重ねるうち、紙の上へ城の暮らしの輪郭が浮かび上がってくる。どれだけの食糧が必要で、どれだけ薪を使い、どの季節に薬草が減るのか。数字は人の生活そのものだ。王都でもそうだったが、ここではそれがもっと直接的に、命に近いところで動いているのがわかる。
途中、帳場の外から別の使用人たちが顔をのぞかせた。
最初は珍しそうに。次には少し警戒を残したまま。そして夕刻が近づく頃には、「奥方様が帳場へ入っているらしい」という噂が半ば城中へ広がっていたらしく、通りすがるたびに視線が増えた。だがひそひそと笑う者はいない。皆、様子を測っているのだ。新しい辺境伯夫人が、果たしてどんな人間なのかを。
アリアはそれに気づきながら、あえて平常通りに紙へ向かった。
誰かへ見せるための仕事は、すぐに見透かされる。王都でも何度もそうだった。だからいつも通り、実際に役立つ形へ整えることだけに集中する。
日が少し傾いたころ、項目と単位の仮一覧はひとまず形になった。
紙三枚に細かく書き込まれた一覧を前に、マルクがうなるように言う。
「……これだけでも、だいぶ違いますな」
若い女は何度も頷きながら、端から端まで目で追っている。
「札の色分けは今日中にできます。項目名も、書き換えるだけなら」
「一気には変えず、今使うものから順にでいいと思います」
アリアはペン先のインクを整えながら言った。
「全部まとめて変えると、かえって混乱しますから。まず出入りの多いものから揃えましょう」
ハンナが、そこで初めてはっきりと微笑んだ。
「お嬢様は、本当にこういうことがお得意なのですね」
その言葉に、アリアは一瞬だけ返答を失う。
本当に得意なのですね。
ただ事実としてそう言われるだけで、胸の奥が少しだけ熱を持つ。王都では誰かの手柄に紛れるか、「だからこれくらいできるでしょう」と当然の前提にされたことが多かったから、こうして独立した能力として扱われると、まだどこかむず痒い。
「得意、というより……」
アリアは少し考えてから言葉を選ぶ。
「整っていないものを見ると、どうしても気になってしまうだけです」
マルクがそこで、小さく笑った。年齢を重ねた男の、ひどく短い笑いだ。
「それを得意というのですよ、お嬢様」
そして彼は、真正面から深く頭を下げた。
「助かりました」
たったその一言に、アリアは息を呑んだ。
助かりました。
王都でも似たような言葉を使用人たちから向けられたことはある。だが家族の前ではたいてい、それは埋もれた。使用人たちが長女を頼ること自体、どこか当然のこととして処理されていたからだ。
ここでは違う。
人前で、きちんと感謝として返ってくる。
それがあまりにも新しくて、アリアは一瞬、自分がどういう顔をすればいいのかわからなくなった。
「……お役に立てたなら、よかったです」
ようやくそう返すと、声が少しだけやわらいでいた。
帳場を出る頃には、外はすっかり夕方になっていた。
廊下の窓は小さいが、そこから見える空の色が、昼よりもう少し冷たい青へ変わっている。石壁は夜の冷えを先に吸い始めていて、暖炉のある場所とない場所の差が大きくなってきていた。アリアはそこで初めて、自分が思っていたより長く働いてしまったことに気づく。楽しかったのだ。楽しいという言葉は不謹慎かもしれないが、少なくとも息がしやすかった。誰かの感情ではなく、目の前の乱れたものへ手を入れ、少しずつ整えていく時間は、ひどく落ち着いた。
部屋へ戻る途中、角を曲がった先で足音が止まった。
レオンハルトだった。
昼と同じ濃紺の装いの上に、黒い外套を肩へ掛けている。たぶん今から外へ出るか、あるいは戻ったところなのだろう。髪にだけ、わずかに外気の匂いが混じっている気がした。乾いた冷たさと、雪の匂いに似た何か。
「……動いていたか」
第一声がそれだった。
責めるような声音ではない。ただ確認の声。
アリアは少しだけ姿勢を正す。
「帳場を見せていただいておりました。無理はしておりません」
「そうか」
レオンハルトの視線がアリアの顔を一度なぞる。昨日のような熱や危うさがないことを確認したのだろう。次に、その目はアリアが手にしている紙束へ向いた。項目一覧の控えだ。
「それは」
「備蓄と帳場の項目名を、少し揃えた一覧です。まだ仮ですが」
言いながら、アリアは自分が少しだけ弁解めいた口調になっているのに気づく。まるで、勝手に働いたことを説明しなければならないみたいに。
だがレオンハルトは紙束を受け取ろうとはせず、まず静かに言った。
「顔色は悪くないな」
その順番に、アリアはまた少し戸惑う。
「ええ。今日は本当に大丈夫です」
「ならいい」
そこで初めて、彼は紙束へ視線を戻した。
「帳場の乱れに気づいたか」
「はい。大きな問題ではありませんが、単位と呼び名が揃っておりませんでしたので」
レオンハルトはわずかに頷く。驚いた顔もしないし、褒めちぎるわけでもない。ただ、納得したような気配がある。
「マルクが時々、帳尻合わせで夜更けまで机に噛みついている」
「ええ。理由はすぐにわかりました」
「改善できそうか」
「すぐ劇的には変わらないと思います。でも、少なくとも追いやすくはなります」
そのやりとりは短い。だが、その短さがかえって心地よかった。必要なことを必要なだけ問われ、答えたことがそのまま受け取られる。余計な賞賛も、牽制もない。
レオンハルトは少しだけ視線を和らげた。
「よく見ている」
たったそれだけだった。
だがアリアは、その一言で胸の奥がかすかに揺れるのを感じた。大げさに褒められたわけではない。ただ事実として「見ている」と言われただけ。それなのに、今の彼女にはその平坦な肯定が、ひどく深く残った。
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い」
レオンハルトはそう返し、ほんのわずかに口元を動かした。笑みと呼ぶには短すぎるが、冷たくはない表情だった。
「形になるまで見届けろ。その代わり、今夜は早く休め。昨日の今日だ」
最後の一言は、やはり命令に近い。
アリアは思わず小さく笑ってしまう。
「承知しました」
「そうしろ」
それだけ言って、レオンハルトは外套の裾を返し、廊下の向こうへ去っていく。靴音は静かだが迷いがない。曲がり角へ消える背中を見送りながら、アリアは自分でも説明しにくい感覚を胸に抱えていた。
見張られているわけではない。
過保護にされているわけでもない。
けれど、ちゃんと見られている。働きも体調も、どちらも別々に。
それは王都で欲しかったものと少し似ていて、でももっと乾いていて、だからこそ信じやすかった。
部屋へ戻ると、ミナがすぐに上着を受け取りながら言った。
「お顔が少し違いますね」
「違う?」
「ええ。昨日までより、少しだけ」
彼女はそこで考えるように視線を上へやり、それから言う。
「息がしやすそうです」
アリアはその言葉に、少しだけ驚く。
自分ではまだ、そこまで明確に自覚していなかった。けれど、言われてみればたしかにそうなのかもしれない。帳場で紙と数字に向かっているあいだ、胸の奥に詰まっていたものが少しだけほどけていた。誰かに譲るでも、誰かの感情を宥めるでもなく、目の前の乱れたものへ手を入れて、それが役に立つかもしれないと感じるだけで、こんなにも呼吸が違うのだ。
「……そうかもしれないわ」
窓の外では、北の夕暮れがゆっくりと深くなっていた。雪の残る城の屋根が、青い影へ沈んでいく。その冷えた景色の中で、アリアは胸の奥に小さく灯ったものを確かに感じていた。
辺境伯夫人としての最初の仕事は、花嫁らしい微笑や華やかな社交ではなかった。
乱れた帳簿を見つけ、備蓄の呼び名を揃え、現場の流れを少しだけ整えること。
地味で、目立たなくて、王都の貴婦人たちならおそらく退屈だと笑うような仕事だ。
けれどアリアにとっては、それが初めてこの城で自分の足元へ触れた感覚だった。
そして使用人たちの目も、もう昨日までと少し違っている。警戒だけではない。試しに来た奥方ではなく、実際に手を入れる人間として見始めている目だ。
その変化が、冷えた北の城の中で、思いのほか温かかった。
あなたにおすすめの小説
婚約者を病弱な妹に譲れと言われた夜、冷徹公爵が「では君は私がもらう」と手を差し伸べてくれました
ゆぷしろん
恋愛
伯爵令嬢リネットは、長年支えてきた婚約者エドガーを、病弱な妹ミレイユに譲るよう家族から一方的に命じられる。領地運営の書類作成や商会との交渉までこなし、婚約者を陰で支えてきたにもかかわらず、その働きはすべて当然のように奪われてきたのだ。
失意の中で婚約解消を受け入れたリネットの前に現れたのは、“冷徹公爵”と噂される王弟アシュレイ・クロフォード。
彼はリネットの才覚を見抜き、「では君は私がもらう」と告げて、公爵領へ迎え入れる。
ようやく自分の能力を正当に認められる場所を得たリネットは、北方公爵領で筆頭補佐官として活躍し始める。一方、彼女を失った元婚約者と家族は、次第に行き詰まっていき――。
これは、搾取され続けた令嬢が、自分の価値を認めてくれる人と出会い、後悔する者たちを置き去りにして幸せを掴む物語。
「姉なんだから妹に従え」と命じる両親。でも、その妹、お父様の子じゃありませんよ?
恋せよ恋
恋愛
「姉なんだから、妹に譲りなさい」
その言葉で婚約者も居場所も奪われた。
でもお父様、お母様。
私に押し付けたその妹、実は不義の子ですよね?
狂った愛の箱庭で虐げられた伯爵令嬢が、
真実という名の火を放ち、自由を掴み取る物語。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
今さら「間違いだった」? ごめんなさい、私、もう王子妃なんですけど
阿里
恋愛
「貴族にふさわしくない」そう言って、私を蔑み婚約を破棄した騎士様。
私はただの商人の娘だから、仕方ないと諦めていたのに。
偶然出会った隣国の王子は、私をありのまま愛してくれた。
そして私は、彼の妃に――。
やがて戦争で窮地に陥り、助けを求めてきた騎士様の国。
外交の場に現れた私の姿に、彼は絶句する。
私から全てを奪おうとした妹が私の婚約者に惚れ込み、色仕掛けをしたが、事情を知った私の婚約者が、私以上に憤慨し、私のかわりに復讐する話
序盤の村の村人
恋愛
「ちょっと、この部屋は日当たりが悪すぎるわ、そうね、ここの部屋いいじゃない!お姉様の部屋を私が貰うわ。ありがとうお姉様」 私は何も言っていません。しかし、アーデルの声を聞いたメイドは私の部屋の荷物を屋根裏部屋へと運び始めました。「ちょっとアーデル。私は部屋を譲るなんて一言も言ってないです」
「お姉様、それは我が儘すぎるわ。お姉様だけこんな部屋ずるいじゃない」「マリーベル。我が儘は辞めてちょうだい。また部屋を移動させるなんてメイド達が可哀想でしょ」私たちの話を聞いていた義理母のマリアは、そう言うと、メイド達に早くするのよと急かすように言葉をかけました。父の再婚とともに、義理の妹に私の物を奪われる毎日。ついに、アーデルは、マリーベルの婚約者ユーレイルの容姿に惚れ込み、マリーベルから奪おうとするが……。
旧タイトル:妹は、私から全てを奪おうとしたが、私の婚約者には色仕掛けが通用しなかった件について
·すみません、少しエピローグのお話を足しました。楽しんでいただけると嬉しいです。
王太子に「戦友としか思えない」と言われたので、婚約を解消しました
明衣令央
恋愛
婚約者である王太子ヘンリーから「君のことは戦友としか思えない」と告げられた、公爵令嬢アリスティア。
十年以上の王妃教育を積んできた彼女は、静かに婚約解消を受け入れる。
一年後、幸せな結婚を迎えた彼女にとって、ヘンリーのその後は――もうどうでもいいことだった。
婚約者は妹のことが好きなようです。妹に婚約者を譲ったら元婚約者と妹の様子がおかしいのですが・完結
まほりろ
恋愛
※小説家になろうにて日間総合ランキング6位まで上がった作品です!2022/07/10
私の婚約者のエドワード様は私のことを「アリーシア」と呼び、私の妹のクラウディアのことを「ディア」と愛称で呼ぶ。
エドワード様は当家を訪ねて来るたびに私には黄色い薔薇を十五本、妹のクラウディアにはピンクの薔薇を七本渡す。
エドワード様は薔薇の花言葉が色と本数によって違うことをご存知ないのかしら?
それにピンクはエドワード様の髪と瞳の色。自分の髪や瞳の色の花を異性に贈る意味をエドワード様が知らないはずがないわ。
エドワード様はクラウディアを愛しているのね。二人が愛し合っているなら私は身を引くわ。
そう思って私はエドワード様との婚約を解消した。
なのに婚約を解消したはずのエドワード様が先触れもなく当家を訪れ、私のことを「シア」と呼び迫ってきて……。
「Copyright(C)2022-九頭竜坂まほろん」
※無断転載を禁止します。
※朗読動画の無断配信も禁止します。
※小説家になろう、カクヨム、エブリスタにも投稿しています。
※表紙素材はあぐりりんこ様よりお借りしております。
今さら泣きついても遅いので、どうかお静かに。
阿里
恋愛
「平民のくせに」「トロくて邪魔だ」──そう言われ続けてきた王宮の雑用係。地味で目立たない私のことなんて、誰も気にかけなかった。
特に伯爵令嬢のルナは、私の幸せを邪魔することばかり考えていた。
けれど、ある夜、怪我をした青年を助けたことで、私の運命は大きく動き出す。
彼の正体は、なんとこの国の若き国王陛下!
「君は私の光だ」と、陛下は私を誰よりも大切にしてくれる。
私を虐げ、利用した貴族たちは、今、悔し涙を流している。
短編 お前なんか一生結婚できないって笑ってたくせに、私が王太子妃になったら泣き出すのはどういうこと?
ヨルノソラ
恋愛
「お前なんか、一生結婚できない」
そう笑ってた幼馴染、今どんな気持ち?
――私、王太子殿下の婚約者になりましたけど?
地味で冴えない伯爵令嬢エリナは、幼い頃からずっと幼馴染のカイルに「お前に嫁の貰い手なんていない」とからかわれてきた。
けれどある日、王都で開かれた舞踏会で、偶然王太子殿下と出会い――そして、求婚された。
はじめは噂だと笑っていたカイルも、正式な婚約発表を前に動揺を隠せない。
ついには「お前に王太子妃なんて務まるわけがない」と暴言を吐くが、王太子殿下がきっぱりと言い返す。
「見る目がないのは君のほうだ」
「私の婚約者を侮辱するのなら、貴族であろうと容赦はしない」
格の違いを見せつけられ、崩れ落ちるカイル。
そんな姿を、もう私は振り返らない。
――これは、ずっと見下されていた令嬢が、運命の人に見初められる物語。